vintage
「誕生日祝い? 僕の?」
可不可がきょとんとした顔でこっちを振り向く。
明日の退院が決まって、病室に飾られた――これまで、俺がお土産に渡した――ものたちが片付けられた病室。可不可曰く、ぎりぎりまで飾っておきたかったけど、明日の朝すぐここを出られるようにしたい気持ちが勝ったらしい。
「可不可に決まってるでしょ。当日は過ぎちゃったけど、どうかな」
これからは病院の外でお祝いできる。病室に持ち込めないようなプレゼントだって渡せるし、どこかに出かけたいなら連れて行きたい。昔、病院をこっそり抜け出して、HAMAをあちこち旅したみたいに。……ううん、俺たちはもう大人だから、もっと遠くまでだって行けるんだ。
「うーん……」
「なんでも聞くよ」
「なんでも?」
「あ、俺の財布の範囲で……」
可不可が笑った。こんな念押しをしなくても、可不可が俺にそういう無茶振りをすることはないんだけど、子どもの頃から悲願だった自由を手にした幼馴染みがなにを望むか計り知れなくて、つい、身構えてしまう。
「じゃあ、楓ちゃん」
「えっ?」
「……と、お酒が飲みたいな」
びっくりした。笑ってたかと思ったら、いきなり真面目な顔で名前を呼ばれて、本当にびっくりした。まるで、俺をプレゼントにって言われたのかと錯覚しかけちゃったよ。確かに可不可とは子どもの頃からずっと一緒に過ごしてきたし、この前だって人生を賭けてほしいって言われて頷いたけど、あれはHAMAの復興のことであって、俺じゃない。
でも、可不可ってお母さん似で、すっごくきれいな顔だから、今みたいなのも、様になるなぁ。どこかの王子様かと思っちゃった。と、いうか――
「お酒って」
――手術が成功したとはいえ、可不可はずっと入院してたのに。いきなりそんなことして大丈夫かな。俺は医者じゃないから、可不可の体調とアルコールの相性なんて予測できないけど、手放しで賛成することじゃないってのはわかる。そんな俺の不安を見透かしたみたいに、可不可が目を細めた。
「大丈夫、医師の許可はあるよ。もちろん、飲み過ぎるのはだめだけどね。これから0区長として、HAMAツアーズ社長として、お酒を断りづらい場がきっと出てくる。あらかじめ自分の限界を知っておかなくちゃ。そのためにも、キミに協力してほしい」
「そっか……」
〝アルハラ〟なんて言葉が使われるようになって半世紀以上、残念ながら未だになくならない。俺が大学生の頃も、サークルの先輩たちから洗礼を受けてるひとがいた。俺は運よく免れたけど、サークルでのそれを可不可に何気なく話したら、なんだかすごく心配されたっけ。俺はなんともなかったよって言っても「なにかあってからじゃ遅い」って、すごい剣幕で。
可不可ってば、昔から俺に対して過保護なところがある。俺が可不可を心配するときの何倍も、過保護に扱ってくる。可不可曰く、俺は危なっかしいらしい。自分じゃわからない、というか、全然、そんなことないと思うんだけど。
「初めてだし、落ち着いて飲めたほうがいいよね」
お酒が飲めるお店と聞いてすぐに浮かぶのは、わいわい賑やかに飲む感じのところばかりで、可不可と行くような雰囲気じゃない。可不可には、なんていうか、静かなところが似合う気がする。でも、バーで飲むイメージも湧かないな。困った、どうしよう。
「それなら、僕の家でいいじゃない」
「えっ」
大黒家といえばHAMAの名家だ。当の可不可が病院生活だったから、俺は一度も行ったことがないけど、場所は知ってる。0区の地図を見れば、わざわざ拡大しなくてもすぐにわかるレベルの広大な敷地にあるんだよ。
そういえば、半年くらい前に一泊だけ外泊許可がおりたらしいけど、俺が仕事で海外ツアーに同行してるタイミングだったな。もし、あのときにJPNにいたら、遊びに行ってたんだろうか。
「日にちは……そうだな、今度の金曜でいい? その日は父さんもいないから」
「そうなんだ?」
「来週の就任式を前に、0区長でいるうちにお礼を言っておきたいひとがいるから東京に行くことになってる。泊まりがけでね」
「就任式を前に……それって、可不可はついて行かなくていいの?」
可不可のお父さんが0区長でいるうちにってことは、今後、可不可もお世話になるひとなんじゃないのかな。それに、可不可のお父さんの性格を考えると、可不可を連れて行きたがってると思うんだけど。
「いいんだよ、これから何度でも顔を合わせる相手だから。それに、父さんはプライベートでも交流してたみたいだけど、僕はそうするつもりないし」
俺は可不可のお父さんの交友関係に詳しいわけでもないし、可不可がいいって言うならいいんだろう、と片付けることにした。
「そうなんだ……じゃあ、今度の金曜だね。わかった」
そうと決まったら、可不可のお酒デビューにぴったりなものを探そう。飲む少し前まで冷やしておいたほうがいいから、可不可には内緒で朔次郎さんに協力を仰いで、――やることはいっぱいある。
誕生日のお祝いのなかでも、成人する十八歳の次くらいに、二十歳って大きな節目だと思う。俺じゃ力不足かもしれないけど、可不可の思い出にずっと残るような、素敵な日にしたいな。
「じゃあ、金曜の夕方、十七時に楓ちゃんの家まで迎えに行くから」
「えっ、いいよ! 主役は可不可なのに」
誕生日会の主役にエスコートしてもらうなんて、絶対におかしいよ。俺が可不可を迎えに行って、人生の先輩として頼りになるところを見せたいくらいなのに。
「だーめ。格好つけさせてよ。楓ちゃんとのデートで僕が迎えに行くの、子どもの頃からの夢だったんだから」
「またそんな大袈裟な。……でも、可不可がそう言うなら、お願いしようかな」
◇
そわそわしてた俺のところに大黒家の車が停まったのが、十七時ぴったり。今日の予定は、夕食は外で済ませて、可不可のお酒デビューは大黒家でってことになってる。
ほとんどの車が自動運転のこの時代でも、大事に至らないようにと、大黒家の車は必ず運転手が乗ることになってるんだ。そういえば、前に病院から俺の家まで送ってもらったときも、朔次郎さんが運転席にいたっけ。
運転席から降りてきた朔次郎さんに言われるがまま乗り込むと、可不可がいた。
「迎えに来てくれてありがとう。本当なら、俺から訪ねるべきなのに」
「僕のお願いを聞いてもらうんだから、これくらいは当然。夕食は外で食べるしね」
昔見たドラマに、こういうシーンがあった気がする。お金持ちの御曹司が車で迎えに来て、ヒロインをデートに誘うんだ。いや、可不可と俺だからデートじゃないんだけど。
可不可が俺とふたりで過ごすことを昔から〝デート〟って呼んでたせいで、俺の感覚が麻痺してるんだよ、きっと。友だち同士でもデートっていうひとはいうみたいだけど、俺としては、デートといえば、恋人とか、恋人になりそうひとたちがするイメージ。
脳内に浮かんだデートの言葉を追い払おうと頭を軽く振る。隣にいる可不可の視線を感じて、よせばいいのに、盗み見するみたいに見てしまった。
「どうしたの、楓ちゃん」
「なん、でも、ない……」
あれ? 可不可って、こんな顔だったっけ。ううん、十年以上の付き合いだから顔はもう目を閉じてても思い浮かべられるくらいだし、間違いはないんだけど、なんだか、いつもと雰囲気が違うような。気のせいかな。
「嬉しいな。僕、今日のこと、すっごく楽しみにしてたんだ」
そう言って可不可が体を寄せてきた。昔から俺にくっつきたがってたし、俺もそれに慣れてたはずなのに、なぜか、今日は落ち着かない。はっきりいうと、変に緊張してる。こんなにくっつかれて、俺が動揺してるのがばれたらどうしよう。
「着替えも持ってきてくれたんだよね?」
「あ、うん、もちろん!」
可不可から「ついでだから泊まっていきなよ」って誘われた。いくらお父さんが不在とはいえ、むしろ一家の長であるお父さんが不在のときに、他人の俺が日にちをまたいで上がり込むなんて迷惑じゃない? ――そう訊いたら「お酒が入った僕をひとり残して帰るの?」って言われて、可不可に敵わない俺は、お泊まりセットを用意したんだ。
でも、よく考えたら、可不可の家には朔次郎さんがいるんだよね。可不可が酔っちゃっても、俺より、朔次郎さんのほうが頼りになる。俺が泊まる意味、あるのかな。
俺ひとりじゃ絶対に行かないようなお店で、普段の俺じゃ絶対に縁がなさそうなものを食べて、こんなにおいしいものを知ったら舌が肥えちゃうかもなぁなんて考えながらまた車に揺られて、大黒家に着いたのは十九時半過ぎ。
このあとは先にお風呂を済ませて、可不可のお酒デビュー、寝酒にならないくらいには起きていたいからのんびりと映画を観て、そのあと眠る予定。うん、完璧な時間配分だと思う。さすが可不可。
「わ、広い……」
あたりまえみたいな感想が出てちょっと恥ずかしくなった。でも、可不可の家って本当に広いんだ。リビングだけで、俺の部屋がいくつかすっぽり収まっちゃいそう。
そもそも、大黒家の門からこの建物まで、徒歩じゃなかった。歩ける距離だけど、歩くと十分弱かかるらしい。広い家って憧れるけど、広過ぎるても大変そうだなぁ。
「じゃあ、楓ちゃん、先にお風呂にどうぞ」
「えっ? 俺から?」
場所は案内されたからわかる。ものすごく広かった。さすがに普通のバスタブと洗い場とシャワーだったけど、温泉かなって思うくらいの広さ。
「楓ちゃんはお客様だから」
「いやいや、そんな改まらなくても。すごく広かったし、一緒に入るんじゃだめ?」
「へっ?」
可不可が珍しく素っ頓狂な声を上げた。あれ、俺、変なこと言った? あんなに広いんだし、ふたりで入っても全然狭くないと思う。それに、一緒に入っちゃったほうが、順番に入るより早く済むんじゃないかな。今夜は可不可のお酒デビューが目的だから、あまり遅くならないようにしたいし。
「楓ちゃんって、本当に無邪気というか……はぁ、少しは僕の身にもなってほしいよ」
「えっ、なにかだめだった? ごめん、気が回らなくて」
「ううん、楓ちゃんはなにも悪くない。お誘いはものすごーく嬉しいんだけど、僕が心頭滅却に努めなきゃいけないから、別々に入ろうよ。なにごとも段階は踏まなきゃならないし、そもそも……」
わりとなんでも即答する可不可が、これまた珍しくぶつぶつ言ってる。そんなに悩ませるつもりはなかったんだけどな。でも、考えてみたら、可不可はずっと病院生活で、同年代のひとと入浴をともにする経験なんてなかったはずだ。そりゃあ、戸惑っても仕方ないよね。可不可って、俺にはよくくっついてくるけど、本来は自分のテリトリーを大事にするタイプだし。
「わかった。じゃあ、お言葉に甘えて、先にお風呂もらうね」
「楓ちゃんは本当になにも悪くないからね。それだけは誤解しないで」
「うん……?」
なんだか必死なのも、普段じゃ見ない表情だ。やっぱり、初めてお酒を飲む日だから緊張してるのかもしれない。俺は自分の限界を把握できてるくらいにはお酒との付き合い方をわきまえてるし、可不可が楽しく飲めるよう、おもてなししなくちゃ。
それにしても……と、だだっ広いお風呂を前に、今更、居心地の悪さを感じ始めた。だって、初めて遊びに来て、いきなり泊まりって、よく考えたらハードル高過ぎない? 可不可が段階がどうとか言ってたの、ちょっとわかってきた。
十年以上の付き合いでも、まずは外で遊ぶ機会をもっと増やしてから、家に遊びに行ってもいきなり泊まるんじゃなくて夜遅くなり過ぎないよう帰って、そういうのを何度か繰り返してから……って、これじゃあ、まるで本当のデートみたいだ。
いつも可不可がデートとか言うせいだ! って心のなかで叫んで、力任せに髪をがしがし洗って、勢いのまま体もごしごし洗った。せっかくだからお湯に浸かりたかったんだけど、このあとに可不可が入ることを考えたら、なんだかそれも憚られて――
「もう出よう……」
――結果的に、烏の行水並みの速さでお風呂の時間を済ませてしまった。
「っ、早かったね」
「えっ、あ、うん。夏場はシャワー派だから」
暗に、俺はお湯には浸かってませんよアピールをする。可不可もほっとした顔をしたから、これでよかったみたい。
「じゃあ、……さっと入ってくるね」
可不可はふいと目を逸らして、そそくさとお風呂場に向かった。
「うん、ごゆっくり」
最低限の水滴しか残してないのを確認してお風呂から出たから、可不可は安心してゆっくりお風呂に入ってきてほしい。あ、でも、あまりお風呂が長いと、のぼせないか心配になるし、可不可を待つ俺の心境がなんだかおかしなことになりそうだから、そこそこの時間で出てきてほしいな。……おかしなことって、なに? 自分で自分の思考回路にびっくりした。俺、どんな心境になるつもり?
俺、今日ずっと変だ。完全に舞い上がってる。可不可の家が初めてなのと、こんな時間まで可不可と一緒にいたことがないからかもしれない。
今夜は可不可のお酒デビューが楽しいものになるようにおもてなしして、なんなら、年上としてアドバイスできることがあればいいなとまで思ってたのに、ちゃんとできるか心配になってきた。
せめて自分が悪酔いしないよう自制心をしっかり保たなきゃ。大丈夫、自分の限度は過去散々酔っぱらって味わった頭痛でいやというほど学んでる。もしどうにもならなさそうだと思ったら、そのときは朔次郎さんに……ん? そういえば、さっきから朔次郎さんがいない気がする。
可不可が家のなかを案内してくれてるときは、確かに、背後にいた。お風呂に一緒に入る入らないの話をしてたときも……いた、気がする。あれ、自信がなくなってきた。
「朔次郎さーん……」
朔次郎さん以外の執事さんたちはだいたい二十時にはそれぞれの家に帰ってるけど、朔次郎さんは大黒家で暮らしてるって聞いたことがある。
どうしよう、昨日のうちに朔次郎さんにお酒を預かってもらったのに、肝心のそれがないと今日の一大イベントがだいなしになっちゃう。
「……あ」
俺が選んだお酒や、もとからこの家にあるらしいグラス類が、リビングのテーブルに並べられている。俺がお風呂に入る前にはなかったはずだ。
「どこですかー、朔次郎さーん」
よその家であまりうろうろするわけにもいかないから、リビングの四方をぐるっとまわりながら、壁越しにでも声が届いてくれと願いを込めて、朔次郎さんの名前を呼ぶ。
「朔次郎さ」
「朔次郎なら、テーブルのセッティングをして帰ったよ」
「ひゃあっ!」
今度は俺が素っ頓狂な声を上げてしまった。
「……帰った?」
つまり、今、このだだっ広い大黒家には俺たちしかいないってこと? 今日の俺、なんか調子が狂ってばかりなんだけど、大丈夫かな。
「うん、今日は楓ちゃんがいてくれるから」
聞けば、朔次郎さんは俺の認識どおり大黒家住み込みの執事ではあるものの、彼の部屋は別の建物にあるらしい。
「そうなんだ。あ、そのパジャマ、初めて見た」
「病院で着てたものとは別のものがいいなって」
「そっか……そうだよね」
やっと退院できたから、病院生活してた頃の寝間着はもう着ないつもりなんだろう。可不可の気持ちはすごくよくわかる。それなのに、俺は〝お風呂上がりの可不可〟になぜかどきどきして、顔じゃなくて寝間着のボタンばかり見つめてしまう。
「楓ちゃん?」
俯いた俺を不思議に思ったのか、可不可が顔を覗き込んできた。可不可とならこれくらいの距離はよくあるのに、初めて来た場所だからか、わけもなく動揺してしまって、うまく声が出せない。口を開いたら、正体不明のどきどきが飛び出しそうだ。それでも、黙ってるわけにはいかないから、口から飛び出しそうなどきどきを、唾と一緒に飲み込む。
「お、お酒! 飲もうか! 朔次郎さんが用意してくれてるし! 映画も観よう!」
せっかくだからと、HAMA唯一のワイナリーでつくられた白ワインを買って、昨日のうちに朔次郎さんに預けておいた。可不可が想定してる〝断りづらい場〟はビールや日本酒のほうが多いだろうけど、初めて飲むなら口当たりのいいリキュールやカクテル、白ワインがいい。そのなかで可不可に贈るならなにがいいか。俺たちの大好きなHAMAで生まれたお酒があるなら、それにしたい。そんなわがままが叶うものってある? ――探してみたら、海に近いここでもワイナリーがあるのがわかって、そこで買えるものにしようって思ったんだ。ワイン造りに欠かせないぶどう園も、三十年前にHAMAの山側につくられたものらしいし。
「へぇ、HAMAの白ワイン……楓ちゃんは飲んだことある?」
ヴィンテージものじゃないよって笑ったら、可不可は気にしないって言ってくれた。
「俺が飲むのは、ビールとかカクテルのほうが多いかな。ワインも何度か飲んだことあるけど、HAMA生まれのワインは初めてだよ」
「初めて……」
可不可がほっとしたような顔をする。ひとに贈るからには、二本買って一本は自分の試飲用にして――今日のこのときまでに飲みやすさとかを把握して――おくべきだったんだろうけど、なんとなく、可不可の〝初めて〟には、俺も、まっさらな気持ちで臨んだほうがいい気がして、やめておいた。やめておいて、正解だったみたい。
ここには招いてもらった立場だけど、可不可のお祝いだから、ボトルの栓を抜いたりグラスに注いだりっていうのは、俺の役目。
「じゃあ、注ぐね」
視線を感じるせいで、また、どきどきしてきた。可不可のことだから、お酒の飲み方もグラスの扱いも知識としては知ってるはずだ。絶対に、失敗したくない。
「ありがとう」
可不可がグラスを手に取る姿、予想はしてたけど、ものすごく、様になってる。初めてお酒を飲むひととは思えないくらい。だって、お酒に慣れてないひとって、グラスを持っても、どこか〝持たされてる〟感が出るものなのに、可不可にはそれがないんだ。
「えっと……、乾杯の音頭とかいる?」
ワインを前に音頭って言葉はどうかと思ったけど、ワインを用意しているあいだずっと見られてたのが照れくさくて、誤魔化すみたいに提案してしまった。
「楓ちゃんにお任せしてもいい? しいて言うなら、初めてお酒を飲む僕に付き合うことになったキミの心境を聞いてみたいな」
「心境……」
いろんなことをそつなくこなしてしまう可不可は、俺が出会うよりずっと前から、大黒家きっての天才、神童っていわれてたらしい。畏怖の念すら感じるその言葉に、俺は、違うよって言いたい。もとの頭のよさもあるだろうけど、可不可がすごいのは、本物の努力家だからだ。探究心が強くて負けず嫌いで、結果を出すまで絶対に手をゆるめない。結果を出すための道筋もしっかり考えてる。
可不可のそういうところ、すごく格好いいなって思うし、尊敬してる。もちろん、憧れてもいる。だから、俺は可不可に人生を賭けられるんだよ。
「初めてお酒を飲む相手に俺を選んでくれたこと、すごく嬉しい。たぶん、俺はずっと前から、この日を待ってたんだと思う」
可不可の手術が成功してこうして生きてることは、きっと、この先、少しずつ〝あたりまえ〟になっていってくれる。それは決して悪いことじゃない。可不可の努力が実を結んだって証拠だから。
でも、ときどきは今夜のことを思い出したい。出会った頃はちゃんと信じきれなかった遠い未来に、俺たちは来られたんだ。可不可が連れてきてくれた。
柄にもなく、きざなこと言っちゃったかな。心から顔にじわじわとのぼってきた照れのやり場に困る。でも、可不可はそんな俺のことをからかうでもなく、まっすぐに、見つめてきた。
「お酒もだけど、僕のどんな初めても、楓ちゃんなんだよ」
昔、可不可から、キミが初めての友だちなんだって打ち明けられたことがある。病棟の誰と話しててもつまらなくて、誰かと仲良くなるのを諦めてきたって。だから、可不可の初めての友だちは俺たちきょうだいだし、可不可が初めてHAMAのあちこちを旅したのは、俺とだった。だから、初めてだよって言葉はそのものは「そうだね」と思える。
でも、今の可不可の顔には、それだけじゃないって書いてあるように思えて――
「なーんてね。さぁ、飲もうか」
「……うん」
――その正体を確かめようとしたのに、可不可が話を切り上げてしまった。昔から、ときどき、こういうことがある。なにか言う素振りを見せておきながら、俺がそこに意識を向けたら、さっと隠しちゃうんだよね。
可不可がワイングラスにくちびるを寄せるのを見て、俺も慌ててワインを飲む。朔次郎さんは俺たちが飲む時間を逆算して、白ワインにぴったりな冷やし具合にしておいてくれたんだろう。鼻腔をくすぐるぶどうの香りが心地いい。
「飲めそう?」
「うん、すごくいいね。これがお酒かぁ……」
お気に召したみたいでほっとする。病院生活が長かったとはいえ、いいものに囲まれて育った可不可には、やっぱり、いいものを贈りたいって思ってたから。
「すっきり飲める味だけど、あまりたくさん飲むとあとから一気にくるからね」
「うん、大丈夫」
そう言って目を細めた可不可を見て、これがお酒の入った可不可なんだと思ったら、また、変などきどきが湧いてきた。別に酔った顔じゃないのに。
「……そうだ、映画、なに観る?」
メロウな雰囲気の映画は眠くなりそうだから、ある程度は起きてられるように、アクションものがいいかな。ながら見に向いた、ライトなものがいい気がする。
「んー……」
思案してるんだろうか、可不可がグラスに二杯目を注いだ。俺はまだ一杯目も飲み終えてないのに。
「楓ちゃんは観たい映画ある?」
絶対にこれっていうのはないけど、起きてられるようなのがいい。そう言うと、可不可はしばらく思案して、リモコンに手を伸ばしかけて、やめた。
「ごめん、映画はまた今度でいいかな」
「え、いいよ?」
可不可がボトルに手を添えて俺を見る。もう少し飲んでってことかな。ふた口ほど残してたのを口に放り込むように飲むと、案の定、可不可が二杯目を注いでくれた。
「楓ちゃんの声だけ聴きたいな。お酒を飲みながらなにかするのは、次の機会がいい」
可不可の口からあたりまえのように出てくる〝また今度〟や〝次の機会〟が胸にじんときた。次の約束、していいんだ。
そりゃあ、退院したばかりだし、ずっと病院生活だったから体力もあまりないだろうけど、病室で次の約束をするたび湧き上がる恐怖心を隠してたあの頃とは、もう違う。それが言葉の端々でわかって、すごく嬉しいんだ。隠さなきゃならない恐怖心を連れてくるばかりだった約束が、向かいたい未来へのみちしるべに変わった。可不可が、手術を頑張ったからだ。――そう思ったら、確かに、今日は、別に映画は観なくていいかなという気持ちになった。
「そうだね。今夜は可不可にとって初めてのお酒だし」
俺も、今夜は可不可と話すだけがいい。意見の合致すら嬉しくて、可不可のグラスに自分のグラスを寄せる。乾杯は、何度だってしたい。来週には可不可の0区長就任式と、その少し先にはHAMAツアーズの業務開始日が待ってる。お祝いしたいことだらけだ。
可不可はグラスを軽く傾けるだけで、決して下品な飲み方はしない。それでも、飲み込むときの喉仏の動きに目がいってしまって、また、どきどきしてきた。おかしいな、可不可とは子どもの頃からなんでも話してきたから、成長期にあまり背が伸びなかったとか声がそこまで低くならなかったとかも、知ってるのに。
もしかして、ワインのせいかな。アルコールが入って体があたたまってきたのを、どきどきだと錯覚してるのかも。でも、多少はお酒に慣れてるはずの俺がほろ酔いに近くなってるってことは――
「可不可、大丈夫?」
――可不可を止めたほうがいいかもしれない。そう思い至って隣を見ると、いつの間にか、四杯目に差し掛かっていた。
「んー、だいじょうぶ……」
その声は絶対大丈夫じゃないよね? 慌てて可不可の手からグラスを取り上げる。
「やだ、まだのこってるでしょ」
「だめ、ここまででおしまい」
少し抵抗されたけど、酔いで力が入らないみたいで、可不可の指はグラスに届かないまま、ソファーに着地した。危ない、危ない。……可不可って、お酒に強くないみたい。これから先、俺がついててあげられそうなときは、ついててあげなきゃ。
「んー……どこ……」
ソファーに着地した手が座面を彷徨ってる。
「お酒はもうおしまい」
「おさけ、じゃなくて……」
所在なさげに動く手が気になって、ぼんやりした可不可の意識を醒まさせるために、その手を掴んだ。
「あー、見つけたぁ〜」
え? 俺の手が探されてた? なんで?
「可不可、お水飲もう。絶対、そのほうがいい」
ありがたいことに、朔次郎さんは水も、水を飲むためと思しき予備のグラスも、ちゃんと用意してくれている。可不可に利き手を握られたまま、やりにくさを感じながら、なんとか水を注いだ。
「ほら、ゆっくり飲んで、ね?」
可不可の口にグラスの端を当てて、どうかこぼしませんようにと祈りながらわずかに傾ける。幸い、可不可はいい子に飲んでくれた。
「のんだよ。ぼく、えらい?」
「うん、えらいね」
だめだ、まだ酔ってる。声がふわふわしてるし、ちょっと舌ったらずだ。ここ最近は格好いいところばかり見てたから、なんていうか……いきなり見せられてるかわいいところに、ちょっとどぎまぎしてしまう。
「むー……かえでちゃん、もっとぼくのことみて」
「え、わ、わ……っ」
可不可の指がするすると俺のてのひらをくすぐったと思ったら、あっという間に指を絡められる。さすがにこの繋ぎ方はしたことなくて、動揺してしまった。
そのあとも可不可は俺の手で好き勝手に遊び、絡められた指を解放してもらえてほっとしたのも束の間、今度はその手に頬擦りをしてきた。
「ちょっと可不可、恥ずかしいから」
俺だからいいけど、外でお酒を飲んで誰彼構わずこんなことをしたら、大変なことになる。それに、……他のひとにこんなふうに甘えたり、触ったりしてほしくないよ。
「ぼくもはずかしいけど、かえでちゃんにしかしない……」
「俺だけ?」
まただ。また、どきどきしてきた。俺だけなのは、どうして? 俺だけって言葉は、さっきみたいに「なーんてね」って冗談ぽく終わらせないでいてくれる? だって、俺はその真意を知りたい。たぶん、俺が唯一知らない可不可って、そこにいるから。
「うん、かえでちゃんだけ……」
「どうしてって、訊いてもいい?」
全身が心臓になったんじゃないかってくらい、自分の鼓動がうるさい。
本当は、何度も、可不可からの視線に〝もしかして〟と思ったことがある。でも、そのたびに可不可が「なーんてね」ってはぐらかすから、掴めそうで掴めない〝それ〟にもやもやしてきた。ねぇ、可不可、まだ、教えてくれないの?
「かえでちゃんがこまるから、だめ……」
「困らないよ。絶対、困らない」
可不可が俺の前からいなくならないなら、なにを言われたって受け止めたい。……俺が俺のどきどきを正しく理解して、うまく扱えないうちは、可不可からちゃんと言ってもらわないと、だめなんだ。こんな状態で俺の〝もしかして〟をぶつけて、可不可の真意とズレがあったらと思うと、怖い。
「まだ、だめなんだ……」
「いつかは、だめじゃなくなる?」
可不可の顔を覗き込んで、宥めるように訊く。俺からも可不可の両頬に手を添えて、まるで、子どもの頃みたいだ。お酒のせい半分、きっと別の理由半分、目尻を赤く染めた可不可はうろうろと視線を彷徨わせたあと、いきなり、抱き着いてきた。
「……だっこ」
「えぇ……? いいけど」
お酒が入ってるとはいえ、話す内容が内容だし、恥ずかしくなってきたのかな。俺もじゅうぶん恥ずかしいんだけど。
「もっと、ぎゅーって」
「はいはい」
可不可の背に腕を回す。しばらく背中を撫でてると、酔ってるとは思えないくらい可不可の腕にも力が入って、体重までかけてきた。
「ちょっと可不可、……っ」
抱き着かれたままの体勢で、ふたりしてソファーの上に倒れ込んでしまった。広いソファーだからふたりで寝転んだってそんなに狭くはないけど、ついさっきまでそわそわする話をしたばかりで、これは、よくないんじゃないかな。
「かえでちゃん、ずっと、……」
「うん?」
続きの代わりに、寝息が聞こえてきた。そこまで言って寝ちゃうんだ。
でも、可不可はまだだめって言ってたし、俺が俺の感情を知るために可不可の言葉を引き出すのって、卑怯だよね。俺も、このどきどきにちゃんと向き合わなきゃいけない。
お酒であたたかくなってる体でくっついてるからか、せめて可不可を部屋に運んであげなきゃと思うのに、瞼が重くなってきちゃった。
◇
朝、起きる前ってどうしても寝返りが多くなる。起きるのに抗ってるのか、起きるために体を動かしてるのか、どっちが正解なのかを俺は知らない。ただ、いつもどおり意識が浮上しそうな状態で寝返りを――寝返り?
昨日、ベッドに行ったっけ。昨日は可不可のお酒デビューで、なんだかんだあってソファーで寝落ちした気がする。いくら広いソファーでも、寝返りなんて打ったら可不可のこと落っことし……そうだ、可不可に抱き着かれたままだったんだ。
はっとして目を開けて、声を上げそうになったのをすんでのところで耐えた。
目の前には可不可の寝顔と、明らかにソファーの座面じゃない、ベッドシーツっぽいものが見えた。あの状態の可不可がここに連れてきたとは思えないし、俺が寝惚けて可不可を運んだとも思えない。あとで確認するけど、別棟とやらにいる朔次郎さんが運んでくれたのかな。というか、それしか考えられない。
「……」
悔しいなぁ。――声に出したかったけど、心のなかでだけ呟く。可不可を起こさないよう、そっと、淡藤の髪を撫でた。まだ、起きないでいてほしい。
どきどきが口から飛び出さないよう息を止めて、撫でていたところにくちびるを触れさせる。ほんの一秒前まで、そんなことするつもりはなかった。くちびるで触れた瞬間、昨日からのどきどきの答えをいやでもわからされて、片手で目許を覆う。
本当に、悔しいなぁ。――くちびるで髪に触れたら、あとからあとから触れたい気持ちが増えていくのを感じた。こんなの、どんなに付き合いが長くても〝幼馴染み〟じゃ、しないよね。ひと晩かけて気付いたけど、たぶん、ずっと昔から俺の心の奥底に眠ってたんじゃないかな。だって、可不可が俺を優先してくれるたび、嬉しかった。特別扱いに照れながらも、他のひとじゃなくてよかったって思ってた。
ねぇ、可不可は、いつから? いつから、俺に〝そう〟思うようになったの? 先に見つけた気持ち、どうして教えてくれないの? 俺が気付かなかったから? いつになったら〝だめ〟じゃなくなる?
「ん……」
可不可の小さな呻き声にはっとして、慌ててもとの位置に戻る。寝たふりまではしないけど、俺も今の今まで寝てましたって顔にならなきゃ。
「楓ちゃん……?」
「おはよう、可不可」
何度か目を瞬かせて、ここがリビングじゃないこと、隣に俺が寝てることを把握したのか、可不可の顔がかーっと赤くなった。
「え、……えっ?」
可不可がこんなふうに慌てるのって、滅多にないことだ。可不可に申し訳ないと思いつつ、声を上げて笑っちゃった。
「楓ちゃん、これ」
「たぶん、朔次郎さんが運んでくれたんだと思うよ。俺も寝落ちしちゃったし」
「そう……」
惜しいことをしたなぁなんてぼやいてるけど、あのまま酔わずにいられたとしても、可不可は決定的な言葉はまだくれなかったと思うな。どうやら、可不可のなかで〝まだ〟らしいし。可不可の思う〝そのとき〟がいつかはわからないけど、そのときまで、さっきのことは内緒にしておこう。俺も、自覚したばかりの気持ちにまだびっくりしてるから。
「……僕、変なこと言ってなかった?」
相変わらず顔が赤いままなことに、俺はぴんとくる。この質問は、自分がなにを言ったか確かめたいんじゃなくて、酔った自分の言動を俺がどう思ったか探るためのものだ。つまり、可不可は自分の言動を、ちゃんと覚えてる。
「なにも変なことはなかったよ。楽しかった」
可不可が明らかにほっとした。大丈夫だよ、昨日のままの俺なら「楽しかった」なんて返せなくて、可不可の言葉の真意を知りたがるようなこと訊いただろうけど、さっき、わかったから。肝心なところは教えてくれなかったけど、全部嬉しいって思えたよ。
「ねぇ、可不可、ひとつ約束してほしいんだ」
さっきよりは頬の赤みが引いた可不可の目の前に、小指を立てる。
「俺がすぐにかけつけられないところで、お酒飲まないで。可不可のこれからの立場を考えたら難しいかもしれないけど……できるだけ、俺を近くにいさせて」
「……うん、わかった」
指切りげんまんの唄をくちずさむ。約束したところで、これからの仕事でどうなるかはわからない。でも、約束しなきゃって思うくらいには、昨日みたいな可不可も、ひとりじめしたいって思ったんだよ。
ずっと大事に想ってくれてたらしい可不可の歴史には一生追いつけないかもしれないけど、可不可の〝まだ〟が〝そのとき〟に変わるよう、追いかけるからね。
だって、可不可は俺をじっと待つだけの日々はもう終わりだって言ってた。俺も、可不可の言葉を待つだけでいるのは終わりにしたい。
まずは、自覚しちゃったばかりのこの気持ちを、うまく手懐けることから始めよう。
可不可がきょとんとした顔でこっちを振り向く。
明日の退院が決まって、病室に飾られた――これまで、俺がお土産に渡した――ものたちが片付けられた病室。可不可曰く、ぎりぎりまで飾っておきたかったけど、明日の朝すぐここを出られるようにしたい気持ちが勝ったらしい。
「可不可に決まってるでしょ。当日は過ぎちゃったけど、どうかな」
これからは病院の外でお祝いできる。病室に持ち込めないようなプレゼントだって渡せるし、どこかに出かけたいなら連れて行きたい。昔、病院をこっそり抜け出して、HAMAをあちこち旅したみたいに。……ううん、俺たちはもう大人だから、もっと遠くまでだって行けるんだ。
「うーん……」
「なんでも聞くよ」
「なんでも?」
「あ、俺の財布の範囲で……」
可不可が笑った。こんな念押しをしなくても、可不可が俺にそういう無茶振りをすることはないんだけど、子どもの頃から悲願だった自由を手にした幼馴染みがなにを望むか計り知れなくて、つい、身構えてしまう。
「じゃあ、楓ちゃん」
「えっ?」
「……と、お酒が飲みたいな」
びっくりした。笑ってたかと思ったら、いきなり真面目な顔で名前を呼ばれて、本当にびっくりした。まるで、俺をプレゼントにって言われたのかと錯覚しかけちゃったよ。確かに可不可とは子どもの頃からずっと一緒に過ごしてきたし、この前だって人生を賭けてほしいって言われて頷いたけど、あれはHAMAの復興のことであって、俺じゃない。
でも、可不可ってお母さん似で、すっごくきれいな顔だから、今みたいなのも、様になるなぁ。どこかの王子様かと思っちゃった。と、いうか――
「お酒って」
――手術が成功したとはいえ、可不可はずっと入院してたのに。いきなりそんなことして大丈夫かな。俺は医者じゃないから、可不可の体調とアルコールの相性なんて予測できないけど、手放しで賛成することじゃないってのはわかる。そんな俺の不安を見透かしたみたいに、可不可が目を細めた。
「大丈夫、医師の許可はあるよ。もちろん、飲み過ぎるのはだめだけどね。これから0区長として、HAMAツアーズ社長として、お酒を断りづらい場がきっと出てくる。あらかじめ自分の限界を知っておかなくちゃ。そのためにも、キミに協力してほしい」
「そっか……」
〝アルハラ〟なんて言葉が使われるようになって半世紀以上、残念ながら未だになくならない。俺が大学生の頃も、サークルの先輩たちから洗礼を受けてるひとがいた。俺は運よく免れたけど、サークルでのそれを可不可に何気なく話したら、なんだかすごく心配されたっけ。俺はなんともなかったよって言っても「なにかあってからじゃ遅い」って、すごい剣幕で。
可不可ってば、昔から俺に対して過保護なところがある。俺が可不可を心配するときの何倍も、過保護に扱ってくる。可不可曰く、俺は危なっかしいらしい。自分じゃわからない、というか、全然、そんなことないと思うんだけど。
「初めてだし、落ち着いて飲めたほうがいいよね」
お酒が飲めるお店と聞いてすぐに浮かぶのは、わいわい賑やかに飲む感じのところばかりで、可不可と行くような雰囲気じゃない。可不可には、なんていうか、静かなところが似合う気がする。でも、バーで飲むイメージも湧かないな。困った、どうしよう。
「それなら、僕の家でいいじゃない」
「えっ」
大黒家といえばHAMAの名家だ。当の可不可が病院生活だったから、俺は一度も行ったことがないけど、場所は知ってる。0区の地図を見れば、わざわざ拡大しなくてもすぐにわかるレベルの広大な敷地にあるんだよ。
そういえば、半年くらい前に一泊だけ外泊許可がおりたらしいけど、俺が仕事で海外ツアーに同行してるタイミングだったな。もし、あのときにJPNにいたら、遊びに行ってたんだろうか。
「日にちは……そうだな、今度の金曜でいい? その日は父さんもいないから」
「そうなんだ?」
「来週の就任式を前に、0区長でいるうちにお礼を言っておきたいひとがいるから東京に行くことになってる。泊まりがけでね」
「就任式を前に……それって、可不可はついて行かなくていいの?」
可不可のお父さんが0区長でいるうちにってことは、今後、可不可もお世話になるひとなんじゃないのかな。それに、可不可のお父さんの性格を考えると、可不可を連れて行きたがってると思うんだけど。
「いいんだよ、これから何度でも顔を合わせる相手だから。それに、父さんはプライベートでも交流してたみたいだけど、僕はそうするつもりないし」
俺は可不可のお父さんの交友関係に詳しいわけでもないし、可不可がいいって言うならいいんだろう、と片付けることにした。
「そうなんだ……じゃあ、今度の金曜だね。わかった」
そうと決まったら、可不可のお酒デビューにぴったりなものを探そう。飲む少し前まで冷やしておいたほうがいいから、可不可には内緒で朔次郎さんに協力を仰いで、――やることはいっぱいある。
誕生日のお祝いのなかでも、成人する十八歳の次くらいに、二十歳って大きな節目だと思う。俺じゃ力不足かもしれないけど、可不可の思い出にずっと残るような、素敵な日にしたいな。
「じゃあ、金曜の夕方、十七時に楓ちゃんの家まで迎えに行くから」
「えっ、いいよ! 主役は可不可なのに」
誕生日会の主役にエスコートしてもらうなんて、絶対におかしいよ。俺が可不可を迎えに行って、人生の先輩として頼りになるところを見せたいくらいなのに。
「だーめ。格好つけさせてよ。楓ちゃんとのデートで僕が迎えに行くの、子どもの頃からの夢だったんだから」
「またそんな大袈裟な。……でも、可不可がそう言うなら、お願いしようかな」
◇
そわそわしてた俺のところに大黒家の車が停まったのが、十七時ぴったり。今日の予定は、夕食は外で済ませて、可不可のお酒デビューは大黒家でってことになってる。
ほとんどの車が自動運転のこの時代でも、大事に至らないようにと、大黒家の車は必ず運転手が乗ることになってるんだ。そういえば、前に病院から俺の家まで送ってもらったときも、朔次郎さんが運転席にいたっけ。
運転席から降りてきた朔次郎さんに言われるがまま乗り込むと、可不可がいた。
「迎えに来てくれてありがとう。本当なら、俺から訪ねるべきなのに」
「僕のお願いを聞いてもらうんだから、これくらいは当然。夕食は外で食べるしね」
昔見たドラマに、こういうシーンがあった気がする。お金持ちの御曹司が車で迎えに来て、ヒロインをデートに誘うんだ。いや、可不可と俺だからデートじゃないんだけど。
可不可が俺とふたりで過ごすことを昔から〝デート〟って呼んでたせいで、俺の感覚が麻痺してるんだよ、きっと。友だち同士でもデートっていうひとはいうみたいだけど、俺としては、デートといえば、恋人とか、恋人になりそうひとたちがするイメージ。
脳内に浮かんだデートの言葉を追い払おうと頭を軽く振る。隣にいる可不可の視線を感じて、よせばいいのに、盗み見するみたいに見てしまった。
「どうしたの、楓ちゃん」
「なん、でも、ない……」
あれ? 可不可って、こんな顔だったっけ。ううん、十年以上の付き合いだから顔はもう目を閉じてても思い浮かべられるくらいだし、間違いはないんだけど、なんだか、いつもと雰囲気が違うような。気のせいかな。
「嬉しいな。僕、今日のこと、すっごく楽しみにしてたんだ」
そう言って可不可が体を寄せてきた。昔から俺にくっつきたがってたし、俺もそれに慣れてたはずなのに、なぜか、今日は落ち着かない。はっきりいうと、変に緊張してる。こんなにくっつかれて、俺が動揺してるのがばれたらどうしよう。
「着替えも持ってきてくれたんだよね?」
「あ、うん、もちろん!」
可不可から「ついでだから泊まっていきなよ」って誘われた。いくらお父さんが不在とはいえ、むしろ一家の長であるお父さんが不在のときに、他人の俺が日にちをまたいで上がり込むなんて迷惑じゃない? ――そう訊いたら「お酒が入った僕をひとり残して帰るの?」って言われて、可不可に敵わない俺は、お泊まりセットを用意したんだ。
でも、よく考えたら、可不可の家には朔次郎さんがいるんだよね。可不可が酔っちゃっても、俺より、朔次郎さんのほうが頼りになる。俺が泊まる意味、あるのかな。
俺ひとりじゃ絶対に行かないようなお店で、普段の俺じゃ絶対に縁がなさそうなものを食べて、こんなにおいしいものを知ったら舌が肥えちゃうかもなぁなんて考えながらまた車に揺られて、大黒家に着いたのは十九時半過ぎ。
このあとは先にお風呂を済ませて、可不可のお酒デビュー、寝酒にならないくらいには起きていたいからのんびりと映画を観て、そのあと眠る予定。うん、完璧な時間配分だと思う。さすが可不可。
「わ、広い……」
あたりまえみたいな感想が出てちょっと恥ずかしくなった。でも、可不可の家って本当に広いんだ。リビングだけで、俺の部屋がいくつかすっぽり収まっちゃいそう。
そもそも、大黒家の門からこの建物まで、徒歩じゃなかった。歩ける距離だけど、歩くと十分弱かかるらしい。広い家って憧れるけど、広過ぎるても大変そうだなぁ。
「じゃあ、楓ちゃん、先にお風呂にどうぞ」
「えっ? 俺から?」
場所は案内されたからわかる。ものすごく広かった。さすがに普通のバスタブと洗い場とシャワーだったけど、温泉かなって思うくらいの広さ。
「楓ちゃんはお客様だから」
「いやいや、そんな改まらなくても。すごく広かったし、一緒に入るんじゃだめ?」
「へっ?」
可不可が珍しく素っ頓狂な声を上げた。あれ、俺、変なこと言った? あんなに広いんだし、ふたりで入っても全然狭くないと思う。それに、一緒に入っちゃったほうが、順番に入るより早く済むんじゃないかな。今夜は可不可のお酒デビューが目的だから、あまり遅くならないようにしたいし。
「楓ちゃんって、本当に無邪気というか……はぁ、少しは僕の身にもなってほしいよ」
「えっ、なにかだめだった? ごめん、気が回らなくて」
「ううん、楓ちゃんはなにも悪くない。お誘いはものすごーく嬉しいんだけど、僕が心頭滅却に努めなきゃいけないから、別々に入ろうよ。なにごとも段階は踏まなきゃならないし、そもそも……」
わりとなんでも即答する可不可が、これまた珍しくぶつぶつ言ってる。そんなに悩ませるつもりはなかったんだけどな。でも、考えてみたら、可不可はずっと病院生活で、同年代のひとと入浴をともにする経験なんてなかったはずだ。そりゃあ、戸惑っても仕方ないよね。可不可って、俺にはよくくっついてくるけど、本来は自分のテリトリーを大事にするタイプだし。
「わかった。じゃあ、お言葉に甘えて、先にお風呂もらうね」
「楓ちゃんは本当になにも悪くないからね。それだけは誤解しないで」
「うん……?」
なんだか必死なのも、普段じゃ見ない表情だ。やっぱり、初めてお酒を飲む日だから緊張してるのかもしれない。俺は自分の限界を把握できてるくらいにはお酒との付き合い方をわきまえてるし、可不可が楽しく飲めるよう、おもてなししなくちゃ。
それにしても……と、だだっ広いお風呂を前に、今更、居心地の悪さを感じ始めた。だって、初めて遊びに来て、いきなり泊まりって、よく考えたらハードル高過ぎない? 可不可が段階がどうとか言ってたの、ちょっとわかってきた。
十年以上の付き合いでも、まずは外で遊ぶ機会をもっと増やしてから、家に遊びに行ってもいきなり泊まるんじゃなくて夜遅くなり過ぎないよう帰って、そういうのを何度か繰り返してから……って、これじゃあ、まるで本当のデートみたいだ。
いつも可不可がデートとか言うせいだ! って心のなかで叫んで、力任せに髪をがしがし洗って、勢いのまま体もごしごし洗った。せっかくだからお湯に浸かりたかったんだけど、このあとに可不可が入ることを考えたら、なんだかそれも憚られて――
「もう出よう……」
――結果的に、烏の行水並みの速さでお風呂の時間を済ませてしまった。
「っ、早かったね」
「えっ、あ、うん。夏場はシャワー派だから」
暗に、俺はお湯には浸かってませんよアピールをする。可不可もほっとした顔をしたから、これでよかったみたい。
「じゃあ、……さっと入ってくるね」
可不可はふいと目を逸らして、そそくさとお風呂場に向かった。
「うん、ごゆっくり」
最低限の水滴しか残してないのを確認してお風呂から出たから、可不可は安心してゆっくりお風呂に入ってきてほしい。あ、でも、あまりお風呂が長いと、のぼせないか心配になるし、可不可を待つ俺の心境がなんだかおかしなことになりそうだから、そこそこの時間で出てきてほしいな。……おかしなことって、なに? 自分で自分の思考回路にびっくりした。俺、どんな心境になるつもり?
俺、今日ずっと変だ。完全に舞い上がってる。可不可の家が初めてなのと、こんな時間まで可不可と一緒にいたことがないからかもしれない。
今夜は可不可のお酒デビューが楽しいものになるようにおもてなしして、なんなら、年上としてアドバイスできることがあればいいなとまで思ってたのに、ちゃんとできるか心配になってきた。
せめて自分が悪酔いしないよう自制心をしっかり保たなきゃ。大丈夫、自分の限度は過去散々酔っぱらって味わった頭痛でいやというほど学んでる。もしどうにもならなさそうだと思ったら、そのときは朔次郎さんに……ん? そういえば、さっきから朔次郎さんがいない気がする。
可不可が家のなかを案内してくれてるときは、確かに、背後にいた。お風呂に一緒に入る入らないの話をしてたときも……いた、気がする。あれ、自信がなくなってきた。
「朔次郎さーん……」
朔次郎さん以外の執事さんたちはだいたい二十時にはそれぞれの家に帰ってるけど、朔次郎さんは大黒家で暮らしてるって聞いたことがある。
どうしよう、昨日のうちに朔次郎さんにお酒を預かってもらったのに、肝心のそれがないと今日の一大イベントがだいなしになっちゃう。
「……あ」
俺が選んだお酒や、もとからこの家にあるらしいグラス類が、リビングのテーブルに並べられている。俺がお風呂に入る前にはなかったはずだ。
「どこですかー、朔次郎さーん」
よその家であまりうろうろするわけにもいかないから、リビングの四方をぐるっとまわりながら、壁越しにでも声が届いてくれと願いを込めて、朔次郎さんの名前を呼ぶ。
「朔次郎さ」
「朔次郎なら、テーブルのセッティングをして帰ったよ」
「ひゃあっ!」
今度は俺が素っ頓狂な声を上げてしまった。
「……帰った?」
つまり、今、このだだっ広い大黒家には俺たちしかいないってこと? 今日の俺、なんか調子が狂ってばかりなんだけど、大丈夫かな。
「うん、今日は楓ちゃんがいてくれるから」
聞けば、朔次郎さんは俺の認識どおり大黒家住み込みの執事ではあるものの、彼の部屋は別の建物にあるらしい。
「そうなんだ。あ、そのパジャマ、初めて見た」
「病院で着てたものとは別のものがいいなって」
「そっか……そうだよね」
やっと退院できたから、病院生活してた頃の寝間着はもう着ないつもりなんだろう。可不可の気持ちはすごくよくわかる。それなのに、俺は〝お風呂上がりの可不可〟になぜかどきどきして、顔じゃなくて寝間着のボタンばかり見つめてしまう。
「楓ちゃん?」
俯いた俺を不思議に思ったのか、可不可が顔を覗き込んできた。可不可とならこれくらいの距離はよくあるのに、初めて来た場所だからか、わけもなく動揺してしまって、うまく声が出せない。口を開いたら、正体不明のどきどきが飛び出しそうだ。それでも、黙ってるわけにはいかないから、口から飛び出しそうなどきどきを、唾と一緒に飲み込む。
「お、お酒! 飲もうか! 朔次郎さんが用意してくれてるし! 映画も観よう!」
せっかくだからと、HAMA唯一のワイナリーでつくられた白ワインを買って、昨日のうちに朔次郎さんに預けておいた。可不可が想定してる〝断りづらい場〟はビールや日本酒のほうが多いだろうけど、初めて飲むなら口当たりのいいリキュールやカクテル、白ワインがいい。そのなかで可不可に贈るならなにがいいか。俺たちの大好きなHAMAで生まれたお酒があるなら、それにしたい。そんなわがままが叶うものってある? ――探してみたら、海に近いここでもワイナリーがあるのがわかって、そこで買えるものにしようって思ったんだ。ワイン造りに欠かせないぶどう園も、三十年前にHAMAの山側につくられたものらしいし。
「へぇ、HAMAの白ワイン……楓ちゃんは飲んだことある?」
ヴィンテージものじゃないよって笑ったら、可不可は気にしないって言ってくれた。
「俺が飲むのは、ビールとかカクテルのほうが多いかな。ワインも何度か飲んだことあるけど、HAMA生まれのワインは初めてだよ」
「初めて……」
可不可がほっとしたような顔をする。ひとに贈るからには、二本買って一本は自分の試飲用にして――今日のこのときまでに飲みやすさとかを把握して――おくべきだったんだろうけど、なんとなく、可不可の〝初めて〟には、俺も、まっさらな気持ちで臨んだほうがいい気がして、やめておいた。やめておいて、正解だったみたい。
ここには招いてもらった立場だけど、可不可のお祝いだから、ボトルの栓を抜いたりグラスに注いだりっていうのは、俺の役目。
「じゃあ、注ぐね」
視線を感じるせいで、また、どきどきしてきた。可不可のことだから、お酒の飲み方もグラスの扱いも知識としては知ってるはずだ。絶対に、失敗したくない。
「ありがとう」
可不可がグラスを手に取る姿、予想はしてたけど、ものすごく、様になってる。初めてお酒を飲むひととは思えないくらい。だって、お酒に慣れてないひとって、グラスを持っても、どこか〝持たされてる〟感が出るものなのに、可不可にはそれがないんだ。
「えっと……、乾杯の音頭とかいる?」
ワインを前に音頭って言葉はどうかと思ったけど、ワインを用意しているあいだずっと見られてたのが照れくさくて、誤魔化すみたいに提案してしまった。
「楓ちゃんにお任せしてもいい? しいて言うなら、初めてお酒を飲む僕に付き合うことになったキミの心境を聞いてみたいな」
「心境……」
いろんなことをそつなくこなしてしまう可不可は、俺が出会うよりずっと前から、大黒家きっての天才、神童っていわれてたらしい。畏怖の念すら感じるその言葉に、俺は、違うよって言いたい。もとの頭のよさもあるだろうけど、可不可がすごいのは、本物の努力家だからだ。探究心が強くて負けず嫌いで、結果を出すまで絶対に手をゆるめない。結果を出すための道筋もしっかり考えてる。
可不可のそういうところ、すごく格好いいなって思うし、尊敬してる。もちろん、憧れてもいる。だから、俺は可不可に人生を賭けられるんだよ。
「初めてお酒を飲む相手に俺を選んでくれたこと、すごく嬉しい。たぶん、俺はずっと前から、この日を待ってたんだと思う」
可不可の手術が成功してこうして生きてることは、きっと、この先、少しずつ〝あたりまえ〟になっていってくれる。それは決して悪いことじゃない。可不可の努力が実を結んだって証拠だから。
でも、ときどきは今夜のことを思い出したい。出会った頃はちゃんと信じきれなかった遠い未来に、俺たちは来られたんだ。可不可が連れてきてくれた。
柄にもなく、きざなこと言っちゃったかな。心から顔にじわじわとのぼってきた照れのやり場に困る。でも、可不可はそんな俺のことをからかうでもなく、まっすぐに、見つめてきた。
「お酒もだけど、僕のどんな初めても、楓ちゃんなんだよ」
昔、可不可から、キミが初めての友だちなんだって打ち明けられたことがある。病棟の誰と話しててもつまらなくて、誰かと仲良くなるのを諦めてきたって。だから、可不可の初めての友だちは俺たちきょうだいだし、可不可が初めてHAMAのあちこちを旅したのは、俺とだった。だから、初めてだよって言葉はそのものは「そうだね」と思える。
でも、今の可不可の顔には、それだけじゃないって書いてあるように思えて――
「なーんてね。さぁ、飲もうか」
「……うん」
――その正体を確かめようとしたのに、可不可が話を切り上げてしまった。昔から、ときどき、こういうことがある。なにか言う素振りを見せておきながら、俺がそこに意識を向けたら、さっと隠しちゃうんだよね。
可不可がワイングラスにくちびるを寄せるのを見て、俺も慌ててワインを飲む。朔次郎さんは俺たちが飲む時間を逆算して、白ワインにぴったりな冷やし具合にしておいてくれたんだろう。鼻腔をくすぐるぶどうの香りが心地いい。
「飲めそう?」
「うん、すごくいいね。これがお酒かぁ……」
お気に召したみたいでほっとする。病院生活が長かったとはいえ、いいものに囲まれて育った可不可には、やっぱり、いいものを贈りたいって思ってたから。
「すっきり飲める味だけど、あまりたくさん飲むとあとから一気にくるからね」
「うん、大丈夫」
そう言って目を細めた可不可を見て、これがお酒の入った可不可なんだと思ったら、また、変などきどきが湧いてきた。別に酔った顔じゃないのに。
「……そうだ、映画、なに観る?」
メロウな雰囲気の映画は眠くなりそうだから、ある程度は起きてられるように、アクションものがいいかな。ながら見に向いた、ライトなものがいい気がする。
「んー……」
思案してるんだろうか、可不可がグラスに二杯目を注いだ。俺はまだ一杯目も飲み終えてないのに。
「楓ちゃんは観たい映画ある?」
絶対にこれっていうのはないけど、起きてられるようなのがいい。そう言うと、可不可はしばらく思案して、リモコンに手を伸ばしかけて、やめた。
「ごめん、映画はまた今度でいいかな」
「え、いいよ?」
可不可がボトルに手を添えて俺を見る。もう少し飲んでってことかな。ふた口ほど残してたのを口に放り込むように飲むと、案の定、可不可が二杯目を注いでくれた。
「楓ちゃんの声だけ聴きたいな。お酒を飲みながらなにかするのは、次の機会がいい」
可不可の口からあたりまえのように出てくる〝また今度〟や〝次の機会〟が胸にじんときた。次の約束、していいんだ。
そりゃあ、退院したばかりだし、ずっと病院生活だったから体力もあまりないだろうけど、病室で次の約束をするたび湧き上がる恐怖心を隠してたあの頃とは、もう違う。それが言葉の端々でわかって、すごく嬉しいんだ。隠さなきゃならない恐怖心を連れてくるばかりだった約束が、向かいたい未来へのみちしるべに変わった。可不可が、手術を頑張ったからだ。――そう思ったら、確かに、今日は、別に映画は観なくていいかなという気持ちになった。
「そうだね。今夜は可不可にとって初めてのお酒だし」
俺も、今夜は可不可と話すだけがいい。意見の合致すら嬉しくて、可不可のグラスに自分のグラスを寄せる。乾杯は、何度だってしたい。来週には可不可の0区長就任式と、その少し先にはHAMAツアーズの業務開始日が待ってる。お祝いしたいことだらけだ。
可不可はグラスを軽く傾けるだけで、決して下品な飲み方はしない。それでも、飲み込むときの喉仏の動きに目がいってしまって、また、どきどきしてきた。おかしいな、可不可とは子どもの頃からなんでも話してきたから、成長期にあまり背が伸びなかったとか声がそこまで低くならなかったとかも、知ってるのに。
もしかして、ワインのせいかな。アルコールが入って体があたたまってきたのを、どきどきだと錯覚してるのかも。でも、多少はお酒に慣れてるはずの俺がほろ酔いに近くなってるってことは――
「可不可、大丈夫?」
――可不可を止めたほうがいいかもしれない。そう思い至って隣を見ると、いつの間にか、四杯目に差し掛かっていた。
「んー、だいじょうぶ……」
その声は絶対大丈夫じゃないよね? 慌てて可不可の手からグラスを取り上げる。
「やだ、まだのこってるでしょ」
「だめ、ここまででおしまい」
少し抵抗されたけど、酔いで力が入らないみたいで、可不可の指はグラスに届かないまま、ソファーに着地した。危ない、危ない。……可不可って、お酒に強くないみたい。これから先、俺がついててあげられそうなときは、ついててあげなきゃ。
「んー……どこ……」
ソファーに着地した手が座面を彷徨ってる。
「お酒はもうおしまい」
「おさけ、じゃなくて……」
所在なさげに動く手が気になって、ぼんやりした可不可の意識を醒まさせるために、その手を掴んだ。
「あー、見つけたぁ〜」
え? 俺の手が探されてた? なんで?
「可不可、お水飲もう。絶対、そのほうがいい」
ありがたいことに、朔次郎さんは水も、水を飲むためと思しき予備のグラスも、ちゃんと用意してくれている。可不可に利き手を握られたまま、やりにくさを感じながら、なんとか水を注いだ。
「ほら、ゆっくり飲んで、ね?」
可不可の口にグラスの端を当てて、どうかこぼしませんようにと祈りながらわずかに傾ける。幸い、可不可はいい子に飲んでくれた。
「のんだよ。ぼく、えらい?」
「うん、えらいね」
だめだ、まだ酔ってる。声がふわふわしてるし、ちょっと舌ったらずだ。ここ最近は格好いいところばかり見てたから、なんていうか……いきなり見せられてるかわいいところに、ちょっとどぎまぎしてしまう。
「むー……かえでちゃん、もっとぼくのことみて」
「え、わ、わ……っ」
可不可の指がするすると俺のてのひらをくすぐったと思ったら、あっという間に指を絡められる。さすがにこの繋ぎ方はしたことなくて、動揺してしまった。
そのあとも可不可は俺の手で好き勝手に遊び、絡められた指を解放してもらえてほっとしたのも束の間、今度はその手に頬擦りをしてきた。
「ちょっと可不可、恥ずかしいから」
俺だからいいけど、外でお酒を飲んで誰彼構わずこんなことをしたら、大変なことになる。それに、……他のひとにこんなふうに甘えたり、触ったりしてほしくないよ。
「ぼくもはずかしいけど、かえでちゃんにしかしない……」
「俺だけ?」
まただ。また、どきどきしてきた。俺だけなのは、どうして? 俺だけって言葉は、さっきみたいに「なーんてね」って冗談ぽく終わらせないでいてくれる? だって、俺はその真意を知りたい。たぶん、俺が唯一知らない可不可って、そこにいるから。
「うん、かえでちゃんだけ……」
「どうしてって、訊いてもいい?」
全身が心臓になったんじゃないかってくらい、自分の鼓動がうるさい。
本当は、何度も、可不可からの視線に〝もしかして〟と思ったことがある。でも、そのたびに可不可が「なーんてね」ってはぐらかすから、掴めそうで掴めない〝それ〟にもやもやしてきた。ねぇ、可不可、まだ、教えてくれないの?
「かえでちゃんがこまるから、だめ……」
「困らないよ。絶対、困らない」
可不可が俺の前からいなくならないなら、なにを言われたって受け止めたい。……俺が俺のどきどきを正しく理解して、うまく扱えないうちは、可不可からちゃんと言ってもらわないと、だめなんだ。こんな状態で俺の〝もしかして〟をぶつけて、可不可の真意とズレがあったらと思うと、怖い。
「まだ、だめなんだ……」
「いつかは、だめじゃなくなる?」
可不可の顔を覗き込んで、宥めるように訊く。俺からも可不可の両頬に手を添えて、まるで、子どもの頃みたいだ。お酒のせい半分、きっと別の理由半分、目尻を赤く染めた可不可はうろうろと視線を彷徨わせたあと、いきなり、抱き着いてきた。
「……だっこ」
「えぇ……? いいけど」
お酒が入ってるとはいえ、話す内容が内容だし、恥ずかしくなってきたのかな。俺もじゅうぶん恥ずかしいんだけど。
「もっと、ぎゅーって」
「はいはい」
可不可の背に腕を回す。しばらく背中を撫でてると、酔ってるとは思えないくらい可不可の腕にも力が入って、体重までかけてきた。
「ちょっと可不可、……っ」
抱き着かれたままの体勢で、ふたりしてソファーの上に倒れ込んでしまった。広いソファーだからふたりで寝転んだってそんなに狭くはないけど、ついさっきまでそわそわする話をしたばかりで、これは、よくないんじゃないかな。
「かえでちゃん、ずっと、……」
「うん?」
続きの代わりに、寝息が聞こえてきた。そこまで言って寝ちゃうんだ。
でも、可不可はまだだめって言ってたし、俺が俺の感情を知るために可不可の言葉を引き出すのって、卑怯だよね。俺も、このどきどきにちゃんと向き合わなきゃいけない。
お酒であたたかくなってる体でくっついてるからか、せめて可不可を部屋に運んであげなきゃと思うのに、瞼が重くなってきちゃった。
◇
朝、起きる前ってどうしても寝返りが多くなる。起きるのに抗ってるのか、起きるために体を動かしてるのか、どっちが正解なのかを俺は知らない。ただ、いつもどおり意識が浮上しそうな状態で寝返りを――寝返り?
昨日、ベッドに行ったっけ。昨日は可不可のお酒デビューで、なんだかんだあってソファーで寝落ちした気がする。いくら広いソファーでも、寝返りなんて打ったら可不可のこと落っことし……そうだ、可不可に抱き着かれたままだったんだ。
はっとして目を開けて、声を上げそうになったのをすんでのところで耐えた。
目の前には可不可の寝顔と、明らかにソファーの座面じゃない、ベッドシーツっぽいものが見えた。あの状態の可不可がここに連れてきたとは思えないし、俺が寝惚けて可不可を運んだとも思えない。あとで確認するけど、別棟とやらにいる朔次郎さんが運んでくれたのかな。というか、それしか考えられない。
「……」
悔しいなぁ。――声に出したかったけど、心のなかでだけ呟く。可不可を起こさないよう、そっと、淡藤の髪を撫でた。まだ、起きないでいてほしい。
どきどきが口から飛び出さないよう息を止めて、撫でていたところにくちびるを触れさせる。ほんの一秒前まで、そんなことするつもりはなかった。くちびるで触れた瞬間、昨日からのどきどきの答えをいやでもわからされて、片手で目許を覆う。
本当に、悔しいなぁ。――くちびるで髪に触れたら、あとからあとから触れたい気持ちが増えていくのを感じた。こんなの、どんなに付き合いが長くても〝幼馴染み〟じゃ、しないよね。ひと晩かけて気付いたけど、たぶん、ずっと昔から俺の心の奥底に眠ってたんじゃないかな。だって、可不可が俺を優先してくれるたび、嬉しかった。特別扱いに照れながらも、他のひとじゃなくてよかったって思ってた。
ねぇ、可不可は、いつから? いつから、俺に〝そう〟思うようになったの? 先に見つけた気持ち、どうして教えてくれないの? 俺が気付かなかったから? いつになったら〝だめ〟じゃなくなる?
「ん……」
可不可の小さな呻き声にはっとして、慌ててもとの位置に戻る。寝たふりまではしないけど、俺も今の今まで寝てましたって顔にならなきゃ。
「楓ちゃん……?」
「おはよう、可不可」
何度か目を瞬かせて、ここがリビングじゃないこと、隣に俺が寝てることを把握したのか、可不可の顔がかーっと赤くなった。
「え、……えっ?」
可不可がこんなふうに慌てるのって、滅多にないことだ。可不可に申し訳ないと思いつつ、声を上げて笑っちゃった。
「楓ちゃん、これ」
「たぶん、朔次郎さんが運んでくれたんだと思うよ。俺も寝落ちしちゃったし」
「そう……」
惜しいことをしたなぁなんてぼやいてるけど、あのまま酔わずにいられたとしても、可不可は決定的な言葉はまだくれなかったと思うな。どうやら、可不可のなかで〝まだ〟らしいし。可不可の思う〝そのとき〟がいつかはわからないけど、そのときまで、さっきのことは内緒にしておこう。俺も、自覚したばかりの気持ちにまだびっくりしてるから。
「……僕、変なこと言ってなかった?」
相変わらず顔が赤いままなことに、俺はぴんとくる。この質問は、自分がなにを言ったか確かめたいんじゃなくて、酔った自分の言動を俺がどう思ったか探るためのものだ。つまり、可不可は自分の言動を、ちゃんと覚えてる。
「なにも変なことはなかったよ。楽しかった」
可不可が明らかにほっとした。大丈夫だよ、昨日のままの俺なら「楽しかった」なんて返せなくて、可不可の言葉の真意を知りたがるようなこと訊いただろうけど、さっき、わかったから。肝心なところは教えてくれなかったけど、全部嬉しいって思えたよ。
「ねぇ、可不可、ひとつ約束してほしいんだ」
さっきよりは頬の赤みが引いた可不可の目の前に、小指を立てる。
「俺がすぐにかけつけられないところで、お酒飲まないで。可不可のこれからの立場を考えたら難しいかもしれないけど……できるだけ、俺を近くにいさせて」
「……うん、わかった」
指切りげんまんの唄をくちずさむ。約束したところで、これからの仕事でどうなるかはわからない。でも、約束しなきゃって思うくらいには、昨日みたいな可不可も、ひとりじめしたいって思ったんだよ。
ずっと大事に想ってくれてたらしい可不可の歴史には一生追いつけないかもしれないけど、可不可の〝まだ〟が〝そのとき〟に変わるよう、追いかけるからね。
だって、可不可は俺をじっと待つだけの日々はもう終わりだって言ってた。俺も、可不可の言葉を待つだけでいるのは終わりにしたい。
まずは、自覚しちゃったばかりのこの気持ちを、うまく手懐けることから始めよう。