pandora
最近、可不可とうまく話せない。十年以上の付き合いなのに、こんなの、今まで一度だってなかった。ケンカした直後だって、もう少しましだったと思う。
きっかけは、可不可が初めてお酒を飲むのに付き合ったとき。ふわふわと酔った可不可が、指を絡めてきたり、鼓動の速さがわかってしまうくらい抱き着いてきたりして、昔から何度か〝もしかして〟って思ってた、可不可から向けられる感情の正体に、ほぼ確信めいたものを抱かざるを得なくなった。
幼馴染みとか友だちじゃここまで近付かないんじゃないかっていうその距離が心地よくて、むしろ、もっと触れたくなって……そこまできて、俺はようやく、可不可のことが好きなんだって自覚したんだ。
それ以来、話しかけられるだけでどきどきして、どきどきしてる顔を見られるのが恥ずかしくて、頭のなかは常に大混乱。声は上擦るし、顔は熱いし、自分でもなにしゃべってるのかがだんだんわからなくなる。
眠る前にはその日一日の可不可とのやりとりを思い出したり、もし恋人になったらってあれこれ想像をめぐらせたりするようになった。
この前から何度も考えてるんだけど、この年でこんなことになるくらいなら、十代のうちに恋をしておいて、恋をしたときの自分をさっさと知っておけばよかったのかな。この年でやっと初恋なんて、俺って、遅れ過ぎじゃない? もういい年した大人なのに、好きなひととうまく話せなくなったり、相手のことを考えてむらむらしたりと、心身への影響がひどくなったときの対処法がわからない。もっと早く経験しておきたかった。
でも、自分のこれまでを振り返ってみても、他のひとにこんな気持ちを抱く様子なんて想像できなかったんだよね。どうしても、俺は可不可じゃないとだめだっていう結論に辿り着いては、絶望しちゃう。ちょっと前まで平気だったのに、意識せずにいられた頃がもう思い出せないことへの、絶望。思い出せないってことは、恋を知らなかった頃には完全に戻れないってことだから。
こっちはどきどきしてるのに可不可は普通に話しかけてくるし、俺が話しかけても全然平気そうにしてる。大胆な口説き文句も実はリップサービスで、もしかして〝たぶん両想い〟って、俺の勘違いだったのかなって思いそうになる。それくらい、可不可は普通にしてる。変に期待してる自分が恥ずかしくなる。
今のところ、仕事には支障をきたさずに済んでるけど、それもかなりぎりぎりの綱渡り状態で、そのうち大きなミスをしでかしてもおかしくない。可不可は俺に過保護なくらい優しいけど、仕事はきっちりするタイプだから、いくら俺でも、ミスをすれば当然、叱られる。叱られるのがいやなんじゃなくて、叱らせたくない――ううん、違う、可不可にがっかりされたくないっていうのが本音。人生を賭けてほしいって求めてもらえた俺でいたいんだ。可不可は俺のことをよく〝かわいい〟って言うけど、格好いい俺でいたい。
可不可への気持ちを自覚して以来、毎日毎日こんな調子で数ヵ月過ごしてるせいか、知りたくなかった自分の短所にも気付くようになった。
HAMAツアーズの仕事がどんどん知られるようになって、可不可のこともたくさんのひとが知るようになって、ツアーで使うホログラム可不可に黄色い声をあげるひとや、おもてなしライブで可不可の名前を呼ぶひとが増えた。あのひとたちみたいに、離れたところからでも可不可への好意を大きな声で口にできたら、どんなに楽なんだろう。
でも、離れたくないな。可不可の隣にいたい。隣にいたらいたで、どきどきして、声が上擦るのを隠すのに必死で、混乱するくせに、可不可の隣に立つのは自分がいいって、独占欲みたいなものが湧いてくる。独占欲なんて暗い感情を抱かずにいられたらよかったのにって、よくないところがまた増えた自分に絶望しちゃうんだ。
負の連鎖みたいなものに、すっかりはまってる。
ただ、うまく話せないのだけはなんとかしたくて、思いきって、可不可に洗いざらい話そうと思った。洗いざらい話すって、つまりは告白なんだけど、一方的に言うんじゃなくて、可不可の気持ちが俺の勘違いじゃないかを訊くのが目的。
◇
「ここにいたんだ」
三階のバルコニーはレッスンルームからしか行けないこともあって、広さのわりに、同時に何人もいるってことは少ない。飲み食いしやすいリビングやその周りに集まりがちなのもあるかも。俺も、そんなに来ないかな。
「最近は夜なら涼しくなってきたからね」
そんなこと言って、お風呂上がりなんだから、風邪引かないでよ。――笑いながら、隣に腰掛けた。拳ひとつぶんあけるのは、これまでと同じ、幼馴染みの距離。
「本当だ、二階より涼しいかも」
四階建ての建物で、しかもたった一階の違いでそんなに? って感じだけど、夜だから余計にそう思うのかも。秋の期間が年々短くなってきてるせいで、昼はまだまだ、何階にいたってじわじわと暑い。だから、ここも、日中は誰も来たがらない。
「なにかあった?」
「可不可を探してたんだ。リビングにもいなかったし、部屋を訪ねたら、添くんが、ここじゃないかって」
〝社長、たまにあそこでぼーっとしてるんですよねー〟――可不可にもひとりの時間が必要なのはわかってるけど、俺より添くんのほうが可不可を知ってるみたいなその言葉に対して、へらっと笑って「そうなんだ、ありがとう」って返すのが精一杯だった。
たぶん、前の俺ならもっと普通に返せた。小さなことにもいちいち心がざわめいて、そのやり場も見つけられなくて、今日も、自分の心の狭さに絶望したんだ。
「でも、風はちょっと生ぬるいかな」
湿度を抱えた風が肌を撫でた。部屋に飾ったカレンダーのイラストは秋なのに、こっそり息を吸ったときに感じた空気のにおいにも、まだまだ、夏の名残がある。
可不可は、なにも言わない。ねぇ、今、ふたりきりだよ。しかも仕事中じゃない。レッスンルームは誰も使ってないし、湿気を含んだ風よりエアコンの風のほうがみんな好きだから、しばらく誰も来ないと思う。本当の本当に、今なら、ふたりきりだよ。――この期に及んで、自分から言うんじゃなくて、可不可からなにか行動を起こしてくれないか、期待しちゃう。本当、だめだよね。
「……楓ちゃんが」
数時間ぶりに可不可に名前を呼ばれて、どきっとした。たったこれだけでも、ときめくようになるなんて、ちょっと前の俺が知ったらびっくりするだろうな。
「最近、なにか悩んでるのかなって気になってるんだ。いろんなことを話してくれるわりに、仕事でもなんでも、悩みに限って抱え込んじゃうところがある。自分でも、自覚してるだろうけどね。仕事のことかと思ってしばらく見てたけど、仕事中はそんな素振りを見せないよう、なんなら虚勢を張ってるくらいだったし……」
可不可って、本当に俺のこと見てるんだ。それに、今のでも、可不可はやっぱり俺を好きなんだなって、ちゃんとわかる。勘違いじゃない。言葉と言葉のあいだ、表情……そういうので、わかる。そのおかげか、少しだけ、息がしやすくなった。
「悩んでたっていうより、混乱かな」
「混乱?」
拳ひとつぶんの距離をそれとなく詰める。でも可不可にはしっかり気付かれてるみたいで、どうしたのといわんばかりの視線を感じた。
「可不可は、……俺のこと、どう思ってる?」
告白する気で来たくせに日和って、こんなところでまで可不可に頼っちゃう。恥ずかしくて、情けなくて、反射的に目をぎゅっと瞑った。顔は熱いし背中にはちょっと汗が出てきた気がする。どきどきし過ぎて、喉が渇きそう。
「……そういう顔でそんな質問されると、僕にとって都合のいい質問って受け取りそうなんだけど」
「えっ、俺、どんな顔してた?」
思わず顔を上げて、自分の頬を押さえる。もしかして、顔に出てた? まだ、ちゃんと言えてないのに。
「んー、内緒。でも、そんな顔で寄ってこられると、僕、勘違いしちゃうじゃん……」
顔を背けた可不可の耳が赤い。決定的な言葉はなくても、さっきから何度も感じる〝やっぱりそうなんだ〟って嬉しさが、どきどきを簡単に飛び越えたのを感じる。
可不可のことが好きって自覚してから何度も小さな絶望を感じてきたけど、全部、俺自身の心の変化に対してだ。ずっと昔からある、可不可と一緒にいたい気持ちにだけは、一秒だって絶望してない。ひとつだけ絶望扱いせずに済んだ気持ちが、半ば勢いで可不可の肩を掴んで、こっちを向かせた。
「勘違いじゃないよ! 俺、可不可は俺のこと……こ、恋って意味で好きなのかもって気付いて、そしたらどきどきしてわけがわからなくなって、可不可のこと意識してうまくしゃべれないし、顔もまともに見られないし、寝る前とか可不可のことばっかり考えちゃうし……こんなことになるなら可不可にどきどきしなきゃよかったんじゃないか、でも、この気持ちを否定するのはだめなんじゃないかって、混乱して……」
すごくびっくりした顔だ。そりゃあ、うじうじしてたと思ったらいきなり捲し立てるんだから、可不可だって面食らうよね。
「……混乱したのを〝そう〟だって、思っちゃってない?」
急に真顔になった可不可から、頭に冷水を浴びせられたような気がした。
「えぇ……」
「だって、そうでしょう? 友だちだって思ってた相手から、別の好意を向けられてるんじゃないかって思い至るきっかけとなるできごとが起こったとする。……まぁ、誰でも驚くよね。驚けば、心拍数は上がる。ここで、相手との可能性がゼロなら、抱くのは不快感だ。でも、それが不快とまではいかなかった場合は、とりあえず相手を観察するようになる。すると、たとえば目が合うだけで、自分のなかで正解に近付いた感動を覚えて、鼓動が高鳴る。この繰り返しを、脳が恋愛感情と判断してしまう。そういう可能性だって、あるんだよ」
まるで数式の答えを解説するみたいな顔で話す可不可に、どきどきしてる心を無理矢理撫でられてるような感じ。撫でるって心地いいものばかりじゃないんだって、今、初めて知った。
「……俺が浮かれてるだけなんじゃないかってこと?」
あ、だめだ。声、震えちゃった。やばいかも。
「そこまでは言わないけど、……ごめん、僕が浮かれないよう自戒するのに、楓ちゃんを利用した」
可不可の親指が、俺の下瞼をなぞった。なんとかぎりぎり我慢できてたのに、指が離れそうになったと同時に、涙がこぼれる。
「僕が臆病なせいだ。本当に、ごめんね」
確かに、諭すみたいなことを言われてびっくりはしたけど、もし、俺が可不可の立場だったら、同じ――か、それに近いくらいの――ことを言ったと思う。それくらい、両想いって信じ難いことだから。でも、俺は、可不可になにを言われたって、こんなところで泣くなんてずるいことだけは絶対したくなかった。そう思うのに、あふれ出した涙は、なかなか止まってくれない。
「好き……、可不可のこと、好きになっちゃったんだ。……最初はどきどきだけだったのに、小さいことでもやもやして、自分のだめなところ、いっぱい見つけて……、引き返せたらよかったのに、できなくて、……」
情けない。HAMAの立て直しのこととはいえ、可不可に「キミが必要なんだ」って言われたくらいには頼りにしてもらえてるのに、さっきから格好悪いところばかり見せちゃってる。仕事とこれは別でも、可不可にはいつだって格好いいって思われたかった。
「楓ちゃん……」
可不可が肩を抱き寄せてくれたから、遠慮なく顔をうずめる。今、絶対、服に涙が染みた。可不可の服を涙で汚せるのって俺くらいなんじゃないかって、すごくくだらないことを考える。幼馴染みってだけなら、こんなふうに思うこともなかった。
髪を撫でられて、ふと、気付いた。相変わらず俺より小さいけど、子どもの頃より骨張ってて、大人の手だ。昔は、俺が可不可の頭を撫でる側だったのにな。
「……言い訳にしかならないけど、泣かせるつもりはなかったんだ」
俺の髪を指で梳く可不可の声が、なんだか、水滴みたい。ぽつ、ぽつ、と落ちては、染み込んでいく。
「楓ちゃんは僕のことすごいねって褒めてくれるけど、本当は、いつだって虚勢を張ってる。ある程度のところまでは自信を持てても、肝心なところは、虚勢を張って、自分を奮い立たせてるだけなんだよ」
そんなことないって言いそうになって、やめた。だって、可不可はなんでもできる天才じゃない。すごく努力して、悔しい思いもたくさんしてる。そんなひとだからこそ、立ち続けるには虚勢を張らなきゃならない。なにもなしで立っていられるほど、世のなかは簡単じゃないから。
「……俺がすごいねって思ってるのは、可不可が出す結果にもだけど、それ以上に、ずっと頑張ってるところに対してだよ」
「うん、わかってる。だから虚勢を張ってられる。楓ちゃんは、僕の、一番の心の支えだから」
髪を撫でる手が止まって、なんとなく、顔を上げた。こうやってじっくり話したのって久しぶりかもしれない。毎日、あんなに一緒にいるのに。
可不可の手を取って、恐る恐る、指を絡める。もうこれだけで顔が熱い。恋されてるかもって予感に浮かれるだけじゃ、ここまでどきどきしない。ちゃんと、恋だよ。
「可不可が同じ気持ちなら、俺にも、勘違いにさせないでほしい」
どう考えても同じ気持ちだけど、俺だけ言うんじゃなくて、可不可からも同じ言葉で聞きたい。どんどん欲深くなる。止まりかけてくれてた涙が、また、こぼれた。
「僕が言ったら、引き返せないけど、それでもいいの?」
涙にくちづけるみたいに、眦に可不可のくちびるが押し当てられた。
「……俺、とっくに引き返せなくなってるよ。友だちだ、幼馴染みだって思ってたときのこと、完全に消えたわけじゃないけど、好きになっちゃう前にも戻れない。……戻れないんだって気付いて、ちょっとだけ、苦しかった」
可不可への気持ちを自覚した日を思い出す。初めてお酒を飲むのに付き合って、ふたりして寝落ちしちゃって――朝、すぐそばで眠る可不可を見たとき、確かに、俺の世界は変わったんだ。
「じゃあ、僕と同じだ。僕は――」
今度はくちびるに、可不可のくちびるが押し当てられる。あ、初めてのキスだ。そう気付くのに、一歩、遅れた。
「――子どもの頃から、ずっと、ずーっと楓ちゃんが大好きで……あちこち飛びまわってそれを楽しそうに話してくれるのを素敵だなって思うのと同時に、その自由さが恨めしかった。絶対に元気になって、キミの隣で、キミと同じ景色を見れるようになろうって決めて、今、ここにいる。すごく真剣なんだ。だから、……さっきは、臆病になった」
可不可は泣いてないのに、声が泣いてるみたいで、今度は俺からくちづける。
「……臆病なの、なくしてほしいんだけど」
「うん」
「かふ、……っ」
勘違いじゃないことを教えてくれるキス、臆病な気持ちを追い出すキス、じゃあ、三回目のこれは?
重ねるだけのキスを何度も繰り返す。くちびるがくっつくたび気持ちよくて、どきどきして、好きだって言いたくなる。だから、くちびるが離れるたびに、吐息がかかる距離のまま好きって言葉にする。そうしたら、可不可がまたキスしてきて「好きだよ」って囁くから、やめどきがわからない。でも、――
「ん、かふ、か……さすがに」
――あまりひとが来ないとはいえ、いつ、誰が来たっておかしくない。可不可との関係を恥ずかしく思う必要なんてないけど、ひとに見られたくないし、見せたくない。
「そうだね。楓ちゃんがいつもよりきれいな顔してるところ、誰にも見せたくないな。夢みたいに幸せで夢中になっちゃったけど」
そろそろ戻ろうか。可不可がそう言って腰を浮かせたのを、思わず、腕を掴んで止めちゃった。あれ、俺、なにやってるんだろ。
「楓ちゃん?」
「えぇと、……」
幼馴染みなら簡単に言えそうな言葉が、今は、恥ずかしくて言い出しづらい。
そっか、こういうのも〝引き返せない〟ことのひとつなんだ。恥ずかしさでどうにかなりそう。目をぎゅっと瞑る。
「も、もう少し、一緒にいたくて……その、夢じゃない、って、明日も明後日も、その次も、わかっててほしいし……」
まだくっついていたい。ここしばらく自分自身に絶望しまくってたのが、救われた気持ちなんだ。俺も、夢じゃないって思いたい。
「……わかった。楓ちゃんの部屋、連れてってくれる?」
二階の端にある俺の部屋まで誰ともすれ違わなかったのは、運がいいとしかいいようがない。ずっとはらはらしながら、でも逸る気持ちは抑えきれなくて、可不可の手を引いて自分の部屋に向かった。大事な幼馴染みを旅に連れて行こうと手を引いた頃の俺が、今の俺たちを知ったら、絶対にびっくりするだろうな。
部屋に入ったはいいものの、灯りをつける余裕まではなかった。可不可が鍵をかけてくれたのは視界の端にとらえたけど、言葉を発するより前に、声ごと、可不可のくちびるで覆われちゃったから。
「ん、は……、っ」
くっつけるキスしかしてなかったのに、息をしようと口を薄く開けたところに、可不可の舌が入ってきた。可不可って、そういうキスをするひとなんだ。
「んぅっ……、ん……」
「っ、は、好き……、好きだよ、楓ちゃん……」
俺もって返す前に、また、くちびるを塞がれる。好きって、俺にももっと言わせてほしい。いったん体勢を立て直すために可不可のキスから逃れようとあとずさっては、すぐに追いつかれて、じりじりと部屋のなかを進んでいく。
ベッドに脚がぶつかって、そのままふたりして倒れ込んだ。反動でルームシューズが脱げる。可不可はそのまま俺の上に乗り上げてきて、また、キスしてきた。
「ん、んんっ、ん……」
もうずっとキスしてる。何回目かなんて、もう、数えられない。
「楓ちゃん、かわいい、大好き……」
自分のくちびるの感覚がよくわからなくなってきた。口のなかも可不可の舌でいいようにされて、頭はぼんやりするし、体はずっと熱い。もしも可不可と恋人になったらって想像はしてたけど、こんなにキスされるなんて思ってもみなかったよ。
「も、キス、しすぎ……っ」
「ごめんね、好きって言えるのが嬉しくて、楓ちゃんも同じなんだって思ったら、何度キスしてもしたりない」
頬を染めて俺を見下ろす可不可が壮絶なまでに色っぽくて、腰の奥がぞくぞくする。ねぇ、可不可――
「そりゃあ、俺も、嬉しいのは嬉しいんだけど……」
可不可の目がきらんと光る。あ、俺、墓穴掘った?
◇
「ついつい周りに嫉妬したり、独占欲が出ちゃったりで、……こんな未熟なままじゃだめだ、誰が見ても楓ちゃんには僕がふさわしいと思うくらいにならなきゃって思ってたんだよ」
声を押し殺してすったもんだの大騒ぎをしたあととは思えないくらい、可不可は落ち着いてる。
「……じゃあ、俺が、無理矢理言わせちゃったってこと?」
全力で我慢したけど、俺はちょっと声が掠れちゃったみたいだ。
くちびるは離れても、目の焦点が合わせにくいくらいには顔が近いままで、なんだか、呼吸でキスしてるみたい。小さく笑った可不可の吐息がかかる。
「そう言われればそうかな。でも、好きな子から熱烈な告白をされて平然としてられるほど、僕は人間ができてないんだよ。そのうえ、こんなに求められたら、期待に応えないわけにもいかないしね」
また、くちづけられた。あーあ、本当に、くちびるの感覚なくなっちゃったかも。完全に可不可のペースになってるみたいで、ちょっと、悔しい。
「本当は、いつまで黙ってるつもりだった? ……って、訊いてもいい?」
「……夢が叶ったら、かな」
夢。きっと、HAMAの復興のことだ。視線だけで続きを促す。だって、HAMAの復興には、俺も好きで巻き込まれてる。俺に関係あることなら、しっかり教えてもらわなきゃ。
「集客数一位はもちろん、六つ星レビュー認定を受けるくらい、HAMAの観光をいいものにしたい。そのあいだに信頼のおける後任者を見つけて、育成して……僕がやれることをやりきったら、楓ちゃんとふたりで、世界中を旅しようって決めてた」
当日速報値で一位を取ることは増えてきたけど、集客数一位や六つ星レビューなんでまだまだ雲の上のような目標だ。……ううん、それもだけど、俺と世界中を旅するってところに、どきどきする。そっか、そんなふうに考えてたんだ。
「……やっぱり、俺が無理矢理言わせちゃったんだ。どうしよう、可不可の人生設計、狂わせたことになっちゃうよね」
「嬉しい誤算だからいいんだよ。……でも、本当に本当に引き返せなくなったけど、楓ちゃんは後悔してない?」
可不可の手が、俺の腰に伸びた。もしも恋人になったらってあれこれ想像してたよりも、現実はずっと大変だったけど――
「してないよ」
――内臓を押し上げられるような苦しみも、自分でするときには届かないところへの刺激も、すごく大変だった。でも、なにも、後悔してない。可不可はずっと優しかったし、やっぱり格好よかった。
「俺こそ、変じゃなかった? 途中から必死過ぎてあんまり冷静に思い出せないっていうか思い出したくないっていうか」
ほんの数時間前まで、こんなこと訊くようになるなんて思ってなかったから、どんな顔して、視線はどこに遣って言えばいいかわからなくて、目の前の可不可……の、顔じゃなくて肩を見る。
「……あ」
「どうしたの?」
「ごめん。さっき、無我夢中だったから、ここ……」
声を抑えなきゃって、可不可の肩にくちびるを押し当てて、ふうふうと息を荒らげてるうちに、痕をつけてたらしい。そんなに濃くはないけど、赤くなってるなってすぐにわかるくらいには、しっかりついちゃった。
鏡で確かめるか訊いたけど、可不可は「いいよ」って首を振った。
「服で隠れるし、楓ちゃんが気持ちよくなってくれた証拠みたいなものだから。あと、さっきの質問の答えだけど」
「待って、そっちは言わなくていいから」
「きれいで、素敵だったよ」
可不可って、相手が照れたり恥ずかしがったりするのをわかってて、言うのをやめないところがあるっていうか……ちょっといじわるなんだよね。今だって、俺が照れてるの見て、にこにこしてるし。
でも、そんなところにもどきどきするあたり、俺って、結構、沼ってるんだろうな。
「……痕、わざとじゃないからね?」
「わかってるよ。でも、……見えないところになら、僕もつけてみたいかも」
可不可の手が太腿に伸びてきて、大袈裟なくらい体が跳ねた。うそ、そんなところにキスするつもりなんだ?
「だめ?」
「……だめ、じゃないけど、今は許して」
「いずれは許してくれるんだ?」
この会話恥ずかしくない? 口ごもったら、可不可の指が俺のくちびるをなぞった。
「そのうち、ね」
また、あたりまえみたいに次の約束しちゃった。なにも、こういうことに限らず、次の約束ができるって、本当にすごいことだと思う。
「どうしたの?」
隣に寝る可不可を見て、もうひとつ、言っておきたいことを思い出した。それが顔に出てたんだろう、俺がなにか言い出すのを待ってくれてる。
「……可不可の誕生日祝いで、お酒を飲んだ日のことなんだけど」
数ヵ月前、可不可への気持ちを自覚したあの朝に思いを馳せる。可不可は年下扱いしないでって思うかもしれないけど、今だけは、俺が髪を撫でても許して。あと、今から打ち明ける、髪にこっそりキスしたことも、許してほしいな。
きっかけは、可不可が初めてお酒を飲むのに付き合ったとき。ふわふわと酔った可不可が、指を絡めてきたり、鼓動の速さがわかってしまうくらい抱き着いてきたりして、昔から何度か〝もしかして〟って思ってた、可不可から向けられる感情の正体に、ほぼ確信めいたものを抱かざるを得なくなった。
幼馴染みとか友だちじゃここまで近付かないんじゃないかっていうその距離が心地よくて、むしろ、もっと触れたくなって……そこまできて、俺はようやく、可不可のことが好きなんだって自覚したんだ。
それ以来、話しかけられるだけでどきどきして、どきどきしてる顔を見られるのが恥ずかしくて、頭のなかは常に大混乱。声は上擦るし、顔は熱いし、自分でもなにしゃべってるのかがだんだんわからなくなる。
眠る前にはその日一日の可不可とのやりとりを思い出したり、もし恋人になったらってあれこれ想像をめぐらせたりするようになった。
この前から何度も考えてるんだけど、この年でこんなことになるくらいなら、十代のうちに恋をしておいて、恋をしたときの自分をさっさと知っておけばよかったのかな。この年でやっと初恋なんて、俺って、遅れ過ぎじゃない? もういい年した大人なのに、好きなひととうまく話せなくなったり、相手のことを考えてむらむらしたりと、心身への影響がひどくなったときの対処法がわからない。もっと早く経験しておきたかった。
でも、自分のこれまでを振り返ってみても、他のひとにこんな気持ちを抱く様子なんて想像できなかったんだよね。どうしても、俺は可不可じゃないとだめだっていう結論に辿り着いては、絶望しちゃう。ちょっと前まで平気だったのに、意識せずにいられた頃がもう思い出せないことへの、絶望。思い出せないってことは、恋を知らなかった頃には完全に戻れないってことだから。
こっちはどきどきしてるのに可不可は普通に話しかけてくるし、俺が話しかけても全然平気そうにしてる。大胆な口説き文句も実はリップサービスで、もしかして〝たぶん両想い〟って、俺の勘違いだったのかなって思いそうになる。それくらい、可不可は普通にしてる。変に期待してる自分が恥ずかしくなる。
今のところ、仕事には支障をきたさずに済んでるけど、それもかなりぎりぎりの綱渡り状態で、そのうち大きなミスをしでかしてもおかしくない。可不可は俺に過保護なくらい優しいけど、仕事はきっちりするタイプだから、いくら俺でも、ミスをすれば当然、叱られる。叱られるのがいやなんじゃなくて、叱らせたくない――ううん、違う、可不可にがっかりされたくないっていうのが本音。人生を賭けてほしいって求めてもらえた俺でいたいんだ。可不可は俺のことをよく〝かわいい〟って言うけど、格好いい俺でいたい。
可不可への気持ちを自覚して以来、毎日毎日こんな調子で数ヵ月過ごしてるせいか、知りたくなかった自分の短所にも気付くようになった。
HAMAツアーズの仕事がどんどん知られるようになって、可不可のこともたくさんのひとが知るようになって、ツアーで使うホログラム可不可に黄色い声をあげるひとや、おもてなしライブで可不可の名前を呼ぶひとが増えた。あのひとたちみたいに、離れたところからでも可不可への好意を大きな声で口にできたら、どんなに楽なんだろう。
でも、離れたくないな。可不可の隣にいたい。隣にいたらいたで、どきどきして、声が上擦るのを隠すのに必死で、混乱するくせに、可不可の隣に立つのは自分がいいって、独占欲みたいなものが湧いてくる。独占欲なんて暗い感情を抱かずにいられたらよかったのにって、よくないところがまた増えた自分に絶望しちゃうんだ。
負の連鎖みたいなものに、すっかりはまってる。
ただ、うまく話せないのだけはなんとかしたくて、思いきって、可不可に洗いざらい話そうと思った。洗いざらい話すって、つまりは告白なんだけど、一方的に言うんじゃなくて、可不可の気持ちが俺の勘違いじゃないかを訊くのが目的。
◇
「ここにいたんだ」
三階のバルコニーはレッスンルームからしか行けないこともあって、広さのわりに、同時に何人もいるってことは少ない。飲み食いしやすいリビングやその周りに集まりがちなのもあるかも。俺も、そんなに来ないかな。
「最近は夜なら涼しくなってきたからね」
そんなこと言って、お風呂上がりなんだから、風邪引かないでよ。――笑いながら、隣に腰掛けた。拳ひとつぶんあけるのは、これまでと同じ、幼馴染みの距離。
「本当だ、二階より涼しいかも」
四階建ての建物で、しかもたった一階の違いでそんなに? って感じだけど、夜だから余計にそう思うのかも。秋の期間が年々短くなってきてるせいで、昼はまだまだ、何階にいたってじわじわと暑い。だから、ここも、日中は誰も来たがらない。
「なにかあった?」
「可不可を探してたんだ。リビングにもいなかったし、部屋を訪ねたら、添くんが、ここじゃないかって」
〝社長、たまにあそこでぼーっとしてるんですよねー〟――可不可にもひとりの時間が必要なのはわかってるけど、俺より添くんのほうが可不可を知ってるみたいなその言葉に対して、へらっと笑って「そうなんだ、ありがとう」って返すのが精一杯だった。
たぶん、前の俺ならもっと普通に返せた。小さなことにもいちいち心がざわめいて、そのやり場も見つけられなくて、今日も、自分の心の狭さに絶望したんだ。
「でも、風はちょっと生ぬるいかな」
湿度を抱えた風が肌を撫でた。部屋に飾ったカレンダーのイラストは秋なのに、こっそり息を吸ったときに感じた空気のにおいにも、まだまだ、夏の名残がある。
可不可は、なにも言わない。ねぇ、今、ふたりきりだよ。しかも仕事中じゃない。レッスンルームは誰も使ってないし、湿気を含んだ風よりエアコンの風のほうがみんな好きだから、しばらく誰も来ないと思う。本当の本当に、今なら、ふたりきりだよ。――この期に及んで、自分から言うんじゃなくて、可不可からなにか行動を起こしてくれないか、期待しちゃう。本当、だめだよね。
「……楓ちゃんが」
数時間ぶりに可不可に名前を呼ばれて、どきっとした。たったこれだけでも、ときめくようになるなんて、ちょっと前の俺が知ったらびっくりするだろうな。
「最近、なにか悩んでるのかなって気になってるんだ。いろんなことを話してくれるわりに、仕事でもなんでも、悩みに限って抱え込んじゃうところがある。自分でも、自覚してるだろうけどね。仕事のことかと思ってしばらく見てたけど、仕事中はそんな素振りを見せないよう、なんなら虚勢を張ってるくらいだったし……」
可不可って、本当に俺のこと見てるんだ。それに、今のでも、可不可はやっぱり俺を好きなんだなって、ちゃんとわかる。勘違いじゃない。言葉と言葉のあいだ、表情……そういうので、わかる。そのおかげか、少しだけ、息がしやすくなった。
「悩んでたっていうより、混乱かな」
「混乱?」
拳ひとつぶんの距離をそれとなく詰める。でも可不可にはしっかり気付かれてるみたいで、どうしたのといわんばかりの視線を感じた。
「可不可は、……俺のこと、どう思ってる?」
告白する気で来たくせに日和って、こんなところでまで可不可に頼っちゃう。恥ずかしくて、情けなくて、反射的に目をぎゅっと瞑った。顔は熱いし背中にはちょっと汗が出てきた気がする。どきどきし過ぎて、喉が渇きそう。
「……そういう顔でそんな質問されると、僕にとって都合のいい質問って受け取りそうなんだけど」
「えっ、俺、どんな顔してた?」
思わず顔を上げて、自分の頬を押さえる。もしかして、顔に出てた? まだ、ちゃんと言えてないのに。
「んー、内緒。でも、そんな顔で寄ってこられると、僕、勘違いしちゃうじゃん……」
顔を背けた可不可の耳が赤い。決定的な言葉はなくても、さっきから何度も感じる〝やっぱりそうなんだ〟って嬉しさが、どきどきを簡単に飛び越えたのを感じる。
可不可のことが好きって自覚してから何度も小さな絶望を感じてきたけど、全部、俺自身の心の変化に対してだ。ずっと昔からある、可不可と一緒にいたい気持ちにだけは、一秒だって絶望してない。ひとつだけ絶望扱いせずに済んだ気持ちが、半ば勢いで可不可の肩を掴んで、こっちを向かせた。
「勘違いじゃないよ! 俺、可不可は俺のこと……こ、恋って意味で好きなのかもって気付いて、そしたらどきどきしてわけがわからなくなって、可不可のこと意識してうまくしゃべれないし、顔もまともに見られないし、寝る前とか可不可のことばっかり考えちゃうし……こんなことになるなら可不可にどきどきしなきゃよかったんじゃないか、でも、この気持ちを否定するのはだめなんじゃないかって、混乱して……」
すごくびっくりした顔だ。そりゃあ、うじうじしてたと思ったらいきなり捲し立てるんだから、可不可だって面食らうよね。
「……混乱したのを〝そう〟だって、思っちゃってない?」
急に真顔になった可不可から、頭に冷水を浴びせられたような気がした。
「えぇ……」
「だって、そうでしょう? 友だちだって思ってた相手から、別の好意を向けられてるんじゃないかって思い至るきっかけとなるできごとが起こったとする。……まぁ、誰でも驚くよね。驚けば、心拍数は上がる。ここで、相手との可能性がゼロなら、抱くのは不快感だ。でも、それが不快とまではいかなかった場合は、とりあえず相手を観察するようになる。すると、たとえば目が合うだけで、自分のなかで正解に近付いた感動を覚えて、鼓動が高鳴る。この繰り返しを、脳が恋愛感情と判断してしまう。そういう可能性だって、あるんだよ」
まるで数式の答えを解説するみたいな顔で話す可不可に、どきどきしてる心を無理矢理撫でられてるような感じ。撫でるって心地いいものばかりじゃないんだって、今、初めて知った。
「……俺が浮かれてるだけなんじゃないかってこと?」
あ、だめだ。声、震えちゃった。やばいかも。
「そこまでは言わないけど、……ごめん、僕が浮かれないよう自戒するのに、楓ちゃんを利用した」
可不可の親指が、俺の下瞼をなぞった。なんとかぎりぎり我慢できてたのに、指が離れそうになったと同時に、涙がこぼれる。
「僕が臆病なせいだ。本当に、ごめんね」
確かに、諭すみたいなことを言われてびっくりはしたけど、もし、俺が可不可の立場だったら、同じ――か、それに近いくらいの――ことを言ったと思う。それくらい、両想いって信じ難いことだから。でも、俺は、可不可になにを言われたって、こんなところで泣くなんてずるいことだけは絶対したくなかった。そう思うのに、あふれ出した涙は、なかなか止まってくれない。
「好き……、可不可のこと、好きになっちゃったんだ。……最初はどきどきだけだったのに、小さいことでもやもやして、自分のだめなところ、いっぱい見つけて……、引き返せたらよかったのに、できなくて、……」
情けない。HAMAの立て直しのこととはいえ、可不可に「キミが必要なんだ」って言われたくらいには頼りにしてもらえてるのに、さっきから格好悪いところばかり見せちゃってる。仕事とこれは別でも、可不可にはいつだって格好いいって思われたかった。
「楓ちゃん……」
可不可が肩を抱き寄せてくれたから、遠慮なく顔をうずめる。今、絶対、服に涙が染みた。可不可の服を涙で汚せるのって俺くらいなんじゃないかって、すごくくだらないことを考える。幼馴染みってだけなら、こんなふうに思うこともなかった。
髪を撫でられて、ふと、気付いた。相変わらず俺より小さいけど、子どもの頃より骨張ってて、大人の手だ。昔は、俺が可不可の頭を撫でる側だったのにな。
「……言い訳にしかならないけど、泣かせるつもりはなかったんだ」
俺の髪を指で梳く可不可の声が、なんだか、水滴みたい。ぽつ、ぽつ、と落ちては、染み込んでいく。
「楓ちゃんは僕のことすごいねって褒めてくれるけど、本当は、いつだって虚勢を張ってる。ある程度のところまでは自信を持てても、肝心なところは、虚勢を張って、自分を奮い立たせてるだけなんだよ」
そんなことないって言いそうになって、やめた。だって、可不可はなんでもできる天才じゃない。すごく努力して、悔しい思いもたくさんしてる。そんなひとだからこそ、立ち続けるには虚勢を張らなきゃならない。なにもなしで立っていられるほど、世のなかは簡単じゃないから。
「……俺がすごいねって思ってるのは、可不可が出す結果にもだけど、それ以上に、ずっと頑張ってるところに対してだよ」
「うん、わかってる。だから虚勢を張ってられる。楓ちゃんは、僕の、一番の心の支えだから」
髪を撫でる手が止まって、なんとなく、顔を上げた。こうやってじっくり話したのって久しぶりかもしれない。毎日、あんなに一緒にいるのに。
可不可の手を取って、恐る恐る、指を絡める。もうこれだけで顔が熱い。恋されてるかもって予感に浮かれるだけじゃ、ここまでどきどきしない。ちゃんと、恋だよ。
「可不可が同じ気持ちなら、俺にも、勘違いにさせないでほしい」
どう考えても同じ気持ちだけど、俺だけ言うんじゃなくて、可不可からも同じ言葉で聞きたい。どんどん欲深くなる。止まりかけてくれてた涙が、また、こぼれた。
「僕が言ったら、引き返せないけど、それでもいいの?」
涙にくちづけるみたいに、眦に可不可のくちびるが押し当てられた。
「……俺、とっくに引き返せなくなってるよ。友だちだ、幼馴染みだって思ってたときのこと、完全に消えたわけじゃないけど、好きになっちゃう前にも戻れない。……戻れないんだって気付いて、ちょっとだけ、苦しかった」
可不可への気持ちを自覚した日を思い出す。初めてお酒を飲むのに付き合って、ふたりして寝落ちしちゃって――朝、すぐそばで眠る可不可を見たとき、確かに、俺の世界は変わったんだ。
「じゃあ、僕と同じだ。僕は――」
今度はくちびるに、可不可のくちびるが押し当てられる。あ、初めてのキスだ。そう気付くのに、一歩、遅れた。
「――子どもの頃から、ずっと、ずーっと楓ちゃんが大好きで……あちこち飛びまわってそれを楽しそうに話してくれるのを素敵だなって思うのと同時に、その自由さが恨めしかった。絶対に元気になって、キミの隣で、キミと同じ景色を見れるようになろうって決めて、今、ここにいる。すごく真剣なんだ。だから、……さっきは、臆病になった」
可不可は泣いてないのに、声が泣いてるみたいで、今度は俺からくちづける。
「……臆病なの、なくしてほしいんだけど」
「うん」
「かふ、……っ」
勘違いじゃないことを教えてくれるキス、臆病な気持ちを追い出すキス、じゃあ、三回目のこれは?
重ねるだけのキスを何度も繰り返す。くちびるがくっつくたび気持ちよくて、どきどきして、好きだって言いたくなる。だから、くちびるが離れるたびに、吐息がかかる距離のまま好きって言葉にする。そうしたら、可不可がまたキスしてきて「好きだよ」って囁くから、やめどきがわからない。でも、――
「ん、かふ、か……さすがに」
――あまりひとが来ないとはいえ、いつ、誰が来たっておかしくない。可不可との関係を恥ずかしく思う必要なんてないけど、ひとに見られたくないし、見せたくない。
「そうだね。楓ちゃんがいつもよりきれいな顔してるところ、誰にも見せたくないな。夢みたいに幸せで夢中になっちゃったけど」
そろそろ戻ろうか。可不可がそう言って腰を浮かせたのを、思わず、腕を掴んで止めちゃった。あれ、俺、なにやってるんだろ。
「楓ちゃん?」
「えぇと、……」
幼馴染みなら簡単に言えそうな言葉が、今は、恥ずかしくて言い出しづらい。
そっか、こういうのも〝引き返せない〟ことのひとつなんだ。恥ずかしさでどうにかなりそう。目をぎゅっと瞑る。
「も、もう少し、一緒にいたくて……その、夢じゃない、って、明日も明後日も、その次も、わかっててほしいし……」
まだくっついていたい。ここしばらく自分自身に絶望しまくってたのが、救われた気持ちなんだ。俺も、夢じゃないって思いたい。
「……わかった。楓ちゃんの部屋、連れてってくれる?」
二階の端にある俺の部屋まで誰ともすれ違わなかったのは、運がいいとしかいいようがない。ずっとはらはらしながら、でも逸る気持ちは抑えきれなくて、可不可の手を引いて自分の部屋に向かった。大事な幼馴染みを旅に連れて行こうと手を引いた頃の俺が、今の俺たちを知ったら、絶対にびっくりするだろうな。
部屋に入ったはいいものの、灯りをつける余裕まではなかった。可不可が鍵をかけてくれたのは視界の端にとらえたけど、言葉を発するより前に、声ごと、可不可のくちびるで覆われちゃったから。
「ん、は……、っ」
くっつけるキスしかしてなかったのに、息をしようと口を薄く開けたところに、可不可の舌が入ってきた。可不可って、そういうキスをするひとなんだ。
「んぅっ……、ん……」
「っ、は、好き……、好きだよ、楓ちゃん……」
俺もって返す前に、また、くちびるを塞がれる。好きって、俺にももっと言わせてほしい。いったん体勢を立て直すために可不可のキスから逃れようとあとずさっては、すぐに追いつかれて、じりじりと部屋のなかを進んでいく。
ベッドに脚がぶつかって、そのままふたりして倒れ込んだ。反動でルームシューズが脱げる。可不可はそのまま俺の上に乗り上げてきて、また、キスしてきた。
「ん、んんっ、ん……」
もうずっとキスしてる。何回目かなんて、もう、数えられない。
「楓ちゃん、かわいい、大好き……」
自分のくちびるの感覚がよくわからなくなってきた。口のなかも可不可の舌でいいようにされて、頭はぼんやりするし、体はずっと熱い。もしも可不可と恋人になったらって想像はしてたけど、こんなにキスされるなんて思ってもみなかったよ。
「も、キス、しすぎ……っ」
「ごめんね、好きって言えるのが嬉しくて、楓ちゃんも同じなんだって思ったら、何度キスしてもしたりない」
頬を染めて俺を見下ろす可不可が壮絶なまでに色っぽくて、腰の奥がぞくぞくする。ねぇ、可不可――
「そりゃあ、俺も、嬉しいのは嬉しいんだけど……」
可不可の目がきらんと光る。あ、俺、墓穴掘った?
◇
「ついつい周りに嫉妬したり、独占欲が出ちゃったりで、……こんな未熟なままじゃだめだ、誰が見ても楓ちゃんには僕がふさわしいと思うくらいにならなきゃって思ってたんだよ」
声を押し殺してすったもんだの大騒ぎをしたあととは思えないくらい、可不可は落ち着いてる。
「……じゃあ、俺が、無理矢理言わせちゃったってこと?」
全力で我慢したけど、俺はちょっと声が掠れちゃったみたいだ。
くちびるは離れても、目の焦点が合わせにくいくらいには顔が近いままで、なんだか、呼吸でキスしてるみたい。小さく笑った可不可の吐息がかかる。
「そう言われればそうかな。でも、好きな子から熱烈な告白をされて平然としてられるほど、僕は人間ができてないんだよ。そのうえ、こんなに求められたら、期待に応えないわけにもいかないしね」
また、くちづけられた。あーあ、本当に、くちびるの感覚なくなっちゃったかも。完全に可不可のペースになってるみたいで、ちょっと、悔しい。
「本当は、いつまで黙ってるつもりだった? ……って、訊いてもいい?」
「……夢が叶ったら、かな」
夢。きっと、HAMAの復興のことだ。視線だけで続きを促す。だって、HAMAの復興には、俺も好きで巻き込まれてる。俺に関係あることなら、しっかり教えてもらわなきゃ。
「集客数一位はもちろん、六つ星レビュー認定を受けるくらい、HAMAの観光をいいものにしたい。そのあいだに信頼のおける後任者を見つけて、育成して……僕がやれることをやりきったら、楓ちゃんとふたりで、世界中を旅しようって決めてた」
当日速報値で一位を取ることは増えてきたけど、集客数一位や六つ星レビューなんでまだまだ雲の上のような目標だ。……ううん、それもだけど、俺と世界中を旅するってところに、どきどきする。そっか、そんなふうに考えてたんだ。
「……やっぱり、俺が無理矢理言わせちゃったんだ。どうしよう、可不可の人生設計、狂わせたことになっちゃうよね」
「嬉しい誤算だからいいんだよ。……でも、本当に本当に引き返せなくなったけど、楓ちゃんは後悔してない?」
可不可の手が、俺の腰に伸びた。もしも恋人になったらってあれこれ想像してたよりも、現実はずっと大変だったけど――
「してないよ」
――内臓を押し上げられるような苦しみも、自分でするときには届かないところへの刺激も、すごく大変だった。でも、なにも、後悔してない。可不可はずっと優しかったし、やっぱり格好よかった。
「俺こそ、変じゃなかった? 途中から必死過ぎてあんまり冷静に思い出せないっていうか思い出したくないっていうか」
ほんの数時間前まで、こんなこと訊くようになるなんて思ってなかったから、どんな顔して、視線はどこに遣って言えばいいかわからなくて、目の前の可不可……の、顔じゃなくて肩を見る。
「……あ」
「どうしたの?」
「ごめん。さっき、無我夢中だったから、ここ……」
声を抑えなきゃって、可不可の肩にくちびるを押し当てて、ふうふうと息を荒らげてるうちに、痕をつけてたらしい。そんなに濃くはないけど、赤くなってるなってすぐにわかるくらいには、しっかりついちゃった。
鏡で確かめるか訊いたけど、可不可は「いいよ」って首を振った。
「服で隠れるし、楓ちゃんが気持ちよくなってくれた証拠みたいなものだから。あと、さっきの質問の答えだけど」
「待って、そっちは言わなくていいから」
「きれいで、素敵だったよ」
可不可って、相手が照れたり恥ずかしがったりするのをわかってて、言うのをやめないところがあるっていうか……ちょっといじわるなんだよね。今だって、俺が照れてるの見て、にこにこしてるし。
でも、そんなところにもどきどきするあたり、俺って、結構、沼ってるんだろうな。
「……痕、わざとじゃないからね?」
「わかってるよ。でも、……見えないところになら、僕もつけてみたいかも」
可不可の手が太腿に伸びてきて、大袈裟なくらい体が跳ねた。うそ、そんなところにキスするつもりなんだ?
「だめ?」
「……だめ、じゃないけど、今は許して」
「いずれは許してくれるんだ?」
この会話恥ずかしくない? 口ごもったら、可不可の指が俺のくちびるをなぞった。
「そのうち、ね」
また、あたりまえみたいに次の約束しちゃった。なにも、こういうことに限らず、次の約束ができるって、本当にすごいことだと思う。
「どうしたの?」
隣に寝る可不可を見て、もうひとつ、言っておきたいことを思い出した。それが顔に出てたんだろう、俺がなにか言い出すのを待ってくれてる。
「……可不可の誕生日祝いで、お酒を飲んだ日のことなんだけど」
数ヵ月前、可不可への気持ちを自覚したあの朝に思いを馳せる。可不可は年下扱いしないでって思うかもしれないけど、今だけは、俺が髪を撫でても許して。あと、今から打ち明ける、髪にこっそりキスしたことも、許してほしいな。