おそろい
「はい、一織」
十一月十一日。毎年、この日が近付くと日本の大きな製菓会社の商品が話題になる。細いスティック状が数字の一のようだからというのが発端だ。自分たちが生まれるよりも前から、正式に記念日として認定されているらしい。
だから、寮の中でこの見慣れた赤い箱を見かけても、なんとも思わなかった。こうやって、恋人が食べさせてこようとするまでは。
今は部屋に二人きり。きちんと鍵をかけてあるから、突然誰かが押し入ってくることはない。つまり、安心して恋人としての時間を過ごすことができるというわけだ。
「……仕方ないですね」
仕方がないと言いつつも受け入れてしまったのは、ここ数日、急に寒くなってきたせいだろう。恋人との他愛もないやり取りに心があたたまって、いつにも増して絆されやすくなっている。こんな手を使ってまで、キスをせがんでくるなんて。陸のいじらしさに、一織のまなじりも下がってしまう。
一織は瞼を伏せ、唇を薄く開ける。まるで舌を使ったキスをする時のようだ。唇に触れたのは恋人の唇……ではなく、つやつやとしたミルクチョコレート。ふわり、とカカオの香りが鼻腔をくすぐった。
今はチョコレートとキスをしているけれど、ゴール地点には愛しい人の唇が待っているはず。自分がこのままじっとしていたら、焦れた彼がさくさくと菓子を食べながら食らい付いてきてくれるかもしれない。ゲームに興味のない一織ですら、そんな期待に胸を高鳴らせてしまう。これだから、イベントごとに乗じたゲームを侮ることはできない。
しかし、十一月十一日にこの菓子を目の前に出された一織が期待していたようなことはなく。待てど暮らせど、陸の唇に辿り着く様子がなくて、思わず目を開いてしまった。
「えっ」
なんと、一織が菓子を口にしたことを確かめた陸は、袋からもう一本取り出し、それを自分で食べ始めてしまったのだ。
さくさく、ぽきぽき。赤く艶めいた唇に、菓子がどんどん吸い込まれていく。
(普通に、食べるだけ……?)
かわいい恋人と、菓子を食べることに乗じてキスをすることができれば嬉しいに決まっているけれど、あいにく、自分はああいうゲームではしゃぐような柄ではない。
(別に、期待してませんでしたけど)
恥ずかしさから、誰が聞いているわけでもないのに、心の中で否定する。胸を高鳴らせるほど期待していたくせに。
あぁ、耳が熱い。期待してしまった自分が恥ずかしくて、隣に座る陸のことを見ることができない。意味もなくぼんやりしているわけにもいかないから、さくさくと一本。一織も、陸に倣って自分一人で一本を食べ終える。
甘いミルクチョコレートにコーティングされたビスケット味のプレッツェル。口内の水分が奪われるのは、恋人と二人きりで緊張しているからだろうか。大人のキスだって、その先の行為だってしているのに、一織は未だ、陸と二人きりの時間に緊張してしまう。
喉の渇きを潤すため、あらかじめ用意しておいたマグカップに口を付けた。まだほんのりと湯気を立たせているくらいにはあたたかくて、口の周りに蒸気がかかる。
(あぁ、しまった)
こんな時に限って、中身はあたたかいココア。喉を潤すタイプの飲みものではない。
チョコレート菓子を差し出されるとわかっていたら、他の飲みものを用意したというのに。これではただ、甘いだけ。
――それにしても。
(今日は随分、静かだ)
いつもなら、陸が話を持ちだして、一織がそれに対して相槌を打つことが多いのだけれど、今、一織の耳に聞こえてくるのは、自分たちの共有する時間が増えていくことを感じさせてくれる、秒針のかすかな音だけ。時折、それをかき消すように、陸が菓子を袋から取り出すかさかさという音や、さくさくと菓子を食べる音が重なる。
ドアの外、遠くのほうで誰かの笑い声が聞こえた。離れているから会話の内容はわからない。笑い声だから、楽しい話なのだろう。夕食の場で話題にのぼるに違いない。
不思議と、この静けさが心地いい。晩秋の近付いた休日、あたたかい部屋で、恋人と二人きりのティータイム。なかなかに贅沢な過ごし方だ。口許が少しゆるんでしまうのは、幸せを感じるから。キスができるのではないかと期待していたのに……というささくれた気持ちも、甘いチョコレートとココアでいつの間にか溶かされてしまっている。残っているのは、恋人と二人きりで過ごしていることによる、胸の高鳴りだけ。
ふと、手許のマグカップに視線を落とす。隣に座っている陸と色違いのもの。
アイドルという立場上、お揃いのものを身につけることはできない。そんな自分たちにとって、このマグカップは貴重なアイテムだ。シンプルなのに、かわいらしさを感じるデザインで、一織と陸、それぞれのイメージカラーとされている色がラインナップされていたもの。購入は即決だった。
店頭でこれを見つけたのは陸で、いつもなら「無駄遣いを」とまなじりをつり上げる一織でも、さすがにこればかりは購入に同意せざるを得なかった。だって、見つけた時の陸が、本当に嬉しそうだったから。
「今日ってさ」
マグカップを購入した時のことを思い出していると、陸が口を開いた。一織と同じく、手許のマグカップに視線を落としている。
いつの間にか、袋の中の菓子はなくなっていた。
「どうしました?」
なにを言おうとしているのか、一織にはまったく予想がつかない。
「十一月十一日だろ? だから、こう……一織とそういうゲームしようかなって思って買ってきたんだけど」
「ゲーム、ですか?」
わかっていて、わざととぼけてみせた。
「~~っ、だから、両端から食べていって……」
あぁ、と納得する。やはり、さきほど陸が菓子を差し出してきたのには、そういう意図があったのだ。結果は、普通に食べるだけに終わったけれど。
「食べ終わってから言いますか、それ」
「う……だって、恥ずかしいじゃん」
少し頬を膨らませて視線を逸らすその表情。耳が赤く染まっていて、一織は、なんてかわいい人なんだろう、と心の中で感嘆の声を上げた。ゆるんでしまった表情を悟られないよう、咳払いをして誤魔化す。かわいい表情をずっと眺めていたいけれど、今は、恥ずかしさからすっかり拗ねてしまった恋人に機嫌を直してもらうことが先決だ。
「七瀬さんはご存知ないかもしれませんが、今日は他にも記念日があるんですよ」
一織の言葉に、陸が「へぇ」と瞳を瞬かせる。あぁ、そういう表情もかわいい。もっとわくわくさせたくて、一織は軽い咳払いをすると、得意気に話し始めた。
一一と一一が並ぶから、おそろいの日。一がひとつ欠けるだけでも成り立たない、今日だけの日。友人、家族、恋人……大切な誰かと、おそろいのものでコミュニケーションを深める日。
他にも、いい出会いの日だとか、靴下の日だとか、調べればたくさん出てくる。今日に限ったことではなく、実は毎日なにかの記念日なのだ。インターネットで少し調べれば、カレンダー形式で記念日を調べられるウェブサイトも複数存在する。
「へぇ……一織ってなんでも知ってるんだな」
「これくらいのこと、雑学として知っていて当然です」
陸と交際をするようになってからの一織は、以前にも増してカレンダーを気にするようになった。以前、陸がいつも以上にキスをせがんできた日があり、なにかあったのかと聞いたところ「ネットでキスの日って見たから!」と言われたことがあったのだ。またインターネットの情報か……と溜息をついたものの、それ以来、一織は恋人関係に所縁のある記念日を意識するようになってしまった。キスの日以外にも、ハグの日や、プロポーズの日など……今の一織の頭の中には、そんな知識も叩き込まれている。
「あなたとこうして、今日、揃いのものを使って。こんなにも穏やかな時間を過ごせて。それって、とても有意義なことだと」
思いませんか……と続けようとした言葉は、陸の唇によって消えた。優しく触れるだけのキスから、ぬるりと舌が差し込まれる。そちらがそのつもりならと応戦しようとしたところで、陸の唇が離れていった。名残惜しさを感じつつ、突然キスをされたことへの小言を漏らさずにはいられない。
「…………危ないでしょう。中身がこぼれたら、どうするんですか」
半分以上減っていたから、多少傾けてもこぼれはしなかったけれど、ココアをカーペットにこぼしてしまうと、染みにならないよう落とすのが大変だ。それこそ、甘い時間を中断しなければならなくなる。せっかく、二人きりの時間を楽しんでいるのだから、トラブルは起こさないでほしい。
「へへ、……でも、一織なら大丈夫かなって思って」
「そりゃあ、そう、ですけど」
陸のことは公私ともに自分がフォローすると決めている。そんな自分を、陸は全力で信頼してくれている。嬉しくて、ココアに口をつけた時よりも、心の中にあたたかいものが広がる。
それでも、不意打ちのキスで動揺した時は、さすがの自分もうまくフォローできないかもしれない。信頼してくれているのは嬉しいけれど、ちょっとは手加減してほしい。
「……そっかぁ、おそろいの日。……なんかいいな、そういうの」
晩秋の近付いた休日、あたたかい部屋。恋人とおそろいのマグカップ。コミュニケーションが深まらないはずがない。
十一月十一日。毎年、この日が近付くと日本の大きな製菓会社の商品が話題になる。細いスティック状が数字の一のようだからというのが発端だ。自分たちが生まれるよりも前から、正式に記念日として認定されているらしい。
だから、寮の中でこの見慣れた赤い箱を見かけても、なんとも思わなかった。こうやって、恋人が食べさせてこようとするまでは。
今は部屋に二人きり。きちんと鍵をかけてあるから、突然誰かが押し入ってくることはない。つまり、安心して恋人としての時間を過ごすことができるというわけだ。
「……仕方ないですね」
仕方がないと言いつつも受け入れてしまったのは、ここ数日、急に寒くなってきたせいだろう。恋人との他愛もないやり取りに心があたたまって、いつにも増して絆されやすくなっている。こんな手を使ってまで、キスをせがんでくるなんて。陸のいじらしさに、一織のまなじりも下がってしまう。
一織は瞼を伏せ、唇を薄く開ける。まるで舌を使ったキスをする時のようだ。唇に触れたのは恋人の唇……ではなく、つやつやとしたミルクチョコレート。ふわり、とカカオの香りが鼻腔をくすぐった。
今はチョコレートとキスをしているけれど、ゴール地点には愛しい人の唇が待っているはず。自分がこのままじっとしていたら、焦れた彼がさくさくと菓子を食べながら食らい付いてきてくれるかもしれない。ゲームに興味のない一織ですら、そんな期待に胸を高鳴らせてしまう。これだから、イベントごとに乗じたゲームを侮ることはできない。
しかし、十一月十一日にこの菓子を目の前に出された一織が期待していたようなことはなく。待てど暮らせど、陸の唇に辿り着く様子がなくて、思わず目を開いてしまった。
「えっ」
なんと、一織が菓子を口にしたことを確かめた陸は、袋からもう一本取り出し、それを自分で食べ始めてしまったのだ。
さくさく、ぽきぽき。赤く艶めいた唇に、菓子がどんどん吸い込まれていく。
(普通に、食べるだけ……?)
かわいい恋人と、菓子を食べることに乗じてキスをすることができれば嬉しいに決まっているけれど、あいにく、自分はああいうゲームではしゃぐような柄ではない。
(別に、期待してませんでしたけど)
恥ずかしさから、誰が聞いているわけでもないのに、心の中で否定する。胸を高鳴らせるほど期待していたくせに。
あぁ、耳が熱い。期待してしまった自分が恥ずかしくて、隣に座る陸のことを見ることができない。意味もなくぼんやりしているわけにもいかないから、さくさくと一本。一織も、陸に倣って自分一人で一本を食べ終える。
甘いミルクチョコレートにコーティングされたビスケット味のプレッツェル。口内の水分が奪われるのは、恋人と二人きりで緊張しているからだろうか。大人のキスだって、その先の行為だってしているのに、一織は未だ、陸と二人きりの時間に緊張してしまう。
喉の渇きを潤すため、あらかじめ用意しておいたマグカップに口を付けた。まだほんのりと湯気を立たせているくらいにはあたたかくて、口の周りに蒸気がかかる。
(あぁ、しまった)
こんな時に限って、中身はあたたかいココア。喉を潤すタイプの飲みものではない。
チョコレート菓子を差し出されるとわかっていたら、他の飲みものを用意したというのに。これではただ、甘いだけ。
――それにしても。
(今日は随分、静かだ)
いつもなら、陸が話を持ちだして、一織がそれに対して相槌を打つことが多いのだけれど、今、一織の耳に聞こえてくるのは、自分たちの共有する時間が増えていくことを感じさせてくれる、秒針のかすかな音だけ。時折、それをかき消すように、陸が菓子を袋から取り出すかさかさという音や、さくさくと菓子を食べる音が重なる。
ドアの外、遠くのほうで誰かの笑い声が聞こえた。離れているから会話の内容はわからない。笑い声だから、楽しい話なのだろう。夕食の場で話題にのぼるに違いない。
不思議と、この静けさが心地いい。晩秋の近付いた休日、あたたかい部屋で、恋人と二人きりのティータイム。なかなかに贅沢な過ごし方だ。口許が少しゆるんでしまうのは、幸せを感じるから。キスができるのではないかと期待していたのに……というささくれた気持ちも、甘いチョコレートとココアでいつの間にか溶かされてしまっている。残っているのは、恋人と二人きりで過ごしていることによる、胸の高鳴りだけ。
ふと、手許のマグカップに視線を落とす。隣に座っている陸と色違いのもの。
アイドルという立場上、お揃いのものを身につけることはできない。そんな自分たちにとって、このマグカップは貴重なアイテムだ。シンプルなのに、かわいらしさを感じるデザインで、一織と陸、それぞれのイメージカラーとされている色がラインナップされていたもの。購入は即決だった。
店頭でこれを見つけたのは陸で、いつもなら「無駄遣いを」とまなじりをつり上げる一織でも、さすがにこればかりは購入に同意せざるを得なかった。だって、見つけた時の陸が、本当に嬉しそうだったから。
「今日ってさ」
マグカップを購入した時のことを思い出していると、陸が口を開いた。一織と同じく、手許のマグカップに視線を落としている。
いつの間にか、袋の中の菓子はなくなっていた。
「どうしました?」
なにを言おうとしているのか、一織にはまったく予想がつかない。
「十一月十一日だろ? だから、こう……一織とそういうゲームしようかなって思って買ってきたんだけど」
「ゲーム、ですか?」
わかっていて、わざととぼけてみせた。
「~~っ、だから、両端から食べていって……」
あぁ、と納得する。やはり、さきほど陸が菓子を差し出してきたのには、そういう意図があったのだ。結果は、普通に食べるだけに終わったけれど。
「食べ終わってから言いますか、それ」
「う……だって、恥ずかしいじゃん」
少し頬を膨らませて視線を逸らすその表情。耳が赤く染まっていて、一織は、なんてかわいい人なんだろう、と心の中で感嘆の声を上げた。ゆるんでしまった表情を悟られないよう、咳払いをして誤魔化す。かわいい表情をずっと眺めていたいけれど、今は、恥ずかしさからすっかり拗ねてしまった恋人に機嫌を直してもらうことが先決だ。
「七瀬さんはご存知ないかもしれませんが、今日は他にも記念日があるんですよ」
一織の言葉に、陸が「へぇ」と瞳を瞬かせる。あぁ、そういう表情もかわいい。もっとわくわくさせたくて、一織は軽い咳払いをすると、得意気に話し始めた。
一一と一一が並ぶから、おそろいの日。一がひとつ欠けるだけでも成り立たない、今日だけの日。友人、家族、恋人……大切な誰かと、おそろいのものでコミュニケーションを深める日。
他にも、いい出会いの日だとか、靴下の日だとか、調べればたくさん出てくる。今日に限ったことではなく、実は毎日なにかの記念日なのだ。インターネットで少し調べれば、カレンダー形式で記念日を調べられるウェブサイトも複数存在する。
「へぇ……一織ってなんでも知ってるんだな」
「これくらいのこと、雑学として知っていて当然です」
陸と交際をするようになってからの一織は、以前にも増してカレンダーを気にするようになった。以前、陸がいつも以上にキスをせがんできた日があり、なにかあったのかと聞いたところ「ネットでキスの日って見たから!」と言われたことがあったのだ。またインターネットの情報か……と溜息をついたものの、それ以来、一織は恋人関係に所縁のある記念日を意識するようになってしまった。キスの日以外にも、ハグの日や、プロポーズの日など……今の一織の頭の中には、そんな知識も叩き込まれている。
「あなたとこうして、今日、揃いのものを使って。こんなにも穏やかな時間を過ごせて。それって、とても有意義なことだと」
思いませんか……と続けようとした言葉は、陸の唇によって消えた。優しく触れるだけのキスから、ぬるりと舌が差し込まれる。そちらがそのつもりならと応戦しようとしたところで、陸の唇が離れていった。名残惜しさを感じつつ、突然キスをされたことへの小言を漏らさずにはいられない。
「…………危ないでしょう。中身がこぼれたら、どうするんですか」
半分以上減っていたから、多少傾けてもこぼれはしなかったけれど、ココアをカーペットにこぼしてしまうと、染みにならないよう落とすのが大変だ。それこそ、甘い時間を中断しなければならなくなる。せっかく、二人きりの時間を楽しんでいるのだから、トラブルは起こさないでほしい。
「へへ、……でも、一織なら大丈夫かなって思って」
「そりゃあ、そう、ですけど」
陸のことは公私ともに自分がフォローすると決めている。そんな自分を、陸は全力で信頼してくれている。嬉しくて、ココアに口をつけた時よりも、心の中にあたたかいものが広がる。
それでも、不意打ちのキスで動揺した時は、さすがの自分もうまくフォローできないかもしれない。信頼してくれているのは嬉しいけれど、ちょっとは手加減してほしい。
「……そっかぁ、おそろいの日。……なんかいいな、そういうの」
晩秋の近付いた休日、あたたかい部屋。恋人とおそろいのマグカップ。コミュニケーションが深まらないはずがない。