ラビットチャット
ヴー、と振動したスマートフォンをポケットから取り出す。通知の正体は、ラビットチャットの受信だ。
『三月が麦茶もう一本ほしいって! まだ買い終わってないよな?』
焦った表情のきなこのスタンプが添えられている。陸がこの表情をしている様子が容易に浮かんでしまい、思わず、表情がゆるみそうになった。慌てて咳払いをひとつ。変装のため眼鏡とマスクをしているとはいえ、下がるまなじりはどうしたって隠せない。マスクの下できゅっと口許に力を込め、だらしない表情をしていなかったか、視線を素早く動かして周囲を確認した。――大丈夫、誰も見ていないようだ。
(わかりました、……と)
送信するとすぐに既読の文字が表示され、続いて、今度は王様プリンが親指を立てているスタンプが送られてきた。彼なりの「ありがとう」なのだろう。一織はそれには返信せず、スマートフォンを元通り、ポケットへ滑り込ませた。
こうしてことあるごとにラビチャを送ってくるものだから、ラビットチャットのトーク履歴は、陸が一番上になっていることが多い。
言われた通り、買い出しのメモに列挙されたものと、麦茶一本を余分に買って、寮に戻る道を急ぐ。その途中、またしてもポケットの中でヴー、とスマートフォンが振動したけれど、両手に買いものの荷物を抱えた一織は手が離せなかったため、内容を確認するのは帰ってからにしようと決めた。買った食材の中に、早めに冷蔵庫に入れたほうがいいものがいくつかあるし……と、ひとまず帰路を急ぐことにする。
次の角を曲がって、残り十数メートル。手を少しだけ動かして、買いもの袋を握り直した。中身がたくさん詰まっていて、手のひらに袋の持ち手が食い込んでいる。
(……七瀬さん?)
道を曲がってすぐ、既に寮は見えているというところで、陸がこちらに向かっていることに気付いた。思わぬ出迎えに、心臓が高鳴ってしまう。
「一織!」
しかし、小走りで向かってくる彼の表情は、眉がつり上がっているように見える。なにか怒らせるようなことをしただろうか。
「どうしたんですか」
「どうしたもこうしたもないだろ! 荷物多そうだから迎えに行こうかって聞いたのに返事ないし」
じとりと睨むような視線を投げられ、あぁ、と合点がいく。
「仕方ないでしょう。両手が塞がっていたんですから。それに、荷物が多いのは確かですけど、箸より重いものが持てないわけではありません。これくらい、どうってことありませんよ」
これくらい、と言いながら片方の買いもの袋を軽く掲げてみせる。がさりと鳴った袋の中身には、陸が三月からの伝言だと言っていた麦茶も入っていた。
「そりゃあ、そうだけど……」
「まだなにか不満ですか。だいたい、どうして兄さんではなく、七瀬さんが追加の買い出しを言ってきたんです」
おかげで、道端で表情がゆるんでしまったではないか。周囲に人がいなかったからいいものの、タイミングを間違えれば〝IDOLiSH7の和泉一織は外でスマートフォンを見つめてだらしない表情をしている〟なんて噂されかねない。
「なっ……そんな言い方ないだろ。その、……もういい、帰る!」
陸はなにかを言いかけてやめ、踵を返した。一織を迎えに来たと言うわりには、彼を置いてずんずんと先を歩いて行ってしまう。
あぁ、これではまたいつもの喧嘩だ。一織は買いもの袋を握り直し、歩く速度を速めて陸に追いついた。
「ちょっと、なにを怒ってるんですか」
寮の玄関、鍵を開けるところでぴたりと足が止まった。陸はポケットから取り出した鍵を握り締めたまま、鍵穴に差し込もうとしない。
「…………」
「……? 七瀬さん?」
足許に袋を置いて陸の顔を覗き込み、一織はぎょっとした。瞳が潤んでいたからだ。はっきり言って、一織はこの表情に弱い。
「だって、一織、最近ずっと忙しかっただろ。あんまり話せないのつまんなくて、なんでもいいから話したくて、…………」
なんだそれは。蚊の鳴くような声でそう絞り出した陸に、頭を抱えたくなった。
「……まさか、麦茶のことも、ラビチャを送る口実ですか」
「麦茶は本当に必要! あ、でも、三月に頼んだ。オレ、一織に用事あるからついでに言っとくよ……って」
それを聞いた一織は、大きな溜息をついて、その場にしゃがみ込んだ。
なんなんだ、この人は。本来他のメンバーからくるはずだった連絡事項さえも、自分が代わりにやると申し出て。どうりで、最近、受信頻度が増えたわけだ。
その理由は単純、ただ、構ってほしいから。
「あなたって人は……」
(かわい過ぎるでしょう……)
しゃがみ込んで頭を抱えた一織を見て、陸がおろおろと慌てだす。
「ごめんって。迷惑だったよな? 忙しくて疲れてるのに」
買い出しだって、当番とか関係なくオレが行けばよかった……と陸がこぼす。
あぁ、そうではなくて。当番と決まっている以上、よほどのことがない限りきちんとこなすのが当然だ。そりゃあ、ここ最近は忙しかったから疲れも溜まっているけれど、買い出しを億劫だなんて思っていない。
陸に言われて気付いたのだ。忙しいあまり、ここ最近、陸とゆっくり話す時間が取れていなかった。話しかける用事をつくって、それでも、直接話しかけてくるのではなく、反応するかどうかをこちらに委ねてくる手段を使ってきた。もっとも、焦れた陸はこうして迎えに来てしまったのだけれど、一織の忙しさを考慮して、できるだけ控えめな意思表示をしてきたということだ。こうして気を使わせてしまうくらい、疲れているように見えてしまっていたのかもしれない……と思い至る。
「七瀬さんらしくもないですね。あぁ、いや、そんな膨れっ面しないでください」
買いもの袋を足許に置いたまま立ち上がる。空いた手は、まず、目の前のかわいい人へと伸ばした。
「一織?」
癖のある髪に手を滑らせ、毛先を指でもてあそぶ。二人きりで過ごす時だけに見られるその動作。
「……気を使わせてしまってすみません。これを片付けたら、七瀬さんの部屋に行きますから」
陸の頬が赤らんでいくのを見て、一織は自分で言ったことがだんだん恥ずかしくなり、手を引っ込める。恥ずかしさをかき消すようにかぶりを振って、足許に置いた買いもの袋を掴んだ。ふたつあるうちのもうひとつは、一織が掴むより先に、陸が奪ってしまう。
「あの! オレも手伝う、から……そうしたら、早く終わるし!」
どきどきし過ぎて、鍵穴に鍵を差し込む手が震えてしまう。一織は照れ屋で恥ずかしがりのくせに、時々こうやって、陸のほうが恥ずかしくなることをやってのけるから、たちが悪い。あぁ、二人で片付けたら早く終わるって、自分から言い出したのに。陸は震える自分の指先に、心の中で叱咤する。
それを見ていた一織は陸の手から鍵を取り上げ、さっと開錠した。
「……七瀬さんに手伝わせると、余計に遅くなりかねません」
「~~っ! 失礼だぞ!」
軽い肘鉄を食らわせる。一瞬の沈黙のあと、互いに顔を見合わせて、笑ってしまった。
そういえば、こんなやり取りも、ここ最近はできていなかった。
ひとしきり笑ってから、陸が「あ」となにかに気付いたように口を開く。
「どうしました?」
「先に片付けたほうが勝ちで、遅いほうは、先に片付けたほうの言うことをひとつ聞くっていうのはどう? っていうか、そうしよう。オレ、絶対負けないからな!」
陸は慌ただしく靴を脱いで、冷蔵庫へと急いで向かっていく。
(まったく……)
靴を脱いで丁寧に揃え、一織は自分が持っている袋の中身へと目をやった。買いもの袋はどちらも同じくらいの大きさ。ただし、中身の個数は、大きいものばかりが入っている一織のほうが少ない。単純に考えて、一織のほうが先に片付けを終えてしまう。
ふと思い出して、ポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、受信したまま開いていなかったラビットチャットのトークルームを開く。中身に目を通すと、やはり、表情がゆるんでしまった。
『荷物多いだろ? 迎えに行くよ! ……っていうのは口実で、最近あんまり二人っきりになれてないから、ちょっとの間だけ一緒に歩きたいんだ。だめかな?』
なんてかわいいことを言ってくれるんだ、あの人は。あぁ、受信した時に読んでおきたかった。そうしたら、陸が迎えに来るのを待って、寮までの道、数分間のデートができたというのに。
(お詫びとしてハンデをあげるのも、いいですけど。どうしましょうか)
もしくは、余裕綽々で勝って、次のオフの日にたっぷり甘えてくださいと言ってみるのも、いいかもしれない。
『三月が麦茶もう一本ほしいって! まだ買い終わってないよな?』
焦った表情のきなこのスタンプが添えられている。陸がこの表情をしている様子が容易に浮かんでしまい、思わず、表情がゆるみそうになった。慌てて咳払いをひとつ。変装のため眼鏡とマスクをしているとはいえ、下がるまなじりはどうしたって隠せない。マスクの下できゅっと口許に力を込め、だらしない表情をしていなかったか、視線を素早く動かして周囲を確認した。――大丈夫、誰も見ていないようだ。
(わかりました、……と)
送信するとすぐに既読の文字が表示され、続いて、今度は王様プリンが親指を立てているスタンプが送られてきた。彼なりの「ありがとう」なのだろう。一織はそれには返信せず、スマートフォンを元通り、ポケットへ滑り込ませた。
こうしてことあるごとにラビチャを送ってくるものだから、ラビットチャットのトーク履歴は、陸が一番上になっていることが多い。
言われた通り、買い出しのメモに列挙されたものと、麦茶一本を余分に買って、寮に戻る道を急ぐ。その途中、またしてもポケットの中でヴー、とスマートフォンが振動したけれど、両手に買いものの荷物を抱えた一織は手が離せなかったため、内容を確認するのは帰ってからにしようと決めた。買った食材の中に、早めに冷蔵庫に入れたほうがいいものがいくつかあるし……と、ひとまず帰路を急ぐことにする。
次の角を曲がって、残り十数メートル。手を少しだけ動かして、買いもの袋を握り直した。中身がたくさん詰まっていて、手のひらに袋の持ち手が食い込んでいる。
(……七瀬さん?)
道を曲がってすぐ、既に寮は見えているというところで、陸がこちらに向かっていることに気付いた。思わぬ出迎えに、心臓が高鳴ってしまう。
「一織!」
しかし、小走りで向かってくる彼の表情は、眉がつり上がっているように見える。なにか怒らせるようなことをしただろうか。
「どうしたんですか」
「どうしたもこうしたもないだろ! 荷物多そうだから迎えに行こうかって聞いたのに返事ないし」
じとりと睨むような視線を投げられ、あぁ、と合点がいく。
「仕方ないでしょう。両手が塞がっていたんですから。それに、荷物が多いのは確かですけど、箸より重いものが持てないわけではありません。これくらい、どうってことありませんよ」
これくらい、と言いながら片方の買いもの袋を軽く掲げてみせる。がさりと鳴った袋の中身には、陸が三月からの伝言だと言っていた麦茶も入っていた。
「そりゃあ、そうだけど……」
「まだなにか不満ですか。だいたい、どうして兄さんではなく、七瀬さんが追加の買い出しを言ってきたんです」
おかげで、道端で表情がゆるんでしまったではないか。周囲に人がいなかったからいいものの、タイミングを間違えれば〝IDOLiSH7の和泉一織は外でスマートフォンを見つめてだらしない表情をしている〟なんて噂されかねない。
「なっ……そんな言い方ないだろ。その、……もういい、帰る!」
陸はなにかを言いかけてやめ、踵を返した。一織を迎えに来たと言うわりには、彼を置いてずんずんと先を歩いて行ってしまう。
あぁ、これではまたいつもの喧嘩だ。一織は買いもの袋を握り直し、歩く速度を速めて陸に追いついた。
「ちょっと、なにを怒ってるんですか」
寮の玄関、鍵を開けるところでぴたりと足が止まった。陸はポケットから取り出した鍵を握り締めたまま、鍵穴に差し込もうとしない。
「…………」
「……? 七瀬さん?」
足許に袋を置いて陸の顔を覗き込み、一織はぎょっとした。瞳が潤んでいたからだ。はっきり言って、一織はこの表情に弱い。
「だって、一織、最近ずっと忙しかっただろ。あんまり話せないのつまんなくて、なんでもいいから話したくて、…………」
なんだそれは。蚊の鳴くような声でそう絞り出した陸に、頭を抱えたくなった。
「……まさか、麦茶のことも、ラビチャを送る口実ですか」
「麦茶は本当に必要! あ、でも、三月に頼んだ。オレ、一織に用事あるからついでに言っとくよ……って」
それを聞いた一織は、大きな溜息をついて、その場にしゃがみ込んだ。
なんなんだ、この人は。本来他のメンバーからくるはずだった連絡事項さえも、自分が代わりにやると申し出て。どうりで、最近、受信頻度が増えたわけだ。
その理由は単純、ただ、構ってほしいから。
「あなたって人は……」
(かわい過ぎるでしょう……)
しゃがみ込んで頭を抱えた一織を見て、陸がおろおろと慌てだす。
「ごめんって。迷惑だったよな? 忙しくて疲れてるのに」
買い出しだって、当番とか関係なくオレが行けばよかった……と陸がこぼす。
あぁ、そうではなくて。当番と決まっている以上、よほどのことがない限りきちんとこなすのが当然だ。そりゃあ、ここ最近は忙しかったから疲れも溜まっているけれど、買い出しを億劫だなんて思っていない。
陸に言われて気付いたのだ。忙しいあまり、ここ最近、陸とゆっくり話す時間が取れていなかった。話しかける用事をつくって、それでも、直接話しかけてくるのではなく、反応するかどうかをこちらに委ねてくる手段を使ってきた。もっとも、焦れた陸はこうして迎えに来てしまったのだけれど、一織の忙しさを考慮して、できるだけ控えめな意思表示をしてきたということだ。こうして気を使わせてしまうくらい、疲れているように見えてしまっていたのかもしれない……と思い至る。
「七瀬さんらしくもないですね。あぁ、いや、そんな膨れっ面しないでください」
買いもの袋を足許に置いたまま立ち上がる。空いた手は、まず、目の前のかわいい人へと伸ばした。
「一織?」
癖のある髪に手を滑らせ、毛先を指でもてあそぶ。二人きりで過ごす時だけに見られるその動作。
「……気を使わせてしまってすみません。これを片付けたら、七瀬さんの部屋に行きますから」
陸の頬が赤らんでいくのを見て、一織は自分で言ったことがだんだん恥ずかしくなり、手を引っ込める。恥ずかしさをかき消すようにかぶりを振って、足許に置いた買いもの袋を掴んだ。ふたつあるうちのもうひとつは、一織が掴むより先に、陸が奪ってしまう。
「あの! オレも手伝う、から……そうしたら、早く終わるし!」
どきどきし過ぎて、鍵穴に鍵を差し込む手が震えてしまう。一織は照れ屋で恥ずかしがりのくせに、時々こうやって、陸のほうが恥ずかしくなることをやってのけるから、たちが悪い。あぁ、二人で片付けたら早く終わるって、自分から言い出したのに。陸は震える自分の指先に、心の中で叱咤する。
それを見ていた一織は陸の手から鍵を取り上げ、さっと開錠した。
「……七瀬さんに手伝わせると、余計に遅くなりかねません」
「~~っ! 失礼だぞ!」
軽い肘鉄を食らわせる。一瞬の沈黙のあと、互いに顔を見合わせて、笑ってしまった。
そういえば、こんなやり取りも、ここ最近はできていなかった。
ひとしきり笑ってから、陸が「あ」となにかに気付いたように口を開く。
「どうしました?」
「先に片付けたほうが勝ちで、遅いほうは、先に片付けたほうの言うことをひとつ聞くっていうのはどう? っていうか、そうしよう。オレ、絶対負けないからな!」
陸は慌ただしく靴を脱いで、冷蔵庫へと急いで向かっていく。
(まったく……)
靴を脱いで丁寧に揃え、一織は自分が持っている袋の中身へと目をやった。買いもの袋はどちらも同じくらいの大きさ。ただし、中身の個数は、大きいものばかりが入っている一織のほうが少ない。単純に考えて、一織のほうが先に片付けを終えてしまう。
ふと思い出して、ポケットに入れていたスマートフォンを取り出し、受信したまま開いていなかったラビットチャットのトークルームを開く。中身に目を通すと、やはり、表情がゆるんでしまった。
『荷物多いだろ? 迎えに行くよ! ……っていうのは口実で、最近あんまり二人っきりになれてないから、ちょっとの間だけ一緒に歩きたいんだ。だめかな?』
なんてかわいいことを言ってくれるんだ、あの人は。あぁ、受信した時に読んでおきたかった。そうしたら、陸が迎えに来るのを待って、寮までの道、数分間のデートができたというのに。
(お詫びとしてハンデをあげるのも、いいですけど。どうしましょうか)
もしくは、余裕綽々で勝って、次のオフの日にたっぷり甘えてくださいと言ってみるのも、いいかもしれない。