声
「七瀬さん」
一織の手のひらは少しひんやりとしている。
そっと陸の頬に手を滑らせると、思っていたよりも陸の頬は熱くて、一織の手のひらにもその熱が伝わってきた。しばらくそうしていると、陸の頬も一織の手のひらも同じくらいの熱さになり、五分と経たないうちに、体温の境界線がわからなくなった。まるで、相手と一体化したような錯覚を起こしてしまう。そんなこと、ありはしないのに。
「ん、大丈夫」
ほう……と熱い溜息を漏らした陸は、潤んだ瞳で一織を見上げた。そのまなざしに、一織は眉を顰める。陸のこの表情に弱い。今だって、気を抜けば「かわいい人だ」と口走ってしまいそう。
「大丈夫じゃないでしょう。……まったく、無理はなさらないでください」
その言葉に、陸はむぅ……と唇を尖らせた。
「無理してないってば。一織は大袈裟過ぎるんだよ」
一織の気遣いが嬉しくないわけではない。
ただ、この気遣いは、恋人だから心配しているというのではなく、仲間として心配している気持ちのほうが大きいのではないかと、時折、心に靄がかかってしまう。
「……大袈裟に心配するくらいでないと、あなたはすぐに無理をするでしょう。これくらいで、ちょうどいいんです」
拗ねた陸の表情に「かわいい」と本音を漏らしてしまいそうで、一織は澄まし顔をしてみせた。
「けちー」
「なんとでも言えばいいでしょう。相変わらず、七瀬さんの語彙のなさには呆れますね」
うぅ、一織が冷たい。陸はそうぼやいて、布団を鼻のあたりまで引っ張り上げた。
もちろん、心の底から「一織が冷たい」と思っているわけではない。時々、お説教がうるさいなぁと思うことはあるけれど、自分のことを考えてくれているからこその言葉だとわかっている。いつだったか、一織に「あなたのことは死ぬほど考えてますけど」と言われたことがあった。毎日毎日、一織は自分のことを気にかけてくれている。時には厳しい言葉で、時には照れを抑えながらの甘い言葉で。
こうしている間も、一織はずっと髪を撫でてくれていて、それがとても心地いい。普段は小言が多い一織だけれど、眠る前のこの時だけは、自分が世界一甘やかされていると自信を持って言える。
どうせなら、とことん甘やかしてほしい。
「ね、一織。お願いがあるんだけど」
口許まで布団をずり下げて、じっと見つめた。
「なんですか」
なにを頼まれるのかと、ややこわばった声。そんなに身構えなくても、このタイミングで無茶振りはしないのに。
「あのさ、子守唄歌って」
「……は?」
なにを言い出すんだ、この人は。そう言いたいのがよくわかる表情。陸が予想した通りの反応だ。
(いいじゃん、人前で歌うことくらい、オレたちは慣れてるだろ)
陸も、引くつもりはない。どうしても歌ってほしい。
「なんでもいいからさ。子守唄じゃなくても、オレたちの歌でもいいし、一織とユニット組んだ時のでも!」
「それって寝付けなくないですか?」
……確かに、アップテンポな曲は子守唄とは言いにくい。
「すぐに寝付けなくていいんだよ。なんなら歌じゃなくてもいい、なにか喋って」
陸の意図するところがわからず、一織は困惑してしまう。
「突然喋れと言われてもなにを……」
どちらかといえば、一織は突発的に起こったものごとへの対処が苦手なタイプだ。仕事であれば、あらかじめ台本や、過去の放送分を確認しながら、どんなアドリブが求められそうかを構想し、その通りに進められるのだけれど、プライベートとなると話は別。
「なんでもいいんだよ。一織の声、聞きたいだけだから」
この世界に音楽はたくさんあふれているし、それらを貶めるつもりなんて一切ないけれど、好きな人が自分にだけ向けてくれる声は、なによりも心を震わせる珠玉のメロディ。
最高のメロディを聴きながら眠ったら、さぞかし、素敵な夢を見られることだろう。素敵な夢……たとえば、今、自分の隣で髪を撫でてくれている大好きな恋人が出てきて、夢の中でも優しく髪を撫でてくれるとか。あぁ、寝ても醒めても恋人に髪を撫でてもらうなんて、想像するだけで、とくとくと胸が高鳴る。
「だけ、って……」
まだ難色を示している一織にも、陸の「聞きたいだけ」という言葉の意図するところは通じたらしい。わずかに頬を赤らめている。
「だってさ、一織の声って本当にきれいで、好きなんだ。一織の声聞きながらだったら、いい夢、見られそうな気がする」
「……私からすれば、七瀬さんの声のほうがずっときれいですけど」
言ってから「しまった」と思う。本心ではあるけれど、口にするのは恥ずかしい。発破をかける時くらいにしか、彼の声について言及することはないのに、どうして言ってしまったのだろう。
「っ、なんでもありません。忘れてください」
「やだ」
髪を撫でていた一織の手を取り、陸は自分の指先を絡める。指先にそっとくちづけを落とし、一織を見つめた。一織の頬に赤みが差したのが、常夜灯の下でもわかる。
「仕事以外でオレの声褒めてくれること、珍しいから」
本人にとっては失言のつもりだとしても、一織が言った言葉は絶対に忘れてあげない。
「……好きにしてください」
陸に絡め取られたままの手。一織からも指を絡めて、指の腹で陸の指の付け根を撫でると、指先がひくりと震えた。
「もう、今夜はおしまいって、もう寝るって言ったの、一織じゃん。だから子守唄歌ってって言ってるのに。えっちな手付きするなよな」
今夜は一度だけ、という約束で身体を重ねた。翌日の仕事に支障が出ないようセーブして、互いにものたりなさを感じながらも、就寝することにしたのに、この男ときたら。
「そうですよ。明日はお昼前から仕事ですから」
陸はまだどきどきしているのに、一織は落ち着き払っているのが悔しい。
「もう、オレばっかりどきどきして、余計に寝れなくなったじゃん。罰として、なにか話して。一織の声で眠りたい」
一織の手に頬を擦り寄せてねだった。いつまでも純粋な子どもではないから、一織が断れなくなるような仕草くらい、もうとっくにわかっている。
「まぁ、いいですけど……でも、五分だけですよ」
「え! けち!」
たった五分だけなんて短過ぎる。体感レベルで言うと、一分で終わってしまいそう。
「いつまでも夜更かしするわけにはいかないでしょう」
時計を見れば、時刻は深夜一時少し前。恋人たちの夜更かしにしてはややものたりない気もするけれど、この心配性の恋人にこれ以上の我儘は、喧嘩に発展しかねない。
「うん……。あのさ」
たった五分なら、その開始を少しでも遅らせたい。そう考えて、陸は話し始める。話題はなんだっていい。好きな人の声を耳にしながら眠りの世界に身を委ねたいだけだから、眠気が襲ってきたら、寝物語の語り手を一織に変わってもらおう。
一織の手のひらは少しひんやりとしている。
そっと陸の頬に手を滑らせると、思っていたよりも陸の頬は熱くて、一織の手のひらにもその熱が伝わってきた。しばらくそうしていると、陸の頬も一織の手のひらも同じくらいの熱さになり、五分と経たないうちに、体温の境界線がわからなくなった。まるで、相手と一体化したような錯覚を起こしてしまう。そんなこと、ありはしないのに。
「ん、大丈夫」
ほう……と熱い溜息を漏らした陸は、潤んだ瞳で一織を見上げた。そのまなざしに、一織は眉を顰める。陸のこの表情に弱い。今だって、気を抜けば「かわいい人だ」と口走ってしまいそう。
「大丈夫じゃないでしょう。……まったく、無理はなさらないでください」
その言葉に、陸はむぅ……と唇を尖らせた。
「無理してないってば。一織は大袈裟過ぎるんだよ」
一織の気遣いが嬉しくないわけではない。
ただ、この気遣いは、恋人だから心配しているというのではなく、仲間として心配している気持ちのほうが大きいのではないかと、時折、心に靄がかかってしまう。
「……大袈裟に心配するくらいでないと、あなたはすぐに無理をするでしょう。これくらいで、ちょうどいいんです」
拗ねた陸の表情に「かわいい」と本音を漏らしてしまいそうで、一織は澄まし顔をしてみせた。
「けちー」
「なんとでも言えばいいでしょう。相変わらず、七瀬さんの語彙のなさには呆れますね」
うぅ、一織が冷たい。陸はそうぼやいて、布団を鼻のあたりまで引っ張り上げた。
もちろん、心の底から「一織が冷たい」と思っているわけではない。時々、お説教がうるさいなぁと思うことはあるけれど、自分のことを考えてくれているからこその言葉だとわかっている。いつだったか、一織に「あなたのことは死ぬほど考えてますけど」と言われたことがあった。毎日毎日、一織は自分のことを気にかけてくれている。時には厳しい言葉で、時には照れを抑えながらの甘い言葉で。
こうしている間も、一織はずっと髪を撫でてくれていて、それがとても心地いい。普段は小言が多い一織だけれど、眠る前のこの時だけは、自分が世界一甘やかされていると自信を持って言える。
どうせなら、とことん甘やかしてほしい。
「ね、一織。お願いがあるんだけど」
口許まで布団をずり下げて、じっと見つめた。
「なんですか」
なにを頼まれるのかと、ややこわばった声。そんなに身構えなくても、このタイミングで無茶振りはしないのに。
「あのさ、子守唄歌って」
「……は?」
なにを言い出すんだ、この人は。そう言いたいのがよくわかる表情。陸が予想した通りの反応だ。
(いいじゃん、人前で歌うことくらい、オレたちは慣れてるだろ)
陸も、引くつもりはない。どうしても歌ってほしい。
「なんでもいいからさ。子守唄じゃなくても、オレたちの歌でもいいし、一織とユニット組んだ時のでも!」
「それって寝付けなくないですか?」
……確かに、アップテンポな曲は子守唄とは言いにくい。
「すぐに寝付けなくていいんだよ。なんなら歌じゃなくてもいい、なにか喋って」
陸の意図するところがわからず、一織は困惑してしまう。
「突然喋れと言われてもなにを……」
どちらかといえば、一織は突発的に起こったものごとへの対処が苦手なタイプだ。仕事であれば、あらかじめ台本や、過去の放送分を確認しながら、どんなアドリブが求められそうかを構想し、その通りに進められるのだけれど、プライベートとなると話は別。
「なんでもいいんだよ。一織の声、聞きたいだけだから」
この世界に音楽はたくさんあふれているし、それらを貶めるつもりなんて一切ないけれど、好きな人が自分にだけ向けてくれる声は、なによりも心を震わせる珠玉のメロディ。
最高のメロディを聴きながら眠ったら、さぞかし、素敵な夢を見られることだろう。素敵な夢……たとえば、今、自分の隣で髪を撫でてくれている大好きな恋人が出てきて、夢の中でも優しく髪を撫でてくれるとか。あぁ、寝ても醒めても恋人に髪を撫でてもらうなんて、想像するだけで、とくとくと胸が高鳴る。
「だけ、って……」
まだ難色を示している一織にも、陸の「聞きたいだけ」という言葉の意図するところは通じたらしい。わずかに頬を赤らめている。
「だってさ、一織の声って本当にきれいで、好きなんだ。一織の声聞きながらだったら、いい夢、見られそうな気がする」
「……私からすれば、七瀬さんの声のほうがずっときれいですけど」
言ってから「しまった」と思う。本心ではあるけれど、口にするのは恥ずかしい。発破をかける時くらいにしか、彼の声について言及することはないのに、どうして言ってしまったのだろう。
「っ、なんでもありません。忘れてください」
「やだ」
髪を撫でていた一織の手を取り、陸は自分の指先を絡める。指先にそっとくちづけを落とし、一織を見つめた。一織の頬に赤みが差したのが、常夜灯の下でもわかる。
「仕事以外でオレの声褒めてくれること、珍しいから」
本人にとっては失言のつもりだとしても、一織が言った言葉は絶対に忘れてあげない。
「……好きにしてください」
陸に絡め取られたままの手。一織からも指を絡めて、指の腹で陸の指の付け根を撫でると、指先がひくりと震えた。
「もう、今夜はおしまいって、もう寝るって言ったの、一織じゃん。だから子守唄歌ってって言ってるのに。えっちな手付きするなよな」
今夜は一度だけ、という約束で身体を重ねた。翌日の仕事に支障が出ないようセーブして、互いにものたりなさを感じながらも、就寝することにしたのに、この男ときたら。
「そうですよ。明日はお昼前から仕事ですから」
陸はまだどきどきしているのに、一織は落ち着き払っているのが悔しい。
「もう、オレばっかりどきどきして、余計に寝れなくなったじゃん。罰として、なにか話して。一織の声で眠りたい」
一織の手に頬を擦り寄せてねだった。いつまでも純粋な子どもではないから、一織が断れなくなるような仕草くらい、もうとっくにわかっている。
「まぁ、いいですけど……でも、五分だけですよ」
「え! けち!」
たった五分だけなんて短過ぎる。体感レベルで言うと、一分で終わってしまいそう。
「いつまでも夜更かしするわけにはいかないでしょう」
時計を見れば、時刻は深夜一時少し前。恋人たちの夜更かしにしてはややものたりない気もするけれど、この心配性の恋人にこれ以上の我儘は、喧嘩に発展しかねない。
「うん……。あのさ」
たった五分なら、その開始を少しでも遅らせたい。そう考えて、陸は話し始める。話題はなんだっていい。好きな人の声を耳にしながら眠りの世界に身を委ねたいだけだから、眠気が襲ってきたら、寝物語の語り手を一織に変わってもらおう。