電話
どうしようかなと思い始めてから、かれこれ三十分は経過している。本人が知ったら、時間の無駄遣いをするなんてと顔を顰めるに違いない。翌日に備えて早く休むようにと呆れた溜息をつくだろうか。
赤を基調とした部屋の窓側に設置されたベッドにゆっくりと倒れ込む。なんだかつまんないなぁと呟いた声は静まり返った部屋に吸収されて、余計に虚しさを感じてしまった。
日中は暑かったから半袖で過ごしていた。露出された腕に交換したばかりのシーツが触れるのが気持ちいい。意味もなく、シーツの上で腕を動かしてみた。こんなところを見たら、埃が立つからやめるようにと眉間に皺を寄せるだろうか。
そこまで考えて、あいつは本当に過保護だなぁと笑いが込み上げてきてしまう。眠るにはまだ早いし、これくらいで埃は立たない。それでも、さきほどから頭と心の中を占める人物は、陸のことをそれはそれは過保護に扱うのだ。小さな子じゃあるまいし。しかも、もう、一年前に成人しているのに。
(オレ、大人なのにこんなの、情けないな)
さっきからうじうじ悩んでいるのも、自分らしくないなと思う。ごろりと寝返りを打って、シーツの上に放り出したままのスマートフォンに手を伸ばす。ホーム画面に設定する画像は気分で変えることが多く、今は、最近オープンしたばかりのカフェで撮影したランチプレートを、画像加工アプリで〝映え〟を意識して色味を調整したものだ。SNSにも同じものを投稿してある。向かいの席でランチプレートの写真を素早く撮っていた彼を思い出して、頬がゆるんでしまった。いい加減、素直になればいいのに。デビューしてそろそろ三年、メンバーどころか、昔からのファンにだって、彼がかわいいものに惹かれていることくらい、とうにお見通しだ。春のツアーでも、彼へのプレゼントボックスにはうさみみフレンズのレターセットでしたためた手紙やマスコットが入れられていたのだから。
思い出し笑いをする人はいやらしいのだと聞いたことがあるが、誰も見ていないからいいだろうと、ふふふ……と笑みをこぼす。さきほどだって頬がゆるんでいたのだから今更だ。
スマートフォンのディスプレイに指を滑らせて、少しだけ逡巡する。ラビットチャットか、それとも。どちらにしようかな、神様の言う通り。初めから答えが決まっている言葉を唱えて、人差し指が示したアイコンをタップする。そこから目当ての人物を探すなんてすぐだ。五十音順で上のほうにいるからスクロールしなくてもいいし、なにより、履歴の半分以上を埋めているのだから。
三十分以上悩んでいたのに、いざとなればあっという間に行動できてしまう。神様の言う通りだから仕方ないよねと言い訳したものの、決めたのは自分だ。
一瞬の間のあとに聞こえる数秒間の発信音と、相手が出てくれるか、留守番電話サービスのアナウンスに切り替わるまで続く、呼出音。
「あ、もしもし」
音声信号を通しての声は、実際よりもくぐもって聞こえる。それでも、耳に直接吹き込まれているようで心地いい。
なにかあったのかと尋ねる声はとても優しい。
「なんでもないよ。なんかなきゃ電話しちゃだめ?」
そういうわけではないと弁解する声に焦りが滲んでいるのがおもしろい。恋人として付き合うようになって二年半くらい経つのに、こういう時の反応はいつまでも不慣れなんだなと笑ってしまう。笑ったことで少し不機嫌に低くなった声に、今度は陸が慌てる番だ。
「今日? うん、なにも問題なく終わったよ。そういえば、下岡さんが……」
陸単独で出演する番組収録でのできごとをかいつまんで話す。あぁ、ビデオ通話にすればよかったなと気付いた。一織には見えていないのに、身振り手振りで話してしまう。スマートフォンを握っているのがわずらわしくなって、ハンズフリーに切り替えた。こうすると一織の声が部屋に溶け込んで、まるで、目の前にいるみたいだ。
「一織はどう?」
一織は今日、三月とともに泊りがけで実家に帰省している。デビューしてすぐの頃と違い、単独の仕事が増えた今は、兄弟揃ってオフが重なることが滅多になく、久々に二日間のオフが重なったのだからと実家に顔を出すことにしたそうだ。あまり離れていないとはいえ、いつも隣の部屋で寝起きしている一織がいないのはやはりさみしい。
二人で両親の店を手伝い、新作の試作品を味見したのだそうだ。明日の帰宅時には土産としていくつか持って帰ってきてくれるらしい。一人ひとつと言わず、特別にふたつほしいなとあざとくねだると、音割れしそうなほどの咳が聞こえたあと、考えておきますという返答をもらうことができた。このタイプの返答なら、陸にはもうひとつ多く持って帰ってきてくれるのだろう。
「つまんないなぁって思って電話したんだけど、なんだか眠くなってきたかも」
だって、一織の声は本当に心地よくて、本人にそういうつもりがなかったとしても、子守唄みたいだから。
じゃあ寝ますか? と尋ねられて、微睡み始めていたはずの陸の胸がどきりと高鳴る。
「なんか、今の……明日の夜言ってほしいかも」
明日の夜、陸の部屋でこのベッドに二人で寝転んで。部屋の灯りを落として、常夜灯が映り込んだグレーの瞳が「寝ますか?」と尋ねてくる想像をしてしまった。決して広いとは言えないベッドの中、あの顔で、あの声で、そんなことを言われたら……「まだ寝たくないかも」なんて答えてしまいそうだ。心の奥のやわらかいところがむずむずして、これはいけないと、欲を振り切るようにかぶりを振る。
電話の向こうにいる相手をそのままに、明日の夜への期待を勝手に膨らませ始めた陸に呆れたのか、大きな溜息が聞こえた。
赤を基調とした部屋の窓側に設置されたベッドにゆっくりと倒れ込む。なんだかつまんないなぁと呟いた声は静まり返った部屋に吸収されて、余計に虚しさを感じてしまった。
日中は暑かったから半袖で過ごしていた。露出された腕に交換したばかりのシーツが触れるのが気持ちいい。意味もなく、シーツの上で腕を動かしてみた。こんなところを見たら、埃が立つからやめるようにと眉間に皺を寄せるだろうか。
そこまで考えて、あいつは本当に過保護だなぁと笑いが込み上げてきてしまう。眠るにはまだ早いし、これくらいで埃は立たない。それでも、さきほどから頭と心の中を占める人物は、陸のことをそれはそれは過保護に扱うのだ。小さな子じゃあるまいし。しかも、もう、一年前に成人しているのに。
(オレ、大人なのにこんなの、情けないな)
さっきからうじうじ悩んでいるのも、自分らしくないなと思う。ごろりと寝返りを打って、シーツの上に放り出したままのスマートフォンに手を伸ばす。ホーム画面に設定する画像は気分で変えることが多く、今は、最近オープンしたばかりのカフェで撮影したランチプレートを、画像加工アプリで〝映え〟を意識して色味を調整したものだ。SNSにも同じものを投稿してある。向かいの席でランチプレートの写真を素早く撮っていた彼を思い出して、頬がゆるんでしまった。いい加減、素直になればいいのに。デビューしてそろそろ三年、メンバーどころか、昔からのファンにだって、彼がかわいいものに惹かれていることくらい、とうにお見通しだ。春のツアーでも、彼へのプレゼントボックスにはうさみみフレンズのレターセットでしたためた手紙やマスコットが入れられていたのだから。
思い出し笑いをする人はいやらしいのだと聞いたことがあるが、誰も見ていないからいいだろうと、ふふふ……と笑みをこぼす。さきほどだって頬がゆるんでいたのだから今更だ。
スマートフォンのディスプレイに指を滑らせて、少しだけ逡巡する。ラビットチャットか、それとも。どちらにしようかな、神様の言う通り。初めから答えが決まっている言葉を唱えて、人差し指が示したアイコンをタップする。そこから目当ての人物を探すなんてすぐだ。五十音順で上のほうにいるからスクロールしなくてもいいし、なにより、履歴の半分以上を埋めているのだから。
三十分以上悩んでいたのに、いざとなればあっという間に行動できてしまう。神様の言う通りだから仕方ないよねと言い訳したものの、決めたのは自分だ。
一瞬の間のあとに聞こえる数秒間の発信音と、相手が出てくれるか、留守番電話サービスのアナウンスに切り替わるまで続く、呼出音。
「あ、もしもし」
音声信号を通しての声は、実際よりもくぐもって聞こえる。それでも、耳に直接吹き込まれているようで心地いい。
なにかあったのかと尋ねる声はとても優しい。
「なんでもないよ。なんかなきゃ電話しちゃだめ?」
そういうわけではないと弁解する声に焦りが滲んでいるのがおもしろい。恋人として付き合うようになって二年半くらい経つのに、こういう時の反応はいつまでも不慣れなんだなと笑ってしまう。笑ったことで少し不機嫌に低くなった声に、今度は陸が慌てる番だ。
「今日? うん、なにも問題なく終わったよ。そういえば、下岡さんが……」
陸単独で出演する番組収録でのできごとをかいつまんで話す。あぁ、ビデオ通話にすればよかったなと気付いた。一織には見えていないのに、身振り手振りで話してしまう。スマートフォンを握っているのがわずらわしくなって、ハンズフリーに切り替えた。こうすると一織の声が部屋に溶け込んで、まるで、目の前にいるみたいだ。
「一織はどう?」
一織は今日、三月とともに泊りがけで実家に帰省している。デビューしてすぐの頃と違い、単独の仕事が増えた今は、兄弟揃ってオフが重なることが滅多になく、久々に二日間のオフが重なったのだからと実家に顔を出すことにしたそうだ。あまり離れていないとはいえ、いつも隣の部屋で寝起きしている一織がいないのはやはりさみしい。
二人で両親の店を手伝い、新作の試作品を味見したのだそうだ。明日の帰宅時には土産としていくつか持って帰ってきてくれるらしい。一人ひとつと言わず、特別にふたつほしいなとあざとくねだると、音割れしそうなほどの咳が聞こえたあと、考えておきますという返答をもらうことができた。このタイプの返答なら、陸にはもうひとつ多く持って帰ってきてくれるのだろう。
「つまんないなぁって思って電話したんだけど、なんだか眠くなってきたかも」
だって、一織の声は本当に心地よくて、本人にそういうつもりがなかったとしても、子守唄みたいだから。
じゃあ寝ますか? と尋ねられて、微睡み始めていたはずの陸の胸がどきりと高鳴る。
「なんか、今の……明日の夜言ってほしいかも」
明日の夜、陸の部屋でこのベッドに二人で寝転んで。部屋の灯りを落として、常夜灯が映り込んだグレーの瞳が「寝ますか?」と尋ねてくる想像をしてしまった。決して広いとは言えないベッドの中、あの顔で、あの声で、そんなことを言われたら……「まだ寝たくないかも」なんて答えてしまいそうだ。心の奥のやわらかいところがむずむずして、これはいけないと、欲を振り切るようにかぶりを振る。
電話の向こうにいる相手をそのままに、明日の夜への期待を勝手に膨らませ始めた陸に呆れたのか、大きな溜息が聞こえた。