いたずら
一織が部屋に戻ったら、間違い探しの時間。
自室にいる時はできるだけ鍵をかけているし、不在時に部屋に勝手に入らないでほしいタイプだということは他のメンバーも理解してくれている。だから、これは毎日発生するゲームではなくて、ほんのわずか、たとえば誰かが部屋に来ている最中に少しだけ席を外したタイミングを見計らって仕掛けられる遊びだ。
「……七瀬さん」
「なに?」
ゲームの仕掛け人はかなり機嫌がいいらしい。にこにこと笑みを浮かべ、部屋の中心、折り畳み式のローテーブルの前で胡坐をかいていた。――陸の悪ふざけに付き合うためにこの場を離れたわけではないのだが。トレイに載せたマグカップを丁寧にテーブルの上に並べると、はぁと大きな溜息をついた。
「わからないはずがないでしょう。机の上、数学の教科書が上下逆になっています」
ロフトベッドの下にあつらえられたデスクに、ページ数が少ない順から並べた教科書たちの群れ。その中の一冊だけ、天と地が引っくり返されていた。あぁ、数学の教科書よ、あなたは七瀬さんに無体をはたらかれてかわいそうに。そう思いながら、できるだけ優しい所作で元通りにしてやった。本に心があるならば、この瞬間、数学の教科書は一織の優しい手つきに心をときめかせ、恋に落ちていたことだろう。
「探偵と一緒にいるおかげで、狼人間の一織にも探偵の才能芽生えてきた?」
「なんですか、それ」
陸との共演でドラマに出演しているとはいえ、一織は未だ、自分が探偵役ではないことへの疑問を拭いきれないでいる。この、歩くだけで事故が多発するドジ男が探偵だなんてと、陸本人が聞いたら頬を膨らませて拗ねそうなことばかり考えてしまうのだ。
「参ったなぁ、オレっては優秀な探偵さんだから」
「優秀な探偵さんが、毎度毎度人の部屋でばればれないたずらですか」
一織の勘が鋭いのではない。――否、一織はどちらかといえば鋭いほうではあるが、一織が部屋を不在にする数分から十数分の間に仕掛けられるささやかないたずら。部屋の中の配置をほんの少しだけ移動させるという間違い探しゲーム。
「わざと簡単にしてやってるんだよ。わかんなかったら、一織、拗ねちゃうだろうから」
「拗ねません。だいたい、人の部屋のものを勝手に触らないでもらえますか」
はぁい。そう返事をしているわりに、反省の色が見受けられない。一織をおちょくるように頬をつつく指先から逃げ、陸の向かいに正座する。こうして座すと、胡坐をかいている陸より少しだけ目線が高くなって気分がいいのだ。一センチメートルしかない身長差がさらに開いた気分になれるからではなく、目線の高さがいつもより離れることで、陸の上目遣いがいつもよりたくさん見られるから。なんて、不純な動機なんだろう。
「んっ? これ、いつもより甘い?」
陸にねだられて用意したのはアイスミルクティー。喉を冷やさないようにとあたたかい飲みものを提案したのだが、急激に気温が高くなったこの土曜日は、一織とて、冷たい飲みものでなければやっていられないくらいだった。一織よりも代謝がよく汗をかきやすい陸ならば、もっとだろう。
「気のせいじゃないですか?」
「そんなわけない! 一織、シロップの量間違えた? 飲んでみる?」
ずいと差し出されたグラスは、ミルクティーで冷やされた分だけその表面を濡らして、陸の手のひらを冷たくさせていた。
「はっ?」
からんという氷のぶつかる音とともに、かわいい赤のストローがこちらを向いて、一織のくちづけを待っている。こんなの、まだ本物のキスを知らない一織にはとてつもない衝撃だ。さらには、こてんと首を傾げるあざとい仕草も加えられた。泣きっ面に蜂? 踏んだり蹴ったり? 陸にほのかな想いを寄せる一織にとっては悪いことではないはずなのだが、悪事が立て続けに起こったかのような言葉ばかり浮かんでしまう。ぐるぐると回る頭ではっと気付いたのは、自分も同じ飲みものを用意していたこと。
「~~っ、自分のがありますから!」
動揺を悟られないように早口でまくしたて、勢いよく自分のストローに口をつける。残念ながら一織に振られてしまった陸のストローは、そのまま、本人の口へ。
「……ほら、やっぱり甘いって」
「そう、ですね……」
自分でも飲んでみて、確かに甘いと思った。そして、どうして甘くなってしまったのかも思い出してしまった。
ほんの十数分。陸がいる時に一織が部屋を不在にすると、必ず、部屋のどこかがいたずらされている。その内容は、一織ならあっという間に見破ることができる程度の間違い探し。さて、今日はどこに、どんないたずらを仕掛けるのだろう。そう考えながら二人ぶんのミルクティーを用意していたら、シロップを傾ける手が思いのほか、勢いよく動いてしまったのだ。
「あ、さてはおまえ、オレが部屋にこうやってクイズ仕掛けるの怒ってるんだろ?」
「クイズって……」
一織の部屋で間違い探しを開催するこの男は、自分がやっているいたずらを、クイズだと思っているらしい。クイズというほどのものか? 子どもレベルのいたずらでは? という言葉は飲み込んで、そんなことはないと否定する。見られないのが惜しいが、自分が不在の間、部屋を見渡して今回はどうしようかと目を輝かせる陸を想像したら、とてもじゃないが、やめろなんて言えないからだ。
自室にいる時はできるだけ鍵をかけているし、不在時に部屋に勝手に入らないでほしいタイプだということは他のメンバーも理解してくれている。だから、これは毎日発生するゲームではなくて、ほんのわずか、たとえば誰かが部屋に来ている最中に少しだけ席を外したタイミングを見計らって仕掛けられる遊びだ。
「……七瀬さん」
「なに?」
ゲームの仕掛け人はかなり機嫌がいいらしい。にこにこと笑みを浮かべ、部屋の中心、折り畳み式のローテーブルの前で胡坐をかいていた。――陸の悪ふざけに付き合うためにこの場を離れたわけではないのだが。トレイに載せたマグカップを丁寧にテーブルの上に並べると、はぁと大きな溜息をついた。
「わからないはずがないでしょう。机の上、数学の教科書が上下逆になっています」
ロフトベッドの下にあつらえられたデスクに、ページ数が少ない順から並べた教科書たちの群れ。その中の一冊だけ、天と地が引っくり返されていた。あぁ、数学の教科書よ、あなたは七瀬さんに無体をはたらかれてかわいそうに。そう思いながら、できるだけ優しい所作で元通りにしてやった。本に心があるならば、この瞬間、数学の教科書は一織の優しい手つきに心をときめかせ、恋に落ちていたことだろう。
「探偵と一緒にいるおかげで、狼人間の一織にも探偵の才能芽生えてきた?」
「なんですか、それ」
陸との共演でドラマに出演しているとはいえ、一織は未だ、自分が探偵役ではないことへの疑問を拭いきれないでいる。この、歩くだけで事故が多発するドジ男が探偵だなんてと、陸本人が聞いたら頬を膨らませて拗ねそうなことばかり考えてしまうのだ。
「参ったなぁ、オレっては優秀な探偵さんだから」
「優秀な探偵さんが、毎度毎度人の部屋でばればれないたずらですか」
一織の勘が鋭いのではない。――否、一織はどちらかといえば鋭いほうではあるが、一織が部屋を不在にする数分から十数分の間に仕掛けられるささやかないたずら。部屋の中の配置をほんの少しだけ移動させるという間違い探しゲーム。
「わざと簡単にしてやってるんだよ。わかんなかったら、一織、拗ねちゃうだろうから」
「拗ねません。だいたい、人の部屋のものを勝手に触らないでもらえますか」
はぁい。そう返事をしているわりに、反省の色が見受けられない。一織をおちょくるように頬をつつく指先から逃げ、陸の向かいに正座する。こうして座すと、胡坐をかいている陸より少しだけ目線が高くなって気分がいいのだ。一センチメートルしかない身長差がさらに開いた気分になれるからではなく、目線の高さがいつもより離れることで、陸の上目遣いがいつもよりたくさん見られるから。なんて、不純な動機なんだろう。
「んっ? これ、いつもより甘い?」
陸にねだられて用意したのはアイスミルクティー。喉を冷やさないようにとあたたかい飲みものを提案したのだが、急激に気温が高くなったこの土曜日は、一織とて、冷たい飲みものでなければやっていられないくらいだった。一織よりも代謝がよく汗をかきやすい陸ならば、もっとだろう。
「気のせいじゃないですか?」
「そんなわけない! 一織、シロップの量間違えた? 飲んでみる?」
ずいと差し出されたグラスは、ミルクティーで冷やされた分だけその表面を濡らして、陸の手のひらを冷たくさせていた。
「はっ?」
からんという氷のぶつかる音とともに、かわいい赤のストローがこちらを向いて、一織のくちづけを待っている。こんなの、まだ本物のキスを知らない一織にはとてつもない衝撃だ。さらには、こてんと首を傾げるあざとい仕草も加えられた。泣きっ面に蜂? 踏んだり蹴ったり? 陸にほのかな想いを寄せる一織にとっては悪いことではないはずなのだが、悪事が立て続けに起こったかのような言葉ばかり浮かんでしまう。ぐるぐると回る頭ではっと気付いたのは、自分も同じ飲みものを用意していたこと。
「~~っ、自分のがありますから!」
動揺を悟られないように早口でまくしたて、勢いよく自分のストローに口をつける。残念ながら一織に振られてしまった陸のストローは、そのまま、本人の口へ。
「……ほら、やっぱり甘いって」
「そう、ですね……」
自分でも飲んでみて、確かに甘いと思った。そして、どうして甘くなってしまったのかも思い出してしまった。
ほんの十数分。陸がいる時に一織が部屋を不在にすると、必ず、部屋のどこかがいたずらされている。その内容は、一織ならあっという間に見破ることができる程度の間違い探し。さて、今日はどこに、どんないたずらを仕掛けるのだろう。そう考えながら二人ぶんのミルクティーを用意していたら、シロップを傾ける手が思いのほか、勢いよく動いてしまったのだ。
「あ、さてはおまえ、オレが部屋にこうやってクイズ仕掛けるの怒ってるんだろ?」
「クイズって……」
一織の部屋で間違い探しを開催するこの男は、自分がやっているいたずらを、クイズだと思っているらしい。クイズというほどのものか? 子どもレベルのいたずらでは? という言葉は飲み込んで、そんなことはないと否定する。見られないのが惜しいが、自分が不在の間、部屋を見渡して今回はどうしようかと目を輝かせる陸を想像したら、とてもじゃないが、やめろなんて言えないからだ。