純真同性交遊
本を読むふりをしながら、時折、ちらりと視線を上げる。こちらに背を向けている一織は学校へ提出する課題の真っ最中。あまり長く見つめていると視線がそそがれていることに気付いてしまうから、ほんの一瞬だけに留めて、また、本に視線を戻した。
(……っていっても、もう読み終わってるんだけどな)
世界の名作文学と名高いタイトル。元々は小説で、日本語訳されたものは文庫サイズで二百ページを超える長さのもの。背幅は約一センチメートルで、ちょうど読みやすい長さだな、と思う。名作と呼ばれるだけあって多くの派生作品をうみだしており、もっとも有名なものは、八十年ほど前に海外で公開された映画だといわれている。日本でもテレビドラマ化・テレビアニメ化されたことがあるらしいけれど、どちらも陸がうまれるよりもずっと前のことなので、見たことはない。その他にも、ゲームに登場したり、ミュージカルやパントマイムで演じられたこともあるそうだ。
陸がこの本を初めて読んだのは小さな頃、海外の児童書として病院のベッドで読んだ時だ。ファンタジーの世界に引き込まれた陸は、漢字が読めるようになってからは両親に頼んで小説版を買ってきてもらった。本の虫とまではいかないものの、読書が好きな陸は、自宅や入院中のベッドの上で、実家を出て寮生活を始めてからは自室で、不思議な世界が描かれた文字の海に浸る時間が好きだ。
他にも気に入っている本がたくさんある中で、今日、陸がこの本を選んだのは、読むことに没頭するよりも、一織を見ていたかったから。本への冒涜と言われるかもしれないけれど、陸だって年頃の男で、好意を抱く相手のことをただ黙って眺めていたい日もある。実際は、眺めているといえるほど見つめていられなくて、すぐに視線を逸してしまっているありさま。
とうに読み終えていることを気付かれたくなくて、物語の中盤より少し後ろのページに戻り、少しの間、真面目に文字を目で追う。淡い鳥の子色に、流れるように並べられた黒。小説ならではの統一された配色に慣れたのは、漢字をたくさん知り、小説を読むようになって、どれくらい経った頃だったか。
ふぅ、と溜息をつくのが聞こえて、再び、視線を上げる。長時間集中していたことで肩に負担がかかっているのだろう、一織は肩を軽く回し始めた。
「……終わった?」
陸の声に、一織は振り返って「えぇ」と短く答える。それならこの本はしばらくの間、お役御免というわけだ。本に申し訳なく思いながらも、一織の手が空いたことが嬉しい。閉じた本を傍に置いて、陸は一織へとにじり寄った。
「終わったんならさ、……その、…………」
夕食の手伝いをするにはまだ時間がある。陸が予想していたよりも早く一織が終えたのは、自分との時間を増やすためだと思えてしまうのだけれど、さすがにそれは虫がよ過ぎる考えだろうか。
期待の色を孕んだ視線に一織は「う」と声を漏らし、椅子に座ったまま身を引こうとする。
「っ、なんで逃げるんだよ!」
勢いよく立ち上がって一織の椅子の背にしがみつき、椅子が悲鳴を上げるのもお構いなしに、陸は一織の身体を振り向かせようと、肩を掴んだ手に力を込める。
「逃げ、……あなたが迫ってくるからでしょう!」
「当たり前じゃん!」
恋人の部屋に二人きり、しばらくは邪魔が入る予定もないとくれば、迫るに決まっている。それともなにか? 離れたまま過ごせというのか?
「当たり前って……。……前も言いましたよね、私は十七歳なんです。不純異性交遊なんてだめに決まってます」
「異性じゃないだろ! それとも、一織はオレのこと女の子扱いしてるのか?」
「っ、……言葉のあやです」
つんと突き放すような一織のもの言いに、ぐ……と喉を鳴らす。しかし、どうしても納得がいかない。悔しいし、さみしい。
「……一織は、オレと付き合ってること、不純って思ってるんだ……?」
柘榴色の瞳が揺れ、一織はぎょっとする。あぁ、この表情はやめてほしい。宥めて、髪を撫でて、甘やかしたくなってしまう。
「誰も、そんな」
「オレは!」
そんなことはない、と言おうとしたのを阻まれる。陸は眉を八の字に下げたまま、ゆっくりと言葉を続けた。
「オレは、一織のこと大好きだよ。この気持ちが不純だなんて思わない。一織が一緒にいたら、なんだってできる気がする。一織がオレを見てくれてるだけで、好きでいてくれてるだけで、オレ自身が特別な、なんだかすごいやつみたいに思えてくる。それって、一織がオレに、まっすぐできれいな気持ちをくれてるからだろ」
まっすぐで、きれいな気持ち。果たしてそうだろうか? と一織は自問する。きらきらと輝くこの男を、その笑顔が曇ることのないように支えたいと思っているのは事実。しかし、それと同時に、彼を独占したい、恋人という立場を利用して穢してみたいという気持ちがあることも、否定できない。許されるなら、陸の誘いに応じて、その唇に触れてみたいし、いやらしいこともしてみたい。クラスメイトたちからは真面目だと思われている一織だって、十七歳の男子高校生。平たく言えば、恋人といちゃいちゃしてみたい。けれど、なんとなく、……本当になんとなく、陸に触れてはいけないような気がしていて、下心をもって陸に触れると、世界が変わってしまうのではないかとさえ思っている。実際にはそんなことはないとわかっていても、だ。
陸と想いを重ねて早三ヶ月、一般的には倦怠期を危ぶむ時期。抱き締め合うのが精一杯で、キスをしたことがない。そのことに陸が焦りを感じていることはわかっているものの、触れることが怖くて、一織はのらりくらりと躱し続けている。
「……一織?」
黙りこくった一織を不審に思い、陸がそっと顔を覗き込む。まっすぐできれいな気持ちをくれているからだろうと問いかけて、それに対する返答が得られない。陸が不審がるのももっともだ。一織は小さくかぶりを振って、陸をじっと見つめた。
「あなたのことは、…………以前にも言った通り、どうしようもなく、恋い慕っています。ですが、それとこれとは別です。さきほども言ったように、今の私では責任を取ることができません。あと数ヶ月、……私が高校を卒業するまで待ってもらえませんか」
「キスもだめ?」
覗き込む体勢のせいで、陸の視線が上目遣いとなる。一織は「うっ」と呻き、視線をうろうろと彷徨わせた。歯切れの悪い一織の態度に、陸はまたしてもふつふつと怒りが込み上げてくる。
(キスくらいいいじゃんか! 一織のけち!)
陸が頬を膨らませていることに気付き、一織は目を瞑り、ゆるゆると息を吐いた。
「だめ、ではないですけ、……んっ?」
言い終わるのが待てなくて、陸は勢いよく唇を押し当てる。
(やば……一織の唇、やわらかい…………)
幼い頃に読んだ童話で、王子さまがお姫さまにキスをするのを見るたび、いつか自分にもとびっきりかわいくて優しいお姫さまが現れて、キスをする日がくるのだと思っていた。――実際には、真面目で口うるさい……けれど、とびっきり優しい男、なのだけれど。
「ふ、……んっ…………」
どう呼吸するのが正解なのかわからなくて、唇を離しては、またすぐに押し当てる。ふにふにとやわらかい唇が触れ合うのが気持ちよくて、でも、できればもっと長く触れ合わせていたくて。歯を立てないように、一織の下唇を吸うように、みずからの唇でやんわりと引っ張った。
「~~っ!」
一織の身体が大袈裟なほどに跳ねる。
(怖がらないでほしいんだけど……)
甘噛みした一織の唇の感触が気持ちよくて、やめ時がわからない。はむはむと唇を動かし、身体のバランスが崩れないよう、一織の頭を抱き締めるように腕を絡めた。
「っ、は、……いおり……」
息継ぎをしようと唇を離すと、今までで一番近い距離で視線がぶつかる。まなじりを赤く染めた一織の、薄灰色の瞳は確かに劣情を孕んでいて。陸はその瞳に、背筋をぞくぞくと快感が突き抜けていくのを感じた。
(やば、……)
一織は怖がってなどいない。身体を跳ねさせたのは、快感から。これまで陸とのくちづけを避けようとしていたのは、今の陸と同じく、やめ時がわからなくなるかもしれないと思っていたから。一織の視線で、そのことに気付いてしまった。
「ん、んんっ……~~っ、……」
ぬるり、と濡れた感触。唇を触れ合わせていてそれがなんなのかわからないほど無知ではない。一織と恋人関係になった時に、いつキスをしてもいいようにと、幼い頃に童話で読んだ以上のキスを調べたのだ。一織が知れば「なんてことを調べてるんですか」と顔を顰めるかもしれない。
(一織の、舌、熱い……)
口の中を舐めるなんて、変なことだと思っていた。知識としてわかっていても、実際にできるとは思えなかった。それが、今。一織の舌が、自分の口の中を我がもの顔で舐め回していて、それを当たり前のように受け入れている。
(気持ちいい……)
ぞく、ぞく……と背中が震えた。腰のあたりがむずむずして、自然と膝を擦り合わせてしまう。いつの間にか一織の手は陸の後頭部に回されていて、指先は陸の耳をくすぐるようにもてあそんでいた。
「ひぅ……」
指先で耳殻をなぞられ、情けない声が漏れてしまう。くすぐったい、気持ちいい、もっと。
一織の背中に回した手で、彼の服を握り締める。しわになると叱られるだろうか。
中腰で抱き着いているのがつらくなってきたことに気付いたのか、一織が陸の腰に手を添えて、自分の膝の上に座るようにと促す。小さな子が抱っこされるようで恥ずかしいなと思いながらも、一織ともっとくっつきたくて、陸は恐る恐る、一織の太腿を跨ぐように座った。これで、真正面から、上半身全体をくっつけて抱き締め合うことができる。
(心臓、どきどきしてる……)
ぴたりと合わせた胸がどきどきしているのは、自分だけではないはずだ。
陸の呼吸が乱れないよう何度も唇を離しては、またすぐに重ねられる。
「ね、一織、…………」
一織に跨った状態のまま、陸がもじもじと腰を動かす。上半身を密着させているものだから、身体が反応していることが伝わってしまって恥ずかしい。
「っ、だから、…………」
「だから、なに」
こんなキスをしておいて、ここでやめろと言うのか。陸は咎めるような眼差しで一織を睨み付けた。
「その、色々と……必要、でしょう」
ぷは……と、やや間抜けな声とともに、長い長いくちづけから解放される。
「必要って?」
一織は少し躊躇ってから、おずおずと口を開いた。
「この先に進むのであれば、私たちは同性ですし、翌日の体調に影響するなんて絶対にあってはいけません。……あと、やはり私は十七歳、なので」
この期に及んでまだ言うのか……と思わなくもないけれど、さきほどまではキスすらできなかったのだ。あまり急かしてもいけないだろうと、陸は渋々ながらも自分を納得させることにした。
「……じゃあ、一織が高校卒業したら、最後までするって約束してくれる?」
本当はあと数ヶ月だって待っていられない。さきほどの顔付きを見る限り、一織だって相当我慢しているのだろう。強引にことを進めるよりも、ここらで年上の余裕を見せつけておきたい。
陸の質問に、一織は「あ」とか「う」と母音を発し、返答に窮している。
「ね、約束して。一織が卒業したら、……もっと、キスするよりもくっつきたい。だめ?」
至近距離で見つめられて、 一織が断れるはずがない。
「だめ、じゃ、ないです……」
「やった! じゃあ指切りげんまん!」
一織の手を取って、小指同士を絡める。弾むような歌声で紡がれる指切りげんまんのわらべ歌も、陸の歌声にかかれば流れ星へと変わる。
「まったく……強引な人ですね」
「だって、こうでもしなきゃ、オレたちずっとキスすらできなかったよ? オレだって男だし、好きな人とはその、そういうこと、したいし……」
強引に迫っておいて今更恥ずかしくなったのか、耳まで真っ赤に染めてしどろもどろに話す。そういうところが愛らしくてたまらない。同時に、聖人君子ではないとわかっていたとはいえ、陸にもそういう願望があることに、一織は少なからず衝撃を受けた。心のどこかで、陸のことを純真な天使のように思っていたのだ。
(天使、なんて。私らしくもない)
『現代の天使』と称される、陸の兄のことを思い出してしまった。彼にも自分たちの関係は秘密だ。……というか、絶対に知られるわけにはいかない。成長して、再会してすぐの頃は冷ややかな視線を寄越してきた彼も、最近ではずいぶんと態度が軟化し、ブラコンぶりを発揮することが増えてきたのだから。大事な弟に恋人、しかもそれがグループのメンバーで同性とくれば、……あぁ、想像しただけで恐ろしい。高校を卒業して、陸と一線を越える日がきても、自分たちの関係はトップシークレットにしておかなければ。
「……一織?」
ぐるぐると考えごとをしている一織に、強引に約束を取り付けたのがまずかったのかと陸の瞳が曇る。
「あぁ、いえ。……その、約束、はわかりました。私も男ですから、二言はありません」
「へへ、それでこそ一織。……なぁ、キスならいいんだろ? じゃあさ、もう少し時間があるし、…………だめ?」
だめ? と尋ねながらも断る隙を与えない陸は、そのまま一織の背に腕を回す。もちろん、断るつもりはないので。
「ほどほどに、なら」
自分たちはアイドル。唇を腫れさせた状態で仕事をするなんてもってのほか。表向きの理由はそれだけれど、実際のところは、ほどほどにしておかないと、卒業までキスだけで我慢することがつらくなってしまうから。
はぁい、と甘い返事とともに、また、やわらかな唇が重ねられた。
(……っていっても、もう読み終わってるんだけどな)
世界の名作文学と名高いタイトル。元々は小説で、日本語訳されたものは文庫サイズで二百ページを超える長さのもの。背幅は約一センチメートルで、ちょうど読みやすい長さだな、と思う。名作と呼ばれるだけあって多くの派生作品をうみだしており、もっとも有名なものは、八十年ほど前に海外で公開された映画だといわれている。日本でもテレビドラマ化・テレビアニメ化されたことがあるらしいけれど、どちらも陸がうまれるよりもずっと前のことなので、見たことはない。その他にも、ゲームに登場したり、ミュージカルやパントマイムで演じられたこともあるそうだ。
陸がこの本を初めて読んだのは小さな頃、海外の児童書として病院のベッドで読んだ時だ。ファンタジーの世界に引き込まれた陸は、漢字が読めるようになってからは両親に頼んで小説版を買ってきてもらった。本の虫とまではいかないものの、読書が好きな陸は、自宅や入院中のベッドの上で、実家を出て寮生活を始めてからは自室で、不思議な世界が描かれた文字の海に浸る時間が好きだ。
他にも気に入っている本がたくさんある中で、今日、陸がこの本を選んだのは、読むことに没頭するよりも、一織を見ていたかったから。本への冒涜と言われるかもしれないけれど、陸だって年頃の男で、好意を抱く相手のことをただ黙って眺めていたい日もある。実際は、眺めているといえるほど見つめていられなくて、すぐに視線を逸してしまっているありさま。
とうに読み終えていることを気付かれたくなくて、物語の中盤より少し後ろのページに戻り、少しの間、真面目に文字を目で追う。淡い鳥の子色に、流れるように並べられた黒。小説ならではの統一された配色に慣れたのは、漢字をたくさん知り、小説を読むようになって、どれくらい経った頃だったか。
ふぅ、と溜息をつくのが聞こえて、再び、視線を上げる。長時間集中していたことで肩に負担がかかっているのだろう、一織は肩を軽く回し始めた。
「……終わった?」
陸の声に、一織は振り返って「えぇ」と短く答える。それならこの本はしばらくの間、お役御免というわけだ。本に申し訳なく思いながらも、一織の手が空いたことが嬉しい。閉じた本を傍に置いて、陸は一織へとにじり寄った。
「終わったんならさ、……その、…………」
夕食の手伝いをするにはまだ時間がある。陸が予想していたよりも早く一織が終えたのは、自分との時間を増やすためだと思えてしまうのだけれど、さすがにそれは虫がよ過ぎる考えだろうか。
期待の色を孕んだ視線に一織は「う」と声を漏らし、椅子に座ったまま身を引こうとする。
「っ、なんで逃げるんだよ!」
勢いよく立ち上がって一織の椅子の背にしがみつき、椅子が悲鳴を上げるのもお構いなしに、陸は一織の身体を振り向かせようと、肩を掴んだ手に力を込める。
「逃げ、……あなたが迫ってくるからでしょう!」
「当たり前じゃん!」
恋人の部屋に二人きり、しばらくは邪魔が入る予定もないとくれば、迫るに決まっている。それともなにか? 離れたまま過ごせというのか?
「当たり前って……。……前も言いましたよね、私は十七歳なんです。不純異性交遊なんてだめに決まってます」
「異性じゃないだろ! それとも、一織はオレのこと女の子扱いしてるのか?」
「っ、……言葉のあやです」
つんと突き放すような一織のもの言いに、ぐ……と喉を鳴らす。しかし、どうしても納得がいかない。悔しいし、さみしい。
「……一織は、オレと付き合ってること、不純って思ってるんだ……?」
柘榴色の瞳が揺れ、一織はぎょっとする。あぁ、この表情はやめてほしい。宥めて、髪を撫でて、甘やかしたくなってしまう。
「誰も、そんな」
「オレは!」
そんなことはない、と言おうとしたのを阻まれる。陸は眉を八の字に下げたまま、ゆっくりと言葉を続けた。
「オレは、一織のこと大好きだよ。この気持ちが不純だなんて思わない。一織が一緒にいたら、なんだってできる気がする。一織がオレを見てくれてるだけで、好きでいてくれてるだけで、オレ自身が特別な、なんだかすごいやつみたいに思えてくる。それって、一織がオレに、まっすぐできれいな気持ちをくれてるからだろ」
まっすぐで、きれいな気持ち。果たしてそうだろうか? と一織は自問する。きらきらと輝くこの男を、その笑顔が曇ることのないように支えたいと思っているのは事実。しかし、それと同時に、彼を独占したい、恋人という立場を利用して穢してみたいという気持ちがあることも、否定できない。許されるなら、陸の誘いに応じて、その唇に触れてみたいし、いやらしいこともしてみたい。クラスメイトたちからは真面目だと思われている一織だって、十七歳の男子高校生。平たく言えば、恋人といちゃいちゃしてみたい。けれど、なんとなく、……本当になんとなく、陸に触れてはいけないような気がしていて、下心をもって陸に触れると、世界が変わってしまうのではないかとさえ思っている。実際にはそんなことはないとわかっていても、だ。
陸と想いを重ねて早三ヶ月、一般的には倦怠期を危ぶむ時期。抱き締め合うのが精一杯で、キスをしたことがない。そのことに陸が焦りを感じていることはわかっているものの、触れることが怖くて、一織はのらりくらりと躱し続けている。
「……一織?」
黙りこくった一織を不審に思い、陸がそっと顔を覗き込む。まっすぐできれいな気持ちをくれているからだろうと問いかけて、それに対する返答が得られない。陸が不審がるのももっともだ。一織は小さくかぶりを振って、陸をじっと見つめた。
「あなたのことは、…………以前にも言った通り、どうしようもなく、恋い慕っています。ですが、それとこれとは別です。さきほども言ったように、今の私では責任を取ることができません。あと数ヶ月、……私が高校を卒業するまで待ってもらえませんか」
「キスもだめ?」
覗き込む体勢のせいで、陸の視線が上目遣いとなる。一織は「うっ」と呻き、視線をうろうろと彷徨わせた。歯切れの悪い一織の態度に、陸はまたしてもふつふつと怒りが込み上げてくる。
(キスくらいいいじゃんか! 一織のけち!)
陸が頬を膨らませていることに気付き、一織は目を瞑り、ゆるゆると息を吐いた。
「だめ、ではないですけ、……んっ?」
言い終わるのが待てなくて、陸は勢いよく唇を押し当てる。
(やば……一織の唇、やわらかい…………)
幼い頃に読んだ童話で、王子さまがお姫さまにキスをするのを見るたび、いつか自分にもとびっきりかわいくて優しいお姫さまが現れて、キスをする日がくるのだと思っていた。――実際には、真面目で口うるさい……けれど、とびっきり優しい男、なのだけれど。
「ふ、……んっ…………」
どう呼吸するのが正解なのかわからなくて、唇を離しては、またすぐに押し当てる。ふにふにとやわらかい唇が触れ合うのが気持ちよくて、でも、できればもっと長く触れ合わせていたくて。歯を立てないように、一織の下唇を吸うように、みずからの唇でやんわりと引っ張った。
「~~っ!」
一織の身体が大袈裟なほどに跳ねる。
(怖がらないでほしいんだけど……)
甘噛みした一織の唇の感触が気持ちよくて、やめ時がわからない。はむはむと唇を動かし、身体のバランスが崩れないよう、一織の頭を抱き締めるように腕を絡めた。
「っ、は、……いおり……」
息継ぎをしようと唇を離すと、今までで一番近い距離で視線がぶつかる。まなじりを赤く染めた一織の、薄灰色の瞳は確かに劣情を孕んでいて。陸はその瞳に、背筋をぞくぞくと快感が突き抜けていくのを感じた。
(やば、……)
一織は怖がってなどいない。身体を跳ねさせたのは、快感から。これまで陸とのくちづけを避けようとしていたのは、今の陸と同じく、やめ時がわからなくなるかもしれないと思っていたから。一織の視線で、そのことに気付いてしまった。
「ん、んんっ……~~っ、……」
ぬるり、と濡れた感触。唇を触れ合わせていてそれがなんなのかわからないほど無知ではない。一織と恋人関係になった時に、いつキスをしてもいいようにと、幼い頃に童話で読んだ以上のキスを調べたのだ。一織が知れば「なんてことを調べてるんですか」と顔を顰めるかもしれない。
(一織の、舌、熱い……)
口の中を舐めるなんて、変なことだと思っていた。知識としてわかっていても、実際にできるとは思えなかった。それが、今。一織の舌が、自分の口の中を我がもの顔で舐め回していて、それを当たり前のように受け入れている。
(気持ちいい……)
ぞく、ぞく……と背中が震えた。腰のあたりがむずむずして、自然と膝を擦り合わせてしまう。いつの間にか一織の手は陸の後頭部に回されていて、指先は陸の耳をくすぐるようにもてあそんでいた。
「ひぅ……」
指先で耳殻をなぞられ、情けない声が漏れてしまう。くすぐったい、気持ちいい、もっと。
一織の背中に回した手で、彼の服を握り締める。しわになると叱られるだろうか。
中腰で抱き着いているのがつらくなってきたことに気付いたのか、一織が陸の腰に手を添えて、自分の膝の上に座るようにと促す。小さな子が抱っこされるようで恥ずかしいなと思いながらも、一織ともっとくっつきたくて、陸は恐る恐る、一織の太腿を跨ぐように座った。これで、真正面から、上半身全体をくっつけて抱き締め合うことができる。
(心臓、どきどきしてる……)
ぴたりと合わせた胸がどきどきしているのは、自分だけではないはずだ。
陸の呼吸が乱れないよう何度も唇を離しては、またすぐに重ねられる。
「ね、一織、…………」
一織に跨った状態のまま、陸がもじもじと腰を動かす。上半身を密着させているものだから、身体が反応していることが伝わってしまって恥ずかしい。
「っ、だから、…………」
「だから、なに」
こんなキスをしておいて、ここでやめろと言うのか。陸は咎めるような眼差しで一織を睨み付けた。
「その、色々と……必要、でしょう」
ぷは……と、やや間抜けな声とともに、長い長いくちづけから解放される。
「必要って?」
一織は少し躊躇ってから、おずおずと口を開いた。
「この先に進むのであれば、私たちは同性ですし、翌日の体調に影響するなんて絶対にあってはいけません。……あと、やはり私は十七歳、なので」
この期に及んでまだ言うのか……と思わなくもないけれど、さきほどまではキスすらできなかったのだ。あまり急かしてもいけないだろうと、陸は渋々ながらも自分を納得させることにした。
「……じゃあ、一織が高校卒業したら、最後までするって約束してくれる?」
本当はあと数ヶ月だって待っていられない。さきほどの顔付きを見る限り、一織だって相当我慢しているのだろう。強引にことを進めるよりも、ここらで年上の余裕を見せつけておきたい。
陸の質問に、一織は「あ」とか「う」と母音を発し、返答に窮している。
「ね、約束して。一織が卒業したら、……もっと、キスするよりもくっつきたい。だめ?」
至近距離で見つめられて、 一織が断れるはずがない。
「だめ、じゃ、ないです……」
「やった! じゃあ指切りげんまん!」
一織の手を取って、小指同士を絡める。弾むような歌声で紡がれる指切りげんまんのわらべ歌も、陸の歌声にかかれば流れ星へと変わる。
「まったく……強引な人ですね」
「だって、こうでもしなきゃ、オレたちずっとキスすらできなかったよ? オレだって男だし、好きな人とはその、そういうこと、したいし……」
強引に迫っておいて今更恥ずかしくなったのか、耳まで真っ赤に染めてしどろもどろに話す。そういうところが愛らしくてたまらない。同時に、聖人君子ではないとわかっていたとはいえ、陸にもそういう願望があることに、一織は少なからず衝撃を受けた。心のどこかで、陸のことを純真な天使のように思っていたのだ。
(天使、なんて。私らしくもない)
『現代の天使』と称される、陸の兄のことを思い出してしまった。彼にも自分たちの関係は秘密だ。……というか、絶対に知られるわけにはいかない。成長して、再会してすぐの頃は冷ややかな視線を寄越してきた彼も、最近ではずいぶんと態度が軟化し、ブラコンぶりを発揮することが増えてきたのだから。大事な弟に恋人、しかもそれがグループのメンバーで同性とくれば、……あぁ、想像しただけで恐ろしい。高校を卒業して、陸と一線を越える日がきても、自分たちの関係はトップシークレットにしておかなければ。
「……一織?」
ぐるぐると考えごとをしている一織に、強引に約束を取り付けたのがまずかったのかと陸の瞳が曇る。
「あぁ、いえ。……その、約束、はわかりました。私も男ですから、二言はありません」
「へへ、それでこそ一織。……なぁ、キスならいいんだろ? じゃあさ、もう少し時間があるし、…………だめ?」
だめ? と尋ねながらも断る隙を与えない陸は、そのまま一織の背に腕を回す。もちろん、断るつもりはないので。
「ほどほどに、なら」
自分たちはアイドル。唇を腫れさせた状態で仕事をするなんてもってのほか。表向きの理由はそれだけれど、実際のところは、ほどほどにしておかないと、卒業までキスだけで我慢することがつらくなってしまうから。
はぁい、と甘い返事とともに、また、やわらかな唇が重ねられた。