おねだり
スーパーマーケットやコンビニエンスストアではチョコレートの特設コーナーがもうけられ、百貨店の洋菓子売り場は毎日のように賑わいを見せていた。各テナントに設置されたカタログは彩り豊かなラッピングとともに甘いものからほろ苦いものまで網羅したチョコレートの写真で埋め尽くされており、一部の客はこの無料カタログにも価値を見出していると聞いた。和泉家の実家も、毎年一月末から二月中旬の季節限定メニューには、チョコレートをふんだんに使ったケーキを陳列している。製菓業界の陰謀と言われるバレンタインデーの、日本ならではの風習。
さて、本日の一織はというと、久々のオフを使って実家に顔を出すべく、朝早いうちに寮を出発していた。
「別に、ついてくる必要はなかったんじゃないんですか」
はぁっとついた溜息が白く濁るのは冬の寒さのせい。一年でもっとも寒いとされる日はとうに過ぎたというのに、今のほうが寒い気がしてならない。この先、三寒四温と呼ばれる日々を乗り越えて春がくるわけだが――こうも寒いと、本当に春がくるのだろうかと怪しむ気持ちが湧いてしまう。結局、なんだかんだと言って毎年いつの間にかあたたかくなり、マフラーや手袋の出番が減って、ダウンジャケットからチェスターコート、そして、スプリングコートを羽織るようになるのだが。
「なんだよ、その言い方! かわいくないなぁ!」
「かわいくなくて結構です」
そう言いながらも陸の歩く速度に合わせてしまうのは、一織が本心ではいやがっていないからだ。
「こんな寒い日に。せっかくのオフなんですから、寮でみなさんとゆっくりしたほうがよかったはずだと言ってるんです」
「そうは言ってなかったじゃん」
ああ言えばこう言う。一織の言葉に対して隣でむくれる陸を盗み見ながら、栗鼠みたいだと思ってしまった。小動物に弱い一織の脳内では、栗鼠の格好をした陸が、どんぐりを両手で持ってきょろきょろしている様子が浮かんでいる。
(か、かわ……っ)
自分の勝手な妄想で陸を小動物化した一織は口許を手で覆い、こっそりと身悶えた。陸はというと、隣を歩く男にそんな妄想をされていることなど露ほども知らず、手袋をはめた指先で手遊びをしながら、一織に話しかけるタイミングを窺っていた。なにも、用もなしについてきたわけではないのだ。
「あの、さ。一織のとこのお店で、オレ、買いたいものがあるんだけど」
「……それで、ついてきたんですか?」
わずかに瞠目し、陸を見遣る。心なしか頬が赤くなっているように見えるのは、寒さのせいだろうか。
「一織も三月も、自分のとこのお店が一番って思うだろ? 一番って思うところで買いたくて」
「言ってくだされば、わざわざついてこなくても買って帰りましたけど」
どんなものが陳列されているか。当然だが、陸よりも一織のほうが認識している。数あるメニューの中でもっとも評判がいいものだって、両親にひとこと聞けばわかることだ。わざわざ陸が、この寒い中、足を運ぶ必要はないのでは?
「もー……おまえ、頭いいくせに鈍感。にぶちん」
「は? いきなりなんなんですか?」
声を上げたことで、すれ違った通行人がこちらをちらりと見た。住宅街とはいえ、往来でアイドルが言い争いをしているなんてイメージの低下でしかない。一織は慌てて咳払いをし、通行人から身を隠すように顔を背けた。
「わっ」
顔を背けた弾みで足許がふらつき、陸に寄り添うような体勢になってしまう。
「……っ、すみません」
思わず近くなった距離に動揺し、足がもつれそうになりながらも元の距離になるよう、一歩、右へずれる。
「いいよ。ちょっとびっくりしただけだから」
「いえ。……あぁ、もう」
鈍感と言われていらだったはずなのに、ふらついた一織を心配する陸の表情に申し訳なさと恥ずかしさが湧いて、いらだちが消えてしまった。
「だってさ、一織、なにがほしいか教えてくれないんだもん」
「え?」
むっと唇を尖らせる陸の意図するところがわからない。自分はなにか尋ねられていただろうか。ここ最近の会話を思い返して、しばらくしてから「あ」と気が付いた。
――一織。お菓子つくりたいんだけどどんなのがいいかな?
――は? やめてください。片付けを増やすだけですよ。
――はぁっ? なんだよそれ!
付き合うようになって初めて迎えるバレンタイン。本命なら手づくりだろうという雑誌やインターネットの記事をそのまま素直に受け取った陸は、一織にどんなものが食べたいか聞いたのだが、憎まれ口で返されてしまった。失敗しない自信はあるけれど、一織がおいしいと思うものを贈りたい。これから毎年繰り返されるイベント。出だしが肝心だ。
「一織が素直におねだりしてくれたら、オレが腕によりをかけてとびっきりおいしいチョコ用意したのになぁ」
「は? ……は?」
洋菓子店の息子ともあろう者が、バレンタインを失念していたなんて。ポケットからスマートフォンを取り出してカレンダーを確認する。
(二月十四日……!)
その場に蹲り、頭を抱える。
どうりで、道行く人々がカラフルな紙袋を持っているわけだ。
(というか……)
〝おねだりしてくれたら〟なんて。その言葉選びにどきどきしてしまう。
「一織?」
蹲ったまま動けないでいる一織を心配し、陸もその場にしゃがみ込む。
かわいい恋人の、かわいい言葉選びによる破壊力の大きさたるや。往来の四角になっていることを素早く確認し、指先を絡める。
「……わかりました。ですが、せっかくなら、私もあなたに贈りたい。なので、七瀬さんもおねだりしてください」
寒い冬だというのに、頬が熱い。コートを着ている背中はじっとりと汗ばんでいて、いつまでも道の端でしゃがみ込んでいては風邪を引いてしまいかねない。早く頷いてほしくて、陸が「わかった」と言ってくれるよう、視線でねだった。
さて、本日の一織はというと、久々のオフを使って実家に顔を出すべく、朝早いうちに寮を出発していた。
「別に、ついてくる必要はなかったんじゃないんですか」
はぁっとついた溜息が白く濁るのは冬の寒さのせい。一年でもっとも寒いとされる日はとうに過ぎたというのに、今のほうが寒い気がしてならない。この先、三寒四温と呼ばれる日々を乗り越えて春がくるわけだが――こうも寒いと、本当に春がくるのだろうかと怪しむ気持ちが湧いてしまう。結局、なんだかんだと言って毎年いつの間にかあたたかくなり、マフラーや手袋の出番が減って、ダウンジャケットからチェスターコート、そして、スプリングコートを羽織るようになるのだが。
「なんだよ、その言い方! かわいくないなぁ!」
「かわいくなくて結構です」
そう言いながらも陸の歩く速度に合わせてしまうのは、一織が本心ではいやがっていないからだ。
「こんな寒い日に。せっかくのオフなんですから、寮でみなさんとゆっくりしたほうがよかったはずだと言ってるんです」
「そうは言ってなかったじゃん」
ああ言えばこう言う。一織の言葉に対して隣でむくれる陸を盗み見ながら、栗鼠みたいだと思ってしまった。小動物に弱い一織の脳内では、栗鼠の格好をした陸が、どんぐりを両手で持ってきょろきょろしている様子が浮かんでいる。
(か、かわ……っ)
自分の勝手な妄想で陸を小動物化した一織は口許を手で覆い、こっそりと身悶えた。陸はというと、隣を歩く男にそんな妄想をされていることなど露ほども知らず、手袋をはめた指先で手遊びをしながら、一織に話しかけるタイミングを窺っていた。なにも、用もなしについてきたわけではないのだ。
「あの、さ。一織のとこのお店で、オレ、買いたいものがあるんだけど」
「……それで、ついてきたんですか?」
わずかに瞠目し、陸を見遣る。心なしか頬が赤くなっているように見えるのは、寒さのせいだろうか。
「一織も三月も、自分のとこのお店が一番って思うだろ? 一番って思うところで買いたくて」
「言ってくだされば、わざわざついてこなくても買って帰りましたけど」
どんなものが陳列されているか。当然だが、陸よりも一織のほうが認識している。数あるメニューの中でもっとも評判がいいものだって、両親にひとこと聞けばわかることだ。わざわざ陸が、この寒い中、足を運ぶ必要はないのでは?
「もー……おまえ、頭いいくせに鈍感。にぶちん」
「は? いきなりなんなんですか?」
声を上げたことで、すれ違った通行人がこちらをちらりと見た。住宅街とはいえ、往来でアイドルが言い争いをしているなんてイメージの低下でしかない。一織は慌てて咳払いをし、通行人から身を隠すように顔を背けた。
「わっ」
顔を背けた弾みで足許がふらつき、陸に寄り添うような体勢になってしまう。
「……っ、すみません」
思わず近くなった距離に動揺し、足がもつれそうになりながらも元の距離になるよう、一歩、右へずれる。
「いいよ。ちょっとびっくりしただけだから」
「いえ。……あぁ、もう」
鈍感と言われていらだったはずなのに、ふらついた一織を心配する陸の表情に申し訳なさと恥ずかしさが湧いて、いらだちが消えてしまった。
「だってさ、一織、なにがほしいか教えてくれないんだもん」
「え?」
むっと唇を尖らせる陸の意図するところがわからない。自分はなにか尋ねられていただろうか。ここ最近の会話を思い返して、しばらくしてから「あ」と気が付いた。
――一織。お菓子つくりたいんだけどどんなのがいいかな?
――は? やめてください。片付けを増やすだけですよ。
――はぁっ? なんだよそれ!
付き合うようになって初めて迎えるバレンタイン。本命なら手づくりだろうという雑誌やインターネットの記事をそのまま素直に受け取った陸は、一織にどんなものが食べたいか聞いたのだが、憎まれ口で返されてしまった。失敗しない自信はあるけれど、一織がおいしいと思うものを贈りたい。これから毎年繰り返されるイベント。出だしが肝心だ。
「一織が素直におねだりしてくれたら、オレが腕によりをかけてとびっきりおいしいチョコ用意したのになぁ」
「は? ……は?」
洋菓子店の息子ともあろう者が、バレンタインを失念していたなんて。ポケットからスマートフォンを取り出してカレンダーを確認する。
(二月十四日……!)
その場に蹲り、頭を抱える。
どうりで、道行く人々がカラフルな紙袋を持っているわけだ。
(というか……)
〝おねだりしてくれたら〟なんて。その言葉選びにどきどきしてしまう。
「一織?」
蹲ったまま動けないでいる一織を心配し、陸もその場にしゃがみ込む。
かわいい恋人の、かわいい言葉選びによる破壊力の大きさたるや。往来の四角になっていることを素早く確認し、指先を絡める。
「……わかりました。ですが、せっかくなら、私もあなたに贈りたい。なので、七瀬さんもおねだりしてください」
寒い冬だというのに、頬が熱い。コートを着ている背中はじっとりと汗ばんでいて、いつまでも道の端でしゃがみ込んでいては風邪を引いてしまいかねない。早く頷いてほしくて、陸が「わかった」と言ってくれるよう、視線でねだった。