誓い
*2019年2月11日発行いおりくプロポーズアンソロジー『Double Concerto』 寄稿作文
一織と陸は、これまで何度も誓いを交わしてきた。初めは、一織が陸をスーパースターにすると言った時。それから、陸の幸せをキープしてみせると言った時。もちろん、一織からだけではなく、陸からも誓いを立てたことがある。コントロールさせてほしいと請う一織に対し、条件として、自分を置いていかないことを提示した。もちろん、自分も置いていかないからと。それらの言葉はまるで、恋人たちの密約のよう。一織の熱烈な言葉が陸の耳をくすぐるたび、陸の鼓動は高鳴った。
(でも、オレと一織って今はそういうんじゃないんだよなぁ)
まるで愛の告白。誰が聞いてもそう思う言葉たちを独り占めしているのに、一織と陸の今の関係は、IDOLiSH7のメンバーであること、ただそれだけ。当時の自分たちはまだまだ青く、恥ずかしいくらいの言葉を、心地いいとさえ感じていた。
あれから三年。陸は二十一歳となった。ありがたいことに、現在のIDOLiSH7は、新曲を発表すればデイリーランキング・ウィークリーランキングのトップを独占、広い野外ライブでもチケットは一分で完売する状態で、正真正銘、大ヒットアイドルといえる。もちろん、この業界での先輩であり好敵手でもあるTRIGGERやRe:valeは、三年経過した今でも、IDOLiSH7と競い合う戦友だ。そして、デビューしたての頃はIDOLiSH7に対して敵意を見せていたŹOOĻとも、彼らの所属する事務所の方針が変わったことを機に、良好な関係を築くことができつつある。
つまり、それだけの年月が経過しているということだ。それなのに、一織と陸の間にあるものは、彼らが出会った頃とあまり変わらない。――いや、出会った頃とあまり変わらない関係に戻ってしまった、といったほうが正しい。変わらないことはいいことなのか、それとも、よくないことなのか。断定することはできないけれど、ひとつ言えるのは、陸が現状に満足していないということ。
「うわ……」
つけっぱなしにしていたテレビから乾いた音が聞こえ、陸の意識は思考の渦から現実へと引き戻される。画面の中では、ヒロインが恋人の頬を平手で殴り、うるうると瞳を揺らめかせている真っ最中。
(やば……ぼーっとしてて見てなかった)
ヒロインの相手役は大和。デビュー前からその演技力が高く評価されてきた彼は、演技力に更なる磨きをかけ、今では、毎クールなにかしらのドラマに引っ張りだこだ。今クールでは恋愛ドラマに出演していて、以前出演していたミステリードラマで演じたサイコパスな科学者とは似ても似つかない、青臭さが残る青年の役を演じている。メンバーの出演作だからという贔屓目を抜きにしても、陸はこのドラマをおもしろいと思っている。毎週欠かさず録画しながら、都合がつけばリアルタイムで視聴したり、仕事が入っている時はオフの日に再生したりと、すっかりこのドラマにはまっているのだ。
思考の渦にのまれて見逃していたぶんだけ、巻き戻しボタンを押す。先週のラストは、大和扮する役がヒロインに復縁を迫るところで終わった。今週はその続きからで、さきほど平手打ちを食らっていたところから察するに、ヒロインとしては素直に復縁の申し出を受け入れられないのだろう。しかし、瞳を潤ませていたことや、そもそもこのドラマのヒロインの相手役が大和であることから、すったもんだの末に元鞘に納まることが推測される。あぁ、だめだ、推理ドラマじゃあるまいし、もっと素直にドラマを見たい。陸は小さくかぶりを振って、リモコンのボタンから指を離した。
『あなた、いつもそうやって喜ばせるけど、それだけだった!』
あぁ、このヒロインのせりふには共感してしまう。
「そうだよ、一織ってばオレのこと喜ばせてばっか!」
ぼすん、とクッションに拳を落とす。小鳥遊事務所の寮を出て一年、陸は事務所近くのマンションで一人暮らしをしている。このクッションは寮にいた頃から愛用している、陸を慰めてもくれるし、だめにもしてくれる、絶妙なやわらかさを誇るもの。いらだつことがあるとこうして八つ当たりしてしまうけれど、このクッションはそれすらも甘く受け止めてくれる、とても優しいやつだ。クッションを殴って少々の埃を立てたところで、それを咎める者がいないことも、陸の拳を振り下ろさせてしまう一因だろう。
(一織……)
一織と陸の関係は、二度、変わっている。一度目は陸が十八歳の頃。陸のことをコントロールさせてほしいと申し出た一織が、顔を覗き込んで切々と説くものだから、思わずくちづけてしまった。顔を真っ赤にして「どうして」と尋ねる一織に、薄灰色の瞳があまりにもきれいで、吸い寄せられてしまったのだと、同じく顔を真っ赤にしながら、陸は打ち明けた。その夜、二人の関係は確かに変わった。
初めてのキス。初めての恋人。文字通り世界がきらきらと輝いて見えたし、仕事にもこれまで以上に熱が入った。いつだって自分の隣に大好きで大切な仲間が、恋人がいるだけで、陸は強くいられた。その時の陸は、今の自分が、これまでの人生でもっとも強い自分だと思っていた。一織と一緒なら、なんだってできる気がする。そう語る陸に一織はまなじりを赤く染めながらも喜び、陸にくちづけた。もっととねだる陸の身体に覆い被さり、心身ともに、一織は陸の奥深くまで入り込んだ。
関係が再び変わったのは、陸が二十歳になった時。小鳥遊事務所で新しい男性アイドルグループ育成の計画が持ち上がり、IDOLiSH7は寮を出ることとなった。もちろん、強要されて退寮したのではない。自分たちが暮らしながらも新人を受け入れるだけの部屋数はじゅうぶんにあるのだが、メンバー間の関係を深めるためにも、新人たちだけで寮生活をさせたほうがいい。自分たちの生活力を養うためにも、ここを出たほうがいい。大和のその提案に、陸を含め皆が賛成し、七人ともが寮を離れた。
しかし、当時の一織は十九歳の未成年。日本の最高学府で経営を学びながらアイドル活動をしている身。ただでさえ多忙な身で衣食住をやりくりするなんて、負担が大きいに違いない。実兄である三月は心配したし、陸はというと、退寮を機に同棲なんてどうかなと考えた。しかし、一織はそのどちらも固辞し、皆と同じく単身での生活を選んだ。
『ずっと一緒にいようって言ったくせに!』
テレビから聞こえる、ヒロインの訴えるような声が耳に突き刺さる。一織とも、そうだった。皆に秘密とはいえ、交際して二年。元々、ファンからは、一織と陸はメンバー内でも仲がよさそうだと思われているのだし、同棲みたいだとからかわれたらルームシェアだと言えばいい。置いていかないから置いていかないでと言った自分に頷いてくれたのだから、一緒にいたい気持ちは同じはず。そう言って同棲を持ちかけた陸に対し、一織は首を縦に振ることはなかった。だからといって、自身の持病をだしに食い下がるほど落ちぶれたことはできなくて、陸はそのまま引き下がってしまったのだ。
離れて暮らすようになってしまうと、もう、だめだった。決定的な別れの言葉なんてものがなくても、たとえば会う頻度、電話やラビットチャットの内容……それらから、自分たちの関係は、このまま終わらせたほうがいいのだとわかってしまった。
そうして、あの二年間の甘い日々はなんだったのかと思うほど、一織と陸の関係は、元からなにもなかったかのように『IDOLiSH7のメンバー』に戻ってしまったのだ。
再生していたドラマの今週分が終わり、自動的に画面がテレビ放送へと切り替わる。あぁ、録画を再生する前、テレビはこの局を選択していたのだったなと思い出す。陸は引き続き、画面を眺めた。録画していたドラマを見終えたら、一織が出演している情報番組の時間になるように予定を調整していたのだ。途中でドラマを巻き戻したから最初の数分間を見逃してしまったけれど、これも録画するよう設定してあるから問題ない。一織が担当するコーナーは番組開始から十五分ほど経過してからだ。
そうこうしているうちに待ちかねていたコーナーが始まり、陸は小さく声を上げた。
(襟足、ちょっと切った?)
単独での仕事も多く、グループでの活動に留まらない自分たち。寮生活をしていた頃はすぐに気付いたこんな些細な変化さえ、今はテレビ越しに知ることも少なくない。
『それでは次のコーナーです』
一織の透き通った声が、テレビ越しに聞こえてくる。一年前まで、この声を耳許で聞いていた。陸を叱る言葉、愛を囁く言葉……一織の言葉のすべてが陸には心地よくて、眠る時間を遅くしてでも、もっと聞いていたいと、よくねだったものだ。陸が乞う視線に一織は抗えないことが多くて、溜息をつきながらも、寝物語に、子守唄にと聴かせてくれた。
「会いたいなぁ……」
仕事では会っているけれど、プライベートで会いたい。
『そういえば、IDOLiSH7の七瀬陸くんが四月にソロでカバーアルバムをリリースするって発表されましたよね』
一織の担当するコーナーが終わろうかというところで自分の名前が飛び出し、動揺から陸はがばりと身体を起こす。
『えぇ。……と、ここで私がその話題に言及すると、宣伝になりませんか?』
『いいよいいよ、ちょっとくらい。ねぇ?』
司会者の言葉にスタッフが頷いたのか、一織はこほんと咳払いをひとつ落とし、言葉を続ける。
『ありがとうございます。うちの七瀬による渾身のカバーアルバム、期待以上のものをお聴かせしますので、どうぞよろしくお願いいたします』
まっすぐにカメラを見据える瞳に、陸の心臓が大きな音を立てた。一織はいつだって、陸の歌に、歌声に、絶大な信頼を寄せてくれている。他のメンバーをないがしろにするつもりはないけれど、他の誰でもない一織が自分のことを誇りに思ってくれているだけで、陸はいつだって強くいられた。……いられた、はずだった。
(なのに、オレときたらいつまでも一織とのこと引き摺って……)
仕事で手を抜くことはない。尊敬するライバルでもある天から、過去に教えられているからだ。手を抜いてはいないけれど、自分が以前よりも弱くなったように感じてしまう。
自分には、以前ほどの輝きがないのでは? そう思うのに、一織ときたら、こんなにもまっすぐな視線で陸のことを語ってくれている。
『あぁ、私、覚えてますよ。昔、きみたちのライブに行ったんだけど』
出演者の一人が、自分たちのライブに来てくれたことがあるらしい。番組の放送時間の都合もあって、あまり詳しくは語られなかったものの、それが『RESTART POiNTER』を初披露した時のもので、自分たちのMCに涙が止まらなかったということはわかった。
(懐かしいなぁ……)
あの日のことはよく覚えている。一織と相談した結果、話す内容は敢えて決めず、ステージの上で、その時に心に浮かんだ言葉を声にした。あの時はまだ一織と交際していなかったけれど、そういえば、あの時の一織の言葉だって、熱烈な告白を思わせるようなものが混じっていたなと思い出す。事実、あの日の夜、SNSで反応を探ったら『付き合ってる宣言するかと思った』なんてものがあって、それを見た大和が爆笑したものだ。
「本当、おまえってオレを喜ばせることにおいては天才だったよなぁ」
そのくせ、一番の願いは受け入れてくれないのだから意地が悪い。……いや、意地が悪いのではなく、単に拒絶されたといったほうがいいのかもしれない。
ぼんやりとテレビの画面を眺めながら、さきほどの一織の発言を反芻する。
(恥ずかしいな、一織のやつ。しかもプレッシャーかけてきたし)
レコーディングは既に終えていて、近々、サンプルが事務所へ送られてくる予定になっている。結成当初から自分たちを支えてくれているマネージャーと、これまで何曲もIDOLiSH7のレコーディングを請け負ってくれたプロデューサー陣だから信用しているけれど、一体どんなものができあがるのか、どうしても不安が拭えない。そのうえ、テレビの中の一織に「最高のものを聴かせる」などと言われて、……必要以上にプレッシャーを感じてしまうのも無理はないだろう。
番組のエンディングを見届けてからテレビの電源を切り、ベッドへと向かった。この番組での一織の出番は一週間に一回、毎週火曜日だ。明日はグループでの仕事もないし、一織の顔を見るための理由づくりもできない。
「一織の、ばーか……」
ばかって言いました? と眉をつり上げて怒っていたあの頃の一織の表情を思い浮かべる。あの頃の自分たちは本当に、なにも知らない子どもだった。恋を知って、知り過ぎてしまった今の自分に、あの頃の面影はない。
(大人になるって、案外、呆気なかったなぁ……)
大人になれば、自然と上手に恋愛ができるようになると思っていた。くだらない喧嘩なんてしなくなって、大人っぽいデートプランが立てられるようになって、永遠だって誓えるようになるのだと、そう思っていた。それなのに。
「全然、だめだったな……」
自然消滅と呼ばれる終わり方をしたのに、いつまでも過去にとらわれて、未練たらしく一織のことを想っている。二十歳になった頃から、雑誌のインタビューで恋愛観を尋ねられることが増えた。アイドルとして売り出している以上、迂闊な発言はできないから、回答するのは決まって『アイドルらしいもの』ばかり。語尾に必ず「まだまだ仕事と、ファンの皆さんが大事なので、全部、理想論ですけど」と付け加えている。誌面に掲載される七瀬陸の恋愛観はきらきらと輝いた表現ばかりだけれど、実際の自分ときたら、だめになってしまった恋愛を一年経っても忘れられず、取り戻そうと動くこともせず、ただ、仕事をすることで考えないふりをしているだけ。停滞という言葉が似合っている。
◇
五日後。雑誌の仕事を終えた陸が帰路についたタイミングで、マネージャーの紡からラビットチャットが届いた。
『陸さん、アルバムの件ですが、マスタリングまで終わったということでサンプルが届きました! つきましては、陸さんにも聴いていただきたいのですが、明日か明後日にでも事務所に寄っていただけますか? 先方へのお返事も必要なので』
ソロアルバムの件だ、と陸の瞳が輝く。
(どうしよう、すぐにでも聴きたい!)
明日か明後日、なんて待っていられない。陸はそのまま、返信ではなく電話をかけた。
「お疲れさまです、陸さん」
「マネージャー、撮影もう終わったから、今から事務所行ってもいい? オレ、早く聴きたい!」
紡はこれからナギの仕事に同行する予定になっていたが、事務所に万理がいるため、万理に言づけておいてくれるとのことだった。電話を切ると、変装のために被っていたキャップ帽を目深に被り直す。一織が見たら、走らないでと注意するかもしれないけれど、ゆっくり歩くなんてできそうにない。一分一秒でも早く事務所へ行って、聴きたい。なんとなく、早く聴かなければならないような気がした。
(サンプル聴いたら、一織に報告してもいいかな)
仕事に関することでなければ、自分から連絡することもなくなってしまっている。今の陸にとって、仕事に関する報告をすることは、一織に連絡を取る口実でもあった。女々しくて自分でもいやになるけれど、誰になにを言われようとも、陸は今でも一織のことが好きで好きでたまらない。
事務所に着くと、万理が出迎えてくれた。
「お疲れさま、陸くん。話は聞いてるよ。はい、これサンプル」
万理のノートパソコンにサンプルデータを入れて、準備してくれていたらしい。陸は自分のバッグからイヤホンを取り出すと、逸る気持ちを抑えて、ケーブルを差し込んだ。一曲目から再生し始めると、仮歌を聴いた時から何度も練習した、すっかり耳に馴染んだ前奏が始まる。瞳を閉じて、レコーディングをした時のことを思い出しながら、陸はメロディに身を委ねた。
今回、陸がソロで発表するのは、著名な曲のカバーを集めたアルバム。アイドルを目指す前から知っている曲はもちろん、まだ陸が生まれる前の曲も含まれている。
歌詞が描く世界を頭の中に浮かべていると、ふわりと芳ばしい香りが鼻を掠め、そっと瞼を開いた。万理がコーヒーを淹れてくれたらしい。
「ありがとうございます」
ちょうど曲と曲の間だったということもあって、一時停止してイヤホンを外す。
「どう? サンプル」
「もう何曲も歌ってきたのに、毎回、緊張しちゃいますね」
陸の言葉にまなじりを下げた万理は、さきほどまで聴いていた曲の、次の曲を再生するよう促した。
有名なブロードウェイ・ミュージカル。数ある作品の中でも、音楽に強いテーマを持っており、劇中に登場する曲の多くが、映画音楽のようだとも言われている。陸が好きな童話の裏話として描かれた小説をもとに構成した作品ということもあって、レコーディングが終わった日には、部屋に置いてあるその童話を読み返したものだ。その作品の中から一曲が、このカバーアルバムの収録曲リストに名を連ねている。劇中で二人のヒロインが歌うその曲を、陸が一人で歌うことに違和感を抱かなかったわけではない。一人で二人分のパートを収録しながら、どうしてこの曲を……と疑問に思っていた。
「……万理さん、これ」
元々、自分は涙もろいほうだという自覚はあった。でも、こんなの、ずるい。
「その曲ね、紡さんがこの曲を是非ってプロデューサーに提案して、一織くんにっていう話になったんだって。アルバムには、特別出演として小さくクレジットされることになっていて……あぁ、このことを俺が言ったっていうのは内緒にしてね」
収録曲が決まった時、この曲は、劇中で反発し合いながらも友情を育んだヒロインたちが、道を分かつことになった場面で歌われるもので、学生の卒業式に歌われることもあると聞いた。素直になれず喧嘩ばかりしたこと、それすらも愛おしい思い出だと懐かしみながら、自分を変えてくれた相手を敬い、互いを認め、今後もう会えなくとも、決して心は離れないと誓うもの。相手のことを、自分の中で永遠に輝き続ける宝物だと歌うものだ。
甘く透き通った一織の声が、少し鼻にかかった陸の声に重なる。
「……陸くん」
万理が差し出してくれたハンカチをありがたく借りることにする。
「万理さん、オレ、…………」
一織との交際は秘密だった。メンバーにも、事務所にも、自分たちそれぞれの兄にも、言わなかった。きらきらした時間と夢を魅せるアイドルに、生々しい恋愛事情は不釣り合いだから。秘密裏に恋愛をしているアイドルなんてごまんといるかもしれないけれど、ファンを落胆させることがあってはならない。周囲のことを信頼していないのではなく、信頼しているからこそ、当時の一織と陸は、自分たちの交際を秘密にした。
(どうしよう、万理さんはオレたちが付き合ってたこと、知らないし)
でも、曲を聴いて、あふれる気持ちを抑えられない。
「陸くん、大人になったよね」
「……え?」
「昔は危なっかしくて。……みんなも危なっかしかったんだけど。IDOLiSH7のみんなが寮を出るってなった時、本当のこと言うと、大丈夫かな? って心配したんだ。いくら仕事で顔を合わせていても、誰もいない真っ暗な部屋に帰るわけだろう? さみしくなってしまうんじゃないか、って心配だった」
寮を出て、一織と毎日顔を合わせられなくなってすぐの頃を思い出す。本当は、さみしかった。さみしくて、どうして一織に会えない日があるのだろうと思った。けれど、さみしいなんて格好悪くて言えなかった。勇気を出して「会いたい」と言ってみようとしたけれど、すぐ傍にいた頃はどうやって会話していたのかすら思い出せなくて、気持ちを声に出すことができなかった。その結果、一織とすれ違うようになってしまったのだ。
万理は言葉を続ける。
「環くんは部屋に帰りたがらなくて、今でも大和くんや壮五くん、三月くんの部屋に遊びに行ってるけど。あぁ、俺の部屋にも来たりするんだよ。でも、……さみしさを知ってるはずのきみが、誰にも甘える様子を見せなくて、社長と、心配してたんだ」
「社長と?」
何度か音晴に「一人暮らしは順調かい?」と尋ねられたことを思い出す。あの時は笑って誤魔化していたけれど……。
「時折、さみしそうな顔を見せるわりに、なにも言わないからね。年上の俺や、きみのご両親くらいの年齢である社長があまり何度も言うと、その言葉さえも負担に感じてしまうだろうから、自分に任せてほしいと…………ある人に、言われたんだよ」
含みを持たせた万理の言葉に「まさか」という気持ちが過る。
「万理さん、それって」
「今の陸くんなら、もっといろいろなことを上手にできるんじゃないかなって俺は思ってる。仕事はもちろん、人間関係も。毎晩、眠る前に考えていたこと、今、どう思う?」
毎晩、眠る前に考えていたこと。一織のことだ。
先にコーヒーを飲み終えたらしい万理がマグカップの持ち手で指先を遊ばせる。
「彼は不器用な男だなと思ったよ。人生の先輩である俺からすれば、まだまだ未熟者」
あぁ、やはり万理は一織と陸の間になにかあったということを察しているのだ。それが恋愛感情だったかまで把握しているのかはわからないけれど、少なくとも、陸にとっての一織が他のメンバーとは同じではないことに、気付いている。
こぼれ落ちそうになった涙を袖口で拭い、残っているコーヒーを一気に飲み干した。本当は、すぐにでも駆け付けたい。しかし、自分はもう大人で、やらなければならないことを放棄していい立場ではない。
「万理さん、オレ……これ聴き終わったら、あいつのとこ、行ってきます」
陸の言葉に、万理はにっこりと頷いた。
アルバムのサンプルを聴き終え、ラビットチャットで紡に報告を済ませると、陸はバッグを掴んで勢いよく立ち上がった。
「万理さん、その……ありがとうございました!」
陸はがばりと頭を下げ、事務所のドアを開く。物語風にいえば、このドアを開くとともに、陸の鬱屈していた気持ちも解放されたような気がした。
「どういたしまして」
ドアが閉まって、陸の足音も去ってから。二人分のマグカップを片付けようとした万理は、ふと手を止め、ポケットのスマートフォンを取り出した。
(青いなぁ)
もう青くない、成熟した、というには早過ぎる。成年を迎えても、中身はまだ大人とは言い切れない。それでも、彼らなりにアイドルとしてよくやっていると思う。一織と陸の間にあるものがなんなのか、実のところ、万理にはわかっていない。ただ、IDOLiSH7のメンバーとしてだけでなく、なんらかの深い事情があるように思えたのだ。親愛の情という言葉では言い表せられないほどの、なにかが。
ラビットチャットで一織とのトークルームを開く。
(うまくいくと、いいんだけどな)
願わくは、彼らが、さみしそうな表情を見せることがなくなりますように。スマートフォンを仕舞い込むと、今度こそ、万理はマグカップを片付けようと腰を上げた。
(……って、今日の一織ってどうしてたっけ)
一織が一人暮らしをするマンションは、事務所から十五分ほど歩いたところにある。事務所を中心点とすると、陸のマンションとは真逆の方角だ。これは、彼が大学へ通うにあたっての利便性を考えてのこと。
事務所を出てからなにも考えず一織の住まいへと向かって歩き始めたものの、一織が在宅しているかまでは確認していなかった。この時間であれば、まだ大学かもしれないし、陸が把握しきれていない単独の仕事が入っている可能性だってある。
逸る気持ちを抑え、バッグからスマートフォンを取り出すと、ラビットチャットで一織とのトークルームを開く。最後にやりとりをしたのが半月も前なことに笑えてくる。寮で生活していた時は、すぐ隣の部屋にいても毎日のようにやりとりをしていたのに。
(……今は感傷に浸ってる場合じゃない)
一織の予定を確認しようと簡単な言葉で送信する。しばらくそのままディスプレイを眺めるも、すぐに既読となる様子はなく、陸は大きな溜息をついた。
(そうだよな、一織だって忙しいし)
落ち込むよりも、落ち着く時間がもらえたと考えよう。そんな気持ちになれたのは、自分がどうするべきか、なにを言いたいかがはっきりと見えているから。
一度、自分の住むマンションへ戻ろう。陸はそう決めて、踵を返した。
陸からのラビットチャットが届いた頃、一方の一織はというと、陸の予想通り、大学で講義を受けている最中であった。高校生の頃は授業中にスマートフォンを見ることなどなかったのだが、最近は単独の仕事が増えたこともあって、こっそりと差出人を確認し、相手が紡か音晴だった場合にだけ、メッセージの内容に目を通すことにしている。
昼休みのうちに、紡からは陸がソロでリリースするカバーアルバムのサンプルが事務所に届いたという連絡を受けていた。それに対しては夕方、大学からの帰りに事務所に立ち寄ることを返信してある。
(大神さん……? と、七瀬さんからも)
マネージャーである紡ならまだしも、MEZZO"のマネージャーとはいえ一織にとっては事務所の事務員という立場の万理が、個人的にコンタクトを取ってくることは珍しい。陸からのメッセージは講義が終わってから確認することにして、万理からのメッセージは仕事のことで紡の代わりに連絡をしてきたのだろうと推察し、こっそりと内容を確認することにした。
「……は?」
思わず声が出てしまい、周囲の視線を感じた一織は慌てて手で口を覆う。羞恥で熱くなる顔を誤魔化すように何度か咳払いを繰り返し、今しがた、目にしたばかりのメッセージの内容を反芻した。
(七瀬さんがものすごい形相で私のところへ向かった……?)
万理から送られてきたメッセージに書かれた陸の名前に、どくどくと鼓動が高鳴る。ものすごい形相という文字。心あたりはひとつしかない。
(…………あのこと、だろうか)
一年前まで、自分たちは恋人関係にあった。三年前、唇が触れたことを機に、関係が変わった。その前から一織は陸のことが好きだったし、陸からくちづけられた時、すべてを許されたような気がした。アイドルである彼と恋をすることを、信じてもいない神に許されたと思ったのだ。求められれば身体は熱を孕む。自分も、彼も、互いを求めている。文字通り、互いが互いに溺れていった。
大学生活も二年目となった頃、寮を出ようということになった。当時の自分はまだ十九歳だったことで兄の三月が心配したものの、一人暮らしくらい、どうってことはないと思った。ちょうどそのくらいの時期だっただろうか。雑誌のインタビューで恋愛観を尋ねられることが増えてきた。アイドルだって恋のひとつやふたつ知っていてもおかしくないと世間は見ている。しかし、そう見られているからといって、現在進行形で身を焦がすほどの想いを抱いていることなど明かせるわけがない。相手と想いを結んでいても、だ。
恋に溺れていてはいけない。自分たちは、ファンこそが恋人であるべきだ。ひどい男と罵られる覚悟で、一織は一方的に、陸から離れることを選んだ。
(それなのに、七瀬さんはなにも言わなかった)
少しずつ距離を置く卑怯な自分に、どうしてと尋ねてこなかった。いっそ自分を責めてくれたらよかったのにと思う。こんな考えこそが、そもそもずるいのだろう。けれど、恋愛観を尋ねられるたび、はりついたような笑顔で受け答えをする恋人を見ていられなかったし、お手本のような回答をする自分にも嫌気がさしていた。それらに耐えられるほどの強さが、その時の一織にはなかった。
離れて一年。うまれて初めての恋は、色褪せていくのと思いきや、日に日に強くなる一方。もう、腹を括るしかないのだろうかと思っていた矢先、陸のソロによるカバーアルバムリリースの話が持ち上がった。紡から、特別出演として一曲、参加してはどうかと打診されたのだ。もし、歌いたい曲があれば提案してほしい、とも。
その曲を知ったのは偶然だった。動画配信サイトでIDOLiSH7の新曲MVを見ていた時に、注目動画として画面の端に表示されていたのだ。ジャンルも傾向も違うその動画に、どうして惹かれたのか。過去にTRIGGERのミュージカルを観たことで、ミュージカルへの敷居をあまり感じていないことも、少なからず影響していたのかもしれない。女性キャストが向かい合っているサムネイルがどうしても気になり、一織はその動画を閲覧した。
中身は、ミュージカル終盤で歌われる楽曲を、一曲まるごと収録したもの。恋愛の歌ではなかったが、曲を聴いている最中、陸のことばかりが頭に浮かんでしまった。
陸と過ごした時間は間違いなく、宝物だ。自分の性格が災いして気兼ねなく話せる友人に恵まれなかった一織に、一番初めに話しかけてきたのは陸だった。自然消滅のように終わらせた恋だから、再び想いを結べるなどと都合のいいことは考えていない。ただ、今も想いは変わっていないことだけは伝えておきたいという気持ちが湧いたのだ。
(……都合のいいことばかり言うなと、怒るでしょうね)
そこまで思考を巡らせたところで、本日最後の講義が終了した。堂々とスマートフォンを見ても咎める者はいない。届いていた陸からのラビットチャットを確認すると、現在の居場所を尋ねるものだった。
万理から送られてきたメッセージから察するに、アルバムのサンプルを聴いて、あの曲に気付いたのだろう。ソロでのカバーアルバムなのにデュエット曲なんてと疑問に思いながら、二人分のパートを別録りで収録したことも知っている。マネージャーの紡からの提案で、プロデューサーも了承していることとはいえ、歌い損だと叱られるだろうか。
講義が終わって、このまま真っ直ぐ帰宅するつもりであることを返信すると、ほどなくして陸からのメッセージが届いた。
『じゃあ、オレ、今から一織のとこ行くから。……お願いだから、逃げないで聞いて』
一織はかたく目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をすると『わかりました』と返した。
◇
一織が一人暮らしをするマンションに陸が来るのは、一年ぶりのことだ。メンバーそれぞれが寮を出て、各自がどのような部屋に住んでいるのかと冷やかし半分、引っ越し祝い半分でメンバーの暮らしぶりを全員が見て回ったのが最後。一織だけを陸の部屋に招いたことはあったけれど、恋人としての時間を過ごしたのはそれが最後で、陸が単独で一織の部屋に立ち入るのは、これが初めてということになる。
「コーヒーでいいですか?」
「えっ、あ、うん」
実はコーヒーよりも甘い飲みもののほうが好きなのに、格好つけてブラックコーヒーを飲もうとするところも好きだったのだが、今の一織は本当に、ブラックコーヒーに慣れたらしい。そんなこと、離れて暮らしているから知らなかった。
(……なんか、知らない人みたい)
「どうぞ。インスタントですけど」
「いいよ、ありがと……」
どうして。出されたマグカップを見るや否や、陸は勢いよく一織のほうを振り返った。
(なんで、これ)
ミルクと砂糖を添えられていることも忘れてしまうほど、陸はマグカップのその色から目が離せないでいる。だって、どうして。赤いマグカップなんて。
(期待、するじゃんか……)
曲のことといい、このマグカップといい。未練があるのは自分だけではないような気がしてならない。早く確かめたくて、陸は口を開いた。
「……今日、アルバムのサンプル聴いてきた。どの曲も、こんなふうにアレンジしてくれたんだって、すごく嬉しくなった。早くリリースされないかな、早くみんなに聴いてほしいなって思った」
あぁ、やはりアルバムの話か、と一織は身構える。
「おかしいと思ったんだ、仮歌を聴いた時に、一曲だけデュエットのものがあって。曲の一部で声が重なることはこれまでにもあったけど、一曲まるまるデュエットなのに一人で歌うなんてって。でも、歌詞を見て、素敵な曲だって思ったから二人分のパート、歌ったよ。でも、……なぁ、どうして? どうして、一織が歌ったんだ? 特別出演なんて」
「……すみません。七瀬さんのソロでのアルバムなのに」
「それはいいんだよ。マネージャーもプロデューサーさんもOK出したんだろうし。それに、一織と歌った曲が増えて嬉しかった。オレが聞きたいのは、……オレ、一織のこと、今でも好きだよ。サンプル聴いて、一織もそうなんだって思ったんだけど。違う?」
核心を突く質問。サンプルを聴いた陸から絶対に尋ねられると覚悟していたのに、一織は言葉に詰まってしまう。
(……いや、だめだ。私も、腹を括らなければ)
再び想いを結べるなどと都合のいいことは思っていないが、想いは変わっていないことだけは伝えようと決めたのだ。そして今、陸の口から「今でも好きだ」と聞かされて、一織の心は確かに、歓喜で震えた。ここで逃げるわけにはいかない。腹を括るしかない。
「…………あの時の私は、あのまま、あなたに溺れることが怖かったんです。アイドルとしてファンを裏切るようなことをしてはならない。もちろん、私も七瀬さんも言動には注意していましたし、悟られるようなことがあったとも思えません。ですが、……いえ、だからこそ、息が詰まっていくような気がしたんです。罵られることを覚悟で、自分勝手と思いつつ、あなたから離れた。……でも、すみません。心までは、離れられなかった」
「……うん」
あぁ、一織がせっかく淹れてくれたコーヒーが冷めてしまうかも。そう思ったけれど、今の陸は、コーヒーであたたまるよりも、一織を抱き締めたくて仕方がなかった。立ち上がり、一織の隣に立つと、そっとその頭を抱き寄せる。一織に抵抗する様子はない。
「マネージャーから提案されたんです。特別出演として、アルバム収録曲のうち一曲だけ加わってみては? と。久しぶりに、二人でひとつの曲を歌ってはどうかと」
「マネージャーが?」
こくり、と頷いて一織は言葉を続けた。
「もちろん、断りました。七瀬さんのソロアルバムに他者が介入していいはずがない。買い求める人は七瀬陸のソロに興味があるのであって、グループ内ユニットの再来を求めているわけではありませんから。……ですが、……マネージャーも思うところがあったようです。覚えてますか? 私たちが事務所に入ってすぐ、マネージャーとして新人だったあの人のこと。今では当時とは別人なんじゃないかっていう仕事ぶりで。七瀬さんファンがなにを求めているのか、仕事に対する感想や、SNSから情報を得て、分析して……、一曲くらい、そういったサプライズ要素があったほうがいいと言い出したんです。ソロ曲は各個人、数年前の誕生日に配信限定でリリースしましたが、カバーとはいえソロアルバムは初めての試みです。七瀬さんをお祝いする意味も込めて、一曲だけ、と頭を下げられました」
このサプライズは、ファンだけでなく、本人も喜ぶに違いない。そう熱弁をふるった紡のことを思い出しながら、陸の反応を窺う。
「……うん、確かに。すごくびっくりしたけど、おまえとの歌だって思ったら、なんか嬉しいな。……レコーディングの時から言ってほしかったけど」
「すみません、そこはマネージャーから口止めされてたので」
「曲は? 曲もマネージャーが決めたのか?」
ここまで聞いたのだから、洗いざらい話してもらわないと気が済まない。
「……曲は、私が」
「一織が?」
他の曲と同様に制作会議で決まったのだと思っていた陸は拍子抜けしてしまう。
「制作会議でマネージャーがサプライズの案を出したそうです。本人……つまり私が首を縦に振るならとプロデューサーも好意的だったようで、曲の選定も含め、マネージャーから打診されたんです。それで、以前、動画配信サイトを見ていて偶然知ったあの曲を希望しました。……曲を聴いた時、七瀬さんのことが浮かんだので」
陸の脳裏に、曲の歌詞が浮かぶ。素直になれず喧嘩ばかりしたけれど、それすらも愛おしい思い出。今後もう会えなくとも、決して心は離れないと誓う。
「……今後もう会えなくてもってとこだけはやだな」
自分は今でも一織のことが好きで、そして、多分、一織も同じ気持ちなのだろう。そう気付いたからこそ、道が分かたれる歌なんて縁起でもないことはやめてほしい。
「七瀬さん……」
「オレは、さっきも言ったけど、今でも一織のこと好きだから、……だから、……なぁ、オレたち、もう一度、一緒にいられないのかな」
離れるなんていやだ。そう願いを込めて、一織を抱き締める腕に力を込める。
どれくらい時間が経っただろうか。
「……七瀬さん」
おとなしく抱き締められていた一織が顔を上げた。
「うん?」
自分の肩にのせられていた陸の手を取ると、一織は指を絡めた。そんな触れ方、恋人だった頃にして以来だ。そのまま、絡めた指を解いたり、また絡め直したり。何度も触れては離れる指先は、なにかに逡巡しているようでもあった。
「一織?」
どうしたのだろう。陸の瞳が困惑で揺れるのを見て、一織は生唾を飲み込んだ。絡めていた指を解くと、その手を今度は陸の頬に添える。
「七瀬さん、私ともう一度、……いえ、私と、生涯をともにしていただけますか」
やり直しなんて言葉では言いたりない。もっと強い覚悟をもって、この人とともに歩みたい。もう二度と、逃げたりしない。
一織の瞳にこもった力強い光に、陸の唇が震える。
「……それって」
「結婚するくらいの気持ちで、改めて、交際を申し込ませてください。七瀬陸さん」
困惑に揺れていた陸の瞳が、今度は涙で揺れる。
「それって……プロポーズみたいじゃん」
「……みたい、ではなく……私としては、それくらいの覚悟をもって、もう一度、と」
なんだよそれ、と呟いたと同時、陸の瞳からは、ついに涙がこぼれてしまった。
「~~っ、一織のばか!」
「……すみません」
この一年、自分ばかりが未練たらしく過ごしているのだとばかり思っていた。縋るような真似はできなくて、それでも、さみしさは拭えなくて。ずっとずっと、迷子になった気分だった。
「本当にばか! 結婚するくらいの気持ちじゃなくて、結婚しようくらい言えよ!」
「……結婚、しましょう。いろいろと問題は山積みですけど」
本当、格好つかないな。陸は泣き笑いながら、一織に勢いよく抱き着いた。
「パーフェクト高校生だったくせに、プロポーズはパーフェクトじゃないなんて」
「あれは、……今は、パーフェクトじゃないみたいです」
そういえば、一織が大学生になってからは、パーフェクトというフレーズを聞くことがなかった気がする。
「……どうして?」
「あなたを泣かせてしまううちは、まだまだ精進が必要みたいなので」
ばつが悪そうに視線を逸らす一織を見て、愛おしさが込み上げてくる。
「そっか。じゃあ、オレがいつも笑顔だったら、パーフェクトかもな」
そのためには、いつも隣にいてもらわなければ。多分、今の自分たちなら、うまくやれるはず。
「どうでしょうね。証明するには、一生かかります」
「一生? 一生って言ったな? ちゃんと一生かけて証明しろよ?」
「二度は失敗しません。もう、迷いません。離してもあげません。……ですから、いつも笑顔でいてくださいね」
顔を見合わせて笑い合う。過去に交わしたどんな誓いよりも、重くて、熱烈な誓い。大人になったら永遠が誓えるようになるのではなくて、自分以外の誰かに、なにかに、永遠を誓うほどの覚悟ができることで、人は大人になるのだ。
一織と陸は、これまで何度も誓いを交わしてきた。初めは、一織が陸をスーパースターにすると言った時。それから、陸の幸せをキープしてみせると言った時。もちろん、一織からだけではなく、陸からも誓いを立てたことがある。コントロールさせてほしいと請う一織に対し、条件として、自分を置いていかないことを提示した。もちろん、自分も置いていかないからと。それらの言葉はまるで、恋人たちの密約のよう。一織の熱烈な言葉が陸の耳をくすぐるたび、陸の鼓動は高鳴った。
(でも、オレと一織って今はそういうんじゃないんだよなぁ)
まるで愛の告白。誰が聞いてもそう思う言葉たちを独り占めしているのに、一織と陸の今の関係は、IDOLiSH7のメンバーであること、ただそれだけ。当時の自分たちはまだまだ青く、恥ずかしいくらいの言葉を、心地いいとさえ感じていた。
あれから三年。陸は二十一歳となった。ありがたいことに、現在のIDOLiSH7は、新曲を発表すればデイリーランキング・ウィークリーランキングのトップを独占、広い野外ライブでもチケットは一分で完売する状態で、正真正銘、大ヒットアイドルといえる。もちろん、この業界での先輩であり好敵手でもあるTRIGGERやRe:valeは、三年経過した今でも、IDOLiSH7と競い合う戦友だ。そして、デビューしたての頃はIDOLiSH7に対して敵意を見せていたŹOOĻとも、彼らの所属する事務所の方針が変わったことを機に、良好な関係を築くことができつつある。
つまり、それだけの年月が経過しているということだ。それなのに、一織と陸の間にあるものは、彼らが出会った頃とあまり変わらない。――いや、出会った頃とあまり変わらない関係に戻ってしまった、といったほうが正しい。変わらないことはいいことなのか、それとも、よくないことなのか。断定することはできないけれど、ひとつ言えるのは、陸が現状に満足していないということ。
「うわ……」
つけっぱなしにしていたテレビから乾いた音が聞こえ、陸の意識は思考の渦から現実へと引き戻される。画面の中では、ヒロインが恋人の頬を平手で殴り、うるうると瞳を揺らめかせている真っ最中。
(やば……ぼーっとしてて見てなかった)
ヒロインの相手役は大和。デビュー前からその演技力が高く評価されてきた彼は、演技力に更なる磨きをかけ、今では、毎クールなにかしらのドラマに引っ張りだこだ。今クールでは恋愛ドラマに出演していて、以前出演していたミステリードラマで演じたサイコパスな科学者とは似ても似つかない、青臭さが残る青年の役を演じている。メンバーの出演作だからという贔屓目を抜きにしても、陸はこのドラマをおもしろいと思っている。毎週欠かさず録画しながら、都合がつけばリアルタイムで視聴したり、仕事が入っている時はオフの日に再生したりと、すっかりこのドラマにはまっているのだ。
思考の渦にのまれて見逃していたぶんだけ、巻き戻しボタンを押す。先週のラストは、大和扮する役がヒロインに復縁を迫るところで終わった。今週はその続きからで、さきほど平手打ちを食らっていたところから察するに、ヒロインとしては素直に復縁の申し出を受け入れられないのだろう。しかし、瞳を潤ませていたことや、そもそもこのドラマのヒロインの相手役が大和であることから、すったもんだの末に元鞘に納まることが推測される。あぁ、だめだ、推理ドラマじゃあるまいし、もっと素直にドラマを見たい。陸は小さくかぶりを振って、リモコンのボタンから指を離した。
『あなた、いつもそうやって喜ばせるけど、それだけだった!』
あぁ、このヒロインのせりふには共感してしまう。
「そうだよ、一織ってばオレのこと喜ばせてばっか!」
ぼすん、とクッションに拳を落とす。小鳥遊事務所の寮を出て一年、陸は事務所近くのマンションで一人暮らしをしている。このクッションは寮にいた頃から愛用している、陸を慰めてもくれるし、だめにもしてくれる、絶妙なやわらかさを誇るもの。いらだつことがあるとこうして八つ当たりしてしまうけれど、このクッションはそれすらも甘く受け止めてくれる、とても優しいやつだ。クッションを殴って少々の埃を立てたところで、それを咎める者がいないことも、陸の拳を振り下ろさせてしまう一因だろう。
(一織……)
一織と陸の関係は、二度、変わっている。一度目は陸が十八歳の頃。陸のことをコントロールさせてほしいと申し出た一織が、顔を覗き込んで切々と説くものだから、思わずくちづけてしまった。顔を真っ赤にして「どうして」と尋ねる一織に、薄灰色の瞳があまりにもきれいで、吸い寄せられてしまったのだと、同じく顔を真っ赤にしながら、陸は打ち明けた。その夜、二人の関係は確かに変わった。
初めてのキス。初めての恋人。文字通り世界がきらきらと輝いて見えたし、仕事にもこれまで以上に熱が入った。いつだって自分の隣に大好きで大切な仲間が、恋人がいるだけで、陸は強くいられた。その時の陸は、今の自分が、これまでの人生でもっとも強い自分だと思っていた。一織と一緒なら、なんだってできる気がする。そう語る陸に一織はまなじりを赤く染めながらも喜び、陸にくちづけた。もっととねだる陸の身体に覆い被さり、心身ともに、一織は陸の奥深くまで入り込んだ。
関係が再び変わったのは、陸が二十歳になった時。小鳥遊事務所で新しい男性アイドルグループ育成の計画が持ち上がり、IDOLiSH7は寮を出ることとなった。もちろん、強要されて退寮したのではない。自分たちが暮らしながらも新人を受け入れるだけの部屋数はじゅうぶんにあるのだが、メンバー間の関係を深めるためにも、新人たちだけで寮生活をさせたほうがいい。自分たちの生活力を養うためにも、ここを出たほうがいい。大和のその提案に、陸を含め皆が賛成し、七人ともが寮を離れた。
しかし、当時の一織は十九歳の未成年。日本の最高学府で経営を学びながらアイドル活動をしている身。ただでさえ多忙な身で衣食住をやりくりするなんて、負担が大きいに違いない。実兄である三月は心配したし、陸はというと、退寮を機に同棲なんてどうかなと考えた。しかし、一織はそのどちらも固辞し、皆と同じく単身での生活を選んだ。
『ずっと一緒にいようって言ったくせに!』
テレビから聞こえる、ヒロインの訴えるような声が耳に突き刺さる。一織とも、そうだった。皆に秘密とはいえ、交際して二年。元々、ファンからは、一織と陸はメンバー内でも仲がよさそうだと思われているのだし、同棲みたいだとからかわれたらルームシェアだと言えばいい。置いていかないから置いていかないでと言った自分に頷いてくれたのだから、一緒にいたい気持ちは同じはず。そう言って同棲を持ちかけた陸に対し、一織は首を縦に振ることはなかった。だからといって、自身の持病をだしに食い下がるほど落ちぶれたことはできなくて、陸はそのまま引き下がってしまったのだ。
離れて暮らすようになってしまうと、もう、だめだった。決定的な別れの言葉なんてものがなくても、たとえば会う頻度、電話やラビットチャットの内容……それらから、自分たちの関係は、このまま終わらせたほうがいいのだとわかってしまった。
そうして、あの二年間の甘い日々はなんだったのかと思うほど、一織と陸の関係は、元からなにもなかったかのように『IDOLiSH7のメンバー』に戻ってしまったのだ。
再生していたドラマの今週分が終わり、自動的に画面がテレビ放送へと切り替わる。あぁ、録画を再生する前、テレビはこの局を選択していたのだったなと思い出す。陸は引き続き、画面を眺めた。録画していたドラマを見終えたら、一織が出演している情報番組の時間になるように予定を調整していたのだ。途中でドラマを巻き戻したから最初の数分間を見逃してしまったけれど、これも録画するよう設定してあるから問題ない。一織が担当するコーナーは番組開始から十五分ほど経過してからだ。
そうこうしているうちに待ちかねていたコーナーが始まり、陸は小さく声を上げた。
(襟足、ちょっと切った?)
単独での仕事も多く、グループでの活動に留まらない自分たち。寮生活をしていた頃はすぐに気付いたこんな些細な変化さえ、今はテレビ越しに知ることも少なくない。
『それでは次のコーナーです』
一織の透き通った声が、テレビ越しに聞こえてくる。一年前まで、この声を耳許で聞いていた。陸を叱る言葉、愛を囁く言葉……一織の言葉のすべてが陸には心地よくて、眠る時間を遅くしてでも、もっと聞いていたいと、よくねだったものだ。陸が乞う視線に一織は抗えないことが多くて、溜息をつきながらも、寝物語に、子守唄にと聴かせてくれた。
「会いたいなぁ……」
仕事では会っているけれど、プライベートで会いたい。
『そういえば、IDOLiSH7の七瀬陸くんが四月にソロでカバーアルバムをリリースするって発表されましたよね』
一織の担当するコーナーが終わろうかというところで自分の名前が飛び出し、動揺から陸はがばりと身体を起こす。
『えぇ。……と、ここで私がその話題に言及すると、宣伝になりませんか?』
『いいよいいよ、ちょっとくらい。ねぇ?』
司会者の言葉にスタッフが頷いたのか、一織はこほんと咳払いをひとつ落とし、言葉を続ける。
『ありがとうございます。うちの七瀬による渾身のカバーアルバム、期待以上のものをお聴かせしますので、どうぞよろしくお願いいたします』
まっすぐにカメラを見据える瞳に、陸の心臓が大きな音を立てた。一織はいつだって、陸の歌に、歌声に、絶大な信頼を寄せてくれている。他のメンバーをないがしろにするつもりはないけれど、他の誰でもない一織が自分のことを誇りに思ってくれているだけで、陸はいつだって強くいられた。……いられた、はずだった。
(なのに、オレときたらいつまでも一織とのこと引き摺って……)
仕事で手を抜くことはない。尊敬するライバルでもある天から、過去に教えられているからだ。手を抜いてはいないけれど、自分が以前よりも弱くなったように感じてしまう。
自分には、以前ほどの輝きがないのでは? そう思うのに、一織ときたら、こんなにもまっすぐな視線で陸のことを語ってくれている。
『あぁ、私、覚えてますよ。昔、きみたちのライブに行ったんだけど』
出演者の一人が、自分たちのライブに来てくれたことがあるらしい。番組の放送時間の都合もあって、あまり詳しくは語られなかったものの、それが『RESTART POiNTER』を初披露した時のもので、自分たちのMCに涙が止まらなかったということはわかった。
(懐かしいなぁ……)
あの日のことはよく覚えている。一織と相談した結果、話す内容は敢えて決めず、ステージの上で、その時に心に浮かんだ言葉を声にした。あの時はまだ一織と交際していなかったけれど、そういえば、あの時の一織の言葉だって、熱烈な告白を思わせるようなものが混じっていたなと思い出す。事実、あの日の夜、SNSで反応を探ったら『付き合ってる宣言するかと思った』なんてものがあって、それを見た大和が爆笑したものだ。
「本当、おまえってオレを喜ばせることにおいては天才だったよなぁ」
そのくせ、一番の願いは受け入れてくれないのだから意地が悪い。……いや、意地が悪いのではなく、単に拒絶されたといったほうがいいのかもしれない。
ぼんやりとテレビの画面を眺めながら、さきほどの一織の発言を反芻する。
(恥ずかしいな、一織のやつ。しかもプレッシャーかけてきたし)
レコーディングは既に終えていて、近々、サンプルが事務所へ送られてくる予定になっている。結成当初から自分たちを支えてくれているマネージャーと、これまで何曲もIDOLiSH7のレコーディングを請け負ってくれたプロデューサー陣だから信用しているけれど、一体どんなものができあがるのか、どうしても不安が拭えない。そのうえ、テレビの中の一織に「最高のものを聴かせる」などと言われて、……必要以上にプレッシャーを感じてしまうのも無理はないだろう。
番組のエンディングを見届けてからテレビの電源を切り、ベッドへと向かった。この番組での一織の出番は一週間に一回、毎週火曜日だ。明日はグループでの仕事もないし、一織の顔を見るための理由づくりもできない。
「一織の、ばーか……」
ばかって言いました? と眉をつり上げて怒っていたあの頃の一織の表情を思い浮かべる。あの頃の自分たちは本当に、なにも知らない子どもだった。恋を知って、知り過ぎてしまった今の自分に、あの頃の面影はない。
(大人になるって、案外、呆気なかったなぁ……)
大人になれば、自然と上手に恋愛ができるようになると思っていた。くだらない喧嘩なんてしなくなって、大人っぽいデートプランが立てられるようになって、永遠だって誓えるようになるのだと、そう思っていた。それなのに。
「全然、だめだったな……」
自然消滅と呼ばれる終わり方をしたのに、いつまでも過去にとらわれて、未練たらしく一織のことを想っている。二十歳になった頃から、雑誌のインタビューで恋愛観を尋ねられることが増えた。アイドルとして売り出している以上、迂闊な発言はできないから、回答するのは決まって『アイドルらしいもの』ばかり。語尾に必ず「まだまだ仕事と、ファンの皆さんが大事なので、全部、理想論ですけど」と付け加えている。誌面に掲載される七瀬陸の恋愛観はきらきらと輝いた表現ばかりだけれど、実際の自分ときたら、だめになってしまった恋愛を一年経っても忘れられず、取り戻そうと動くこともせず、ただ、仕事をすることで考えないふりをしているだけ。停滞という言葉が似合っている。
◇
五日後。雑誌の仕事を終えた陸が帰路についたタイミングで、マネージャーの紡からラビットチャットが届いた。
『陸さん、アルバムの件ですが、マスタリングまで終わったということでサンプルが届きました! つきましては、陸さんにも聴いていただきたいのですが、明日か明後日にでも事務所に寄っていただけますか? 先方へのお返事も必要なので』
ソロアルバムの件だ、と陸の瞳が輝く。
(どうしよう、すぐにでも聴きたい!)
明日か明後日、なんて待っていられない。陸はそのまま、返信ではなく電話をかけた。
「お疲れさまです、陸さん」
「マネージャー、撮影もう終わったから、今から事務所行ってもいい? オレ、早く聴きたい!」
紡はこれからナギの仕事に同行する予定になっていたが、事務所に万理がいるため、万理に言づけておいてくれるとのことだった。電話を切ると、変装のために被っていたキャップ帽を目深に被り直す。一織が見たら、走らないでと注意するかもしれないけれど、ゆっくり歩くなんてできそうにない。一分一秒でも早く事務所へ行って、聴きたい。なんとなく、早く聴かなければならないような気がした。
(サンプル聴いたら、一織に報告してもいいかな)
仕事に関することでなければ、自分から連絡することもなくなってしまっている。今の陸にとって、仕事に関する報告をすることは、一織に連絡を取る口実でもあった。女々しくて自分でもいやになるけれど、誰になにを言われようとも、陸は今でも一織のことが好きで好きでたまらない。
事務所に着くと、万理が出迎えてくれた。
「お疲れさま、陸くん。話は聞いてるよ。はい、これサンプル」
万理のノートパソコンにサンプルデータを入れて、準備してくれていたらしい。陸は自分のバッグからイヤホンを取り出すと、逸る気持ちを抑えて、ケーブルを差し込んだ。一曲目から再生し始めると、仮歌を聴いた時から何度も練習した、すっかり耳に馴染んだ前奏が始まる。瞳を閉じて、レコーディングをした時のことを思い出しながら、陸はメロディに身を委ねた。
今回、陸がソロで発表するのは、著名な曲のカバーを集めたアルバム。アイドルを目指す前から知っている曲はもちろん、まだ陸が生まれる前の曲も含まれている。
歌詞が描く世界を頭の中に浮かべていると、ふわりと芳ばしい香りが鼻を掠め、そっと瞼を開いた。万理がコーヒーを淹れてくれたらしい。
「ありがとうございます」
ちょうど曲と曲の間だったということもあって、一時停止してイヤホンを外す。
「どう? サンプル」
「もう何曲も歌ってきたのに、毎回、緊張しちゃいますね」
陸の言葉にまなじりを下げた万理は、さきほどまで聴いていた曲の、次の曲を再生するよう促した。
有名なブロードウェイ・ミュージカル。数ある作品の中でも、音楽に強いテーマを持っており、劇中に登場する曲の多くが、映画音楽のようだとも言われている。陸が好きな童話の裏話として描かれた小説をもとに構成した作品ということもあって、レコーディングが終わった日には、部屋に置いてあるその童話を読み返したものだ。その作品の中から一曲が、このカバーアルバムの収録曲リストに名を連ねている。劇中で二人のヒロインが歌うその曲を、陸が一人で歌うことに違和感を抱かなかったわけではない。一人で二人分のパートを収録しながら、どうしてこの曲を……と疑問に思っていた。
「……万理さん、これ」
元々、自分は涙もろいほうだという自覚はあった。でも、こんなの、ずるい。
「その曲ね、紡さんがこの曲を是非ってプロデューサーに提案して、一織くんにっていう話になったんだって。アルバムには、特別出演として小さくクレジットされることになっていて……あぁ、このことを俺が言ったっていうのは内緒にしてね」
収録曲が決まった時、この曲は、劇中で反発し合いながらも友情を育んだヒロインたちが、道を分かつことになった場面で歌われるもので、学生の卒業式に歌われることもあると聞いた。素直になれず喧嘩ばかりしたこと、それすらも愛おしい思い出だと懐かしみながら、自分を変えてくれた相手を敬い、互いを認め、今後もう会えなくとも、決して心は離れないと誓うもの。相手のことを、自分の中で永遠に輝き続ける宝物だと歌うものだ。
甘く透き通った一織の声が、少し鼻にかかった陸の声に重なる。
「……陸くん」
万理が差し出してくれたハンカチをありがたく借りることにする。
「万理さん、オレ、…………」
一織との交際は秘密だった。メンバーにも、事務所にも、自分たちそれぞれの兄にも、言わなかった。きらきらした時間と夢を魅せるアイドルに、生々しい恋愛事情は不釣り合いだから。秘密裏に恋愛をしているアイドルなんてごまんといるかもしれないけれど、ファンを落胆させることがあってはならない。周囲のことを信頼していないのではなく、信頼しているからこそ、当時の一織と陸は、自分たちの交際を秘密にした。
(どうしよう、万理さんはオレたちが付き合ってたこと、知らないし)
でも、曲を聴いて、あふれる気持ちを抑えられない。
「陸くん、大人になったよね」
「……え?」
「昔は危なっかしくて。……みんなも危なっかしかったんだけど。IDOLiSH7のみんなが寮を出るってなった時、本当のこと言うと、大丈夫かな? って心配したんだ。いくら仕事で顔を合わせていても、誰もいない真っ暗な部屋に帰るわけだろう? さみしくなってしまうんじゃないか、って心配だった」
寮を出て、一織と毎日顔を合わせられなくなってすぐの頃を思い出す。本当は、さみしかった。さみしくて、どうして一織に会えない日があるのだろうと思った。けれど、さみしいなんて格好悪くて言えなかった。勇気を出して「会いたい」と言ってみようとしたけれど、すぐ傍にいた頃はどうやって会話していたのかすら思い出せなくて、気持ちを声に出すことができなかった。その結果、一織とすれ違うようになってしまったのだ。
万理は言葉を続ける。
「環くんは部屋に帰りたがらなくて、今でも大和くんや壮五くん、三月くんの部屋に遊びに行ってるけど。あぁ、俺の部屋にも来たりするんだよ。でも、……さみしさを知ってるはずのきみが、誰にも甘える様子を見せなくて、社長と、心配してたんだ」
「社長と?」
何度か音晴に「一人暮らしは順調かい?」と尋ねられたことを思い出す。あの時は笑って誤魔化していたけれど……。
「時折、さみしそうな顔を見せるわりに、なにも言わないからね。年上の俺や、きみのご両親くらいの年齢である社長があまり何度も言うと、その言葉さえも負担に感じてしまうだろうから、自分に任せてほしいと…………ある人に、言われたんだよ」
含みを持たせた万理の言葉に「まさか」という気持ちが過る。
「万理さん、それって」
「今の陸くんなら、もっといろいろなことを上手にできるんじゃないかなって俺は思ってる。仕事はもちろん、人間関係も。毎晩、眠る前に考えていたこと、今、どう思う?」
毎晩、眠る前に考えていたこと。一織のことだ。
先にコーヒーを飲み終えたらしい万理がマグカップの持ち手で指先を遊ばせる。
「彼は不器用な男だなと思ったよ。人生の先輩である俺からすれば、まだまだ未熟者」
あぁ、やはり万理は一織と陸の間になにかあったということを察しているのだ。それが恋愛感情だったかまで把握しているのかはわからないけれど、少なくとも、陸にとっての一織が他のメンバーとは同じではないことに、気付いている。
こぼれ落ちそうになった涙を袖口で拭い、残っているコーヒーを一気に飲み干した。本当は、すぐにでも駆け付けたい。しかし、自分はもう大人で、やらなければならないことを放棄していい立場ではない。
「万理さん、オレ……これ聴き終わったら、あいつのとこ、行ってきます」
陸の言葉に、万理はにっこりと頷いた。
アルバムのサンプルを聴き終え、ラビットチャットで紡に報告を済ませると、陸はバッグを掴んで勢いよく立ち上がった。
「万理さん、その……ありがとうございました!」
陸はがばりと頭を下げ、事務所のドアを開く。物語風にいえば、このドアを開くとともに、陸の鬱屈していた気持ちも解放されたような気がした。
「どういたしまして」
ドアが閉まって、陸の足音も去ってから。二人分のマグカップを片付けようとした万理は、ふと手を止め、ポケットのスマートフォンを取り出した。
(青いなぁ)
もう青くない、成熟した、というには早過ぎる。成年を迎えても、中身はまだ大人とは言い切れない。それでも、彼らなりにアイドルとしてよくやっていると思う。一織と陸の間にあるものがなんなのか、実のところ、万理にはわかっていない。ただ、IDOLiSH7のメンバーとしてだけでなく、なんらかの深い事情があるように思えたのだ。親愛の情という言葉では言い表せられないほどの、なにかが。
ラビットチャットで一織とのトークルームを開く。
(うまくいくと、いいんだけどな)
願わくは、彼らが、さみしそうな表情を見せることがなくなりますように。スマートフォンを仕舞い込むと、今度こそ、万理はマグカップを片付けようと腰を上げた。
(……って、今日の一織ってどうしてたっけ)
一織が一人暮らしをするマンションは、事務所から十五分ほど歩いたところにある。事務所を中心点とすると、陸のマンションとは真逆の方角だ。これは、彼が大学へ通うにあたっての利便性を考えてのこと。
事務所を出てからなにも考えず一織の住まいへと向かって歩き始めたものの、一織が在宅しているかまでは確認していなかった。この時間であれば、まだ大学かもしれないし、陸が把握しきれていない単独の仕事が入っている可能性だってある。
逸る気持ちを抑え、バッグからスマートフォンを取り出すと、ラビットチャットで一織とのトークルームを開く。最後にやりとりをしたのが半月も前なことに笑えてくる。寮で生活していた時は、すぐ隣の部屋にいても毎日のようにやりとりをしていたのに。
(……今は感傷に浸ってる場合じゃない)
一織の予定を確認しようと簡単な言葉で送信する。しばらくそのままディスプレイを眺めるも、すぐに既読となる様子はなく、陸は大きな溜息をついた。
(そうだよな、一織だって忙しいし)
落ち込むよりも、落ち着く時間がもらえたと考えよう。そんな気持ちになれたのは、自分がどうするべきか、なにを言いたいかがはっきりと見えているから。
一度、自分の住むマンションへ戻ろう。陸はそう決めて、踵を返した。
陸からのラビットチャットが届いた頃、一方の一織はというと、陸の予想通り、大学で講義を受けている最中であった。高校生の頃は授業中にスマートフォンを見ることなどなかったのだが、最近は単独の仕事が増えたこともあって、こっそりと差出人を確認し、相手が紡か音晴だった場合にだけ、メッセージの内容に目を通すことにしている。
昼休みのうちに、紡からは陸がソロでリリースするカバーアルバムのサンプルが事務所に届いたという連絡を受けていた。それに対しては夕方、大学からの帰りに事務所に立ち寄ることを返信してある。
(大神さん……? と、七瀬さんからも)
マネージャーである紡ならまだしも、MEZZO"のマネージャーとはいえ一織にとっては事務所の事務員という立場の万理が、個人的にコンタクトを取ってくることは珍しい。陸からのメッセージは講義が終わってから確認することにして、万理からのメッセージは仕事のことで紡の代わりに連絡をしてきたのだろうと推察し、こっそりと内容を確認することにした。
「……は?」
思わず声が出てしまい、周囲の視線を感じた一織は慌てて手で口を覆う。羞恥で熱くなる顔を誤魔化すように何度か咳払いを繰り返し、今しがた、目にしたばかりのメッセージの内容を反芻した。
(七瀬さんがものすごい形相で私のところへ向かった……?)
万理から送られてきたメッセージに書かれた陸の名前に、どくどくと鼓動が高鳴る。ものすごい形相という文字。心あたりはひとつしかない。
(…………あのこと、だろうか)
一年前まで、自分たちは恋人関係にあった。三年前、唇が触れたことを機に、関係が変わった。その前から一織は陸のことが好きだったし、陸からくちづけられた時、すべてを許されたような気がした。アイドルである彼と恋をすることを、信じてもいない神に許されたと思ったのだ。求められれば身体は熱を孕む。自分も、彼も、互いを求めている。文字通り、互いが互いに溺れていった。
大学生活も二年目となった頃、寮を出ようということになった。当時の自分はまだ十九歳だったことで兄の三月が心配したものの、一人暮らしくらい、どうってことはないと思った。ちょうどそのくらいの時期だっただろうか。雑誌のインタビューで恋愛観を尋ねられることが増えてきた。アイドルだって恋のひとつやふたつ知っていてもおかしくないと世間は見ている。しかし、そう見られているからといって、現在進行形で身を焦がすほどの想いを抱いていることなど明かせるわけがない。相手と想いを結んでいても、だ。
恋に溺れていてはいけない。自分たちは、ファンこそが恋人であるべきだ。ひどい男と罵られる覚悟で、一織は一方的に、陸から離れることを選んだ。
(それなのに、七瀬さんはなにも言わなかった)
少しずつ距離を置く卑怯な自分に、どうしてと尋ねてこなかった。いっそ自分を責めてくれたらよかったのにと思う。こんな考えこそが、そもそもずるいのだろう。けれど、恋愛観を尋ねられるたび、はりついたような笑顔で受け答えをする恋人を見ていられなかったし、お手本のような回答をする自分にも嫌気がさしていた。それらに耐えられるほどの強さが、その時の一織にはなかった。
離れて一年。うまれて初めての恋は、色褪せていくのと思いきや、日に日に強くなる一方。もう、腹を括るしかないのだろうかと思っていた矢先、陸のソロによるカバーアルバムリリースの話が持ち上がった。紡から、特別出演として一曲、参加してはどうかと打診されたのだ。もし、歌いたい曲があれば提案してほしい、とも。
その曲を知ったのは偶然だった。動画配信サイトでIDOLiSH7の新曲MVを見ていた時に、注目動画として画面の端に表示されていたのだ。ジャンルも傾向も違うその動画に、どうして惹かれたのか。過去にTRIGGERのミュージカルを観たことで、ミュージカルへの敷居をあまり感じていないことも、少なからず影響していたのかもしれない。女性キャストが向かい合っているサムネイルがどうしても気になり、一織はその動画を閲覧した。
中身は、ミュージカル終盤で歌われる楽曲を、一曲まるごと収録したもの。恋愛の歌ではなかったが、曲を聴いている最中、陸のことばかりが頭に浮かんでしまった。
陸と過ごした時間は間違いなく、宝物だ。自分の性格が災いして気兼ねなく話せる友人に恵まれなかった一織に、一番初めに話しかけてきたのは陸だった。自然消滅のように終わらせた恋だから、再び想いを結べるなどと都合のいいことは考えていない。ただ、今も想いは変わっていないことだけは伝えておきたいという気持ちが湧いたのだ。
(……都合のいいことばかり言うなと、怒るでしょうね)
そこまで思考を巡らせたところで、本日最後の講義が終了した。堂々とスマートフォンを見ても咎める者はいない。届いていた陸からのラビットチャットを確認すると、現在の居場所を尋ねるものだった。
万理から送られてきたメッセージから察するに、アルバムのサンプルを聴いて、あの曲に気付いたのだろう。ソロでのカバーアルバムなのにデュエット曲なんてと疑問に思いながら、二人分のパートを別録りで収録したことも知っている。マネージャーの紡からの提案で、プロデューサーも了承していることとはいえ、歌い損だと叱られるだろうか。
講義が終わって、このまま真っ直ぐ帰宅するつもりであることを返信すると、ほどなくして陸からのメッセージが届いた。
『じゃあ、オレ、今から一織のとこ行くから。……お願いだから、逃げないで聞いて』
一織はかたく目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をすると『わかりました』と返した。
◇
一織が一人暮らしをするマンションに陸が来るのは、一年ぶりのことだ。メンバーそれぞれが寮を出て、各自がどのような部屋に住んでいるのかと冷やかし半分、引っ越し祝い半分でメンバーの暮らしぶりを全員が見て回ったのが最後。一織だけを陸の部屋に招いたことはあったけれど、恋人としての時間を過ごしたのはそれが最後で、陸が単独で一織の部屋に立ち入るのは、これが初めてということになる。
「コーヒーでいいですか?」
「えっ、あ、うん」
実はコーヒーよりも甘い飲みもののほうが好きなのに、格好つけてブラックコーヒーを飲もうとするところも好きだったのだが、今の一織は本当に、ブラックコーヒーに慣れたらしい。そんなこと、離れて暮らしているから知らなかった。
(……なんか、知らない人みたい)
「どうぞ。インスタントですけど」
「いいよ、ありがと……」
どうして。出されたマグカップを見るや否や、陸は勢いよく一織のほうを振り返った。
(なんで、これ)
ミルクと砂糖を添えられていることも忘れてしまうほど、陸はマグカップのその色から目が離せないでいる。だって、どうして。赤いマグカップなんて。
(期待、するじゃんか……)
曲のことといい、このマグカップといい。未練があるのは自分だけではないような気がしてならない。早く確かめたくて、陸は口を開いた。
「……今日、アルバムのサンプル聴いてきた。どの曲も、こんなふうにアレンジしてくれたんだって、すごく嬉しくなった。早くリリースされないかな、早くみんなに聴いてほしいなって思った」
あぁ、やはりアルバムの話か、と一織は身構える。
「おかしいと思ったんだ、仮歌を聴いた時に、一曲だけデュエットのものがあって。曲の一部で声が重なることはこれまでにもあったけど、一曲まるまるデュエットなのに一人で歌うなんてって。でも、歌詞を見て、素敵な曲だって思ったから二人分のパート、歌ったよ。でも、……なぁ、どうして? どうして、一織が歌ったんだ? 特別出演なんて」
「……すみません。七瀬さんのソロでのアルバムなのに」
「それはいいんだよ。マネージャーもプロデューサーさんもOK出したんだろうし。それに、一織と歌った曲が増えて嬉しかった。オレが聞きたいのは、……オレ、一織のこと、今でも好きだよ。サンプル聴いて、一織もそうなんだって思ったんだけど。違う?」
核心を突く質問。サンプルを聴いた陸から絶対に尋ねられると覚悟していたのに、一織は言葉に詰まってしまう。
(……いや、だめだ。私も、腹を括らなければ)
再び想いを結べるなどと都合のいいことは思っていないが、想いは変わっていないことだけは伝えようと決めたのだ。そして今、陸の口から「今でも好きだ」と聞かされて、一織の心は確かに、歓喜で震えた。ここで逃げるわけにはいかない。腹を括るしかない。
「…………あの時の私は、あのまま、あなたに溺れることが怖かったんです。アイドルとしてファンを裏切るようなことをしてはならない。もちろん、私も七瀬さんも言動には注意していましたし、悟られるようなことがあったとも思えません。ですが、……いえ、だからこそ、息が詰まっていくような気がしたんです。罵られることを覚悟で、自分勝手と思いつつ、あなたから離れた。……でも、すみません。心までは、離れられなかった」
「……うん」
あぁ、一織がせっかく淹れてくれたコーヒーが冷めてしまうかも。そう思ったけれど、今の陸は、コーヒーであたたまるよりも、一織を抱き締めたくて仕方がなかった。立ち上がり、一織の隣に立つと、そっとその頭を抱き寄せる。一織に抵抗する様子はない。
「マネージャーから提案されたんです。特別出演として、アルバム収録曲のうち一曲だけ加わってみては? と。久しぶりに、二人でひとつの曲を歌ってはどうかと」
「マネージャーが?」
こくり、と頷いて一織は言葉を続けた。
「もちろん、断りました。七瀬さんのソロアルバムに他者が介入していいはずがない。買い求める人は七瀬陸のソロに興味があるのであって、グループ内ユニットの再来を求めているわけではありませんから。……ですが、……マネージャーも思うところがあったようです。覚えてますか? 私たちが事務所に入ってすぐ、マネージャーとして新人だったあの人のこと。今では当時とは別人なんじゃないかっていう仕事ぶりで。七瀬さんファンがなにを求めているのか、仕事に対する感想や、SNSから情報を得て、分析して……、一曲くらい、そういったサプライズ要素があったほうがいいと言い出したんです。ソロ曲は各個人、数年前の誕生日に配信限定でリリースしましたが、カバーとはいえソロアルバムは初めての試みです。七瀬さんをお祝いする意味も込めて、一曲だけ、と頭を下げられました」
このサプライズは、ファンだけでなく、本人も喜ぶに違いない。そう熱弁をふるった紡のことを思い出しながら、陸の反応を窺う。
「……うん、確かに。すごくびっくりしたけど、おまえとの歌だって思ったら、なんか嬉しいな。……レコーディングの時から言ってほしかったけど」
「すみません、そこはマネージャーから口止めされてたので」
「曲は? 曲もマネージャーが決めたのか?」
ここまで聞いたのだから、洗いざらい話してもらわないと気が済まない。
「……曲は、私が」
「一織が?」
他の曲と同様に制作会議で決まったのだと思っていた陸は拍子抜けしてしまう。
「制作会議でマネージャーがサプライズの案を出したそうです。本人……つまり私が首を縦に振るならとプロデューサーも好意的だったようで、曲の選定も含め、マネージャーから打診されたんです。それで、以前、動画配信サイトを見ていて偶然知ったあの曲を希望しました。……曲を聴いた時、七瀬さんのことが浮かんだので」
陸の脳裏に、曲の歌詞が浮かぶ。素直になれず喧嘩ばかりしたけれど、それすらも愛おしい思い出。今後もう会えなくとも、決して心は離れないと誓う。
「……今後もう会えなくてもってとこだけはやだな」
自分は今でも一織のことが好きで、そして、多分、一織も同じ気持ちなのだろう。そう気付いたからこそ、道が分かたれる歌なんて縁起でもないことはやめてほしい。
「七瀬さん……」
「オレは、さっきも言ったけど、今でも一織のこと好きだから、……だから、……なぁ、オレたち、もう一度、一緒にいられないのかな」
離れるなんていやだ。そう願いを込めて、一織を抱き締める腕に力を込める。
どれくらい時間が経っただろうか。
「……七瀬さん」
おとなしく抱き締められていた一織が顔を上げた。
「うん?」
自分の肩にのせられていた陸の手を取ると、一織は指を絡めた。そんな触れ方、恋人だった頃にして以来だ。そのまま、絡めた指を解いたり、また絡め直したり。何度も触れては離れる指先は、なにかに逡巡しているようでもあった。
「一織?」
どうしたのだろう。陸の瞳が困惑で揺れるのを見て、一織は生唾を飲み込んだ。絡めていた指を解くと、その手を今度は陸の頬に添える。
「七瀬さん、私ともう一度、……いえ、私と、生涯をともにしていただけますか」
やり直しなんて言葉では言いたりない。もっと強い覚悟をもって、この人とともに歩みたい。もう二度と、逃げたりしない。
一織の瞳にこもった力強い光に、陸の唇が震える。
「……それって」
「結婚するくらいの気持ちで、改めて、交際を申し込ませてください。七瀬陸さん」
困惑に揺れていた陸の瞳が、今度は涙で揺れる。
「それって……プロポーズみたいじゃん」
「……みたい、ではなく……私としては、それくらいの覚悟をもって、もう一度、と」
なんだよそれ、と呟いたと同時、陸の瞳からは、ついに涙がこぼれてしまった。
「~~っ、一織のばか!」
「……すみません」
この一年、自分ばかりが未練たらしく過ごしているのだとばかり思っていた。縋るような真似はできなくて、それでも、さみしさは拭えなくて。ずっとずっと、迷子になった気分だった。
「本当にばか! 結婚するくらいの気持ちじゃなくて、結婚しようくらい言えよ!」
「……結婚、しましょう。いろいろと問題は山積みですけど」
本当、格好つかないな。陸は泣き笑いながら、一織に勢いよく抱き着いた。
「パーフェクト高校生だったくせに、プロポーズはパーフェクトじゃないなんて」
「あれは、……今は、パーフェクトじゃないみたいです」
そういえば、一織が大学生になってからは、パーフェクトというフレーズを聞くことがなかった気がする。
「……どうして?」
「あなたを泣かせてしまううちは、まだまだ精進が必要みたいなので」
ばつが悪そうに視線を逸らす一織を見て、愛おしさが込み上げてくる。
「そっか。じゃあ、オレがいつも笑顔だったら、パーフェクトかもな」
そのためには、いつも隣にいてもらわなければ。多分、今の自分たちなら、うまくやれるはず。
「どうでしょうね。証明するには、一生かかります」
「一生? 一生って言ったな? ちゃんと一生かけて証明しろよ?」
「二度は失敗しません。もう、迷いません。離してもあげません。……ですから、いつも笑顔でいてくださいね」
顔を見合わせて笑い合う。過去に交わしたどんな誓いよりも、重くて、熱烈な誓い。大人になったら永遠が誓えるようになるのではなくて、自分以外の誰かに、なにかに、永遠を誓うほどの覚悟ができることで、人は大人になるのだ。