看病
最近ずっと暑い日が続いていたから、暑さを凌ぐことばかり考えていた。
週末に大雨が降るとともに気温が急激に下がり、一織は風邪を引いてしまった。
幸い、仕事は入っていなかったものの、学校を休むはめになった。芸能活動が活発になったことで登校できる日が減っているのに。学校から出される課題程度なら、風邪を引いていても解くことができるし、欠席した分だけ課題が増えたところで、負担に感じることもない。ただ、課題に取り組む時間が増えると、彼との時間が減るだけで。
(私としたことが……)
少しだけ頭を動かすと、氷がほとんど溶けた氷嚢がぐにゃりと歪んだ。そろそろ交換しなければならないのに、起き上がる気力がない。人に迷惑をかけたくないが、そのうち誰かが部屋を訪ねてくるのを待つしかないだろう。あと二時間もすれば夕食だ。
発熱による倦怠感は残っているくせに、昼間たっぷり眠ったせいで眠気はない。それなのに、起き上がる気力はないときた。せめて、起き上がることさえできれば、今後の活動方針と、七瀬陸の売り出し方についての考えを書き留められるのに。――熱を出していても、IDOLiSH7と陸のことばかり考えてしまう。
はぁ……とついた溜息が熱い。腕だけを伸ばして枕元にあるスマートフォンを手繰り寄せた。一織は基本的にノートへ書き込むことで考えを整理するタイプだが、スマートフォンのメモ機能でもそれの補助くらいにはなる。メモアプリを起動させると親指を滑らせて新規画面を開いた。
(年末にはブラホワが控えている……その時期に新曲をぶつけるのがベストだろう。ブラホワの少し前に四時間半の生放送をすることで話題の音楽番組、あれは早々に出演の打診をしてきて、仕事を受けるとマネージャーが返事をした。新曲のテレビ初披露をそこにぶつけるか、それともその番組は今年発表したこれまでの曲のメドレーにするか……曲目の話はまだ進んでいないはずだから、マネージャーに話を持ちかけるならそろそろか)
ぐるぐると考えることはできるものの、その考えを打ち込むことができない。簡潔な言葉にまとめられないのだ。どうしたものかと、ぼんやりした頭でディスプレイを眺めていると、通知バーにラビットチャットのアイコンが表示された。メンバーの誰かが風邪を引いて寝込んでいる自分を案じて連絡をくれたのだろう。申し訳ないと思いつつ、氷嚢を交換してもらいたいと返信しよう。
ディスプレイを上から下へ。親指を滑らせ、通知領域に表示された名前に「は」と声が出た。予期せず発した声に体が驚いて、ごほごほと咳き込んでしまう。
(七瀬さん……?)
彼は今日、雑誌のインタビューがあるから、昼前に寮を出た。予定どおりならばそろそろ帰ってくる頃かと、ディスプレイの端にある時刻を見て合点がいく。メッセージを読もうと画面をタップすると同時に、部屋のドアがノックされた。
「一織、起きてる?」
「はっ? えっ……?」
スマートフォンの画面とドアを交互に見遣る。画面の中のメッセージは『一織、起きてる?』と、ドアの外で彼が発した言葉と同じものだった。
普段であれば鍵をかけているのだが、万が一、一織が動けなくなってしまっては困るから、風邪を引いている時くらいは鍵をかけないでほしい。――三月の言葉により、昨晩から鍵をかけずに過ごしている。ドアノブに手をかけてそのことに気付いたのか、一織の返事を待たず、陸はそうっとドアを開き、隙間から顔を覗かせた。
彼を部屋に入れるわけにいかない。一織は陸を止めようと体を起こし、ベッドの上からドアの隙間を見下ろした。
「ごめん、寝てた?」
「……いえ、起きていました。寝過ぎてしまったくらいです。私のことはいいので、あなたはご自分の部屋に戻ってください」
陸に風邪を移してはならない。彼の場合、風邪を引いて咳をしようものなら、発作を起こしかねないからだ。しかし、陸はきゅっと眉を寄せると、そのままドアを開き、ずかずかと部屋に入ってきた。その口許は、マスクで覆われている。
「長居はしない。みんなまだ帰ってきてないし、ちょっとだけ」
ロフトベッドの手前まで来て、陸が「お願い」と両手を合わせる。
「……五分だけですよ。あとできちんと手洗い、うがいをして。今夜眠る時には加湿器をつけて。絶対に、風邪を引かないでくださいね」
「うん!」
元気よく頷くと、陸はロフトベッドのはしごに足をかけ、上半身だけ一織のベッドから見えるよう、慣れた動きで二段、三段と足を進めた。
「熱、どう?」
「計っていないのでわかりませんが、まだ、あるのではないかと」
陸は手を伸ばすと、一織の額や首筋にぺたぺたと手を添える。普段は一織のほうがひんやりとした手をしているのだが、発熱している今は、陸の手のひらが冷たいと感じる。
「あー、本当だ。氷溶けてるから、あとで持ってくるよ。一織はちゃんと寝てろよな」
陸の手が離れていきそうになって、一織は思わず「あ」と声を上げた。
「ん? ……あぁ、そっか」
一織の言いたいことがわかったらしく、陸は手のひらを一織の頬にぴたりと添えた。
(気持ちいい……)
うっとりと瞳を閉じる。じゅうぶん眠ったからもう眠気はないと思っていたのに、もうひと眠りできそうな気がしてきた。
「オレの手が冷たいって思うってことは結構高いな。ご飯、お粥なら食べられそう? それとも寝たままでも食べられる、りんごとかのほうがいいかな。薬飲むにもなにか食べないとだし、……一織?」
体を伸ばして、一織の顔を覗き込む。寝過ぎてしまったくらい、なんて言っていたくせに、すぅすぅと寝息を立てて眠っているではないか。
「しょうがないやつだなぁ。……あ、……ふふ」
一織が時々言う「仕方ない人だな」を、今ばかりは陸が拝借する。すぐに、その言葉を言う時の一織の心情までなんとなくわかってしまって、笑みがこぼれた。愛おしくて仕方がない、自分がいてやらなければ、と思ってしまう。なるほど、一織も普段、自分に対してこんなふうに思っているのか。
五分だけ、と言った本人は夢の中。氷嚢も交換しなければならないし、風邪が移ったなんてことにならないよう気を付けて、もう少しだけここでこの風邪っ引きを見てやらなければ。
「一織、早く熱下げてよ」
BGMのような一織の小言が聞けないなんてさみしいじゃないか。早く治して、暑いからといってアイスばかり食べないでとか、エアコンの風を直接浴びないでとか、なんでもいいから言ってほしい。……もちろん、説教じゃなくて、甘い愛の言葉が聞けたら、もっと嬉しい。
「そうだ、氷、変えなきゃだった」
すぐ戻ってくるからな。そう言って、マスクをしたまま、額にそっとくちづけた。
週末に大雨が降るとともに気温が急激に下がり、一織は風邪を引いてしまった。
幸い、仕事は入っていなかったものの、学校を休むはめになった。芸能活動が活発になったことで登校できる日が減っているのに。学校から出される課題程度なら、風邪を引いていても解くことができるし、欠席した分だけ課題が増えたところで、負担に感じることもない。ただ、課題に取り組む時間が増えると、彼との時間が減るだけで。
(私としたことが……)
少しだけ頭を動かすと、氷がほとんど溶けた氷嚢がぐにゃりと歪んだ。そろそろ交換しなければならないのに、起き上がる気力がない。人に迷惑をかけたくないが、そのうち誰かが部屋を訪ねてくるのを待つしかないだろう。あと二時間もすれば夕食だ。
発熱による倦怠感は残っているくせに、昼間たっぷり眠ったせいで眠気はない。それなのに、起き上がる気力はないときた。せめて、起き上がることさえできれば、今後の活動方針と、七瀬陸の売り出し方についての考えを書き留められるのに。――熱を出していても、IDOLiSH7と陸のことばかり考えてしまう。
はぁ……とついた溜息が熱い。腕だけを伸ばして枕元にあるスマートフォンを手繰り寄せた。一織は基本的にノートへ書き込むことで考えを整理するタイプだが、スマートフォンのメモ機能でもそれの補助くらいにはなる。メモアプリを起動させると親指を滑らせて新規画面を開いた。
(年末にはブラホワが控えている……その時期に新曲をぶつけるのがベストだろう。ブラホワの少し前に四時間半の生放送をすることで話題の音楽番組、あれは早々に出演の打診をしてきて、仕事を受けるとマネージャーが返事をした。新曲のテレビ初披露をそこにぶつけるか、それともその番組は今年発表したこれまでの曲のメドレーにするか……曲目の話はまだ進んでいないはずだから、マネージャーに話を持ちかけるならそろそろか)
ぐるぐると考えることはできるものの、その考えを打ち込むことができない。簡潔な言葉にまとめられないのだ。どうしたものかと、ぼんやりした頭でディスプレイを眺めていると、通知バーにラビットチャットのアイコンが表示された。メンバーの誰かが風邪を引いて寝込んでいる自分を案じて連絡をくれたのだろう。申し訳ないと思いつつ、氷嚢を交換してもらいたいと返信しよう。
ディスプレイを上から下へ。親指を滑らせ、通知領域に表示された名前に「は」と声が出た。予期せず発した声に体が驚いて、ごほごほと咳き込んでしまう。
(七瀬さん……?)
彼は今日、雑誌のインタビューがあるから、昼前に寮を出た。予定どおりならばそろそろ帰ってくる頃かと、ディスプレイの端にある時刻を見て合点がいく。メッセージを読もうと画面をタップすると同時に、部屋のドアがノックされた。
「一織、起きてる?」
「はっ? えっ……?」
スマートフォンの画面とドアを交互に見遣る。画面の中のメッセージは『一織、起きてる?』と、ドアの外で彼が発した言葉と同じものだった。
普段であれば鍵をかけているのだが、万が一、一織が動けなくなってしまっては困るから、風邪を引いている時くらいは鍵をかけないでほしい。――三月の言葉により、昨晩から鍵をかけずに過ごしている。ドアノブに手をかけてそのことに気付いたのか、一織の返事を待たず、陸はそうっとドアを開き、隙間から顔を覗かせた。
彼を部屋に入れるわけにいかない。一織は陸を止めようと体を起こし、ベッドの上からドアの隙間を見下ろした。
「ごめん、寝てた?」
「……いえ、起きていました。寝過ぎてしまったくらいです。私のことはいいので、あなたはご自分の部屋に戻ってください」
陸に風邪を移してはならない。彼の場合、風邪を引いて咳をしようものなら、発作を起こしかねないからだ。しかし、陸はきゅっと眉を寄せると、そのままドアを開き、ずかずかと部屋に入ってきた。その口許は、マスクで覆われている。
「長居はしない。みんなまだ帰ってきてないし、ちょっとだけ」
ロフトベッドの手前まで来て、陸が「お願い」と両手を合わせる。
「……五分だけですよ。あとできちんと手洗い、うがいをして。今夜眠る時には加湿器をつけて。絶対に、風邪を引かないでくださいね」
「うん!」
元気よく頷くと、陸はロフトベッドのはしごに足をかけ、上半身だけ一織のベッドから見えるよう、慣れた動きで二段、三段と足を進めた。
「熱、どう?」
「計っていないのでわかりませんが、まだ、あるのではないかと」
陸は手を伸ばすと、一織の額や首筋にぺたぺたと手を添える。普段は一織のほうがひんやりとした手をしているのだが、発熱している今は、陸の手のひらが冷たいと感じる。
「あー、本当だ。氷溶けてるから、あとで持ってくるよ。一織はちゃんと寝てろよな」
陸の手が離れていきそうになって、一織は思わず「あ」と声を上げた。
「ん? ……あぁ、そっか」
一織の言いたいことがわかったらしく、陸は手のひらを一織の頬にぴたりと添えた。
(気持ちいい……)
うっとりと瞳を閉じる。じゅうぶん眠ったからもう眠気はないと思っていたのに、もうひと眠りできそうな気がしてきた。
「オレの手が冷たいって思うってことは結構高いな。ご飯、お粥なら食べられそう? それとも寝たままでも食べられる、りんごとかのほうがいいかな。薬飲むにもなにか食べないとだし、……一織?」
体を伸ばして、一織の顔を覗き込む。寝過ぎてしまったくらい、なんて言っていたくせに、すぅすぅと寝息を立てて眠っているではないか。
「しょうがないやつだなぁ。……あ、……ふふ」
一織が時々言う「仕方ない人だな」を、今ばかりは陸が拝借する。すぐに、その言葉を言う時の一織の心情までなんとなくわかってしまって、笑みがこぼれた。愛おしくて仕方がない、自分がいてやらなければ、と思ってしまう。なるほど、一織も普段、自分に対してこんなふうに思っているのか。
五分だけ、と言った本人は夢の中。氷嚢も交換しなければならないし、風邪が移ったなんてことにならないよう気を付けて、もう少しだけここでこの風邪っ引きを見てやらなければ。
「一織、早く熱下げてよ」
BGMのような一織の小言が聞けないなんてさみしいじゃないか。早く治して、暑いからといってアイスばかり食べないでとか、エアコンの風を直接浴びないでとか、なんでもいいから言ってほしい。……もちろん、説教じゃなくて、甘い愛の言葉が聞けたら、もっと嬉しい。
「そうだ、氷、変えなきゃだった」
すぐ戻ってくるからな。そう言って、マスクをしたまま、額にそっとくちづけた。