朝
「一織、おはよう」
自室を出て、洗面所へ向かおうとなかなか言うことを聞かない瞼を必死に開けようとしていたら、明るい声が飛んできた。
「……おはようございます」
「はは、まだかっこよくない一織だ」
かしゃ、とスマートフォンで撮影する音がして、一織は眉間のしわをさらに深くする。
「撮らないでと言ったでしょう」
「止めたかったら目開けて実力行使してみろよ」
できないだろうけど! とからから笑う。一つだけとはいえ自分より年上なのに、どうしてこうも子どもっぽいのだろう。
「……SNSだけは勘弁してくださいね」
朝でなければ自分ももっと口が回るのだが、朝はそうもいかない。いつもなら言い返すこともできるのに、朝の一織は早々に白旗を上げてしまいがちだ。
「しないよ。オレのコレクションだし」
見せてもいいものもあるけれど、それは日中の、スタジオへ向かう道中や撮影の合間など、一織の気分が仕事モードの時だけ。今のように完全に気の抜けている一織を全世界にお披露目する趣味はない。
(女の子って、仕事してる男のオフモードの時の顔に弱いって、この前見た雑誌にあったし)
女性向けファッション雑誌のコラムなんて、この仕事をするまでは一生縁のないものだと思っていた。インタビューとあわせて、自分たちを格好よく撮ってくれた雑誌。以前は献本されても、写真が載っているページだけを見ていたのだけれど、……ちょっとした心境の変化から、柄にもなくコラムに目を通すようになってしまった。陸は元々読書家であるから、文字を読むことに抵抗はない。
(ああいう雑誌のコラム、わりと恋愛ネタが多いんだよな)
読みながら、共感したり、憤慨したり。必ずしも役に立つというわけではない。それでもちらちらと横目で読んでしまうのは、陸自身が、恋愛というキーワードに引っかかる人間だから。
「朝から元気なところは、私が見倣うべき数少ないあなたの長所ですね」
「なにぃ……かわいくないやつ! 早く顔洗ってこいよ」
ぷぅと頬を膨らませる様に、一織の眉間のしわは最大級に深くなった。あぁ、そんな顔、するなら自分がもっとしゃきっと目覚めてからにしてほしい。寝起きのぼんやりとした頭では見惚れることもかなわない。
「んん……」
ほら早く! と背中をぐいぐい押される。布越しに感じる手のひらがあたたかくて、もう少し触れていてほしいななんて思ってしまう。しかし今は朝だ。今日は学校へ行った後、夕方からは雑誌の撮影が控えている。彼の言う通り、早く顔を洗ってしっかりと目を覚まさなければ。
「お弁当、オレも手伝ったから楽しみにしてて」
その言葉で、一気に目が覚める。
「七瀬さんが……?」
お世辞にも器用とは言えない陸が手伝った弁当。一体どんなことになっているのだろう。
「顔に出てるぞ、一織。失礼なやつ」
「……あなたの普段のドジっぷりを考えたら仕方ないでしょう」
じとりと睨まれ、一織もむっと唇を尖らせた。いつもならこのまま口論に発展するのだが、今はその時間がない。陸が「ふん!」と顔を背けたのを合図に、一織は洗面所へ、陸は共有スペースへと向かった。
泡立てた洗顔料でくるくると頬を撫でているうちに心まで和らいできて、また陸にきつい態度を取ってしまった……と反省する余裕が出てくる。顔を洗って、身支度を済ませたら謝ろう。
ぬるま湯で泡を流し、タオルに水滴を吸わせる。化粧水で手入れをするようになったのはスカウトされてからだ。濡れないようにと前髪を留めていたピンを外すと、一度部屋に戻り、制服へと着替える。ブレザーの制服もずいぶんと着慣れたものだ。眠る前にきちんと支度してあるけれど、念のため、本日の時間割と荷物の中身を照らし合わせて、忘れものがないか確認する。課題もすべて済ませてあるし、今日も完璧だ。
再び階下へ降りると、トーストの芳ばしい香りが一織の嗅覚を優しく刺激した。途端に空腹を感じたので、生きものとはなんて単純なんだろうかと自分でも呆れてしまう。
「おはようございます」
「おはよう、一織」
三月はコンロの前で、残りのメンバーの朝食を用意しているようだ。ダイニングテーブルにつくと、既に朝食が並べられている。バターを塗ろうとトーストを手にして、その熱さに指先がちりりと痛んだ。
「あぁもう、焼き立てなんだから気を付けろよ。はい、これ」
ネイビーのマグカップを置いて、隣に座った陸が言う。このダイニングテーブルで一織の左隣は陸の定位置だ。
「ありがとうございます」
火傷するほどではない熱さに、ふと、疑問が湧く。
(どうして、焼き立て……)
バターナイフを滑らせながら考えていると、全員の朝食を作り終えた三月が、自分の分の皿を持ってこちらにやって来た。
「熱いけど、さくさくのうちに食べろよ。一織が降りてくるタイミングで焼き上がるようにって陸がやってくれたんだからさ」
「え」
思わず隣を見遣ると、陸が気まずそうに視線を逸らしている。
「……言わなくていいのに」
「はは、でも言わないと、一織はオレがやったって思うからなぁ。陸がやったのにオレに礼言われても困るし」
「……ありがとうございます」
一織はトーストとスクランブルエッグを別々に食べているのだが、三月はトーストの上にのせて食べたい気分らしい。バターを薄く塗るとスクランブルエッグをのせて、勢いよく齧り付いた。
弁当といい朝食といい、今朝はやけに陸が世話を焼きたがっているように思える。今日はなにかあっただろうかと考えてみるが、心当たりがない。
やがて、先に朝食を食べ終えた三月が席を立った。大和とナギを起こしに行くらしい。環はさきほど、壮五が洗面所へと引っ張っていくのが見えたから、そろそろここに来るだろう。ほんの数分だけの、二人きりの時間だ。
「……その、さきほどはすみませんでした」
「? なにが?」
フォークを持ったままの陸が、こてんと首を傾げた。十八歳でこの仕草が許されるのは七瀬陸くらいのものだ、と一織は思う。一織の個人的な感情を抜きにすれば、現代の天使と呼ばれるTRIGGERの九条天にも似合う仕草なのだが。
「お弁当を手伝ってくださったというのに、素直にお礼を言えなくて……」
あぁ、と一織を起こした時のやりとりを思い出す。
「いいよ別に。一織が素直じゃないのはいつものこと。…………でも、そうだな、お弁当食べた感想、三月より先にオレにラビチャで送って。そしたら許す」
「……わかりました」
そんな簡単なことでいいのか? と一織は拍子抜けしたのだが、陸は、それでいいと思っている。
学校に行っている間のことに陸は関与できないけれど、こうすれば、昼休みとはいえ学校にいる間に自分のことを考えてもらえる。朝起きて自分の顔を最初に見てもらって、隣の席で朝食を食べて。できるだけ、一織の頭の中を自分でいっぱいにしてやりたい。
「あっ、お弁当食べる前に写真撮ってよ」
「はいはい」
「はいは一回!」
一織の頭の中なんて、もうずっと、陸のことでいっぱいなのに。
自室を出て、洗面所へ向かおうとなかなか言うことを聞かない瞼を必死に開けようとしていたら、明るい声が飛んできた。
「……おはようございます」
「はは、まだかっこよくない一織だ」
かしゃ、とスマートフォンで撮影する音がして、一織は眉間のしわをさらに深くする。
「撮らないでと言ったでしょう」
「止めたかったら目開けて実力行使してみろよ」
できないだろうけど! とからから笑う。一つだけとはいえ自分より年上なのに、どうしてこうも子どもっぽいのだろう。
「……SNSだけは勘弁してくださいね」
朝でなければ自分ももっと口が回るのだが、朝はそうもいかない。いつもなら言い返すこともできるのに、朝の一織は早々に白旗を上げてしまいがちだ。
「しないよ。オレのコレクションだし」
見せてもいいものもあるけれど、それは日中の、スタジオへ向かう道中や撮影の合間など、一織の気分が仕事モードの時だけ。今のように完全に気の抜けている一織を全世界にお披露目する趣味はない。
(女の子って、仕事してる男のオフモードの時の顔に弱いって、この前見た雑誌にあったし)
女性向けファッション雑誌のコラムなんて、この仕事をするまでは一生縁のないものだと思っていた。インタビューとあわせて、自分たちを格好よく撮ってくれた雑誌。以前は献本されても、写真が載っているページだけを見ていたのだけれど、……ちょっとした心境の変化から、柄にもなくコラムに目を通すようになってしまった。陸は元々読書家であるから、文字を読むことに抵抗はない。
(ああいう雑誌のコラム、わりと恋愛ネタが多いんだよな)
読みながら、共感したり、憤慨したり。必ずしも役に立つというわけではない。それでもちらちらと横目で読んでしまうのは、陸自身が、恋愛というキーワードに引っかかる人間だから。
「朝から元気なところは、私が見倣うべき数少ないあなたの長所ですね」
「なにぃ……かわいくないやつ! 早く顔洗ってこいよ」
ぷぅと頬を膨らませる様に、一織の眉間のしわは最大級に深くなった。あぁ、そんな顔、するなら自分がもっとしゃきっと目覚めてからにしてほしい。寝起きのぼんやりとした頭では見惚れることもかなわない。
「んん……」
ほら早く! と背中をぐいぐい押される。布越しに感じる手のひらがあたたかくて、もう少し触れていてほしいななんて思ってしまう。しかし今は朝だ。今日は学校へ行った後、夕方からは雑誌の撮影が控えている。彼の言う通り、早く顔を洗ってしっかりと目を覚まさなければ。
「お弁当、オレも手伝ったから楽しみにしてて」
その言葉で、一気に目が覚める。
「七瀬さんが……?」
お世辞にも器用とは言えない陸が手伝った弁当。一体どんなことになっているのだろう。
「顔に出てるぞ、一織。失礼なやつ」
「……あなたの普段のドジっぷりを考えたら仕方ないでしょう」
じとりと睨まれ、一織もむっと唇を尖らせた。いつもならこのまま口論に発展するのだが、今はその時間がない。陸が「ふん!」と顔を背けたのを合図に、一織は洗面所へ、陸は共有スペースへと向かった。
泡立てた洗顔料でくるくると頬を撫でているうちに心まで和らいできて、また陸にきつい態度を取ってしまった……と反省する余裕が出てくる。顔を洗って、身支度を済ませたら謝ろう。
ぬるま湯で泡を流し、タオルに水滴を吸わせる。化粧水で手入れをするようになったのはスカウトされてからだ。濡れないようにと前髪を留めていたピンを外すと、一度部屋に戻り、制服へと着替える。ブレザーの制服もずいぶんと着慣れたものだ。眠る前にきちんと支度してあるけれど、念のため、本日の時間割と荷物の中身を照らし合わせて、忘れものがないか確認する。課題もすべて済ませてあるし、今日も完璧だ。
再び階下へ降りると、トーストの芳ばしい香りが一織の嗅覚を優しく刺激した。途端に空腹を感じたので、生きものとはなんて単純なんだろうかと自分でも呆れてしまう。
「おはようございます」
「おはよう、一織」
三月はコンロの前で、残りのメンバーの朝食を用意しているようだ。ダイニングテーブルにつくと、既に朝食が並べられている。バターを塗ろうとトーストを手にして、その熱さに指先がちりりと痛んだ。
「あぁもう、焼き立てなんだから気を付けろよ。はい、これ」
ネイビーのマグカップを置いて、隣に座った陸が言う。このダイニングテーブルで一織の左隣は陸の定位置だ。
「ありがとうございます」
火傷するほどではない熱さに、ふと、疑問が湧く。
(どうして、焼き立て……)
バターナイフを滑らせながら考えていると、全員の朝食を作り終えた三月が、自分の分の皿を持ってこちらにやって来た。
「熱いけど、さくさくのうちに食べろよ。一織が降りてくるタイミングで焼き上がるようにって陸がやってくれたんだからさ」
「え」
思わず隣を見遣ると、陸が気まずそうに視線を逸らしている。
「……言わなくていいのに」
「はは、でも言わないと、一織はオレがやったって思うからなぁ。陸がやったのにオレに礼言われても困るし」
「……ありがとうございます」
一織はトーストとスクランブルエッグを別々に食べているのだが、三月はトーストの上にのせて食べたい気分らしい。バターを薄く塗るとスクランブルエッグをのせて、勢いよく齧り付いた。
弁当といい朝食といい、今朝はやけに陸が世話を焼きたがっているように思える。今日はなにかあっただろうかと考えてみるが、心当たりがない。
やがて、先に朝食を食べ終えた三月が席を立った。大和とナギを起こしに行くらしい。環はさきほど、壮五が洗面所へと引っ張っていくのが見えたから、そろそろここに来るだろう。ほんの数分だけの、二人きりの時間だ。
「……その、さきほどはすみませんでした」
「? なにが?」
フォークを持ったままの陸が、こてんと首を傾げた。十八歳でこの仕草が許されるのは七瀬陸くらいのものだ、と一織は思う。一織の個人的な感情を抜きにすれば、現代の天使と呼ばれるTRIGGERの九条天にも似合う仕草なのだが。
「お弁当を手伝ってくださったというのに、素直にお礼を言えなくて……」
あぁ、と一織を起こした時のやりとりを思い出す。
「いいよ別に。一織が素直じゃないのはいつものこと。…………でも、そうだな、お弁当食べた感想、三月より先にオレにラビチャで送って。そしたら許す」
「……わかりました」
そんな簡単なことでいいのか? と一織は拍子抜けしたのだが、陸は、それでいいと思っている。
学校に行っている間のことに陸は関与できないけれど、こうすれば、昼休みとはいえ学校にいる間に自分のことを考えてもらえる。朝起きて自分の顔を最初に見てもらって、隣の席で朝食を食べて。できるだけ、一織の頭の中を自分でいっぱいにしてやりたい。
「あっ、お弁当食べる前に写真撮ってよ」
「はいはい」
「はいは一回!」
一織の頭の中なんて、もうずっと、陸のことでいっぱいなのに。