雨の日
窓の外から聞こえる雨音で意識が浮上する。実家を出て半年以上。すっかり暮らし慣れた寮の自室でも、雨の日は空気が重いと感じる。瞼を開くのも億劫だ。
陸は目を閉じたまま、自分の背後から腹の前に回された腕に触れた。体温が低めな彼でも、眠っている時はあたたかい。触り心地がよくて、くすぐるように指を行き来させて遊んでしまう。
「ちょっと。なんなんですか……」
頭の後ろから、寝起き独特の甘く掠れた、気怠そうな声がする。陸の好きな一織の声の中でも、特にお気に入りのものだ。思わず口角が上がってしまう。だって、陸以外、誰も聞いたことのない声だから。
「んー? 一織の肌、すべすべだなぁって」
つつつと指先で腕をなぞり上げると、背後にいる一織が体を震わせた。指を動かすだけで反応するなんて、なんだか、魔法使いになった気分。一織の反応がおもしろくて、いつの間にか、瞼を開く億劫さはなくなっていた。
「あなたもでしょう」
腹の前に回されている腕がいたずらを始める。
「ん、ちょっと」
「仕返しです」
陸の、――環やナギには敵わないものの――きれいに割れた腹筋。その筋をひとつひとつ確かめるように、一織の指がTシャツの中をするすると辿っていく。くすぐったくて身を捩った。
瞼を開くのも億劫だったほどの雨なのに、その雨音が、今では耳に心地いい。
「ね、雨降ってる」
いたずらをしていた一織の手が止まり、もぞもぞと背後で動き出した。え、と思う間もなく一織の頭が自分の背に当たった。
「……呼吸は、問題ないようですね」
その言葉で、一織は自分の呼吸音を確かめるために動いたのだとわかって、陸は恥ずかしくなった。てっきり、そういうことが始まるのかとばかり思ってしまったから。
「なんだよ。覚悟しちゃっただろ」
このどきどきこそ体に悪そうだ。顔が熱い。陸は自分の胸に手を当てて、熱を吐き出すようにゆっくりと息を吐く。
「覚悟?」
どこの誰が呼んでいるのか未だにわからないが、パーフェクト高校生と呼ばれているらしいくせに、陸の言動で察することはできなかったらしい。
「や、見ないで」
一織は頭の中にクエスチョンマークを大量に浮かべながら、陸の言わんとしていることを知ろうと、肩に手をかけてこちらを振り向かせた。陸は顔に出やすいから、顔を見れば一目瞭然。耳まで赤くなった陸の顔を見て、一織にもその赤みが移ってしまう。
「あなた、覚悟って、そういう」
「も~~、見るなって言ったのに~~」
しんと静まり返った部屋に、外で降る雨の音が響く。あぁ、この雨に、燻ぶってしまった熱も流して、体を冷ましてもらえたらいいのに。そうだ、今すぐ外へ飛び出してしまおうか。陸はそんなことを考えた。もちろん冗談だし、たとえ冗談でもこれを言葉にしようものなら、目の前にいる過保護な年下の恋人は全力で陸を止めるのだろう。
はぁ……と頭の上で溜息をつかれてしまう。
(怒った? 朝からなに想像してるんだって、呆れた?)
でも、昨晩だって、……あんなこと、しておいて。
呆れた言葉が降ってくるのが怖くて、陸は庇うように身を丸める。そのまま、一織に背を向けた。頬に触れるシーツが心地いい。
そこで初めて、シーツが交換されていることに気付いた。そういえば、自分がどのタイミングで眠ったのか思い出せない。少なくとも、陸の意識がある時にシーツの交換なんてイベントは起きていなかった。
(オレが寝てる間に、換えてくれたんだ……)
自分の部屋のベッドなんだから、自分で換えるのに。普段は厳しくて、嫌味もいじわるも遠慮なく言ってくるくせに、二人きりの時の一織は、砂糖を煮詰めたよりもずっとずっと甘い。陸はこれでもかというくらい甘やかされている。
「……いつまでそうしているんです」
「ん~~、いつまでも?」
眠っている間にも甘やかされていたことを知って、嬉しかった。でも、嬉しくてにやけているから、顔を見せるのが恥ずかしい。
「いつまでもそうされると困るんですけど」
顔を見なくてもわかる、しゅんとした声。そんなのずるい。
「なんで」
そこまで言うと、陸はすんと洟をすすってしまった。泣いているのではなく、こんな天気の日は、少し、鼻が重苦しくなるから。しかし、一織には泣きそうになっているのだと勘違いされたらしい。
「あぁ、泣かないでください。別に、呆れも怒ってもしていませんから」
陸を抱き締める腕に力がこもる。髪に押し当てられたのは、恐らく、一織の唇。
あぁ、せっかくなら髪じゃなくて、唇にキスをしてほしい。それに、泣いていないから心配しないで。
「泣いてないって」
陸は懸命に体を動かして、一織に向き直る。一織の向こう、カーテンの隙間から、雨が窓を濡らしているのが見えた。思っていたより強い雨らしい。
「なら、いいんですけど」
「雨じゃあるまいし、泣いてないって」
「なんですか、それ」
まるで物語に出てくるような言い回し、と一織は呟いた。
「だってほら、外」
さぁさぁと軽い音のわりに、その雨量はとても多いようだ。一織もそれに気付いて瞳をまあるく見開く。
「本当ですね。……てっきり、小雨程度だとばかり」
「な? 静かなふりして大泣きしてる」
あ、でもオレは泣いてないからな。そう念押しすると、一織がくつくつと笑った。
「わかりましたから。体調はどうですか? 雨の日は発作が起きやすいでしょう」
「ん、ちょっと鼻が重かったくらいかな。発作とかはない。大丈夫だよ」
陸の答えに、一織は眉間に皺を寄せた。鼻が重いのもだめらしい。心配性で過保護な一織のお出ましだ。一織はベッドから起き上がると、陸に布団を被せた。
「七瀬さんはもう少し休んでください。なにかあたたかい飲みものを持ってきます」
あぁ、やっぱり甘やかされている。年下に甘やかされるなんて本当は悔しいけれど、今朝は雨が強くて鼻の奥が少し重苦しいし、ここは素直に甘えさせてもらおう。
「じゃあ、ホットミルクつくって。はちみつも入れて」
部屋に二人きりなのに内緒話をするような小さな声。そのおねだりは効果絶大だったみたいで、陸から見てもわかるくらい、一織の表情がゆるむ。
「あなた、いつもそればかりですね」
「うん。だって、一織のつくってくれるホットミルクが一番好き。あ、でも、一番好きなのは一織かな」
陸の大胆な告白に、咳払いが降ってきた。それでも、一織の機嫌はものすごくいいらしい。
「わかりました。いい子で待っていてください」
陸は目を閉じたまま、自分の背後から腹の前に回された腕に触れた。体温が低めな彼でも、眠っている時はあたたかい。触り心地がよくて、くすぐるように指を行き来させて遊んでしまう。
「ちょっと。なんなんですか……」
頭の後ろから、寝起き独特の甘く掠れた、気怠そうな声がする。陸の好きな一織の声の中でも、特にお気に入りのものだ。思わず口角が上がってしまう。だって、陸以外、誰も聞いたことのない声だから。
「んー? 一織の肌、すべすべだなぁって」
つつつと指先で腕をなぞり上げると、背後にいる一織が体を震わせた。指を動かすだけで反応するなんて、なんだか、魔法使いになった気分。一織の反応がおもしろくて、いつの間にか、瞼を開く億劫さはなくなっていた。
「あなたもでしょう」
腹の前に回されている腕がいたずらを始める。
「ん、ちょっと」
「仕返しです」
陸の、――環やナギには敵わないものの――きれいに割れた腹筋。その筋をひとつひとつ確かめるように、一織の指がTシャツの中をするすると辿っていく。くすぐったくて身を捩った。
瞼を開くのも億劫だったほどの雨なのに、その雨音が、今では耳に心地いい。
「ね、雨降ってる」
いたずらをしていた一織の手が止まり、もぞもぞと背後で動き出した。え、と思う間もなく一織の頭が自分の背に当たった。
「……呼吸は、問題ないようですね」
その言葉で、一織は自分の呼吸音を確かめるために動いたのだとわかって、陸は恥ずかしくなった。てっきり、そういうことが始まるのかとばかり思ってしまったから。
「なんだよ。覚悟しちゃっただろ」
このどきどきこそ体に悪そうだ。顔が熱い。陸は自分の胸に手を当てて、熱を吐き出すようにゆっくりと息を吐く。
「覚悟?」
どこの誰が呼んでいるのか未だにわからないが、パーフェクト高校生と呼ばれているらしいくせに、陸の言動で察することはできなかったらしい。
「や、見ないで」
一織は頭の中にクエスチョンマークを大量に浮かべながら、陸の言わんとしていることを知ろうと、肩に手をかけてこちらを振り向かせた。陸は顔に出やすいから、顔を見れば一目瞭然。耳まで赤くなった陸の顔を見て、一織にもその赤みが移ってしまう。
「あなた、覚悟って、そういう」
「も~~、見るなって言ったのに~~」
しんと静まり返った部屋に、外で降る雨の音が響く。あぁ、この雨に、燻ぶってしまった熱も流して、体を冷ましてもらえたらいいのに。そうだ、今すぐ外へ飛び出してしまおうか。陸はそんなことを考えた。もちろん冗談だし、たとえ冗談でもこれを言葉にしようものなら、目の前にいる過保護な年下の恋人は全力で陸を止めるのだろう。
はぁ……と頭の上で溜息をつかれてしまう。
(怒った? 朝からなに想像してるんだって、呆れた?)
でも、昨晩だって、……あんなこと、しておいて。
呆れた言葉が降ってくるのが怖くて、陸は庇うように身を丸める。そのまま、一織に背を向けた。頬に触れるシーツが心地いい。
そこで初めて、シーツが交換されていることに気付いた。そういえば、自分がどのタイミングで眠ったのか思い出せない。少なくとも、陸の意識がある時にシーツの交換なんてイベントは起きていなかった。
(オレが寝てる間に、換えてくれたんだ……)
自分の部屋のベッドなんだから、自分で換えるのに。普段は厳しくて、嫌味もいじわるも遠慮なく言ってくるくせに、二人きりの時の一織は、砂糖を煮詰めたよりもずっとずっと甘い。陸はこれでもかというくらい甘やかされている。
「……いつまでそうしているんです」
「ん~~、いつまでも?」
眠っている間にも甘やかされていたことを知って、嬉しかった。でも、嬉しくてにやけているから、顔を見せるのが恥ずかしい。
「いつまでもそうされると困るんですけど」
顔を見なくてもわかる、しゅんとした声。そんなのずるい。
「なんで」
そこまで言うと、陸はすんと洟をすすってしまった。泣いているのではなく、こんな天気の日は、少し、鼻が重苦しくなるから。しかし、一織には泣きそうになっているのだと勘違いされたらしい。
「あぁ、泣かないでください。別に、呆れも怒ってもしていませんから」
陸を抱き締める腕に力がこもる。髪に押し当てられたのは、恐らく、一織の唇。
あぁ、せっかくなら髪じゃなくて、唇にキスをしてほしい。それに、泣いていないから心配しないで。
「泣いてないって」
陸は懸命に体を動かして、一織に向き直る。一織の向こう、カーテンの隙間から、雨が窓を濡らしているのが見えた。思っていたより強い雨らしい。
「なら、いいんですけど」
「雨じゃあるまいし、泣いてないって」
「なんですか、それ」
まるで物語に出てくるような言い回し、と一織は呟いた。
「だってほら、外」
さぁさぁと軽い音のわりに、その雨量はとても多いようだ。一織もそれに気付いて瞳をまあるく見開く。
「本当ですね。……てっきり、小雨程度だとばかり」
「な? 静かなふりして大泣きしてる」
あ、でもオレは泣いてないからな。そう念押しすると、一織がくつくつと笑った。
「わかりましたから。体調はどうですか? 雨の日は発作が起きやすいでしょう」
「ん、ちょっと鼻が重かったくらいかな。発作とかはない。大丈夫だよ」
陸の答えに、一織は眉間に皺を寄せた。鼻が重いのもだめらしい。心配性で過保護な一織のお出ましだ。一織はベッドから起き上がると、陸に布団を被せた。
「七瀬さんはもう少し休んでください。なにかあたたかい飲みものを持ってきます」
あぁ、やっぱり甘やかされている。年下に甘やかされるなんて本当は悔しいけれど、今朝は雨が強くて鼻の奥が少し重苦しいし、ここは素直に甘えさせてもらおう。
「じゃあ、ホットミルクつくって。はちみつも入れて」
部屋に二人きりなのに内緒話をするような小さな声。そのおねだりは効果絶大だったみたいで、陸から見てもわかるくらい、一織の表情がゆるむ。
「あなた、いつもそればかりですね」
「うん。だって、一織のつくってくれるホットミルクが一番好き。あ、でも、一番好きなのは一織かな」
陸の大胆な告白に、咳払いが降ってきた。それでも、一織の機嫌はものすごくいいらしい。
「わかりました。いい子で待っていてください」