横恋慕
*名前のないモブ視点、ドラマ『恋のかけら』パロディ(ボクサー×美容師)
しがないSEとして仕事に忙殺されるだけの日々が、華やかに煌めき出した。伸びてきた襟足が煩わしく、ストレス発散も兼ねておしゃれな美容院で髪の手入れをしようと思い立ったあの日の自分を褒めてやりたい。
相手の名前は逢坂壮五。指名なしで予約したモブ男を担当してくれた美容師。抜けるような白い肌に色素の薄い髪、宝石のように美しい菫色の瞳に……モブ男はひと目で恋に落ちたのだ。壮五に髪を洗ってもらっている最中、不快感はないか尋ねられ、快感しかなくて股間が困ったことになり「全部、とても気持ちいいです」と答えて難を逃れた。
初めて店に行った日の帰り、会計を済ませた際に渡された名刺で壮五のフルネームを知った。たおやかな見た目に反し、男らしい名前。壮五が手渡してくれた名刺……つまり、壮五の指紋がべったりとついたそれを、モブ男は家宝にしようと決めた。その足で雑貨店に立ち寄って小ぶりのフォトフレームを購入し、壮五の名刺を丁寧に飾り付けた。
二回目からは壮五を指名して予約を取った。切る髪にも限度はあるから、ヘッドスパをしたり、トリートメントをしたり。会社の服装規定がゆるいこともあって、生まれて初めての染髪にも挑戦した。
「染めるの初めてで……同僚からチャラく見られたらどうしよう」
「ふふ、大丈夫ですよ。アッシュブラウンならあまり派手さはありませんし、モブ山さんのお人柄は、表情からもわかりますから。むしろ、髪を優しい色味にしてあげることで、大人の男としての魅力が増すんじゃないかなと思いますよ」
この時、モブ男は「これはいける」と確信した。壮五は絶対に自分に気がある。そうでなければ、こんな優しい瞳で、優しい手つきで髪に触れるはずがないし、こんな甘い言葉を言うはずがない。――優しい瞳は元々のものだし、髪に触れるのは美容師だから当然のこと、発言は美容師としてのものだということを、この時のモブ男は忘れていた。相手が壮五でなければ「こいつ、営業がうまいな」と冷静に受け止めることができただろう。
その後も、モブ男はコンスタントに美容院へ通い詰めた。的確なアドバイスをしつつもどこか控えめな壮五のことだから、体面を気にして自分から告白はしてこないだろう。モブ男はそう判断し、壮五の仕事終わりを待って、自分から告白することにした。
(待ってろ、壮五!)
心の中で呼び捨てにし、気持ちは早くも恋人気分である。
「今日は夜に人生を賭けた大勝負があって」とヘアセットを予約し、気合いの入ったスーツ姿で来店したモブ男に、壮五は「頑張ってくださいね」と優しい言葉をかけてくれた。
(壮五、愛に対してどこか臆病なおまえのために、オレが頑張るからな……戸惑いを捨ててオレの腕の中に飛び込んできてくれ……)
今日のモブ山モブ男は、自分はどこからどう見てもイケメンで、抱かれたくならないはずがないと自負している。
壮五の仕事が終わるまで、三時間ほど時間を潰す必要があった。今日の最終時間に予約すれば待ち時間も一時間ほどで済んだのだが、その時間は既に他の客によって壮五指名の予約が入っていたのだ。
(まぁ、逢えない時間が愛を育てると言うし……)
花屋に立ち寄り、前もってつくっておいてもらった小ぶりなブーケを受け取る。その足で、美容院の向かいにあるカフェに入り、道路に面したテラス席に陣取った。気分は「寒い冬空の下、コーヒーを飲みながら恋人の仕事終わりを静かに待つスーパーダーリンなオレ」だ。冷たい北風が頬を刺しても、壮五を抱き締める妄想をすれば、心も股間も熱くなる。どんな暖房器具よりも壮五だと思った。実際に抱き締めたことはないのに。
向かいの美容院の灯りが消され、しばらくしてから従業員がぞろぞろと出てくる。そのうちの二人がシャッターを閉め、皆、思い思いに手を振ってばらばらに歩き出した。駅へ向かう者、閑散とした商店街のほうへ向かう者――壮五の本日の仕事が終わったのだ。
モブ男は慌てて立ち上がり、とうに空っぽになっていた紙製のカップをゴミ箱に放り込む。美容院の前で壮五に告白をしないのは、他の従業員の目を気にしてのこと。自分は気にしないが、壮五が気にするだろう。相手のことを思いやってこそ恋人だと思う。恋人ではないというのに、モブ男はそう考えていた。
途中まで他の従業員と雑談をしながら歩く壮五の後ろ、十メートルほど間隔を開けて、ゆっくりと歩く。駅が近付き、壮五は地下鉄へ、もう一人の従業員は別の路線に乗るらしく、手を振って、別々のほうへと歩き出した。ここで解散ということだろう。
(今だ……!)
モブ男は足に力を込めようとした。
「逢……」
「そーちゃん!」
駆け寄って、逢坂さんと呼び止めて。きっと驚くだろうから、一世一代の勝負のためにここにいるのだと説明する。モブ男がそう言えば壮五は「あぁ! それでこんな時間になったんですね? ……どうでした?」と聞いてくるだろうから、勝負は今からだと告げ、壮五にブーケを渡して想いを告げる。壮五は微笑んで受け取って、……もしかしたら、嬉し泣きするかもしれない。この日のために新調したブランドもののハンカチで涙を拭ってやろう。――モブ男はそう計画していた。計画は完璧だったはずだ。
それなのに、モブ男が壮五に声をかける前に、他の男が壮五に声をかけるなんて。
「環くん!」
壮五に声をかけた男をちらりと見遣る。駅舎からの光に照らされた空色の髪は、目を見張るほど澄んでいる。壮五よりも幾分か背が高く、服の上からでもがっしりとした体格の持ち主だということが見てとれた。
「お疲れ、そーちゃん」
「環くんこそ……あ、ここ、怪我してるね」
「おー。練習で食らった」
それが当たり前かのような足取りで壮五の隣にぴったりとくっついて歩く。モブ男は未だ離れたところから二人を見ていたものの、地下鉄への階段を下り始めた二人を見て、慌てて追いかけた。
「ちゃんと消毒した?」
「したした。でないと誰かさんが大袈裟に騒ぐから」
「……もしかして僕のことかな」
「あんた以外、誰がいんだよ」
環と呼ばれた青年は指で壮五の額を弾く。どうしてそんなに気軽に壮五に触れているのだろう。
「だって……心配するのは当然だろう。スポーツでの怪我は一歩間違えれば選手生命どころか人生にかかわるんだから」
「……はぁ……わかってるってば。でも、ボクシングやり始めた時に覚悟してっから。それよりさ、今夜泊まってっていーい?」
壮五の腰を抱くように、環の手がするりと伸ばされる。
「いいもなにも……そのつもりで迎えに来てくれたんじゃないの?」
「まぁな。……あとは、ケンセイ」
そう言って自然な動作で壮五に前を歩かせ、自分の身体で隠してから。
「けんせい?」
なにを言っているのかわからないといった声音の壮五だが、その表情はモブ男からは見えない。その代わり、モブ男を睨み付けるようにこちらを振り返る環の顔がよく見えた。
しがないSEとして仕事に忙殺されるだけの日々が、華やかに煌めき出した。伸びてきた襟足が煩わしく、ストレス発散も兼ねておしゃれな美容院で髪の手入れをしようと思い立ったあの日の自分を褒めてやりたい。
相手の名前は逢坂壮五。指名なしで予約したモブ男を担当してくれた美容師。抜けるような白い肌に色素の薄い髪、宝石のように美しい菫色の瞳に……モブ男はひと目で恋に落ちたのだ。壮五に髪を洗ってもらっている最中、不快感はないか尋ねられ、快感しかなくて股間が困ったことになり「全部、とても気持ちいいです」と答えて難を逃れた。
初めて店に行った日の帰り、会計を済ませた際に渡された名刺で壮五のフルネームを知った。たおやかな見た目に反し、男らしい名前。壮五が手渡してくれた名刺……つまり、壮五の指紋がべったりとついたそれを、モブ男は家宝にしようと決めた。その足で雑貨店に立ち寄って小ぶりのフォトフレームを購入し、壮五の名刺を丁寧に飾り付けた。
二回目からは壮五を指名して予約を取った。切る髪にも限度はあるから、ヘッドスパをしたり、トリートメントをしたり。会社の服装規定がゆるいこともあって、生まれて初めての染髪にも挑戦した。
「染めるの初めてで……同僚からチャラく見られたらどうしよう」
「ふふ、大丈夫ですよ。アッシュブラウンならあまり派手さはありませんし、モブ山さんのお人柄は、表情からもわかりますから。むしろ、髪を優しい色味にしてあげることで、大人の男としての魅力が増すんじゃないかなと思いますよ」
この時、モブ男は「これはいける」と確信した。壮五は絶対に自分に気がある。そうでなければ、こんな優しい瞳で、優しい手つきで髪に触れるはずがないし、こんな甘い言葉を言うはずがない。――優しい瞳は元々のものだし、髪に触れるのは美容師だから当然のこと、発言は美容師としてのものだということを、この時のモブ男は忘れていた。相手が壮五でなければ「こいつ、営業がうまいな」と冷静に受け止めることができただろう。
その後も、モブ男はコンスタントに美容院へ通い詰めた。的確なアドバイスをしつつもどこか控えめな壮五のことだから、体面を気にして自分から告白はしてこないだろう。モブ男はそう判断し、壮五の仕事終わりを待って、自分から告白することにした。
(待ってろ、壮五!)
心の中で呼び捨てにし、気持ちは早くも恋人気分である。
「今日は夜に人生を賭けた大勝負があって」とヘアセットを予約し、気合いの入ったスーツ姿で来店したモブ男に、壮五は「頑張ってくださいね」と優しい言葉をかけてくれた。
(壮五、愛に対してどこか臆病なおまえのために、オレが頑張るからな……戸惑いを捨ててオレの腕の中に飛び込んできてくれ……)
今日のモブ山モブ男は、自分はどこからどう見てもイケメンで、抱かれたくならないはずがないと自負している。
壮五の仕事が終わるまで、三時間ほど時間を潰す必要があった。今日の最終時間に予約すれば待ち時間も一時間ほどで済んだのだが、その時間は既に他の客によって壮五指名の予約が入っていたのだ。
(まぁ、逢えない時間が愛を育てると言うし……)
花屋に立ち寄り、前もってつくっておいてもらった小ぶりなブーケを受け取る。その足で、美容院の向かいにあるカフェに入り、道路に面したテラス席に陣取った。気分は「寒い冬空の下、コーヒーを飲みながら恋人の仕事終わりを静かに待つスーパーダーリンなオレ」だ。冷たい北風が頬を刺しても、壮五を抱き締める妄想をすれば、心も股間も熱くなる。どんな暖房器具よりも壮五だと思った。実際に抱き締めたことはないのに。
向かいの美容院の灯りが消され、しばらくしてから従業員がぞろぞろと出てくる。そのうちの二人がシャッターを閉め、皆、思い思いに手を振ってばらばらに歩き出した。駅へ向かう者、閑散とした商店街のほうへ向かう者――壮五の本日の仕事が終わったのだ。
モブ男は慌てて立ち上がり、とうに空っぽになっていた紙製のカップをゴミ箱に放り込む。美容院の前で壮五に告白をしないのは、他の従業員の目を気にしてのこと。自分は気にしないが、壮五が気にするだろう。相手のことを思いやってこそ恋人だと思う。恋人ではないというのに、モブ男はそう考えていた。
途中まで他の従業員と雑談をしながら歩く壮五の後ろ、十メートルほど間隔を開けて、ゆっくりと歩く。駅が近付き、壮五は地下鉄へ、もう一人の従業員は別の路線に乗るらしく、手を振って、別々のほうへと歩き出した。ここで解散ということだろう。
(今だ……!)
モブ男は足に力を込めようとした。
「逢……」
「そーちゃん!」
駆け寄って、逢坂さんと呼び止めて。きっと驚くだろうから、一世一代の勝負のためにここにいるのだと説明する。モブ男がそう言えば壮五は「あぁ! それでこんな時間になったんですね? ……どうでした?」と聞いてくるだろうから、勝負は今からだと告げ、壮五にブーケを渡して想いを告げる。壮五は微笑んで受け取って、……もしかしたら、嬉し泣きするかもしれない。この日のために新調したブランドもののハンカチで涙を拭ってやろう。――モブ男はそう計画していた。計画は完璧だったはずだ。
それなのに、モブ男が壮五に声をかける前に、他の男が壮五に声をかけるなんて。
「環くん!」
壮五に声をかけた男をちらりと見遣る。駅舎からの光に照らされた空色の髪は、目を見張るほど澄んでいる。壮五よりも幾分か背が高く、服の上からでもがっしりとした体格の持ち主だということが見てとれた。
「お疲れ、そーちゃん」
「環くんこそ……あ、ここ、怪我してるね」
「おー。練習で食らった」
それが当たり前かのような足取りで壮五の隣にぴったりとくっついて歩く。モブ男は未だ離れたところから二人を見ていたものの、地下鉄への階段を下り始めた二人を見て、慌てて追いかけた。
「ちゃんと消毒した?」
「したした。でないと誰かさんが大袈裟に騒ぐから」
「……もしかして僕のことかな」
「あんた以外、誰がいんだよ」
環と呼ばれた青年は指で壮五の額を弾く。どうしてそんなに気軽に壮五に触れているのだろう。
「だって……心配するのは当然だろう。スポーツでの怪我は一歩間違えれば選手生命どころか人生にかかわるんだから」
「……はぁ……わかってるってば。でも、ボクシングやり始めた時に覚悟してっから。それよりさ、今夜泊まってっていーい?」
壮五の腰を抱くように、環の手がするりと伸ばされる。
「いいもなにも……そのつもりで迎えに来てくれたんじゃないの?」
「まぁな。……あとは、ケンセイ」
そう言って自然な動作で壮五に前を歩かせ、自分の身体で隠してから。
「けんせい?」
なにを言っているのかわからないといった声音の壮五だが、その表情はモブ男からは見えない。その代わり、モブ男を睨み付けるようにこちらを振り返る環の顔がよく見えた。