泣いてもいいよ
空からはしとしとと雨が降り注ぎ、むわりとたち込める湿気が不快感を与えてくる。奄美大島ではとうに梅雨入りしたそうだが、東京はまだ先だ。
明日までには雨が上がっていてほしいなと、壮五はカーテンの隙間から、水滴をまとった窓や、高いところから涙をこぼしている空を見上げた。あんなに高いところから涙をこぼして、空に、涙を拭ってくれる存在はいるのだろうか。壮五は少し前に、人前で涙を流してしまった時のことを思い出す。
醤油の染みが付いている袖で拭われた涙。いつもの壮五なら「そんなところに醤油をこぼすなんて」と環の不注意を咎めただろうが、目許と頬に触れる心地いい感触を前に、咎める気持ちは消え失せてしまった。代わりに芽生えたのは、別の感情だ。
(僕は、僕には……)
環に拭われた頬を指先でなぞる。日が経っているのに、すぐに感触を思い出すことができる。壮五の心をきゅうっと締め付けるのは甘い痛みだ。
◇
「そーちゃん泣くのへた過ぎ」
部屋に入るなり、環はへらりと笑ってそう言った。どう返答すべきか考えあぐねていると、環に手招きされる。しかも、己の膝を軽く叩いて。
「え…………」
仕方なく、言われた通りに環の元へと歩み寄った。こういうシチュエーションはドラマで見たことがある。膝に座れという合図だ。壮五は成人男性で、相手は高校生男子。男同士で膝の上に座る――しかも、年上の自分が座らせていただく側――なんて。これが撮影ということであれば、MEZZO"は仲睦まじい絵面を求められているから、壮五も仕事だと割りきって膝の上に座ったことだろう。しかし、今は完全にプライベートの場。
「えっと……」
壮五が躊躇っていると、焦れた環は壮五の手首を掴み、軽く引いた。
「手首ほっそ……つーか、軽い。あんた、また痩せた?」
「う……きちんと食べてるし、これでも毎日筋トレしてるんだけど」
引っ張られる力には抗えず、壮五の身体はあっという間に環の腕の中に吸い込まれてしまった。膝の上で横抱きにされて、物語の中のお姫様のよう。
「ふーん? ちゃんと食えよ。また倒れたら、やだかんな」
壮五の存在を確かめるように、環は壮五の頭、肩、背……と順番に触れる。腰のあたりまで手が下りたところで、そのまま抱き締められてしまった。
「えっ……」
片腕で抱き締め、もう一方の手で壮五の頭をあやすように撫でている。
「ん。そーちゃんさっき泣くのへた過ぎたから。いい子いい子」
「僕は別に……泣いてなんか」
感情が昂って、うまく言葉にできなくて、言葉の代わりに涙がこぼれてしまいそうだった。壮五には大人としての矜持もある。少し前に泣いてしまったが、相変わらず、泣き方というものがわからないまま。だから、泣きそうだったけれど、涙はこぼれなかった。
「すごくいい曲って言ってくれたの、うれしい。俺もいい曲だって思った。あんたの好きなもの褒めてほしい気持ち、こういうことなんだなって、俺にもわかった」
自分よりもひと回り大きな手はあたたかく、時折、髪に指先を絡めて遊びながらも、ずっと優しく撫でてくれている。大人としての矜持……と凝り固まっていたものが、やわらかくなっていくのを感じた。
「うん、……環くんのソロ曲…………」
そこまで言って、壮五は押し黙ってしまった。だって本当に、言葉が浮かばない。素敵だ、格好いい。――それよりももっと相応しい言葉があるような気がする。
「だいじょーぶ。そーちゃんが気に入ってくれたことは、わかってんよ」
よーしよしよし、と言いながら頭を撫でられ、情けないなぁと思いながらも壮五はそのまましばらく、環に身を委ねた。
◇
(ずいぶん、恥ずかしいことをしてしまったな……)
あれから一ヶ月以上、いや、もうすぐ二ヶ月が経とうとしている。環の誕生日当日、彼のソロ曲を聴いて感極まった時のことを思い出すと、今でも顔から火が出そうだ。
いくら相方とはいえ、男同士であれはない。これまでの自分がフランクな人付き合いとあまり縁がなかったことを念頭に置いても、あれは明らかに友人関係の域を超えてしまっていたということはわかる。
驚いたのはそれだけではない。
(だめだ、思い出しただけでこうだ)
心臓がどきどきして、顔が熱くなって、わけもなく涙がこぼれそうになる。やっぱり上手に涙を出すことはできないから、あの日みたいに、こっそり頭を撫でてほしいと思ってしまう。環のあの優しい手を求めている。
(環くん、お兄さんみたいだった)
妹がいることはもちろん、施設にいた頃に小さな子どもたちの面倒を見ていたからだろう。感情を持て余している自分をあやす環に、もしも自分に兄がいたら、こんな感じだったのだろうかと思った。もしも兄がいたら、逢坂家での自分は、もう少し呼吸のしやすい生活を送っていたかもしれない。しかし、あの窮屈さがあったからこそ、壮五はあの家を飛び出して、ここにいるのだ。
もしも兄がいたら、なんて想像を巡らせるのはよそう。壮五はそれまでの思考を振りきるように、小さくかぶりを振った。
(あれが、僕じゃなかったとしても、環くんはああしただろうか)
他のメンバーも、環のソロ曲に心打たれて言葉数が少なくなっていた。たまたま、いつもはすらすらと感想を述べる自分が言葉に詰まって、たまたま、環の相方が自分で。そして、環が以前、壮五の代わりに泣く係になると約束してくれているから。それから、ラビットチャットでつくった、環を祝うグループトークで彼が皆に投げかけた、皆にとっての自分はなんのランキングで一位かという質問に、壮五が〝自分の人生を変えた人ランキング一位〟とスケールの大きな回答をしたから。もっと言えば、単に目が合ったから。
きっかけはなんだっていい。とにかく、自分以外の誰かが、今回の自分と同じように泣きそうになっていたら、環はそのメンバーの頭を撫でていたに違いないと思うのだ。
大和と一織はいやがるだろうが、ナギは微笑むし、陸は手放しで喜ぶだろう。三月は頬を膨らませながらも、しばらく撫でられてやって、それから、撫で返す。皆の姿が容易に想像できる。
(なんだか、いやだな……)
細い隙間から見えていた雨空を隠すように、カーテンを強く手繰り寄せ、しっかりと閉めきった。空からこぼれてくる雨に、心の中に燻ぶるなにかを洗い流してもらえたらいいと思うのに、洗い流してしまってはいけない気がしてならない。
(多分、気付いてはいけない)
明日は自分の誕生日、ソロ曲のリリースイベントがある。たった一人でこなさなければいけないステージだ。明日の段取りを入念に確認し、気を紛らわせることにした。
誕生日当日、ソロ曲のリリースイベントは――MCコーナーの最中に、前もって考えていた言葉が頭から抜けてしまうというトラブルがあったものの、概ね――つつがなく終えることができた。
メンバーは既に会場から離れて、各自の仕事先であったり、日々を過ごしている寮へと先に帰ったりしている。
壮五はスタッフに礼を言ってから、会場をあとにした。
寮へ帰る道すがら、タクシーの中でラビットチャットを開くと、案の定、グループトークは壮五のソロ曲リリースイベントの話題でもちきりだった。すぐさま壮五も会話に加わったのだが、話の流れから、MCコーナーでの壮五の様子がおかしかった時があったと指摘されてしまった。それも、環から。
見に来てくれた人たちの合いの手に思わず表情が綻んでしまい、それまで張り詰めていた緊張の糸が切れてしまったのだろう。こんな時に、いつもならば……とメンバーの顔が次々と脳裏を過ったことを打ち明けると、皆、フォローの言葉を投げかけてくれた。本当に、ありがたい。しかし、環はというと、なんと、素っ気ない言葉を投げかけてきた。
だからといって落ち込んでいてはいけない、ライブ中のトークについて、三月や大和あたりから学ばせてもらわなければいけないなと自分を納得させたその時、ラビットチャットの通知アイコンが表示された。グループトーク以外の受信があったのだ。ログが流れている隙に、素早くトーク履歴一覧の画面へと切り替える。
送信元は環だった。
『帰ってきたら、俺の部屋来て』
どきりと心臓が高鳴る。
(いや、……毎朝行ってるじゃないか)
今更、部屋に行くくらいでなにを緊張することがあるというのか。
壮五は「わかった」と返信し、元のグループトークの画面に切り替える。他のメンバーの発言から、どうやら、環の素っ気ない言葉は照れ隠しだったということがわかり、ここがグループトークの画面だということも忘れて、少しの間、二人でやりとりを繰り広げてしまったのだった。
もうすぐ寮に着くというところで「逢坂さんも今日はお疲れでしょうから」という一織の言葉により、グループトークはお開きとなった。壮五は、途中で受信した環からのメッセージを再度確認する。
『帰ってきたら、俺の部屋来て』
MCコーナーでのことを言われるのだろうか。壮五はそう危惧しつつも、一旦、荷物を自室へ置いてから、環の部屋へと向かった。
「環くん?」
控えめなノックを二回。毎朝、彼を起こす時にもそうしている。
「いちいちノックいいよ」
部屋の中からそう言われ、壮五はドアノブに手をかけた。中では、環がベッドの縁を背もたれにして座っている。
「ただいま」
「おかえり」
飲んでいたペットボトル飲料の蓋を閉めて、そこらへ放る。環のその仕草に眉を顰めていると、環が「ん」と言って、己の膝を軽く叩いた。
「え、なに……」
「なにって、ここ」
その動作には見覚えがある。二ヶ月近く前、環の誕生日の日にも見た。
心臓がどきりと大きな音を立てたのが、聞こえてしまうのではないだろうか。思わず胸許を手で押さえながら、壮五はつとめて冷静に振る舞った。
「あのね、環くん。事務所の方針で僕たちが仲のいいユニットとして売り出されているとはいえ、……もちろん、さっきもグループトークで言ったように、今の僕は心の底から環くんと仲良くなりたいと思ってるよ。出会った頃に比べたら、実際に仲良くできているとも思う。でも、今はプライベートだ。男同士で膝の上に座ったり座られたりというのは、いくらなんでも距離が近過ぎるんじゃないかな」
壮五は難色を示したが、環は大きな溜息をついて、以前と同じように、壮五の腕を引いて自分の膝の上に座らせた。
「ぐちゃぐちゃいいよもう。俺、わかってんよ」
「……なにを?」
一体、環はなにをわかっているというのだろう。壮五を膝の上に座らせることで、得られる〝気付き〟があるとは思えないのだが。
小首を傾げて環の返答を待っていると、環はニィ……と口角を上げて笑ってから、あの時と同じように、壮五を抱き締めた。片腕で背を支え、もう片方の手で壮五の後頭部をぽんぽんと撫でる。
(あ、まただ…………)
正体がわかりそうでわからない感情が、ぶわりと押し寄せてくる。心が昂って、でも、うまく言葉にできなくて。またしても、言葉の代わりに涙がこぼれてしまいそうだ。
「そーちゃんが、こうされるの好きってこと」
よしよし、と耳許で囁かれ、その声の甘さに、頭がふわふわしていくのを感じる。
「……僕は別に」
「違う? 前にこうした時、そーちゃん、くっつき虫になってた。チビたちもくっつき虫になってたし、そーちゃんも嬉しいんだろうなって思ったけど」
くっつき虫。壮五自身は使わない言葉だが、言わんとしていることはわかる。
しかし……。
「……僕、その小さな子たちと同じなんだね」
言ってから、壮五は自分の声音に自分で驚いた。焦って、環の腕の中から逃れようとしたのだが、環は両腕を使って、更に強く抱き締めてくる。
「そーちゃん、それだめなやつ」
「だ、だめ?」
壮五はもうパニックだ。それこそ、リリースイベントのMCコーナーの比ではない。
自分より大きな体躯。筋肉が付いた厚い胸板。けれど、まだ十七歳の、成長途中を感じさせる骨格。そういえば、成長痛に悩んでいると言っていたっけ……と環に身体のあちこちが痛むことを打ち明けられたことを思い出す。今ですら、こうしてすっぽりと包み込まれてしまっているのに、これ以上大きくなられたら――そして、その環に今と同じように抱き締められたら――世界中にあるいやなもの、悪いものから全部、壮五のことを覆い隠せてしまいそうだ。環にはそれだけの力があると思っている。
「うん、だめ。かわいいから」
「か、……僕は男だよ?」
かわいいと言われて喜ぶタイプではない。ファンから一番よく聞くのは「きれい」という言葉だが、その次に「環と一緒にいる時の壮五さんかわいい」だ。逢坂家の嫡男として厳しく躾けられてきた壮五としては、たとえ家を飛び出した身であっても、男らしくいなければならないと思っているのに。
「もー無理。かわいいから。こんなん、俺のこと好きーっつってるのと一緒じゃん」
腕ゆるめてんのに逃げないでくっつき虫してるし、と付け足される。
「え、あ……」
いつの間にか、身動きが取れるようになっていたこと気付く。そして、環の声が心地よくて、自然と、自分から彼の肩に頭をのせていることにも。
壮五は今度こそ飛び退こうとしたが、環がそれを許さなかった。
「な、言って。俺、気付いてんよ。チビたちと一緒? ってかわいい拗ね方してんの、俺に甘えんのは、そーちゃんだけがいいってことだよな。そーちゃん、好きでもないやつに甘えたいってなる?」
「それ、は」
喉がからからして、言葉がうまく出ない。
(だめ、だめだ……)
また、心の中から込み上げてくるものがあって、やっぱり言葉にならなくて。言葉にして吐き出せないせいで、涙に変わってしまいそうになる。なんとしてでも自分の中から出ていきたいものが、この心の中にはあるらしい。自分のことなのに、こんなに手に負えないものがあるなんて。
「はは、やっぱ泣くのへた過ぎ」
親指で、流れてもいない涙を拭うように顔をなぞられる。
「泣いてない」
「うそ。しょっぱい」
環はそのまま親指をちろりと舐めた。実際のところ、涙はこぼれていないし、環もそれはわかっている。
「泣いて、ない」
しかし、環のその言動は、壮五の中で燻ぶったまま、外に出てこられないでいるものをあふれさせるにはじゅうぶんだったようで。
「あーもー、泣いたー」
環の肩に顔を埋め、壮五は身体を震わせた。
もう五月で、環が着ているのは半袖のTシャツだから、あの時のように醤油の染みが付いた袖口で彼の涙を拭ってやることはできない。環はTシャツの肩口が湿っていくのを感じながら、壮五の後頭部に手を添え、彼が落ち着くまでそのまま待つことにした。
時間にして十分たらずといったところか。Tシャツの肩口の湿り気が増えなくなったなと環が思ったあたりで、壮五はゆっくりと顔を上げた。
「はは、目も鼻も真っ赤」
ほんのりと赤く色付いた鼻を軽くつまむと、壮五はむずがるように目を瞑った。
(あ、かわいい)
そのままつまんだ鼻を引いて上を向かせ、首を傾けて素早くくちづける。
「んっ?」
壮五が瞠目するのも構わず、鼻をつまんでいた手を放し、今度は両頬を包むように手を添えた。逃がさない、という意思。額を近付けて、至近距離で。
「びっくりした?」
「び、っくり、なんてもんじゃない……」
「やだった?」
甘い痛みで、心がきゅうっと締め付けられる。心が昂って、でも、うまく言葉にできなくて。
思わず息を詰まらせながら、壮五は、昨日見た雨空を思い出す。空からこぼれてくる雨に、心の中に燻ぶるなにかを洗い流してもらえたらなんて考えていた。けれど、直感で、洗い流してしまってはいけないと感じたものだ。気付いてはいけない、と。
それなのに、こんなことをされて、気付かざるを得ないじゃないか。壮五は心の中で歯噛みした。気付かされたのが悔しい。
「いやじゃ、なかった」
いやだと思わなかったどころか、心がどきどきして、頬がゆるみそうだ。
「だから言ったじゃん。こうされるの好きって、わかってんよって」
「……なんだか、うまく言いくるめられた感じがしてしまうな」
本当にこれでいいのだろうか。アイドルで、男同士で。好きという気持ちだけで向き合うには、課題が多過ぎるのでは?
壮五は、むむ……と眉間に皺を寄せた。すかさず、環が人差し指と中指で眉間の皺を伸ばすようにマッサージをしてくる。
「ぐちゃぐちゃ考えんのはもういいって言ったじゃん。そーちゃん、もっと俺と一緒にいたほうがいい」
「それは、……そりゃあ、これからもきみと一緒にいたら楽しいだろうとは思うけど」
あくまでも、アイドルとして、友人として、というつもりでいた。少なくとも、数分前までは。
それを、この年下の男は、壮五の中で燻ぶっていた気持ちを自覚させてしまったのだ。
「じゃあ、一緒にいりゃあいいじゃん。明日も、明後日も。俺、そーちゃんの隣にいるから。ケンカするかもだけど、ちゃんと仲直りしたらいいし。なにより、……俺が、そーちゃんと一緒にいたい。そーちゃんが俺のこと好きなのと同じで、俺も、そーちゃんのこと好き……だから」
耳まで真っ赤にする環に、壮五の心がまた、甘く、きゅうっと締め付けられる。
(そうか、僕は環くんのことが好きなんだ)
環にうまく誘導されてしまった気がしてならない。それなのに、雨がやんで曇り空も晴れたように、壮五の気持ちもまた、すっきりと冴え渡っているのだ。
明日までには雨が上がっていてほしいなと、壮五はカーテンの隙間から、水滴をまとった窓や、高いところから涙をこぼしている空を見上げた。あんなに高いところから涙をこぼして、空に、涙を拭ってくれる存在はいるのだろうか。壮五は少し前に、人前で涙を流してしまった時のことを思い出す。
醤油の染みが付いている袖で拭われた涙。いつもの壮五なら「そんなところに醤油をこぼすなんて」と環の不注意を咎めただろうが、目許と頬に触れる心地いい感触を前に、咎める気持ちは消え失せてしまった。代わりに芽生えたのは、別の感情だ。
(僕は、僕には……)
環に拭われた頬を指先でなぞる。日が経っているのに、すぐに感触を思い出すことができる。壮五の心をきゅうっと締め付けるのは甘い痛みだ。
◇
「そーちゃん泣くのへた過ぎ」
部屋に入るなり、環はへらりと笑ってそう言った。どう返答すべきか考えあぐねていると、環に手招きされる。しかも、己の膝を軽く叩いて。
「え…………」
仕方なく、言われた通りに環の元へと歩み寄った。こういうシチュエーションはドラマで見たことがある。膝に座れという合図だ。壮五は成人男性で、相手は高校生男子。男同士で膝の上に座る――しかも、年上の自分が座らせていただく側――なんて。これが撮影ということであれば、MEZZO"は仲睦まじい絵面を求められているから、壮五も仕事だと割りきって膝の上に座ったことだろう。しかし、今は完全にプライベートの場。
「えっと……」
壮五が躊躇っていると、焦れた環は壮五の手首を掴み、軽く引いた。
「手首ほっそ……つーか、軽い。あんた、また痩せた?」
「う……きちんと食べてるし、これでも毎日筋トレしてるんだけど」
引っ張られる力には抗えず、壮五の身体はあっという間に環の腕の中に吸い込まれてしまった。膝の上で横抱きにされて、物語の中のお姫様のよう。
「ふーん? ちゃんと食えよ。また倒れたら、やだかんな」
壮五の存在を確かめるように、環は壮五の頭、肩、背……と順番に触れる。腰のあたりまで手が下りたところで、そのまま抱き締められてしまった。
「えっ……」
片腕で抱き締め、もう一方の手で壮五の頭をあやすように撫でている。
「ん。そーちゃんさっき泣くのへた過ぎたから。いい子いい子」
「僕は別に……泣いてなんか」
感情が昂って、うまく言葉にできなくて、言葉の代わりに涙がこぼれてしまいそうだった。壮五には大人としての矜持もある。少し前に泣いてしまったが、相変わらず、泣き方というものがわからないまま。だから、泣きそうだったけれど、涙はこぼれなかった。
「すごくいい曲って言ってくれたの、うれしい。俺もいい曲だって思った。あんたの好きなもの褒めてほしい気持ち、こういうことなんだなって、俺にもわかった」
自分よりもひと回り大きな手はあたたかく、時折、髪に指先を絡めて遊びながらも、ずっと優しく撫でてくれている。大人としての矜持……と凝り固まっていたものが、やわらかくなっていくのを感じた。
「うん、……環くんのソロ曲…………」
そこまで言って、壮五は押し黙ってしまった。だって本当に、言葉が浮かばない。素敵だ、格好いい。――それよりももっと相応しい言葉があるような気がする。
「だいじょーぶ。そーちゃんが気に入ってくれたことは、わかってんよ」
よーしよしよし、と言いながら頭を撫でられ、情けないなぁと思いながらも壮五はそのまましばらく、環に身を委ねた。
◇
(ずいぶん、恥ずかしいことをしてしまったな……)
あれから一ヶ月以上、いや、もうすぐ二ヶ月が経とうとしている。環の誕生日当日、彼のソロ曲を聴いて感極まった時のことを思い出すと、今でも顔から火が出そうだ。
いくら相方とはいえ、男同士であれはない。これまでの自分がフランクな人付き合いとあまり縁がなかったことを念頭に置いても、あれは明らかに友人関係の域を超えてしまっていたということはわかる。
驚いたのはそれだけではない。
(だめだ、思い出しただけでこうだ)
心臓がどきどきして、顔が熱くなって、わけもなく涙がこぼれそうになる。やっぱり上手に涙を出すことはできないから、あの日みたいに、こっそり頭を撫でてほしいと思ってしまう。環のあの優しい手を求めている。
(環くん、お兄さんみたいだった)
妹がいることはもちろん、施設にいた頃に小さな子どもたちの面倒を見ていたからだろう。感情を持て余している自分をあやす環に、もしも自分に兄がいたら、こんな感じだったのだろうかと思った。もしも兄がいたら、逢坂家での自分は、もう少し呼吸のしやすい生活を送っていたかもしれない。しかし、あの窮屈さがあったからこそ、壮五はあの家を飛び出して、ここにいるのだ。
もしも兄がいたら、なんて想像を巡らせるのはよそう。壮五はそれまでの思考を振りきるように、小さくかぶりを振った。
(あれが、僕じゃなかったとしても、環くんはああしただろうか)
他のメンバーも、環のソロ曲に心打たれて言葉数が少なくなっていた。たまたま、いつもはすらすらと感想を述べる自分が言葉に詰まって、たまたま、環の相方が自分で。そして、環が以前、壮五の代わりに泣く係になると約束してくれているから。それから、ラビットチャットでつくった、環を祝うグループトークで彼が皆に投げかけた、皆にとっての自分はなんのランキングで一位かという質問に、壮五が〝自分の人生を変えた人ランキング一位〟とスケールの大きな回答をしたから。もっと言えば、単に目が合ったから。
きっかけはなんだっていい。とにかく、自分以外の誰かが、今回の自分と同じように泣きそうになっていたら、環はそのメンバーの頭を撫でていたに違いないと思うのだ。
大和と一織はいやがるだろうが、ナギは微笑むし、陸は手放しで喜ぶだろう。三月は頬を膨らませながらも、しばらく撫でられてやって、それから、撫で返す。皆の姿が容易に想像できる。
(なんだか、いやだな……)
細い隙間から見えていた雨空を隠すように、カーテンを強く手繰り寄せ、しっかりと閉めきった。空からこぼれてくる雨に、心の中に燻ぶるなにかを洗い流してもらえたらいいと思うのに、洗い流してしまってはいけない気がしてならない。
(多分、気付いてはいけない)
明日は自分の誕生日、ソロ曲のリリースイベントがある。たった一人でこなさなければいけないステージだ。明日の段取りを入念に確認し、気を紛らわせることにした。
誕生日当日、ソロ曲のリリースイベントは――MCコーナーの最中に、前もって考えていた言葉が頭から抜けてしまうというトラブルがあったものの、概ね――つつがなく終えることができた。
メンバーは既に会場から離れて、各自の仕事先であったり、日々を過ごしている寮へと先に帰ったりしている。
壮五はスタッフに礼を言ってから、会場をあとにした。
寮へ帰る道すがら、タクシーの中でラビットチャットを開くと、案の定、グループトークは壮五のソロ曲リリースイベントの話題でもちきりだった。すぐさま壮五も会話に加わったのだが、話の流れから、MCコーナーでの壮五の様子がおかしかった時があったと指摘されてしまった。それも、環から。
見に来てくれた人たちの合いの手に思わず表情が綻んでしまい、それまで張り詰めていた緊張の糸が切れてしまったのだろう。こんな時に、いつもならば……とメンバーの顔が次々と脳裏を過ったことを打ち明けると、皆、フォローの言葉を投げかけてくれた。本当に、ありがたい。しかし、環はというと、なんと、素っ気ない言葉を投げかけてきた。
だからといって落ち込んでいてはいけない、ライブ中のトークについて、三月や大和あたりから学ばせてもらわなければいけないなと自分を納得させたその時、ラビットチャットの通知アイコンが表示された。グループトーク以外の受信があったのだ。ログが流れている隙に、素早くトーク履歴一覧の画面へと切り替える。
送信元は環だった。
『帰ってきたら、俺の部屋来て』
どきりと心臓が高鳴る。
(いや、……毎朝行ってるじゃないか)
今更、部屋に行くくらいでなにを緊張することがあるというのか。
壮五は「わかった」と返信し、元のグループトークの画面に切り替える。他のメンバーの発言から、どうやら、環の素っ気ない言葉は照れ隠しだったということがわかり、ここがグループトークの画面だということも忘れて、少しの間、二人でやりとりを繰り広げてしまったのだった。
もうすぐ寮に着くというところで「逢坂さんも今日はお疲れでしょうから」という一織の言葉により、グループトークはお開きとなった。壮五は、途中で受信した環からのメッセージを再度確認する。
『帰ってきたら、俺の部屋来て』
MCコーナーでのことを言われるのだろうか。壮五はそう危惧しつつも、一旦、荷物を自室へ置いてから、環の部屋へと向かった。
「環くん?」
控えめなノックを二回。毎朝、彼を起こす時にもそうしている。
「いちいちノックいいよ」
部屋の中からそう言われ、壮五はドアノブに手をかけた。中では、環がベッドの縁を背もたれにして座っている。
「ただいま」
「おかえり」
飲んでいたペットボトル飲料の蓋を閉めて、そこらへ放る。環のその仕草に眉を顰めていると、環が「ん」と言って、己の膝を軽く叩いた。
「え、なに……」
「なにって、ここ」
その動作には見覚えがある。二ヶ月近く前、環の誕生日の日にも見た。
心臓がどきりと大きな音を立てたのが、聞こえてしまうのではないだろうか。思わず胸許を手で押さえながら、壮五はつとめて冷静に振る舞った。
「あのね、環くん。事務所の方針で僕たちが仲のいいユニットとして売り出されているとはいえ、……もちろん、さっきもグループトークで言ったように、今の僕は心の底から環くんと仲良くなりたいと思ってるよ。出会った頃に比べたら、実際に仲良くできているとも思う。でも、今はプライベートだ。男同士で膝の上に座ったり座られたりというのは、いくらなんでも距離が近過ぎるんじゃないかな」
壮五は難色を示したが、環は大きな溜息をついて、以前と同じように、壮五の腕を引いて自分の膝の上に座らせた。
「ぐちゃぐちゃいいよもう。俺、わかってんよ」
「……なにを?」
一体、環はなにをわかっているというのだろう。壮五を膝の上に座らせることで、得られる〝気付き〟があるとは思えないのだが。
小首を傾げて環の返答を待っていると、環はニィ……と口角を上げて笑ってから、あの時と同じように、壮五を抱き締めた。片腕で背を支え、もう片方の手で壮五の後頭部をぽんぽんと撫でる。
(あ、まただ…………)
正体がわかりそうでわからない感情が、ぶわりと押し寄せてくる。心が昂って、でも、うまく言葉にできなくて。またしても、言葉の代わりに涙がこぼれてしまいそうだ。
「そーちゃんが、こうされるの好きってこと」
よしよし、と耳許で囁かれ、その声の甘さに、頭がふわふわしていくのを感じる。
「……僕は別に」
「違う? 前にこうした時、そーちゃん、くっつき虫になってた。チビたちもくっつき虫になってたし、そーちゃんも嬉しいんだろうなって思ったけど」
くっつき虫。壮五自身は使わない言葉だが、言わんとしていることはわかる。
しかし……。
「……僕、その小さな子たちと同じなんだね」
言ってから、壮五は自分の声音に自分で驚いた。焦って、環の腕の中から逃れようとしたのだが、環は両腕を使って、更に強く抱き締めてくる。
「そーちゃん、それだめなやつ」
「だ、だめ?」
壮五はもうパニックだ。それこそ、リリースイベントのMCコーナーの比ではない。
自分より大きな体躯。筋肉が付いた厚い胸板。けれど、まだ十七歳の、成長途中を感じさせる骨格。そういえば、成長痛に悩んでいると言っていたっけ……と環に身体のあちこちが痛むことを打ち明けられたことを思い出す。今ですら、こうしてすっぽりと包み込まれてしまっているのに、これ以上大きくなられたら――そして、その環に今と同じように抱き締められたら――世界中にあるいやなもの、悪いものから全部、壮五のことを覆い隠せてしまいそうだ。環にはそれだけの力があると思っている。
「うん、だめ。かわいいから」
「か、……僕は男だよ?」
かわいいと言われて喜ぶタイプではない。ファンから一番よく聞くのは「きれい」という言葉だが、その次に「環と一緒にいる時の壮五さんかわいい」だ。逢坂家の嫡男として厳しく躾けられてきた壮五としては、たとえ家を飛び出した身であっても、男らしくいなければならないと思っているのに。
「もー無理。かわいいから。こんなん、俺のこと好きーっつってるのと一緒じゃん」
腕ゆるめてんのに逃げないでくっつき虫してるし、と付け足される。
「え、あ……」
いつの間にか、身動きが取れるようになっていたこと気付く。そして、環の声が心地よくて、自然と、自分から彼の肩に頭をのせていることにも。
壮五は今度こそ飛び退こうとしたが、環がそれを許さなかった。
「な、言って。俺、気付いてんよ。チビたちと一緒? ってかわいい拗ね方してんの、俺に甘えんのは、そーちゃんだけがいいってことだよな。そーちゃん、好きでもないやつに甘えたいってなる?」
「それ、は」
喉がからからして、言葉がうまく出ない。
(だめ、だめだ……)
また、心の中から込み上げてくるものがあって、やっぱり言葉にならなくて。言葉にして吐き出せないせいで、涙に変わってしまいそうになる。なんとしてでも自分の中から出ていきたいものが、この心の中にはあるらしい。自分のことなのに、こんなに手に負えないものがあるなんて。
「はは、やっぱ泣くのへた過ぎ」
親指で、流れてもいない涙を拭うように顔をなぞられる。
「泣いてない」
「うそ。しょっぱい」
環はそのまま親指をちろりと舐めた。実際のところ、涙はこぼれていないし、環もそれはわかっている。
「泣いて、ない」
しかし、環のその言動は、壮五の中で燻ぶったまま、外に出てこられないでいるものをあふれさせるにはじゅうぶんだったようで。
「あーもー、泣いたー」
環の肩に顔を埋め、壮五は身体を震わせた。
もう五月で、環が着ているのは半袖のTシャツだから、あの時のように醤油の染みが付いた袖口で彼の涙を拭ってやることはできない。環はTシャツの肩口が湿っていくのを感じながら、壮五の後頭部に手を添え、彼が落ち着くまでそのまま待つことにした。
時間にして十分たらずといったところか。Tシャツの肩口の湿り気が増えなくなったなと環が思ったあたりで、壮五はゆっくりと顔を上げた。
「はは、目も鼻も真っ赤」
ほんのりと赤く色付いた鼻を軽くつまむと、壮五はむずがるように目を瞑った。
(あ、かわいい)
そのままつまんだ鼻を引いて上を向かせ、首を傾けて素早くくちづける。
「んっ?」
壮五が瞠目するのも構わず、鼻をつまんでいた手を放し、今度は両頬を包むように手を添えた。逃がさない、という意思。額を近付けて、至近距離で。
「びっくりした?」
「び、っくり、なんてもんじゃない……」
「やだった?」
甘い痛みで、心がきゅうっと締め付けられる。心が昂って、でも、うまく言葉にできなくて。
思わず息を詰まらせながら、壮五は、昨日見た雨空を思い出す。空からこぼれてくる雨に、心の中に燻ぶるなにかを洗い流してもらえたらなんて考えていた。けれど、直感で、洗い流してしまってはいけないと感じたものだ。気付いてはいけない、と。
それなのに、こんなことをされて、気付かざるを得ないじゃないか。壮五は心の中で歯噛みした。気付かされたのが悔しい。
「いやじゃ、なかった」
いやだと思わなかったどころか、心がどきどきして、頬がゆるみそうだ。
「だから言ったじゃん。こうされるの好きって、わかってんよって」
「……なんだか、うまく言いくるめられた感じがしてしまうな」
本当にこれでいいのだろうか。アイドルで、男同士で。好きという気持ちだけで向き合うには、課題が多過ぎるのでは?
壮五は、むむ……と眉間に皺を寄せた。すかさず、環が人差し指と中指で眉間の皺を伸ばすようにマッサージをしてくる。
「ぐちゃぐちゃ考えんのはもういいって言ったじゃん。そーちゃん、もっと俺と一緒にいたほうがいい」
「それは、……そりゃあ、これからもきみと一緒にいたら楽しいだろうとは思うけど」
あくまでも、アイドルとして、友人として、というつもりでいた。少なくとも、数分前までは。
それを、この年下の男は、壮五の中で燻ぶっていた気持ちを自覚させてしまったのだ。
「じゃあ、一緒にいりゃあいいじゃん。明日も、明後日も。俺、そーちゃんの隣にいるから。ケンカするかもだけど、ちゃんと仲直りしたらいいし。なにより、……俺が、そーちゃんと一緒にいたい。そーちゃんが俺のこと好きなのと同じで、俺も、そーちゃんのこと好き……だから」
耳まで真っ赤にする環に、壮五の心がまた、甘く、きゅうっと締め付けられる。
(そうか、僕は環くんのことが好きなんだ)
環にうまく誘導されてしまった気がしてならない。それなのに、雨がやんで曇り空も晴れたように、壮五の気持ちもまた、すっきりと冴え渡っているのだ。