キスの日
土曜にしては珍しく仕事の入っていない、完全オフ。睡眠中の環にいつも抱きかかえられている王様プリンのぬいぐるみには、昨晩から、壁を向いて過ごしていただいた。ここはもう僕のものなんだよなんて、無機物に向かって心の中で舌を出す。
オフの前夜だからと盛り上がった深夜を思い出しながら、未だ寝息を立てている年下の恋人の体に触れる。呼吸に合わせて美しく上下する胸板が羨ましい。一緒にトレーニングをしているのになと、――実家を出た頃に比べたら多少は筋肉がついたものの、相変わらず――貧相な自分の体に溜息をついた。
抱かれたい男ランキング常連の彼は、以前にも増して肌を露出する撮影が増えた。きっと、世の女性たちはこの体を見て熱い溜息をつき、遊びでもいいから抱かれてみたいと夢を見るのだろう。彼は僕に一途だから他の人は抱かないんだけどねと、声に出せない優越感に浸る。目の前のここに赤い痕をつけられたら、どんなに気分がいいことか。
もちろん、アイドルという立場を忘れるわけにはいかないから、絶対にそんなことはできない。でも……と、所有欲を抑えきれなくて、痕がつかない程度に、環の胸にくちづける。
「……まだ、寝てる?」
起こすつもりはない。吐息にほとんど溶けて聞こえないくらいの小さな声で、彼がまだ眠っていることを確かめる。
ひと晩中、腕枕をしてくれていたのだろうか。人間の頭は五キログラムほど。それを文句ひとつ言わず支えてくれた彼の優しさに、自分が甘やかされているという事実に、胸がきゅうっと締め付けられる。ありがとう、お疲れさま。もしよければ、次にくっついて眠る日も、こうやって甘えさせてくれたらいいなと、これまた壮五より筋肉のついた腕にくちづけた。そのまますりすりと頬ずりをする。髪があたってくすぐったかったのか、「んん」と低い声が漏れ、ぱっと顔を上げた。危ない危ない、起こすところだった。
壮五よりもかたちがくっきりとわかる喉仏に、そういえばここは〝アダムの林檎〟とも呼ばれているんだっけと思い出す。あの果実は絶対に食べてはいけないよと言いつけられていたのに、蛇にそそのかされて、好奇心に負けたイブ。アダムも果実を口にし、知識を得る代わりに、心の純潔を失った。アダムは男で、イブは女。二人は人間。あの果実を食べてはならないと言ったのは、男でも女でもない、神様。――真実を知った二人は、それまで暮らしていた楽園から追い出され、地上に降りた。
男同士だし、アダムとイブではないけれど、自分たちは恋を知って、なにかを失ったのだろうか。
(幸せな家庭を築けるかもしれない未来、とか?)
環と過ごすことしか考えていない壮五は、そういうものを特に求めていない。彼も、同じだったらいい。同じだよね。ゆっくりと身を起こし、環に覆い被さる。首筋に顔を埋めて息を吸うと、少しだけ、汗のにおいがした。ずっと顔を擦り付けていたくなってしまうくらいにはこのにおいが好きだ。小さく音を立ててくちづける。
「……そろそろ、起きてほしいな」
起こすつもりはなかったけれど、すっかり体が熱くなってきてしまった。隆起する喉仏に唇を押し当て、体を撫で回す。
昨日は何回したっけ。とろとろに蕩かされて、途中からあまり覚えていない。それでもまたしたくなっているのだから、きっと、たりなかったのだろう。たった一晩明けただけでものたりなさを感じる程度にしか抱いてくれなかったのかと、腹が立ってくる。よくばりだと知っているなら、もっと満足させてくれなきゃだめじゃないか。――わがままで身勝手な文句ばかり浮かんできて、こんなの、口に出したら呆れられてしまうかもなと思った。それでも、こちらはもうその気になっているわけだし……、一回だけ、おねだりしたいな。一回なら、いいよね。
「ね、環くん」
全力で誘うつもりで、耳許に唇を近付けた。
◇
MEZZO"の売り出し方として、顔を近付けることは多い。しかも、プライベートでは恋人だ。至近距離で環の顔を見るなんて、慣れっこなはず――
「あの」
――なのに、自分でもどうかと思うくらい、どきどきしている。彼が格好よ過ぎるからか、それとも、自分が骨抜きになっているからか。……両方、かもしれない。
「まずはー、おでこな」
寝起きで乱れた前髪を優しく掻き分け、あらわになった白い額にくちづけられた。
「なんだか、恥ずかしいよ」
もっと恥ずかしい場所にキスをするような仲なのに。
「頑張ったそーちゃんのこと、褒めてやんなきゃじゃん」
誕生日に公開された動画『RabbiTube』でパンダナメコの絵を描いた壮五は、画面越しに、環に向かって、自分は頑張ったよと言っていた。それまでの笑顔とは違う、子どものような無邪気な表情。案の定、動画には「環に向ける笑顔がかわいい!」というコメントが殺到した。
褒めるためのキスだと言われたら、壮五もありがたく受け取るしかない。照れくささを拭えないまま、唇が押し当てられた場所を手で覆い、小声で「ありがとう」と言う。
「それからー」
「ひっ」
歯形がつかない程度ではあるものの、頬にかぷりと噛みつかれ、情けない声を上げてしまった。
「なんか噛まれたなぁって嬉しそうに言わねえの?」
「言わないよ!」
動画での発言を指しているのだとすぐにわかった。こんないじわるをするなんて、彼らしくない。だって、環はとても優しい人だから。
「んー、そっか。ごめんな」
「別にいいけど……、んっ、なに」
かぶりついた頬をよしよしと撫で、宥めるように、こめかみへとくちづけられる。そんなに怒ったつもりはないのになと、なぜか、壮五のほうが申し訳なくなってしまった。
「んー? 仕返し」
「仕返し?」
心当たりがなくて、どう反応すればいいかがわからない。
自分はなにか、怒らせるようなことをしただろうか。仕事に夢中になっていても、食事や睡眠を疎かにしないよう、心がけているつもりだ。環から誘われた際に寝不足かもしれないと感じたら、正直に話して、彼の腕の中で眠るだけに留めている。決して、無理はしていない。
「この前、起こされた時の」
それぞれの部屋で過ごした翌朝も含め、彼を起こすのは壮五の役目だ。王様プリンのぬいぐるみを抱えて寝息を立てる環から、布団を引っぺがしたり、王様プリンのぬいぐるみを取り上げたりと、毎朝、奮闘している。
いつもの起こし方で、なにか不満を感じていることでもあるのだろうか。眉間に皺を寄せて、ここ最近の朝を振り返った。この前って、いつ?
「こうやって」
壮五の手を取り、手の甲へとくちづける環。物語に出てくる王子様みたいだと、胸がときめいた。地球が引っくり返ったって、壮五はお姫様にはなれないのに。
「……そーちゃん、変なこと考えてる」
「別に」
「そーちゃんは格好いい男だから、全っ然、お姫様じゃねえけど、ベッドの中では俺のお姫様だよ。あ、女扱いしてるわけじゃなくて、ちょー大事って意味な」
彼と交際を始め、関係が深まってきた頃。壮五は自分が受け入れる側になることに、迷いはなかった。男ならば相手を抱きたいと思うのが本能なのかもしれないが、男に脚を開いたからといって、男の矜持を捨てるわけではない。環もそれをわかってくれた。互いに尊敬しているから、もめることもなかった。
「な、いい?」
するすると手を動かして手首を掴み直すと、手のひらに、手首に、音を立ててくちづけられた。
「……まさか、この前の、起きてた?」
一週間前の土曜日の朝、少し早く目を覚ました壮五が、なかなか目を覚まさない環に焦れてやったこと。
「起きてた」
「いつから?」
「そーちゃんが胸ぺたぺた触ってる時から」
それって、最初からじゃないか。
「起きてたなら言ってくれ……」
耳に息を吹き込むようにくちづけたところで、環が「うわぁ!」と飛び上がるように起きたものだから、そこで初めて目を覚ましたものとばかり思っていた。
「あっちこっちにチューしてるから、なんかあんのかなって。そーちゃんに訊きたかったけど、なんでもないーとか言いそうだったから、自分で調べた。意味わかったから、仕返し」
自分からなにかを調べる。仕事や学校の課題でもそうやってくれたらいいのにと言いたくなったが、この雰囲気でそれを言うのは憚られて、代わりに、別の言葉にした。
「だったら、ここにしてくれなきゃ」
人差し指でとんとんと唇を指す。
「そこだけでいい?」
「うーん、他の場所も全部。僕からも、きみからもね」
オフの前夜だからと盛り上がった深夜を思い出しながら、未だ寝息を立てている年下の恋人の体に触れる。呼吸に合わせて美しく上下する胸板が羨ましい。一緒にトレーニングをしているのになと、――実家を出た頃に比べたら多少は筋肉がついたものの、相変わらず――貧相な自分の体に溜息をついた。
抱かれたい男ランキング常連の彼は、以前にも増して肌を露出する撮影が増えた。きっと、世の女性たちはこの体を見て熱い溜息をつき、遊びでもいいから抱かれてみたいと夢を見るのだろう。彼は僕に一途だから他の人は抱かないんだけどねと、声に出せない優越感に浸る。目の前のここに赤い痕をつけられたら、どんなに気分がいいことか。
もちろん、アイドルという立場を忘れるわけにはいかないから、絶対にそんなことはできない。でも……と、所有欲を抑えきれなくて、痕がつかない程度に、環の胸にくちづける。
「……まだ、寝てる?」
起こすつもりはない。吐息にほとんど溶けて聞こえないくらいの小さな声で、彼がまだ眠っていることを確かめる。
ひと晩中、腕枕をしてくれていたのだろうか。人間の頭は五キログラムほど。それを文句ひとつ言わず支えてくれた彼の優しさに、自分が甘やかされているという事実に、胸がきゅうっと締め付けられる。ありがとう、お疲れさま。もしよければ、次にくっついて眠る日も、こうやって甘えさせてくれたらいいなと、これまた壮五より筋肉のついた腕にくちづけた。そのまますりすりと頬ずりをする。髪があたってくすぐったかったのか、「んん」と低い声が漏れ、ぱっと顔を上げた。危ない危ない、起こすところだった。
壮五よりもかたちがくっきりとわかる喉仏に、そういえばここは〝アダムの林檎〟とも呼ばれているんだっけと思い出す。あの果実は絶対に食べてはいけないよと言いつけられていたのに、蛇にそそのかされて、好奇心に負けたイブ。アダムも果実を口にし、知識を得る代わりに、心の純潔を失った。アダムは男で、イブは女。二人は人間。あの果実を食べてはならないと言ったのは、男でも女でもない、神様。――真実を知った二人は、それまで暮らしていた楽園から追い出され、地上に降りた。
男同士だし、アダムとイブではないけれど、自分たちは恋を知って、なにかを失ったのだろうか。
(幸せな家庭を築けるかもしれない未来、とか?)
環と過ごすことしか考えていない壮五は、そういうものを特に求めていない。彼も、同じだったらいい。同じだよね。ゆっくりと身を起こし、環に覆い被さる。首筋に顔を埋めて息を吸うと、少しだけ、汗のにおいがした。ずっと顔を擦り付けていたくなってしまうくらいにはこのにおいが好きだ。小さく音を立ててくちづける。
「……そろそろ、起きてほしいな」
起こすつもりはなかったけれど、すっかり体が熱くなってきてしまった。隆起する喉仏に唇を押し当て、体を撫で回す。
昨日は何回したっけ。とろとろに蕩かされて、途中からあまり覚えていない。それでもまたしたくなっているのだから、きっと、たりなかったのだろう。たった一晩明けただけでものたりなさを感じる程度にしか抱いてくれなかったのかと、腹が立ってくる。よくばりだと知っているなら、もっと満足させてくれなきゃだめじゃないか。――わがままで身勝手な文句ばかり浮かんできて、こんなの、口に出したら呆れられてしまうかもなと思った。それでも、こちらはもうその気になっているわけだし……、一回だけ、おねだりしたいな。一回なら、いいよね。
「ね、環くん」
全力で誘うつもりで、耳許に唇を近付けた。
◇
MEZZO"の売り出し方として、顔を近付けることは多い。しかも、プライベートでは恋人だ。至近距離で環の顔を見るなんて、慣れっこなはず――
「あの」
――なのに、自分でもどうかと思うくらい、どきどきしている。彼が格好よ過ぎるからか、それとも、自分が骨抜きになっているからか。……両方、かもしれない。
「まずはー、おでこな」
寝起きで乱れた前髪を優しく掻き分け、あらわになった白い額にくちづけられた。
「なんだか、恥ずかしいよ」
もっと恥ずかしい場所にキスをするような仲なのに。
「頑張ったそーちゃんのこと、褒めてやんなきゃじゃん」
誕生日に公開された動画『RabbiTube』でパンダナメコの絵を描いた壮五は、画面越しに、環に向かって、自分は頑張ったよと言っていた。それまでの笑顔とは違う、子どものような無邪気な表情。案の定、動画には「環に向ける笑顔がかわいい!」というコメントが殺到した。
褒めるためのキスだと言われたら、壮五もありがたく受け取るしかない。照れくささを拭えないまま、唇が押し当てられた場所を手で覆い、小声で「ありがとう」と言う。
「それからー」
「ひっ」
歯形がつかない程度ではあるものの、頬にかぷりと噛みつかれ、情けない声を上げてしまった。
「なんか噛まれたなぁって嬉しそうに言わねえの?」
「言わないよ!」
動画での発言を指しているのだとすぐにわかった。こんないじわるをするなんて、彼らしくない。だって、環はとても優しい人だから。
「んー、そっか。ごめんな」
「別にいいけど……、んっ、なに」
かぶりついた頬をよしよしと撫で、宥めるように、こめかみへとくちづけられる。そんなに怒ったつもりはないのになと、なぜか、壮五のほうが申し訳なくなってしまった。
「んー? 仕返し」
「仕返し?」
心当たりがなくて、どう反応すればいいかがわからない。
自分はなにか、怒らせるようなことをしただろうか。仕事に夢中になっていても、食事や睡眠を疎かにしないよう、心がけているつもりだ。環から誘われた際に寝不足かもしれないと感じたら、正直に話して、彼の腕の中で眠るだけに留めている。決して、無理はしていない。
「この前、起こされた時の」
それぞれの部屋で過ごした翌朝も含め、彼を起こすのは壮五の役目だ。王様プリンのぬいぐるみを抱えて寝息を立てる環から、布団を引っぺがしたり、王様プリンのぬいぐるみを取り上げたりと、毎朝、奮闘している。
いつもの起こし方で、なにか不満を感じていることでもあるのだろうか。眉間に皺を寄せて、ここ最近の朝を振り返った。この前って、いつ?
「こうやって」
壮五の手を取り、手の甲へとくちづける環。物語に出てくる王子様みたいだと、胸がときめいた。地球が引っくり返ったって、壮五はお姫様にはなれないのに。
「……そーちゃん、変なこと考えてる」
「別に」
「そーちゃんは格好いい男だから、全っ然、お姫様じゃねえけど、ベッドの中では俺のお姫様だよ。あ、女扱いしてるわけじゃなくて、ちょー大事って意味な」
彼と交際を始め、関係が深まってきた頃。壮五は自分が受け入れる側になることに、迷いはなかった。男ならば相手を抱きたいと思うのが本能なのかもしれないが、男に脚を開いたからといって、男の矜持を捨てるわけではない。環もそれをわかってくれた。互いに尊敬しているから、もめることもなかった。
「な、いい?」
するすると手を動かして手首を掴み直すと、手のひらに、手首に、音を立ててくちづけられた。
「……まさか、この前の、起きてた?」
一週間前の土曜日の朝、少し早く目を覚ました壮五が、なかなか目を覚まさない環に焦れてやったこと。
「起きてた」
「いつから?」
「そーちゃんが胸ぺたぺた触ってる時から」
それって、最初からじゃないか。
「起きてたなら言ってくれ……」
耳に息を吹き込むようにくちづけたところで、環が「うわぁ!」と飛び上がるように起きたものだから、そこで初めて目を覚ましたものとばかり思っていた。
「あっちこっちにチューしてるから、なんかあんのかなって。そーちゃんに訊きたかったけど、なんでもないーとか言いそうだったから、自分で調べた。意味わかったから、仕返し」
自分からなにかを調べる。仕事や学校の課題でもそうやってくれたらいいのにと言いたくなったが、この雰囲気でそれを言うのは憚られて、代わりに、別の言葉にした。
「だったら、ここにしてくれなきゃ」
人差し指でとんとんと唇を指す。
「そこだけでいい?」
「うーん、他の場所も全部。僕からも、きみからもね」