守る理由
駅のホームで壁際を歩いていると、時折、環が腕を引いてくることがあった。なにかあったのかと視線で尋ねても、特にこれといった回答が得られたことはない。歩いている場所がいけないのかと思ったが、ホームの端を歩いているならまだしも、端から一番遠い壁際を歩いているので、危険はないはずだ。首を傾げる壮五を気にするでもなく、環はいつも「あ、電車」とホームに滑り込む鉄の塊に視線を遣っていた。
それが解決したのはほんのささいなことがきっかけだった。ある日を境に、駅のホームを歩いていても、環に腕を引かれることがなくなったのだ。いつものようにそのまま壁際を歩いていた壮五は、ふと、目の前にある、ホームに掲示された駅名表示の看板に目を留めた。厚みは二十センチメートルほどで、天井から吊り下げるタイプではなく、壁にべったりと貼り付けるように設置されたもの。出っ張った角に、厚いシリコン素材の保護カバーが取り付けられている。重厚な金属製の看板に、あまりにも不釣り合いなシリコン。そのミスマッチさが気にかかった。
「こんなの、前からあったかな」
ちょうど、壮五の目線の高さにある保護カバーを指差す。電光掲示板を見上げていた環が「どれ」と振り返った。
「これ。接着剤でくっついてるのかな?」
「あー……ちょっと前からあったっぽい。一応、いたずらで取られねえようには、なってんじゃねえの」
ふうん……と頷いてから、自分よりも先に環がこの小さな変化に気付いていた事実に驚く。確かに環は周りの変化に鋭いとはいえ、あくまでも人の心の機微についてであって、こうした駅構内の変化まで見ているとは思っていなかったからだ。
「環くんは気付いてたんだ?」
「ん、まぁな」
環よりも、自分のほうが目線の高さに近いにもかかわらず気付かなかった。――と、そこまで考えて、この駅に限って、ホームを歩いている時に環がよく腕を引いてきたことを思い出す。
「……環くん、もしかして」
壮五がなにを言おうとしているのか、なんとなく察した環はさっと視線を逸らす。もしかしてもなにも、正解だろう。それでも、壮五としては確かめずにはいられなかった。
「時々僕のこと引っ張ってたのって、ここにぶつからないように……とか?」
たっぷり五秒。まなじりをほんのりと赤く染めた環は、まるでいたずらが見つかった子どものように、ぼそぼそと話し始めた。悪いことなんて、なにもしていないのに。
「目の近くにこんなの、危ねえし……」
やっぱり。環は、この看板の角に壮五がぶつからないようにと、腕を引いていたのだ。
「……僕、そこまでドジじゃないけど」
そこまで心配されるほど危なっかしい足取りだった記憶はない。記憶を保てないほど酔ってしまった時は、電車を使うことはほとんどなかった。
「わかってるって」
そう返されても、なんとなく釈然としない。壮五としては、自分は守られるような男ではないと思っているからだ。むしろ、成人した男として、未成年の環を守り、導く存在でなければならないと思っている。それなのに、自分が守られる側なんて。元来、壮五はプライドの高い男だ。守るべき相手から、知らず知らずのうちに守られていたなんて、鼻持ちならない。
壮五が眉間に皺を寄せるのを見て、環ははぁと溜息をつく。だから気付かれたくなかったのに。
「だから、わかってるって言ってんじゃん。別に、そーちゃんが危なっかしいとかじゃねえって」
本当に、つくづく面倒くさい男だ。でも、そんな面倒くさい相方に対して、特別な気持ちを抱いているのだから仕方がない。そして、否定はしたものの、壮五のことはどこか危なっかしい男だと思っている。大丈夫と言いつつ無理をするし、酒に酔えば誰彼構わずべたべたとくっついて甘えるし。環としては気が気ではない。
「本当?」
「ほんとほんと。ほら、電車もう来るって」
チューブ状に設計された上下線に挟まれたこの地下鉄では、ごうごうと唸る風音とともに髪が乱されて、思わず目を瞑った頃に、先頭車両がホームに進入してくる。
「わっ」
人一倍、身なりに気を配らなければならない立場であるにもかかわらず、二人の髪は激しく乱された。環はふるふると頭を振り、壮五は手櫛で髪を整える。
「相変わらず、風強いのな」
サイドの髪が前髪と混ざって、いつもならくすぐらないところをくすぐる。頭を振った程度では元のように戻せなかった。少しだけいらだちながら指先で毛束ごとつまみ、まるでごみ箱にごみを捨てるかのような乱雑さでサイドに放った。
「もう、髪がくしゃくしゃじゃないか」
「帰るだけだしいいじゃん」
「あのね、……ううん、いい」
「は?」
誰が見ているかわからないのに。そう言いかけて、やめた。誰が見ているかわからないのだと口にすることが、急に、照れくさくなったから。
この駅を使う時に限って、環が腕を引いていたことを、誰かに見られていたかもしれない。自分は今日までその理由に気付かなかったが、もしかしたら、見かけた人は気付いたかも。その可能性に思い至ってしまった。
「……次からは、ホームを歩く時、気を付けるよ」
まだその話をしていたのかと瞠目する。しかし、壮五の耳が少し赤くなっていて、これはこれでいいかなと思った。照れている壮五はかわいい。
「ま、そんな気にしなくていいんじゃねえの。そーちゃんは、俺に守られてりゃいいんだよ」
好きな人のことは守りたい。環の愛情とは、そういうものだ。
「いやだよ、守られる側なんて。格好悪いじゃないか。それに僕は大人だから、僕のほうこそ、きみを守らなきゃならないくらいだよ」
環にとっては残酷ともいえる、壮五の「相手を守ろうと思う理由」に、秘かに苦笑してしまう。同じ理由だったら、どんなにいいだろう。
(ま、そううまくいかねえってのは覚悟してっけど)
迷惑かも。拒絶されるかも。そんなことは何十回、何百回と考えた。
「まぁ、そのうちな」
「……? なにが?」
電車のドアが閉まるのと同時、環は今日も、告げたい気持ちを心の中に押し留めて鍵をかけた。
壮五のことを諦めるつもりはない。自分はまだ十七歳だ。勝機はもう少し先の未来に必ずあると信じている。
それが解決したのはほんのささいなことがきっかけだった。ある日を境に、駅のホームを歩いていても、環に腕を引かれることがなくなったのだ。いつものようにそのまま壁際を歩いていた壮五は、ふと、目の前にある、ホームに掲示された駅名表示の看板に目を留めた。厚みは二十センチメートルほどで、天井から吊り下げるタイプではなく、壁にべったりと貼り付けるように設置されたもの。出っ張った角に、厚いシリコン素材の保護カバーが取り付けられている。重厚な金属製の看板に、あまりにも不釣り合いなシリコン。そのミスマッチさが気にかかった。
「こんなの、前からあったかな」
ちょうど、壮五の目線の高さにある保護カバーを指差す。電光掲示板を見上げていた環が「どれ」と振り返った。
「これ。接着剤でくっついてるのかな?」
「あー……ちょっと前からあったっぽい。一応、いたずらで取られねえようには、なってんじゃねえの」
ふうん……と頷いてから、自分よりも先に環がこの小さな変化に気付いていた事実に驚く。確かに環は周りの変化に鋭いとはいえ、あくまでも人の心の機微についてであって、こうした駅構内の変化まで見ているとは思っていなかったからだ。
「環くんは気付いてたんだ?」
「ん、まぁな」
環よりも、自分のほうが目線の高さに近いにもかかわらず気付かなかった。――と、そこまで考えて、この駅に限って、ホームを歩いている時に環がよく腕を引いてきたことを思い出す。
「……環くん、もしかして」
壮五がなにを言おうとしているのか、なんとなく察した環はさっと視線を逸らす。もしかしてもなにも、正解だろう。それでも、壮五としては確かめずにはいられなかった。
「時々僕のこと引っ張ってたのって、ここにぶつからないように……とか?」
たっぷり五秒。まなじりをほんのりと赤く染めた環は、まるでいたずらが見つかった子どものように、ぼそぼそと話し始めた。悪いことなんて、なにもしていないのに。
「目の近くにこんなの、危ねえし……」
やっぱり。環は、この看板の角に壮五がぶつからないようにと、腕を引いていたのだ。
「……僕、そこまでドジじゃないけど」
そこまで心配されるほど危なっかしい足取りだった記憶はない。記憶を保てないほど酔ってしまった時は、電車を使うことはほとんどなかった。
「わかってるって」
そう返されても、なんとなく釈然としない。壮五としては、自分は守られるような男ではないと思っているからだ。むしろ、成人した男として、未成年の環を守り、導く存在でなければならないと思っている。それなのに、自分が守られる側なんて。元来、壮五はプライドの高い男だ。守るべき相手から、知らず知らずのうちに守られていたなんて、鼻持ちならない。
壮五が眉間に皺を寄せるのを見て、環ははぁと溜息をつく。だから気付かれたくなかったのに。
「だから、わかってるって言ってんじゃん。別に、そーちゃんが危なっかしいとかじゃねえって」
本当に、つくづく面倒くさい男だ。でも、そんな面倒くさい相方に対して、特別な気持ちを抱いているのだから仕方がない。そして、否定はしたものの、壮五のことはどこか危なっかしい男だと思っている。大丈夫と言いつつ無理をするし、酒に酔えば誰彼構わずべたべたとくっついて甘えるし。環としては気が気ではない。
「本当?」
「ほんとほんと。ほら、電車もう来るって」
チューブ状に設計された上下線に挟まれたこの地下鉄では、ごうごうと唸る風音とともに髪が乱されて、思わず目を瞑った頃に、先頭車両がホームに進入してくる。
「わっ」
人一倍、身なりに気を配らなければならない立場であるにもかかわらず、二人の髪は激しく乱された。環はふるふると頭を振り、壮五は手櫛で髪を整える。
「相変わらず、風強いのな」
サイドの髪が前髪と混ざって、いつもならくすぐらないところをくすぐる。頭を振った程度では元のように戻せなかった。少しだけいらだちながら指先で毛束ごとつまみ、まるでごみ箱にごみを捨てるかのような乱雑さでサイドに放った。
「もう、髪がくしゃくしゃじゃないか」
「帰るだけだしいいじゃん」
「あのね、……ううん、いい」
「は?」
誰が見ているかわからないのに。そう言いかけて、やめた。誰が見ているかわからないのだと口にすることが、急に、照れくさくなったから。
この駅を使う時に限って、環が腕を引いていたことを、誰かに見られていたかもしれない。自分は今日までその理由に気付かなかったが、もしかしたら、見かけた人は気付いたかも。その可能性に思い至ってしまった。
「……次からは、ホームを歩く時、気を付けるよ」
まだその話をしていたのかと瞠目する。しかし、壮五の耳が少し赤くなっていて、これはこれでいいかなと思った。照れている壮五はかわいい。
「ま、そんな気にしなくていいんじゃねえの。そーちゃんは、俺に守られてりゃいいんだよ」
好きな人のことは守りたい。環の愛情とは、そういうものだ。
「いやだよ、守られる側なんて。格好悪いじゃないか。それに僕は大人だから、僕のほうこそ、きみを守らなきゃならないくらいだよ」
環にとっては残酷ともいえる、壮五の「相手を守ろうと思う理由」に、秘かに苦笑してしまう。同じ理由だったら、どんなにいいだろう。
(ま、そううまくいかねえってのは覚悟してっけど)
迷惑かも。拒絶されるかも。そんなことは何十回、何百回と考えた。
「まぁ、そのうちな」
「……? なにが?」
電車のドアが閉まるのと同時、環は今日も、告げたい気持ちを心の中に押し留めて鍵をかけた。
壮五のことを諦めるつもりはない。自分はまだ十七歳だ。勝機はもう少し先の未来に必ずあると信じている。