相合傘
夕方から雨が降るかもしれないという予報は聞いていた。今日の降水確率は二十パーセント、念のために折りたたみ傘があったほうがいいかもしれませんねというお天気キャスターの声も覚えている。
朝の情報番組で流れる本日の運勢は、占いなんてと笑うタイプの者ほど気にしてしまいがちだ。星座占いは十二パターンしかない。たとえば非常に素晴らしい運勢だとコメントが添えられていたとして、その番組を見ているその星座の主が全員、素晴らしい一日を送るとは限らない。番組によっては、血液型占いという、更にパターンが絞られるものもある。一体、この国にどれだけの人口がいると思っているんだ。ラッキーアイテムだとかラッキーメニューだとか、それを手にする頃には一日が終わっていてもおかしくないようなものが指定されているケースを見ると、なにかの陰謀を感じる。たとえば、スポンサー企業の商品がばか売れするようにという番組側の意図とか。
本日のおひつじ座。金運はまずまず、衝動買いに気を付けて。仕事運は絶好調。新たな分野に挑戦するチャンス! 恋愛運も好調、意中の相手との距離が接近するかも。思いきって素直に甘えてみては。ラッキーアイテムは――
◇
そういえば今朝、そんなことを言っていたなと思い出したのは、MEZZO”の仕事を終えて楽屋で着替えている最中のこと。
「万理さん、陸くんを送ってからこっちに来るって」
紡は本日、ナギの仕事に同行している。本来、陸の送迎も紡の仕事だったのだが、ナギの撮影が共演者の都合で長引いてしまい、CM撮影を終えた陸を次の現場に送り届けることが叶わなくなってしまったらしい。
ふぅんと心の中で納得してから、すぐに思い直して「あ」と声を漏らす。
「俺ら今日、あとは帰るだけだし、バンちゃんには迎えいいって言っといて」
その言葉にきょとんとしたものの、壮五もすぐに表情をやわらげて「わかった」と返した。
変装用のマスクを装着し、ドアを開こうとしたその時。
「外、雨降り出したって」
万理から「助かるよ」という返事とともに添えられていたのは、予報より早く雨が降り出したという情報だった。
「あー……まじか…………」
環の反応を見て、壮五は溜息をつく。
「もしかして傘持ってないの?」
言外に、折りたたみ傘は? という質問が含まれているのがわかる。
「持ってるわけねえじゃん」
「自信満々に言いきらないで。しょうがないな……局を出てすぐのコンビニで買おう」
「タクんのに?」
テレビ局の通用口からタクシーに乗り込めば雨に濡れずに済む。しかし、住んでいるところをできるだけ知られないようにするため、少し離れたところで降りるようにしているのだから、いずれにせよ傘は必要だ。
「俺、降りたら走るし」
壮五は折りたたみ傘を持っているのだから、ゆっくり歩けばいい。雨で足許が悪いとはいえ、走ってもせいぜい五分程度だ。環は更に畳み掛ける。
「あと、今日は衝動買いすんなって朝やってたし」
なぁ、だめ? 出会ってからそれなりの年月が経過してもなお、壮五は環のこの表情に弱い。ごめんなさいと言う前の泣きそうな顔の次の次の次の次くらいに好きだ。壮五としても、絶対に傘を買わなければならないと頑なになるほどのことでもなかった。
予報より早く降り出した雨は雨粒が小さく、タクシーの窓ガラスを叩く音もうるさくない。走行している間、車体の後方へと伝っていく雨粒たち。小さな雨粒がすぐ隣の雨粒とぶつかってひとつになり、またその隣の雨粒とひとつになる。点と点が線になるというのはこういうことなのだろうかと、環は窓を見ながらぼんやりと考えていた。
金属のかたまりとその中に収まる人間を支えるタイヤが濡れたアスファルトを擦りながら、目的地へと向かう。住んでいるところから離れたところで降りるようにしているといっても、特定の建物は指定しない。この建物の前で降りたという情報が出ては、その建物の関係者に迷惑をかけるからだ。それくらい、今の彼らは知名度が高い。高く、なってしまった。
本日の仮の目的地に選ばれたのは、なんの変哲もない交差点の数メートル手前、タクシードライバーが乗客を求めて群れるポイントでもある。
助手席の後方に座っていた壮五が先に降車し、次いで、環が降車する。料金メーターに表示された二千百七十円ちょうどを支払い、釣り銭の手間を省かせたのは、雨脚が強くなりそうだったから。一刻も早く降車して走らなければという気持ちからだ。
「じゃ、俺、先行くから」
「待って」
タクシーのドアが閉まるとともに走り出そうとした環を、呼び止める。
小さな雨粒でも、髪に降り注ぐ感触が煩わしい。急いでいるのにと、むっとした表情で振り返ると、壮五がいそいそと折りたたみ傘を開いていた。
「一緒に帰ろう」
通常の傘よりも小さいから、どんなに体を寄せても、二人とも肩が濡れてしまう。
「いいって」
「いいから」
有無を言わさない声音に、環もそれ以上いやがることはせず、壮五の隣に収まった。
「……見られたらどうすんだよ」
「MEZZO”は十年経っても超超超仲良し! 仕事帰りに相合傘で向かう先は二人の愛の巣だった! ……って?」
初めからそういう路線で売り出していたから、これくらいの煽り文句は怖くない。それに、MEZZO”としてデビューしてすぐの頃、雨の中を追いかけてきた環と寮に帰る際、自分の傘をなくしてしまい、相合傘で帰ったこともある。その場に居合わせた人々によって写真に撮られ、SNS上で話題になったのも、今では懐かしい思い出だ。
おもしろがる壮五に対し、環はむっと唇を尖らせる。
「まぁ、そんなとこ。でもさぁ」
雨の日に相合傘で歩いているくらい、たいした問題にはならない。一方が傘を忘れていたなんて、よくある話だ。男同士だし、同じアイドルグループだし、なにより、そういう路線で売り出しているMEZZO”だから。
「大丈夫だよ。僕たちの帰るところが同じだからって、誰もなにも思わない」
こんな浅はかな考えはよくないと、壮五も思っているのだが、それでも、時々、どうしようもなく、普通の恋人たちがしていることに憧れることがある。
「……あと、でもさぁっていうのは僕の台詞だよ」
「なんで」
ゆっくりと歩を進める壮五は少し俯いていて、表情までは見えない。
「朝の占いで、相手に素直に甘えてみてはって言われたのを真に受けたなら、素直に甘えればいいのになって。傘がないのも、わざとだろう? 今日みたいな天気予報なら、僕は確実に折りたたみ傘を持ってるから」
ラッキーアイテムが折りたたみ傘とはよくできた占いだと感心してしまう。そして、それを信じた環のことは、十年経っても相変わらずかわいいなと思った。
朝の情報番組で流れる本日の運勢は、占いなんてと笑うタイプの者ほど気にしてしまいがちだ。星座占いは十二パターンしかない。たとえば非常に素晴らしい運勢だとコメントが添えられていたとして、その番組を見ているその星座の主が全員、素晴らしい一日を送るとは限らない。番組によっては、血液型占いという、更にパターンが絞られるものもある。一体、この国にどれだけの人口がいると思っているんだ。ラッキーアイテムだとかラッキーメニューだとか、それを手にする頃には一日が終わっていてもおかしくないようなものが指定されているケースを見ると、なにかの陰謀を感じる。たとえば、スポンサー企業の商品がばか売れするようにという番組側の意図とか。
本日のおひつじ座。金運はまずまず、衝動買いに気を付けて。仕事運は絶好調。新たな分野に挑戦するチャンス! 恋愛運も好調、意中の相手との距離が接近するかも。思いきって素直に甘えてみては。ラッキーアイテムは――
◇
そういえば今朝、そんなことを言っていたなと思い出したのは、MEZZO”の仕事を終えて楽屋で着替えている最中のこと。
「万理さん、陸くんを送ってからこっちに来るって」
紡は本日、ナギの仕事に同行している。本来、陸の送迎も紡の仕事だったのだが、ナギの撮影が共演者の都合で長引いてしまい、CM撮影を終えた陸を次の現場に送り届けることが叶わなくなってしまったらしい。
ふぅんと心の中で納得してから、すぐに思い直して「あ」と声を漏らす。
「俺ら今日、あとは帰るだけだし、バンちゃんには迎えいいって言っといて」
その言葉にきょとんとしたものの、壮五もすぐに表情をやわらげて「わかった」と返した。
変装用のマスクを装着し、ドアを開こうとしたその時。
「外、雨降り出したって」
万理から「助かるよ」という返事とともに添えられていたのは、予報より早く雨が降り出したという情報だった。
「あー……まじか…………」
環の反応を見て、壮五は溜息をつく。
「もしかして傘持ってないの?」
言外に、折りたたみ傘は? という質問が含まれているのがわかる。
「持ってるわけねえじゃん」
「自信満々に言いきらないで。しょうがないな……局を出てすぐのコンビニで買おう」
「タクんのに?」
テレビ局の通用口からタクシーに乗り込めば雨に濡れずに済む。しかし、住んでいるところをできるだけ知られないようにするため、少し離れたところで降りるようにしているのだから、いずれにせよ傘は必要だ。
「俺、降りたら走るし」
壮五は折りたたみ傘を持っているのだから、ゆっくり歩けばいい。雨で足許が悪いとはいえ、走ってもせいぜい五分程度だ。環は更に畳み掛ける。
「あと、今日は衝動買いすんなって朝やってたし」
なぁ、だめ? 出会ってからそれなりの年月が経過してもなお、壮五は環のこの表情に弱い。ごめんなさいと言う前の泣きそうな顔の次の次の次の次くらいに好きだ。壮五としても、絶対に傘を買わなければならないと頑なになるほどのことでもなかった。
予報より早く降り出した雨は雨粒が小さく、タクシーの窓ガラスを叩く音もうるさくない。走行している間、車体の後方へと伝っていく雨粒たち。小さな雨粒がすぐ隣の雨粒とぶつかってひとつになり、またその隣の雨粒とひとつになる。点と点が線になるというのはこういうことなのだろうかと、環は窓を見ながらぼんやりと考えていた。
金属のかたまりとその中に収まる人間を支えるタイヤが濡れたアスファルトを擦りながら、目的地へと向かう。住んでいるところから離れたところで降りるようにしているといっても、特定の建物は指定しない。この建物の前で降りたという情報が出ては、その建物の関係者に迷惑をかけるからだ。それくらい、今の彼らは知名度が高い。高く、なってしまった。
本日の仮の目的地に選ばれたのは、なんの変哲もない交差点の数メートル手前、タクシードライバーが乗客を求めて群れるポイントでもある。
助手席の後方に座っていた壮五が先に降車し、次いで、環が降車する。料金メーターに表示された二千百七十円ちょうどを支払い、釣り銭の手間を省かせたのは、雨脚が強くなりそうだったから。一刻も早く降車して走らなければという気持ちからだ。
「じゃ、俺、先行くから」
「待って」
タクシーのドアが閉まるとともに走り出そうとした環を、呼び止める。
小さな雨粒でも、髪に降り注ぐ感触が煩わしい。急いでいるのにと、むっとした表情で振り返ると、壮五がいそいそと折りたたみ傘を開いていた。
「一緒に帰ろう」
通常の傘よりも小さいから、どんなに体を寄せても、二人とも肩が濡れてしまう。
「いいって」
「いいから」
有無を言わさない声音に、環もそれ以上いやがることはせず、壮五の隣に収まった。
「……見られたらどうすんだよ」
「MEZZO”は十年経っても超超超仲良し! 仕事帰りに相合傘で向かう先は二人の愛の巣だった! ……って?」
初めからそういう路線で売り出していたから、これくらいの煽り文句は怖くない。それに、MEZZO”としてデビューしてすぐの頃、雨の中を追いかけてきた環と寮に帰る際、自分の傘をなくしてしまい、相合傘で帰ったこともある。その場に居合わせた人々によって写真に撮られ、SNS上で話題になったのも、今では懐かしい思い出だ。
おもしろがる壮五に対し、環はむっと唇を尖らせる。
「まぁ、そんなとこ。でもさぁ」
雨の日に相合傘で歩いているくらい、たいした問題にはならない。一方が傘を忘れていたなんて、よくある話だ。男同士だし、同じアイドルグループだし、なにより、そういう路線で売り出しているMEZZO”だから。
「大丈夫だよ。僕たちの帰るところが同じだからって、誰もなにも思わない」
こんな浅はかな考えはよくないと、壮五も思っているのだが、それでも、時々、どうしようもなく、普通の恋人たちがしていることに憧れることがある。
「……あと、でもさぁっていうのは僕の台詞だよ」
「なんで」
ゆっくりと歩を進める壮五は少し俯いていて、表情までは見えない。
「朝の占いで、相手に素直に甘えてみてはって言われたのを真に受けたなら、素直に甘えればいいのになって。傘がないのも、わざとだろう? 今日みたいな天気予報なら、僕は確実に折りたたみ傘を持ってるから」
ラッキーアイテムが折りたたみ傘とはよくできた占いだと感心してしまう。そして、それを信じた環のことは、十年経っても相変わらずかわいいなと思った。