世界でいちばんやさしい夜に
『MEZZO"のロングヒットアルバム』の今回の放送。都合により、環は欠席となった。
番組スタッフには急病、リスナーへは急用と説明したが、実際は、壮五の実家で人質となっていたのだ。どうか彼には手を出さないでほしい。父にそう頭を下げて、真っ青な顔でラジオ局に出向いた壮五。父から「最後の仕事だ」と言われたものの、最後にするつもりなんてなかった。だからといって具体的な打開策が浮かぶわけでもなく、目の前の仕事に向かうことしかできなくて、壮五は改めて、自分の無力さを思い知った。
好きなことを仕事にできて、自分たちの歌やダンスを求める人たちがいてくれても、窮地を脱することができないようでは、まだまだ一人前とは言えないのが悔しい。
現状をつくりだしたかなしいできごとたちが苦しくて、溺れそうで、普段は信じもしない神に助けを求めるように、自分の気持ちを吐露した。予定とは別の曲を流してもらったのだが、恐らく、自分たちを気にかけてくれているTRIGGERは、このラジオを聴いていたことだろう。もしかすると次に会った時に、天あたりからは「ラジオの生放送中に泣くなんて」と窘められるかもしれない。それでも、笑顔をはりつけて予定調和のうちに仕事を終えるには、今の状況はあまりにもかなしいことだらけだった。
番組スタッフは好意的な反応をくれたが、途中で泣き出すなんて放送事故もいいところだ。番組に批判の声が寄せられるかもしれない。自分の言動で、大切な仕事をなくしてしまうかもしれない。父に「最後の仕事」と言われたにもかかわらず、大切なこの場所を失いたくないと思った。考えるばかりで、どうすればいいのかわからないのに。
人が殺到しているらしく、ビルを出る時にスタッフから「タクシーを呼んでおいた」と言われ、壮五は思わず身構えてしまった。今夜の自分の言動は、どれも『MEZZO"のロングヒットアルバム』の本来あるべき姿ではなかった。さっそく批判が寄せられているのかと、身をかたくしたままドアの外へ出てみたところ、外にいたのはファンの皆で、向けられた言葉はどれも優しい言葉たち。てっきり、自分をなじる言葉が飛んでくるのだろうと思っていたのに。
優しい言葉たちが自分の心にどんどん入ってきて、まるで、ひとつの音楽のようだ。楽器に向かわなくても、ペンと五線譜がなくても、メロディは生まれるらしい。そのことに気付いた壮五が思ったのは「作曲がしたい」だった。一体これからどうなるのだろう、父に連れ戻されてしまうかも……そんな状況下にもかかわらず、音楽への愛が強くなったのだった。
スタッフが呼んでくれたものではなかったが、タイミングよく現れたタクシーには環が乗っていて、奇跡が本当にあることを知った。
「そーちゃん、お疲れ」
ファンをかき分けてタクシーに乗り込んでからは、運転手に聞こえないよう、小さな声でいろいろなことを話した。父が、環を解放してくれたこと、FSCホールを借りられること、FSCホールを借りるために必要な七千万円の融資契約を結んでくれること。
話しながら、一度は止まったはずの涙が再びあふれてきて、環に笑われてしまった。
「はは、また泣いた」
それは決してばかにする笑いではなく、慈しむようなもの。涙を拭ってくれた環の袖口からは醤油の香りがして、たまらない気持ちになる。
「環くん、醤油こぼしただろう。……帰ったら、ちゃんと染み抜きしないとね」
「えー、いいよ、これくらい」
渋る環に、今日のお礼がてら自分に任せてほしいと言って、洗濯を引き受けた。
「……っ、あの」
指先に触れた感触に驚いて声を上げてしまいそうになり、慌てて口を噤む。
「いいから。な?」
タクシーの中でこっそり繋いだ手は、これまで仕事で触れたどんな時よりも、あたたかかった。
◇
寮に着くと、ラジオを聴いていたメンバーから声をかけられた。
「壮五さん、あの」
おずおずと声をかけてきた陸の目許と鼻が赤くなっていて、彼がついさきほどまで泣いていたのだということがわかる。
「ただいま、陸くん。……もしかして聴いてた? ごめんね、聴き苦しいものを」
「そんなことないです! オレもずっと苦しくて、TRIGGERの話は出さないようにってされてるのが、……つらくて。オレだけじゃなくて、みんな苦しかったから。壮五さんが声に出してくれて、多分、ラジオを聴いてた人たち、みんな、壮五さんにありがとうって思ったはずです。TRIGGERのことに限らず、好きなもののこととか、そういうのって、みんなも、……抱えてることだから」
ぐずぐずと鼻を鳴らす陸にハンカチを差し出すと、声を上げて泣き出してしまった。
「あぁもう、あなたが泣いてどうするんです。発作を起こさないでくださいよ」
「だっでぇ……」
鼻をかむようにとティッシュを差し出す一織のまなじりも、心なしか赤くなっているように見えた。
「……番組への批判を懸念されているのかもしれませんが、その心配はないでしょう。私も聴いていましたが、今日の放送に心を揺さ振られなかった人はいないと思います。大丈夫ですよ……百あるうちのひとつくらい批判がきたって、今の私たちなら乗り越えられます。四葉さんも、番組に穴を開けたことは褒められたことではありませんが、事情があったんでしょう。マネージャーにきちんと連絡して…………できれば、私たちにも、なにがあったか話していただけると助かります。心配とかではなく、情報共有のために」
そこまで話すと、明日は早いからと、一織は自室へ戻っていった。
「はは、あいつ、素直じゃないな……。一織のやつ、壮五さんのラジオ聴きながら〝四葉さんはどうしたんですか〟とか〝MEZZO"になにかあったら〟ってずっと心配してたんですよ。ちょっと泣いてたんじゃないかなと思います。意外と泣き虫だし」
涙を拭い、幾分か鼻声が治まった陸が笑う。
「そうか……心配かけちゃったね。大丈夫だよ。今日はもう遅いから寝ようか。……環くんも、お風呂入っておいで」
「……おー」
陸の背を撫でながら、彼を部屋まで送り届ける。大和たちは今もまだ仕事中だから、恐らく、ラジオは聴いていないだろう。帰ってくるのは日付を越える予定だと聞いているから、皆には明日の朝食時に話そうと決めた。
入浴を済ませ、ベッドへと潜り込む。父から「最後の仕事」と言われて、ここへ戻ってくることはできないかもしれないと思った。荷物を取りに戻ることもできずに海外の別荘で一生を送る可能性だってあったのだ。ラジオを聴いて七千万円の個人融資に首を縦に振ってくれたのだと環は言っていたが、壮五はそれだけではないと思っている。
(環くんがいてくれたからだ……)
ラジオの生放送中、自分の父と環がどんな会話をしたのかはわからない。帰りのタクシーの中でもその話題には触れられなかった。どんな会話がなされたのか知りたくてたまらないけれど、多分、今はまだ、聞かないほうがいいのだと思う。教えてほしいと乞うことで、環にプレッシャーを与えてしまうから。笑いながら「ありがたく思えよ」なんて言っていたが、実際にありがたがると遠慮してしまう、気の優しい男。
(……環くん、もう寝たかな)
環の部屋に面した壁を見遣る。決して厚くないこの壁の向こうで、彼は今、どうしているのだろう。明日は昼からの仕事とはいえ、朝食の場で、今夜のこと、FSCホールのこと、七千万円の融資のことについてメンバーに話す予定だ。あまり夜更かしをするわけにはいかない。
でも、隣室が気になって、――否、環のことが気になって、なかなか眠れない。
ごろりと寝返りを打ち、袖口で拭われたまなじりに触れる。
(醤油の、におい……)
自分に話しかける環の声には、どうしようもないほどの愛おしさが込められていて、それを思い出すだけで、また、涙があふれそうだ。たまらない気持ちになる。
一方の環も、王様プリンのぬいぐるみを抱き締めたまま、なかなか寝付くことができないでいた。
今日はいろいろなことがあった。壮五の実家は、門をくぐったあと、森のように広大な土地をずっと進んだ先にある大きな屋敷だった。今回のことがなければ、自分には一生、縁のなさそうな邸宅というのが環の感想だ。自分がもっと稼いで、妹と暮らせるようになっても、ここまでの広さは求めないだろう。
壮五の父は威圧感が強い。こんなところで育ったのだから、壮五が自分のことをはっきり言えなかったのも仕方がない。声を震わせて「自分を認めてほしい」と訴えた壮五の細い肩を思い出す。自分がいてやらなければと思った。なにがあっても、自分が一番近くにいてやりたい。一番の理解者になりたい。
(けど、メーワク、かも)
環は壮五に対して好意を抱いている。自分のことを見ていると言ってくれて、危険を顧みず自分を守ってくれて。そんなの、好きにならないはずがなかった。今回だって、壮五が実家に行くことを反対した環に対して、環のことが一番大事だと言ってくれた。ますます好きになってしまった。しかし、壮五の隣にいればいるほど、この気持ちを明かした場合の壮五の反応が容易に想像できてしまって、未だ口に出せないでいる。
自分のことを見つめる壮五の瞳に、自分が壮五を見る時と同じ色が混ざっていることくらいわかっている。だって、いつも隣にいて、誰よりも壮五のことを見ているから。大和からも「MEZZO"くんついに交際しちゃったの?」なんてからかわれるくらい、壮五が自分に向けてくる視線は熱い。熱くて、見つめられたところから焦げてしまいそうなほど。
そして壮五も、環の気持ちに気付いている。それなのに、なにも言ってこない。なぜなら、彼は世間体を気にしているからだ。それも、環にはわかっている。
(まぁ、長期戦かもってのは、わかってたし。メーワクでも、どうしようもねえし)
簡単に諦めてあげられるほど生易しいものではない。甘酸っぱくてきらきらと輝くものが恋だと思っていたのだが、実際は、相手を諦められない執念と、他の誰でもない自分を選んでほしい、他の誰にも触らせないでほしいという独占欲でいっぱいの、どろどろと濁ったものだった。でも、いつか壮五が振り向いてくれるなら、なんだっていい。きらきらしていても、していなくても、恋は恋だから。
抱き締めたままの王様プリンに顔を埋め、壮五のこともこうやって抱き締めてやりたいなと考える。抱き締めて、あのやわらかそうな髪を撫でて、……今夜、たくさん泣いていたけれど、もっともっと泣かせてやりたい。他の人の前で涙を見せなくていいし、見せないでほしい。自分の前でだけ、子どものように泣いて、甘えてほしい。歳下に甘えることに抵抗があるなら、急いで大人になるから、どうか、自分のことを選んでほしい。
(まじで寝れねえ……)
あまりにも寝付けないものだから、一織に教えてもらったホットミルクでもつくってみようかと身体を起こしたところで、部屋のドアがノックされる。
「環くん、起きてる?」
つい今しがた考えていた相手の声に、どきりと心臓が高鳴った。
「……っ、起きてる。いいよ」
ゆっくりとドアが開かれ、ひょっこりと顔を覗かせた壮五を見て、彼も眠れないのだということがわかった。
「ごめんね、お邪魔してしまって」
「いいって。起きてたし。なに?」
壮五は用もなく部屋を訪ねるタイプではない。もしや今夜のことでなにかまずいことでもあったのだろうかと思い立ち、壮五の父との会話を大急ぎで脳裏に浮かべる。
「なんだか、寝付けなくて。本当は明日にでも借用書をつくりに行きたいし、みんなに今日のこと話さないといけないから、あまり夜更かしするわけにはいかないんだけど……もし、環くんが起きてたら、少しだけここにいさせてほしいなって」
それって、どういうつもりだろう。深夜、自分を好いている男の部屋に来るなんて。煩悩が顔を覗かせそうになり、環はかぶりを振った。今夜の壮五はかなり疲れている。いつも優しくしてやりたいと思っているけれど、今夜は特に優しくしてやりたい。
世界中の誰よりも、優しさに包まれているのが目の前の壮五であればいい。そして、その優しさをもたらすのは自分でありたい。
「……俺も。なんか今日寝れねえって思ってた」
常夜灯の下で見る好きな子の顔ほど、理性をぐらつかせるものはない。それでも、壮五が自分を好きだとはっきり言ってくれるまでは、絶対に触れないでおこうと決めている。
「本当ならラジオで一緒に話してたところだけど、今夜はそうもいかなかったからね。迎えに来てくれて、帰りもずっと一緒だったのに……多分、環くんがたりないんだと思う。仕事で話せなかったのをプライベートで埋めようなんて変な話だよね」
焦ったように話す壮五を見て、環は腹にぐっと力を込めた。危ないところだった。環のことがたりないなんて、よくもまぁ言ってくれたものだ。その言葉がどんなに破壊力を持っているのか、わかっていないのだろうか。
「別に……おかしくねえ、と思う。あんたがしゃべってくれて、あんたのことわかるの増えたら、俺は嬉しいし。いいよ、しゃべってる最中に寝ちゃうかもだけど、それもありだと思う。それで、……もうさ、今日は、ここで寝ちゃえばいいじゃん」
最後のひとことは賭けだった。壮五はパーソナルスペースの広い男だ。そんな相手にひとつのベッドに眠ろうと提案するなんて、いやがられてもおかしくない。
「…………えっと、じゃあ……お邪魔、します」
それなのに、壮五は断ることなく、環のベッドへ入ってきた。
「はは。ベッドに入るのまでお邪魔しますって。玄関みてえ」
動揺を悟られないよう、壮五の発言にツッコミを入れる。
「だってそうじゃないか」
そうなのかな。そうだよ。そんなやりとりを繰り返しながら、枕の位置を調整する。枕はひとつしかないから、壮五に譲った。しかし、部屋の主を差し置いて客人である自分が枕を使うなんてとぶつぶつ言うものだから、最終的に、二人とも枕を使わず向かい合わせで横になることで決着がつく。
「なにやってんだろうな、枕ひとつで」
「ふふ、……でも、言ってただろう? 明日はまたケンカするだろうけど、明後日は仲直りするって」
「こんなのケンカのうちに入んねえよ」
むっとして言うと、壮五が肩を揺らして笑った。細い肩が揺れるのを見て、たまらない気持ちになる。
「環くん。本当に、……ありがとう」
「……おー、……って、あ、こら。あー、あー。もー……」
寮に着く前に泣きやんだと思ったのに、壮五の瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。
「ごめ……どうしよ…………」
涙腺がばかになっちゃったみたい。そう呟く壮五がどうしようもなく愛おしくて、かわいそうで、かわいくて、環は思いきり抱き締めた。
「……さっきので、そーちゃんの泣き顔、見慣れたから。ここでなら、……ここでだけなら、泣いていいから。全部出しちゃえば」
自分の胸許に顔を埋めている壮五の髪を撫でる。思っていた以上にふわふわとやわらかくて、壮五の存在そのものみたいだと思った。芯の強い男であることは知っているが、見た目はふわふわしていて、強く握ったら細い芯以外、潰れてしまいそう。潰れさせたくないからと、ことさら丁寧に、まるい頭をゆっくりと撫で続ける。
思う存分、泣いていい。今夜、ここで泣いたことは誰にも言わないから。
「環くん……」
「もー……鼻ずるってしたらだめだって」
ずず……と洟をすする音が聞こえて、洟をすするのはよくないと諫めようと顔を上げさせた。自分の両手にすっぽりおさまってしまう小さな顔。泣いたせいで顔が熱くて、目許と鼻が赤く染まっている。涙で瞳が潤んでいるものだから、まるで、求められているように見えてしまって。
「たま、……っ」
薄い唇に吸い寄せられるように、くちづけてしまった。
「……っ、ごめ、…………」
「んん、……っ」
触れた唇のやわらかさに驚く。甘やかしたいなんて思っておきながら、やわらかい唇にもっと甘えたくて仕方がない。離れては重ね、を何度も繰り返す。
「んっ……」
何度も何度も唇を押し当てて、やめ時がわからなくなってしまう前に、これが最後と自分に言い聞かせて、今までで一番長く、唇を重ねた。
「……ん、……ごめん」
怒られるならまだましなほうで、もしかしたら、軽蔑されるかもしれない。MEZZO"解散なんてことにはならないでほしい。唇を離し、恐る恐る壮五の顔を覗き込む。
「……どうして」
しかし、環の予想に反し、壮五はただただ、ぼんやりしていた。
「なんで、って……わかってんじゃん」
「……わからないよ。だって、なにも言ってくれてない」
「いやだった?」
環の質問に、ふるふると首を横に振る。
「いやじゃない、けど、……わからな、んっ……」
わからない、を繰り返す壮五に教えるように、環はもう一度くちづける。
「キスなんてな、好きじゃないやつにはしねえの。そんくらいわかるだろ?」
「だって、キス、なんて……恋人同士がすることなのに」
「じゃあ、恋人になりゃいいじゃん」
今夜はいったい何度賭ければいいのだろう。言えないままでいた言葉まで口にしてしまった。どくどくと心臓が大きな音を立てている。
「じゃあ、って……」
「わかってんだろ? 俺が、そーちゃんのこと好きって。そーちゃんが、俺のこと見てるっつった時から、俺は、そう思ってる」
「でも、……」
心臓がうるさくて、耳の近くに心臓があるんじゃないかと思ってしまう。どきどきし過ぎて、環まで涙で目が潤んできた。
「そーちゃんのことずっと見てたから、俺。だから、そーちゃんの気持ちも、本当は知ってる。なんで言ってくれないのかも、なんとなくわかってんよ」
「えっ」
自分の気持ちが知られている。そのことに壮五は少なからず動揺してしまう。
「……俺たちがアイドルだからって気にしてんのも知ってる。…………ほんとは、今言うつもりなくて、もっとそーちゃんみたいにプレゼン? できるようになってからって思ってた。そーちゃんみたいにメリットとかデメリットとかってのは、うまく言えねえけど、多分、俺たちは、一緒にいたほうがいいと思う。そーちゃんのこと、……そーちゃんが泣いてるとこ、他のやつに見せたくない。しんどい時に、そーちゃんだらけていいよって言ってやりたい。……と、思う、……です」
ゆっくりと丁寧に説明したつもりが、辿々しくなってしまった。あぁ、最後が格好つかなかったと環が一人でぼやく。
「そうなの、……かな」
「そうだよ。……なぁ、いやじゃなかったって言ったじゃん? それでも、そーちゃんはほんとのこと、……ここ、この中にある気持ち、俺に教えてくんねえの?」
壮五の胸許にそっと手を当てる。大好きな音楽を聴いて興奮した時のように高鳴っている鼓動。ばればれなんだよと呟く。
「確かにいやじゃなかった。けど、……って、ちょ、んんっ…………」
視線を揺らす壮五を見て、どうしても、もっと自分を見てほしいと思った。こちらを見てほしいという願いを込めて、両頬を包むように手を添え、下唇を吸うように、ゆっくりとくちづける。唇を押し当てているだけではわからなかった歯磨き粉のミントの香りが鼻を掠め、頭の中がかっと熱くなった。
「んゃっ……たぁ、…………っ」
キスと舌の関係なんて知らなかったけれど、たった今、実際にキスをしたことで知ってしまった。唇を押し当てるだけではものたりなくて、食べてしまいたくなるからだ。唇だけではなく舌までほしくなって、自然と舌を差し込んでしまう。なにせ初めてのことだから、これが正解なのかはわからない。ものすごく不格好かもしれない。
「ふっ、んん、…………っむ、ぁっ……くるし、…………」
あぁ、本当に、どこで終わればいいのだろう。壮五の好意は明らかなのに、どうしてそれを言葉にしてくれないのか。この口がいけない。口の中を自分の色に染めたら、素直に好きだと言ってくれるのではないだろうか。環はそんな気持ちで、時折唇を離しては、またすぐにくちづけを繰り返した。
「そーちゃ、……ん、…………」
「……ふぁ…………っ」
自分の鼻息が荒くなっていることにはとうに気付いている。鼻息だけではない。ずっと焦がれていた壮五とキスをしていること、舌を使ったキスのいやらしさ、それらに興奮して、自分のものが勃起していることがわかる。下半身を擦り付けるように、腰が勝手に動いてしまう。いくら布越しとはいえ、壮五にばれているはずだ。
「あっ、環くん、…………」
「ごめ……、そーちゃん、好き。好き。すっげえ好き。お願い。好きって言って」
唾液でてらてらと光る壮五の唇を親指で拭い、至近距離で見つめる。
「環くん……」
常夜灯に照らされた壮五の表情は明らかに環を好きだと言っている。でも、表情ではなくて、言葉がほしい。キスをいやがらないとか、視線で訴えるとか、そんな曖昧なものではなくて、もっと確かなものがほしい。……けれど、無理強いはだめだ。
(だめだ……触んないって決めてたのに…………)
好きな子を前にすると、理性はこうも簡単に崩れてしまうものなのか。服越しでいいから壮五の太腿に下肢を擦り付けて、思いきり射精したいという欲求に駆られてしまう。
環は瞳を閉じて、ゆっくりと息を吐き出した。
「……ごめん。焦っていっぱい、……キス、した」
抱き締めていた腕を離し、壮五の隣に寝そべる。ちらりと時計に視線を遣れば、壮五がこの部屋に訪れてから、時計の長針がそろそろ一周しようとしていた。
これ以上続けたら、きっと、壮五の部屋着を無理矢理にでも脱がせて、いきり勃ったものを押し込んで、彼を穢してしまう。それだけはだめだ。これだけキスをしておいて今更なにをという気もする。しかし、キスとセックスとでは、引き返せるラインがあまりにも違い過ぎる。これ以上の行為は「いやがらないから」で進めるのではなく、互いに望んで進めなければ、それこそ、取り返しのつかないことになってしまう。
今夜の壮五の様子なら、環が拝み倒せば一度くらいはセックスをさせてくれるかもしれない。しかし、環はそんなセックスを求めているわけではない。
「今日、疲れただろ。寝ていいから。俺も寝るし」
「でも」
それに、今日の壮五はたくさん頑張ったから、寝かせてやりたい。おとなしく眠らせるため、環は強制的に話を切り上げて「おやすみ」と告げた。
「…………おやすみ」
壮五もまた、環の言葉と閉じられた瞳から、自分は今夜これ以上縋ってはいけないと判断し、同じ言葉を返した。
◇
環のスマートフォンがアラーム音を奏で、その音で壮五が目を覚ます。
(設定した本人が起きないんじゃ、アラームの意味ないじゃないか……)
手探りでアラームを止め、時刻を確認する。あと三十分ほどなら、のんびりしていても問題なさそうだ。
眠るのは遅かったのに、随分ぐっすりと眠れたように思う。それに、内容は覚えていないものの、ひどく優しい夢を見たような気がする。どうせなら覚えていたかった。
(環くんが出てきたような気がするけど……なんだったんだろう)
自分の腰を抱き締めたままの環の寝顔をじっと見つめる。
(いっそ、めちゃくちゃにしてくれてもよかったのに)
昨夜、好きだと告げられた。何度も何度もキスを繰り返して、興奮した環の下半身が布越しに押し当てられて。正直なところ、そのまま抱いてくれてもよかったのにとさえ思った。めちゃくちゃに抱かれて、他のことがなにも考えられなくなるほど、環に溺れたい気分だった。環が欲情していたように、壮五もまた、昨晩のキスで環に欲情していた。触れられたから欲情したのではない。以前から環のことが好きだったから、欲情した。
何度もくちづけられた唇を指でなぞる。手入れを怠らない壮五と違い、少しかさついた環の唇。リップクリームを塗るように言わなければいけないと思ったところで、昨晩のあれがファーストキスだったことに気付く。やわらかいけれどかさついた唇が押し当てられて、二度目のキスでは、舌がぬるりと差し込まれた。人の口の中を舐めるなんて恐ろしいこと、自分は受け入れられそうにないと思っていたのに、ただただ、気持ちよかった。途中でやめないでほしかったし、口の中に入ってきたのなら、そのまま、身体の中に入ってきてほしかった。それくらいには、壮五は環に焦がれていたのだ。
いつから惹かれていたのだろう。MEZZO"としてデビューしてしばらくは敬遠されていると思っていたし、これまで接したことのないタイプである環とどのように接するべきか悩んだことも少なくない。
彼と同じ時間を過ごし、歌声を重ねるたび、身体の奥からあふれ出る感情。それがだんだん心地いいものになっていった。咎められるかもしれないという恐怖心を抱えながら、作曲に挑戦したいという自分の望みを環に打ち明けた時、あっさりと肯定してもらえて、壮五の世界は確かに変わった。それよりも前から惹かれていたのだろうが、壮五が自身の感情を理解したのは、あの瞬間だった。
環の言う通り、彼が自分に好意を抱いてくれていることには気付いていた。誰よりも近くにいて、本人に誓った通り、彼のことを見ていたから。
自分たちは互いに恋愛感情を抱いているということになる。しかし、自分たちの立場を考えた結果、壮五は沈黙することを選んだ。
アイドルとは、偶像であり、崇拝される対象だ。偶像である以上、崇拝する信者、つまり、ファンの理想を裏切るようなことをしてはならない。常に過去を更新し続けるパフォーマンスを披露しなければならないし、彼らが落胆するようなスキャンダルを起こすなどもってのほかだ。
たとえば、自分たちが実際に想いを通わせ交際したと仮定する。アイドルとしてどうあるべきか、これまでの活動でしっかりと理解しているから、浮かれて言いふらすなんてことはしない。それは自分だけでなく、環もだろう。だが「言わなければ知られることはないだろう」と安心していい世界ではない。火のないところに煙は立たないという言葉があるが、自分たちがいる世界は、火がなければ火をつけてでも煙を立たせる世界だ。そこに百人の人間がいたとして、一人でも火をつけようとする者が現れてはならない。百人いれば全員が、火をつける気分にすらならない状態を提供する。それが、偶像であり続けるために必要なことだ。もちろん、スキャンダルを起こしてもある程度の冷却期間を経て第一線に戻ってくる者もいる。ただ、この世界で経験豊富とはまだ言えない自分たちがそうなれる保障はない。
(……でも)
壮五は昨日までの思考に、眠る直前に感じた言葉を繋ぎ合わせる。そう、今の壮五の思考には「でも」という言葉が続くのだ。
昨日の夜、人前で涙を流して、優しく拭ってもらって、壮五は、甘えるとはどういうことかを理解した。環に甘やかされる心地よさに、彼がいなければだめだと気付いてしまったのだ。彼の想いに応えたら自分はだめな人間になってしまうかもしれないと危惧していたが、とうに、だめになっていた。今更だ。
(どうあっても、僕は環くんが好きなんだ)
自分の気持ちを必死に隠して、いずれ環の隣に美しい恋人が並ぶ時がくれば、さすがにこの気持ちも捨て置けると思っていた。何年か経てば気持ちも色褪せるだろうとも。しかし、環は壮五が隠している気持ちをとうに気付いていて、隠している理由まで悟っていたなんて。そんなの……どうあっても、自分は環に敵わない。
目の前で眠っている環の顔を観察する。抱かれたい男ランキングの第五位に挙げられた男。カメラの前では男としての魅力をあますことなく見せつけるものだから、カメラ越しでも、画面や誌面越しでも、見た者は圧倒されてしまう。そのくせ中身は初心な少年で、王様プリンが大好物。いまどきの十七歳らしく、人気の漫画雑誌を読んだり、スマートフォンのゲームに興じたりしながら、色恋沙汰とはおよそ縁のなさそうなあどけない笑顔を見せる。
壮五はIDOLiSH7のメンバーとして、MEZZO"の相方として、環とはかなり多くの時間を共有していることもあり、カメラの前で見せる表情も、散らかった部屋でだらだら過ごす表情も、たくさん、見てきたつもりだ。
それなのに、昨晩の環ときたら。
(……あっという間に、大人になってしまうんだろうな)
その様子を、他の誰でもない、自分が見ていたい。メンバーや相方としてではなく、もちろん、仲間や友人でもなく、恋慕の情を許された立場で、見ていたい。
未だ眠っている環の唇をそっと指でなぞると「んん」とむずがる言葉とともに、閉じられていた瞼がゆっくりと開いた。あぁ、起こしてしまったかと思い、慌てて手を引っ込める。
「……はよ」
「お、はよう」
目を覚ましたばかりの環はまだ頭がぼんやりとしているのか、開ききらない瞼を懸命に瞬かせようとしている。その様子がかわいらしくて、思考に続く「でも」のその先がするりと口をついて出た。あんなに、言葉にしないでおこうと思っていたはずの「でも」のその先。
「なろうか、恋人」
壮五の言葉に、しばらくの間を置いてから、環がくしゃりと顔を歪める。
「……ほんとだな?」
「うん、……て、ちょっと」
強く抱き締められて、物理的な苦しさと、込み上げてくる愛おしさから、息が詰まりそう。少し腕をゆるめてほしいと訴えようとして、環の肩が震えていることに気付く。
「…………泣いちゃったの?」
「……泣いてねえし」
そう答える環の声は明らかに鼻声で、泣いていなかったらなんなんだと言いたいくらいだった。
「本当? ……ねぇ、顔、見せて」
「やだ」
なおも壮五をぎゅうぎゅうと抱き締めたまま、肩口から洟をすする音が聞こえる。やっぱり、泣いているんだ。そう思うと、たまらなくなって、壮五は身を捩った。
「ね、お願い。少しだけ腕、ゆるめて」
壮五の願いに、環はゆっくりと腕の力を抜く。身体をずらして環の顔を覗き込むと、壮五の予想通り、その目は涙で濡れていた。
「そーちゃ……っ」
かさついた唇を撫でるように、ゆっくりと吸い付く。唾液では唇の乾燥を治すことはできないけれど、今はリップクリームよりも自分の唇で撫でてやりたかった。壮五の涙を真に拭ったのは醤油の染みが付いた袖口ではなく、環の唇だったから。
「黙ってて、ごめんね。……環くんの言う通りだよ」
「俺の……?」
「きみの言う通り、僕はきみのことが好きで、でも、世間体ときみの将来を気にして、この気持ちをなかったことにしようと決めてた。……でも、もう、いいんだ」
壮五の言葉に諦めのようなものを感じ、環は訝し気な顔をする。
「いいって、なんで?」
「ん? あぁ、投げやりになってるわけじゃなくてね。昨日、環くんに優しく甘やかされて、……昨日だけじゃなくて、普段から優しくしてもらってる自覚はあるんだけど、こんなに甘やかされたら、環くんなしじゃだめになってしまいそうだなって思ってたんだ。でも、そんなの今更で……僕はとっくに、環くんなしじゃだめになってた。どんどん格好よくなっていくきみのこと、いつかはきれいで優しい女性が隣に並ぶ日がくるんだろうなって思ってたくせに、誰にも隣を渡したくないって思ったんだ。わがままなのはわかってるんだけどね」
わがままだとわかっていると言いながらも、困ったように微笑むのではなく、覚悟を決めた表情だ。環は思わず見惚れてしまう。愁いを帯びた表情をすることが多い壮五だが、覚悟を決めた時の凛とした表情は、言葉にできないほど美しい。壮五の、こういうところに、どうしようもないほど惹かれたのだ。
「……あんたは、ちょっとくらいわがまま言えたほうがいいと思う」
「うん」
環がどう言葉を続けるのかわかっているような頷きに、気恥ずかしさを感じる。
「酔ったあんたの介抱、何回もさせられてっし」
「ごめん。……ありがとう」
「おー……。あんなに面倒な時のそーちゃんでも最後まで見てやれるの、世界中探しても俺くらいだぞ」
そうだろうな、と思う。元々の面倒見のよさもあるが、環が壮五を甘やかすのは、ひとえに、環が壮五に惚れ込んでいるからだ。
「そうだね。本当に、感謝してる」
「そーちゃん、あの……」
そこまで言って照れくさくなったのか、環はがしがしと頭を掻くと「あー」と呻き声を上げた。
「ふふ。どうしたの?」
環の瞳の色にも、そして、それを覗き込む自分の瞳にも、同じ感情が滲んでいる。焦がれた相手と想いを結んだことでの喜びや、照れくささだ。
「もー……好き」
毎日見ている顔なのに、想いを伝える前と伝えたあとでは、こうも違って見えるのか。
照れくささを隠しもしない環の表情が言葉にできないほどかわいくて、壮五は胸がきゅうっと疼く。こんなにかわいいところ、他の誰にも見せたくない。
「知ってる。きみを見てたからね。それにしても……困ったな」
「なにが」
「自分で思ってた以上に、環くんのことが好きみたいだ。きれいな感情だけを見せたいのに、こんなにかわいい環くんのこと、ひとりじめできたらなぁって思ってしまう」
困ったね。自分たちはアイドルで、仕事で求められたら照れた表情どころか、キスシーンだって演じなければならないのに。眉を八の字に下げて笑う壮五に、昨日までの頑なな態度はなんだったのかと思ってしまう。環が抱いている好意をそれとなく示しても、気付いていないふりをしていた壮五とはまるで別人ではないか。環のほうがずっと好きだったはずが、今朝の壮五ときたら、まるで自分のほうが以前からずっと好きだったかのような態度だ。
「……言っとくけど、俺のほうが、ずっと好きだったから」
拗ねた声音になってしまい、腕の中でくすくすと笑われる。それが悔しくて、両頬を手で包んで勢いよくくちづけた。ムードもへったくれもない、ぶちゅうっという情けない音付き。昨晩初めて経験したばかりだから、ゆっくりくちづけないと、うまくできない。
「ごめん、へたくそだった」
「キスが?」
「そう。ぶちゅってなった」
これがドラマだったらリテイクものだろう。けれど、これはドラマではなくて現実だから、ちょっとくらい格好悪くても構わない。
「いいんだよ。僕だって初めてだったのに、環くんだけ上手だったら困る。……それに、昨日の夜は気持ちよかっ……あ……いや、なんでも」
そこまで言ってから昨晩のいやらしいくちづけを思い出し、頬が熱くなる。
「……なっ、に言ってんだあんた…………」
視線を合わせるのも恥ずかしい。恋人になったのだから「キスが気持ちよかった」と言ってもおかしくないのだが、まだ恋人になりたての二人には、なかなかにハードルが高いのだ。
「ごめん、今の発言は忘れてくれ……」
「無理。ぜってえ忘れねえ」
気持ちよかったよくなかったにかかわらず、初めてのキスは特別だし、なにより、昨晩のできごとは一生忘れられないだろう。壮五の父と対峙したことも、壮五が涙を流すところを初めて目にしたことも。そして、今朝、目を覚ましてすぐ、自分の想いが実を結んだことも。今の壮五の発言まで含めて、絶対に忘れてやらない。環が指折り数えながらそう宣言すると、壮五はぱちぱちと目を瞬かせてから「そうだね」と呟いた。
「僕も……昨晩のことは忘れない。きみに涙を拭ってもらって、……眠る前に、たくさんキスをして。今まで生きてきたぶんだけ夜を過ごしてきたけど、あんなに優しく甘やかされた夜はなかった」
「……だな。俺も、あんたのこと、世界で一番優しくしてやりたいって、褒めてやりたいってずっと思ってた。やっと、一番しんどい時に、一番頑張った時に、よくやったなって言ってやれた。そーちゃん、ちゃんと泣けるんじゃんって、安心した。だから、昨日の夜は、俺にとっても、優しい夜だったよ。……あー、こら、泣くなって」
環の言葉で瞳を潤ませた壮五のまなじりを指先で拭うようになぞる。
「さすがにもう泣いてないよ」
「別に、泣いてもいいけどな。俺の前なら」
まなじりに唇を寄せて、押し当てるようにくちづける。
「やっぱり大人だから、そう頻繁に泣くわけにはいかないけどね。……もし、次に泣きたくなるようなことがあったとしたら、それは、僕のつくった曲で、二人で歌えた日がいいな。かなしいことじゃなくて、幸せなことがいい。環くんには、早く泣きやめよって涙を拭ってほしい。今度は、醤油の染みが付いた袖じゃなくて、ハンカチでね」
昨晩染み抜きはしたものの、夜遅かったことから洗濯機に放り込んだままだった。そろそろ洗濯機を回さなければいけないなと思い出す。それに、他のメンバーも目を覚ましていることだろう。朝食の場で、実家へ出向いたことと、環がラジオ番組を欠席したことについて、メンバーに話さなければならない。
「もう起きる?」
「うん。昨日、一織くんと陸くんが心配してただろう? それに、大和さん、三月さん、ナギくんも、仕事のあとにラジオのことは耳にしただろうから」
「……だな」
起き上がり、腕をぐんと上に伸ばす。カーテンの隙間から差し込む朝陽は優しい光で、自分たちを祝福しているような気がした。
番組スタッフには急病、リスナーへは急用と説明したが、実際は、壮五の実家で人質となっていたのだ。どうか彼には手を出さないでほしい。父にそう頭を下げて、真っ青な顔でラジオ局に出向いた壮五。父から「最後の仕事だ」と言われたものの、最後にするつもりなんてなかった。だからといって具体的な打開策が浮かぶわけでもなく、目の前の仕事に向かうことしかできなくて、壮五は改めて、自分の無力さを思い知った。
好きなことを仕事にできて、自分たちの歌やダンスを求める人たちがいてくれても、窮地を脱することができないようでは、まだまだ一人前とは言えないのが悔しい。
現状をつくりだしたかなしいできごとたちが苦しくて、溺れそうで、普段は信じもしない神に助けを求めるように、自分の気持ちを吐露した。予定とは別の曲を流してもらったのだが、恐らく、自分たちを気にかけてくれているTRIGGERは、このラジオを聴いていたことだろう。もしかすると次に会った時に、天あたりからは「ラジオの生放送中に泣くなんて」と窘められるかもしれない。それでも、笑顔をはりつけて予定調和のうちに仕事を終えるには、今の状況はあまりにもかなしいことだらけだった。
番組スタッフは好意的な反応をくれたが、途中で泣き出すなんて放送事故もいいところだ。番組に批判の声が寄せられるかもしれない。自分の言動で、大切な仕事をなくしてしまうかもしれない。父に「最後の仕事」と言われたにもかかわらず、大切なこの場所を失いたくないと思った。考えるばかりで、どうすればいいのかわからないのに。
人が殺到しているらしく、ビルを出る時にスタッフから「タクシーを呼んでおいた」と言われ、壮五は思わず身構えてしまった。今夜の自分の言動は、どれも『MEZZO"のロングヒットアルバム』の本来あるべき姿ではなかった。さっそく批判が寄せられているのかと、身をかたくしたままドアの外へ出てみたところ、外にいたのはファンの皆で、向けられた言葉はどれも優しい言葉たち。てっきり、自分をなじる言葉が飛んでくるのだろうと思っていたのに。
優しい言葉たちが自分の心にどんどん入ってきて、まるで、ひとつの音楽のようだ。楽器に向かわなくても、ペンと五線譜がなくても、メロディは生まれるらしい。そのことに気付いた壮五が思ったのは「作曲がしたい」だった。一体これからどうなるのだろう、父に連れ戻されてしまうかも……そんな状況下にもかかわらず、音楽への愛が強くなったのだった。
スタッフが呼んでくれたものではなかったが、タイミングよく現れたタクシーには環が乗っていて、奇跡が本当にあることを知った。
「そーちゃん、お疲れ」
ファンをかき分けてタクシーに乗り込んでからは、運転手に聞こえないよう、小さな声でいろいろなことを話した。父が、環を解放してくれたこと、FSCホールを借りられること、FSCホールを借りるために必要な七千万円の融資契約を結んでくれること。
話しながら、一度は止まったはずの涙が再びあふれてきて、環に笑われてしまった。
「はは、また泣いた」
それは決してばかにする笑いではなく、慈しむようなもの。涙を拭ってくれた環の袖口からは醤油の香りがして、たまらない気持ちになる。
「環くん、醤油こぼしただろう。……帰ったら、ちゃんと染み抜きしないとね」
「えー、いいよ、これくらい」
渋る環に、今日のお礼がてら自分に任せてほしいと言って、洗濯を引き受けた。
「……っ、あの」
指先に触れた感触に驚いて声を上げてしまいそうになり、慌てて口を噤む。
「いいから。な?」
タクシーの中でこっそり繋いだ手は、これまで仕事で触れたどんな時よりも、あたたかかった。
◇
寮に着くと、ラジオを聴いていたメンバーから声をかけられた。
「壮五さん、あの」
おずおずと声をかけてきた陸の目許と鼻が赤くなっていて、彼がついさきほどまで泣いていたのだということがわかる。
「ただいま、陸くん。……もしかして聴いてた? ごめんね、聴き苦しいものを」
「そんなことないです! オレもずっと苦しくて、TRIGGERの話は出さないようにってされてるのが、……つらくて。オレだけじゃなくて、みんな苦しかったから。壮五さんが声に出してくれて、多分、ラジオを聴いてた人たち、みんな、壮五さんにありがとうって思ったはずです。TRIGGERのことに限らず、好きなもののこととか、そういうのって、みんなも、……抱えてることだから」
ぐずぐずと鼻を鳴らす陸にハンカチを差し出すと、声を上げて泣き出してしまった。
「あぁもう、あなたが泣いてどうするんです。発作を起こさないでくださいよ」
「だっでぇ……」
鼻をかむようにとティッシュを差し出す一織のまなじりも、心なしか赤くなっているように見えた。
「……番組への批判を懸念されているのかもしれませんが、その心配はないでしょう。私も聴いていましたが、今日の放送に心を揺さ振られなかった人はいないと思います。大丈夫ですよ……百あるうちのひとつくらい批判がきたって、今の私たちなら乗り越えられます。四葉さんも、番組に穴を開けたことは褒められたことではありませんが、事情があったんでしょう。マネージャーにきちんと連絡して…………できれば、私たちにも、なにがあったか話していただけると助かります。心配とかではなく、情報共有のために」
そこまで話すと、明日は早いからと、一織は自室へ戻っていった。
「はは、あいつ、素直じゃないな……。一織のやつ、壮五さんのラジオ聴きながら〝四葉さんはどうしたんですか〟とか〝MEZZO"になにかあったら〟ってずっと心配してたんですよ。ちょっと泣いてたんじゃないかなと思います。意外と泣き虫だし」
涙を拭い、幾分か鼻声が治まった陸が笑う。
「そうか……心配かけちゃったね。大丈夫だよ。今日はもう遅いから寝ようか。……環くんも、お風呂入っておいで」
「……おー」
陸の背を撫でながら、彼を部屋まで送り届ける。大和たちは今もまだ仕事中だから、恐らく、ラジオは聴いていないだろう。帰ってくるのは日付を越える予定だと聞いているから、皆には明日の朝食時に話そうと決めた。
入浴を済ませ、ベッドへと潜り込む。父から「最後の仕事」と言われて、ここへ戻ってくることはできないかもしれないと思った。荷物を取りに戻ることもできずに海外の別荘で一生を送る可能性だってあったのだ。ラジオを聴いて七千万円の個人融資に首を縦に振ってくれたのだと環は言っていたが、壮五はそれだけではないと思っている。
(環くんがいてくれたからだ……)
ラジオの生放送中、自分の父と環がどんな会話をしたのかはわからない。帰りのタクシーの中でもその話題には触れられなかった。どんな会話がなされたのか知りたくてたまらないけれど、多分、今はまだ、聞かないほうがいいのだと思う。教えてほしいと乞うことで、環にプレッシャーを与えてしまうから。笑いながら「ありがたく思えよ」なんて言っていたが、実際にありがたがると遠慮してしまう、気の優しい男。
(……環くん、もう寝たかな)
環の部屋に面した壁を見遣る。決して厚くないこの壁の向こうで、彼は今、どうしているのだろう。明日は昼からの仕事とはいえ、朝食の場で、今夜のこと、FSCホールのこと、七千万円の融資のことについてメンバーに話す予定だ。あまり夜更かしをするわけにはいかない。
でも、隣室が気になって、――否、環のことが気になって、なかなか眠れない。
ごろりと寝返りを打ち、袖口で拭われたまなじりに触れる。
(醤油の、におい……)
自分に話しかける環の声には、どうしようもないほどの愛おしさが込められていて、それを思い出すだけで、また、涙があふれそうだ。たまらない気持ちになる。
一方の環も、王様プリンのぬいぐるみを抱き締めたまま、なかなか寝付くことができないでいた。
今日はいろいろなことがあった。壮五の実家は、門をくぐったあと、森のように広大な土地をずっと進んだ先にある大きな屋敷だった。今回のことがなければ、自分には一生、縁のなさそうな邸宅というのが環の感想だ。自分がもっと稼いで、妹と暮らせるようになっても、ここまでの広さは求めないだろう。
壮五の父は威圧感が強い。こんなところで育ったのだから、壮五が自分のことをはっきり言えなかったのも仕方がない。声を震わせて「自分を認めてほしい」と訴えた壮五の細い肩を思い出す。自分がいてやらなければと思った。なにがあっても、自分が一番近くにいてやりたい。一番の理解者になりたい。
(けど、メーワク、かも)
環は壮五に対して好意を抱いている。自分のことを見ていると言ってくれて、危険を顧みず自分を守ってくれて。そんなの、好きにならないはずがなかった。今回だって、壮五が実家に行くことを反対した環に対して、環のことが一番大事だと言ってくれた。ますます好きになってしまった。しかし、壮五の隣にいればいるほど、この気持ちを明かした場合の壮五の反応が容易に想像できてしまって、未だ口に出せないでいる。
自分のことを見つめる壮五の瞳に、自分が壮五を見る時と同じ色が混ざっていることくらいわかっている。だって、いつも隣にいて、誰よりも壮五のことを見ているから。大和からも「MEZZO"くんついに交際しちゃったの?」なんてからかわれるくらい、壮五が自分に向けてくる視線は熱い。熱くて、見つめられたところから焦げてしまいそうなほど。
そして壮五も、環の気持ちに気付いている。それなのに、なにも言ってこない。なぜなら、彼は世間体を気にしているからだ。それも、環にはわかっている。
(まぁ、長期戦かもってのは、わかってたし。メーワクでも、どうしようもねえし)
簡単に諦めてあげられるほど生易しいものではない。甘酸っぱくてきらきらと輝くものが恋だと思っていたのだが、実際は、相手を諦められない執念と、他の誰でもない自分を選んでほしい、他の誰にも触らせないでほしいという独占欲でいっぱいの、どろどろと濁ったものだった。でも、いつか壮五が振り向いてくれるなら、なんだっていい。きらきらしていても、していなくても、恋は恋だから。
抱き締めたままの王様プリンに顔を埋め、壮五のこともこうやって抱き締めてやりたいなと考える。抱き締めて、あのやわらかそうな髪を撫でて、……今夜、たくさん泣いていたけれど、もっともっと泣かせてやりたい。他の人の前で涙を見せなくていいし、見せないでほしい。自分の前でだけ、子どものように泣いて、甘えてほしい。歳下に甘えることに抵抗があるなら、急いで大人になるから、どうか、自分のことを選んでほしい。
(まじで寝れねえ……)
あまりにも寝付けないものだから、一織に教えてもらったホットミルクでもつくってみようかと身体を起こしたところで、部屋のドアがノックされる。
「環くん、起きてる?」
つい今しがた考えていた相手の声に、どきりと心臓が高鳴った。
「……っ、起きてる。いいよ」
ゆっくりとドアが開かれ、ひょっこりと顔を覗かせた壮五を見て、彼も眠れないのだということがわかった。
「ごめんね、お邪魔してしまって」
「いいって。起きてたし。なに?」
壮五は用もなく部屋を訪ねるタイプではない。もしや今夜のことでなにかまずいことでもあったのだろうかと思い立ち、壮五の父との会話を大急ぎで脳裏に浮かべる。
「なんだか、寝付けなくて。本当は明日にでも借用書をつくりに行きたいし、みんなに今日のこと話さないといけないから、あまり夜更かしするわけにはいかないんだけど……もし、環くんが起きてたら、少しだけここにいさせてほしいなって」
それって、どういうつもりだろう。深夜、自分を好いている男の部屋に来るなんて。煩悩が顔を覗かせそうになり、環はかぶりを振った。今夜の壮五はかなり疲れている。いつも優しくしてやりたいと思っているけれど、今夜は特に優しくしてやりたい。
世界中の誰よりも、優しさに包まれているのが目の前の壮五であればいい。そして、その優しさをもたらすのは自分でありたい。
「……俺も。なんか今日寝れねえって思ってた」
常夜灯の下で見る好きな子の顔ほど、理性をぐらつかせるものはない。それでも、壮五が自分を好きだとはっきり言ってくれるまでは、絶対に触れないでおこうと決めている。
「本当ならラジオで一緒に話してたところだけど、今夜はそうもいかなかったからね。迎えに来てくれて、帰りもずっと一緒だったのに……多分、環くんがたりないんだと思う。仕事で話せなかったのをプライベートで埋めようなんて変な話だよね」
焦ったように話す壮五を見て、環は腹にぐっと力を込めた。危ないところだった。環のことがたりないなんて、よくもまぁ言ってくれたものだ。その言葉がどんなに破壊力を持っているのか、わかっていないのだろうか。
「別に……おかしくねえ、と思う。あんたがしゃべってくれて、あんたのことわかるの増えたら、俺は嬉しいし。いいよ、しゃべってる最中に寝ちゃうかもだけど、それもありだと思う。それで、……もうさ、今日は、ここで寝ちゃえばいいじゃん」
最後のひとことは賭けだった。壮五はパーソナルスペースの広い男だ。そんな相手にひとつのベッドに眠ろうと提案するなんて、いやがられてもおかしくない。
「…………えっと、じゃあ……お邪魔、します」
それなのに、壮五は断ることなく、環のベッドへ入ってきた。
「はは。ベッドに入るのまでお邪魔しますって。玄関みてえ」
動揺を悟られないよう、壮五の発言にツッコミを入れる。
「だってそうじゃないか」
そうなのかな。そうだよ。そんなやりとりを繰り返しながら、枕の位置を調整する。枕はひとつしかないから、壮五に譲った。しかし、部屋の主を差し置いて客人である自分が枕を使うなんてとぶつぶつ言うものだから、最終的に、二人とも枕を使わず向かい合わせで横になることで決着がつく。
「なにやってんだろうな、枕ひとつで」
「ふふ、……でも、言ってただろう? 明日はまたケンカするだろうけど、明後日は仲直りするって」
「こんなのケンカのうちに入んねえよ」
むっとして言うと、壮五が肩を揺らして笑った。細い肩が揺れるのを見て、たまらない気持ちになる。
「環くん。本当に、……ありがとう」
「……おー、……って、あ、こら。あー、あー。もー……」
寮に着く前に泣きやんだと思ったのに、壮五の瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。
「ごめ……どうしよ…………」
涙腺がばかになっちゃったみたい。そう呟く壮五がどうしようもなく愛おしくて、かわいそうで、かわいくて、環は思いきり抱き締めた。
「……さっきので、そーちゃんの泣き顔、見慣れたから。ここでなら、……ここでだけなら、泣いていいから。全部出しちゃえば」
自分の胸許に顔を埋めている壮五の髪を撫でる。思っていた以上にふわふわとやわらかくて、壮五の存在そのものみたいだと思った。芯の強い男であることは知っているが、見た目はふわふわしていて、強く握ったら細い芯以外、潰れてしまいそう。潰れさせたくないからと、ことさら丁寧に、まるい頭をゆっくりと撫で続ける。
思う存分、泣いていい。今夜、ここで泣いたことは誰にも言わないから。
「環くん……」
「もー……鼻ずるってしたらだめだって」
ずず……と洟をすする音が聞こえて、洟をすするのはよくないと諫めようと顔を上げさせた。自分の両手にすっぽりおさまってしまう小さな顔。泣いたせいで顔が熱くて、目許と鼻が赤く染まっている。涙で瞳が潤んでいるものだから、まるで、求められているように見えてしまって。
「たま、……っ」
薄い唇に吸い寄せられるように、くちづけてしまった。
「……っ、ごめ、…………」
「んん、……っ」
触れた唇のやわらかさに驚く。甘やかしたいなんて思っておきながら、やわらかい唇にもっと甘えたくて仕方がない。離れては重ね、を何度も繰り返す。
「んっ……」
何度も何度も唇を押し当てて、やめ時がわからなくなってしまう前に、これが最後と自分に言い聞かせて、今までで一番長く、唇を重ねた。
「……ん、……ごめん」
怒られるならまだましなほうで、もしかしたら、軽蔑されるかもしれない。MEZZO"解散なんてことにはならないでほしい。唇を離し、恐る恐る壮五の顔を覗き込む。
「……どうして」
しかし、環の予想に反し、壮五はただただ、ぼんやりしていた。
「なんで、って……わかってんじゃん」
「……わからないよ。だって、なにも言ってくれてない」
「いやだった?」
環の質問に、ふるふると首を横に振る。
「いやじゃない、けど、……わからな、んっ……」
わからない、を繰り返す壮五に教えるように、環はもう一度くちづける。
「キスなんてな、好きじゃないやつにはしねえの。そんくらいわかるだろ?」
「だって、キス、なんて……恋人同士がすることなのに」
「じゃあ、恋人になりゃいいじゃん」
今夜はいったい何度賭ければいいのだろう。言えないままでいた言葉まで口にしてしまった。どくどくと心臓が大きな音を立てている。
「じゃあ、って……」
「わかってんだろ? 俺が、そーちゃんのこと好きって。そーちゃんが、俺のこと見てるっつった時から、俺は、そう思ってる」
「でも、……」
心臓がうるさくて、耳の近くに心臓があるんじゃないかと思ってしまう。どきどきし過ぎて、環まで涙で目が潤んできた。
「そーちゃんのことずっと見てたから、俺。だから、そーちゃんの気持ちも、本当は知ってる。なんで言ってくれないのかも、なんとなくわかってんよ」
「えっ」
自分の気持ちが知られている。そのことに壮五は少なからず動揺してしまう。
「……俺たちがアイドルだからって気にしてんのも知ってる。…………ほんとは、今言うつもりなくて、もっとそーちゃんみたいにプレゼン? できるようになってからって思ってた。そーちゃんみたいにメリットとかデメリットとかってのは、うまく言えねえけど、多分、俺たちは、一緒にいたほうがいいと思う。そーちゃんのこと、……そーちゃんが泣いてるとこ、他のやつに見せたくない。しんどい時に、そーちゃんだらけていいよって言ってやりたい。……と、思う、……です」
ゆっくりと丁寧に説明したつもりが、辿々しくなってしまった。あぁ、最後が格好つかなかったと環が一人でぼやく。
「そうなの、……かな」
「そうだよ。……なぁ、いやじゃなかったって言ったじゃん? それでも、そーちゃんはほんとのこと、……ここ、この中にある気持ち、俺に教えてくんねえの?」
壮五の胸許にそっと手を当てる。大好きな音楽を聴いて興奮した時のように高鳴っている鼓動。ばればれなんだよと呟く。
「確かにいやじゃなかった。けど、……って、ちょ、んんっ…………」
視線を揺らす壮五を見て、どうしても、もっと自分を見てほしいと思った。こちらを見てほしいという願いを込めて、両頬を包むように手を添え、下唇を吸うように、ゆっくりとくちづける。唇を押し当てているだけではわからなかった歯磨き粉のミントの香りが鼻を掠め、頭の中がかっと熱くなった。
「んゃっ……たぁ、…………っ」
キスと舌の関係なんて知らなかったけれど、たった今、実際にキスをしたことで知ってしまった。唇を押し当てるだけではものたりなくて、食べてしまいたくなるからだ。唇だけではなく舌までほしくなって、自然と舌を差し込んでしまう。なにせ初めてのことだから、これが正解なのかはわからない。ものすごく不格好かもしれない。
「ふっ、んん、…………っむ、ぁっ……くるし、…………」
あぁ、本当に、どこで終わればいいのだろう。壮五の好意は明らかなのに、どうしてそれを言葉にしてくれないのか。この口がいけない。口の中を自分の色に染めたら、素直に好きだと言ってくれるのではないだろうか。環はそんな気持ちで、時折唇を離しては、またすぐにくちづけを繰り返した。
「そーちゃ、……ん、…………」
「……ふぁ…………っ」
自分の鼻息が荒くなっていることにはとうに気付いている。鼻息だけではない。ずっと焦がれていた壮五とキスをしていること、舌を使ったキスのいやらしさ、それらに興奮して、自分のものが勃起していることがわかる。下半身を擦り付けるように、腰が勝手に動いてしまう。いくら布越しとはいえ、壮五にばれているはずだ。
「あっ、環くん、…………」
「ごめ……、そーちゃん、好き。好き。すっげえ好き。お願い。好きって言って」
唾液でてらてらと光る壮五の唇を親指で拭い、至近距離で見つめる。
「環くん……」
常夜灯に照らされた壮五の表情は明らかに環を好きだと言っている。でも、表情ではなくて、言葉がほしい。キスをいやがらないとか、視線で訴えるとか、そんな曖昧なものではなくて、もっと確かなものがほしい。……けれど、無理強いはだめだ。
(だめだ……触んないって決めてたのに…………)
好きな子を前にすると、理性はこうも簡単に崩れてしまうものなのか。服越しでいいから壮五の太腿に下肢を擦り付けて、思いきり射精したいという欲求に駆られてしまう。
環は瞳を閉じて、ゆっくりと息を吐き出した。
「……ごめん。焦っていっぱい、……キス、した」
抱き締めていた腕を離し、壮五の隣に寝そべる。ちらりと時計に視線を遣れば、壮五がこの部屋に訪れてから、時計の長針がそろそろ一周しようとしていた。
これ以上続けたら、きっと、壮五の部屋着を無理矢理にでも脱がせて、いきり勃ったものを押し込んで、彼を穢してしまう。それだけはだめだ。これだけキスをしておいて今更なにをという気もする。しかし、キスとセックスとでは、引き返せるラインがあまりにも違い過ぎる。これ以上の行為は「いやがらないから」で進めるのではなく、互いに望んで進めなければ、それこそ、取り返しのつかないことになってしまう。
今夜の壮五の様子なら、環が拝み倒せば一度くらいはセックスをさせてくれるかもしれない。しかし、環はそんなセックスを求めているわけではない。
「今日、疲れただろ。寝ていいから。俺も寝るし」
「でも」
それに、今日の壮五はたくさん頑張ったから、寝かせてやりたい。おとなしく眠らせるため、環は強制的に話を切り上げて「おやすみ」と告げた。
「…………おやすみ」
壮五もまた、環の言葉と閉じられた瞳から、自分は今夜これ以上縋ってはいけないと判断し、同じ言葉を返した。
◇
環のスマートフォンがアラーム音を奏で、その音で壮五が目を覚ます。
(設定した本人が起きないんじゃ、アラームの意味ないじゃないか……)
手探りでアラームを止め、時刻を確認する。あと三十分ほどなら、のんびりしていても問題なさそうだ。
眠るのは遅かったのに、随分ぐっすりと眠れたように思う。それに、内容は覚えていないものの、ひどく優しい夢を見たような気がする。どうせなら覚えていたかった。
(環くんが出てきたような気がするけど……なんだったんだろう)
自分の腰を抱き締めたままの環の寝顔をじっと見つめる。
(いっそ、めちゃくちゃにしてくれてもよかったのに)
昨夜、好きだと告げられた。何度も何度もキスを繰り返して、興奮した環の下半身が布越しに押し当てられて。正直なところ、そのまま抱いてくれてもよかったのにとさえ思った。めちゃくちゃに抱かれて、他のことがなにも考えられなくなるほど、環に溺れたい気分だった。環が欲情していたように、壮五もまた、昨晩のキスで環に欲情していた。触れられたから欲情したのではない。以前から環のことが好きだったから、欲情した。
何度もくちづけられた唇を指でなぞる。手入れを怠らない壮五と違い、少しかさついた環の唇。リップクリームを塗るように言わなければいけないと思ったところで、昨晩のあれがファーストキスだったことに気付く。やわらかいけれどかさついた唇が押し当てられて、二度目のキスでは、舌がぬるりと差し込まれた。人の口の中を舐めるなんて恐ろしいこと、自分は受け入れられそうにないと思っていたのに、ただただ、気持ちよかった。途中でやめないでほしかったし、口の中に入ってきたのなら、そのまま、身体の中に入ってきてほしかった。それくらいには、壮五は環に焦がれていたのだ。
いつから惹かれていたのだろう。MEZZO"としてデビューしてしばらくは敬遠されていると思っていたし、これまで接したことのないタイプである環とどのように接するべきか悩んだことも少なくない。
彼と同じ時間を過ごし、歌声を重ねるたび、身体の奥からあふれ出る感情。それがだんだん心地いいものになっていった。咎められるかもしれないという恐怖心を抱えながら、作曲に挑戦したいという自分の望みを環に打ち明けた時、あっさりと肯定してもらえて、壮五の世界は確かに変わった。それよりも前から惹かれていたのだろうが、壮五が自身の感情を理解したのは、あの瞬間だった。
環の言う通り、彼が自分に好意を抱いてくれていることには気付いていた。誰よりも近くにいて、本人に誓った通り、彼のことを見ていたから。
自分たちは互いに恋愛感情を抱いているということになる。しかし、自分たちの立場を考えた結果、壮五は沈黙することを選んだ。
アイドルとは、偶像であり、崇拝される対象だ。偶像である以上、崇拝する信者、つまり、ファンの理想を裏切るようなことをしてはならない。常に過去を更新し続けるパフォーマンスを披露しなければならないし、彼らが落胆するようなスキャンダルを起こすなどもってのほかだ。
たとえば、自分たちが実際に想いを通わせ交際したと仮定する。アイドルとしてどうあるべきか、これまでの活動でしっかりと理解しているから、浮かれて言いふらすなんてことはしない。それは自分だけでなく、環もだろう。だが「言わなければ知られることはないだろう」と安心していい世界ではない。火のないところに煙は立たないという言葉があるが、自分たちがいる世界は、火がなければ火をつけてでも煙を立たせる世界だ。そこに百人の人間がいたとして、一人でも火をつけようとする者が現れてはならない。百人いれば全員が、火をつける気分にすらならない状態を提供する。それが、偶像であり続けるために必要なことだ。もちろん、スキャンダルを起こしてもある程度の冷却期間を経て第一線に戻ってくる者もいる。ただ、この世界で経験豊富とはまだ言えない自分たちがそうなれる保障はない。
(……でも)
壮五は昨日までの思考に、眠る直前に感じた言葉を繋ぎ合わせる。そう、今の壮五の思考には「でも」という言葉が続くのだ。
昨日の夜、人前で涙を流して、優しく拭ってもらって、壮五は、甘えるとはどういうことかを理解した。環に甘やかされる心地よさに、彼がいなければだめだと気付いてしまったのだ。彼の想いに応えたら自分はだめな人間になってしまうかもしれないと危惧していたが、とうに、だめになっていた。今更だ。
(どうあっても、僕は環くんが好きなんだ)
自分の気持ちを必死に隠して、いずれ環の隣に美しい恋人が並ぶ時がくれば、さすがにこの気持ちも捨て置けると思っていた。何年か経てば気持ちも色褪せるだろうとも。しかし、環は壮五が隠している気持ちをとうに気付いていて、隠している理由まで悟っていたなんて。そんなの……どうあっても、自分は環に敵わない。
目の前で眠っている環の顔を観察する。抱かれたい男ランキングの第五位に挙げられた男。カメラの前では男としての魅力をあますことなく見せつけるものだから、カメラ越しでも、画面や誌面越しでも、見た者は圧倒されてしまう。そのくせ中身は初心な少年で、王様プリンが大好物。いまどきの十七歳らしく、人気の漫画雑誌を読んだり、スマートフォンのゲームに興じたりしながら、色恋沙汰とはおよそ縁のなさそうなあどけない笑顔を見せる。
壮五はIDOLiSH7のメンバーとして、MEZZO"の相方として、環とはかなり多くの時間を共有していることもあり、カメラの前で見せる表情も、散らかった部屋でだらだら過ごす表情も、たくさん、見てきたつもりだ。
それなのに、昨晩の環ときたら。
(……あっという間に、大人になってしまうんだろうな)
その様子を、他の誰でもない、自分が見ていたい。メンバーや相方としてではなく、もちろん、仲間や友人でもなく、恋慕の情を許された立場で、見ていたい。
未だ眠っている環の唇をそっと指でなぞると「んん」とむずがる言葉とともに、閉じられていた瞼がゆっくりと開いた。あぁ、起こしてしまったかと思い、慌てて手を引っ込める。
「……はよ」
「お、はよう」
目を覚ましたばかりの環はまだ頭がぼんやりとしているのか、開ききらない瞼を懸命に瞬かせようとしている。その様子がかわいらしくて、思考に続く「でも」のその先がするりと口をついて出た。あんなに、言葉にしないでおこうと思っていたはずの「でも」のその先。
「なろうか、恋人」
壮五の言葉に、しばらくの間を置いてから、環がくしゃりと顔を歪める。
「……ほんとだな?」
「うん、……て、ちょっと」
強く抱き締められて、物理的な苦しさと、込み上げてくる愛おしさから、息が詰まりそう。少し腕をゆるめてほしいと訴えようとして、環の肩が震えていることに気付く。
「…………泣いちゃったの?」
「……泣いてねえし」
そう答える環の声は明らかに鼻声で、泣いていなかったらなんなんだと言いたいくらいだった。
「本当? ……ねぇ、顔、見せて」
「やだ」
なおも壮五をぎゅうぎゅうと抱き締めたまま、肩口から洟をすする音が聞こえる。やっぱり、泣いているんだ。そう思うと、たまらなくなって、壮五は身を捩った。
「ね、お願い。少しだけ腕、ゆるめて」
壮五の願いに、環はゆっくりと腕の力を抜く。身体をずらして環の顔を覗き込むと、壮五の予想通り、その目は涙で濡れていた。
「そーちゃ……っ」
かさついた唇を撫でるように、ゆっくりと吸い付く。唾液では唇の乾燥を治すことはできないけれど、今はリップクリームよりも自分の唇で撫でてやりたかった。壮五の涙を真に拭ったのは醤油の染みが付いた袖口ではなく、環の唇だったから。
「黙ってて、ごめんね。……環くんの言う通りだよ」
「俺の……?」
「きみの言う通り、僕はきみのことが好きで、でも、世間体ときみの将来を気にして、この気持ちをなかったことにしようと決めてた。……でも、もう、いいんだ」
壮五の言葉に諦めのようなものを感じ、環は訝し気な顔をする。
「いいって、なんで?」
「ん? あぁ、投げやりになってるわけじゃなくてね。昨日、環くんに優しく甘やかされて、……昨日だけじゃなくて、普段から優しくしてもらってる自覚はあるんだけど、こんなに甘やかされたら、環くんなしじゃだめになってしまいそうだなって思ってたんだ。でも、そんなの今更で……僕はとっくに、環くんなしじゃだめになってた。どんどん格好よくなっていくきみのこと、いつかはきれいで優しい女性が隣に並ぶ日がくるんだろうなって思ってたくせに、誰にも隣を渡したくないって思ったんだ。わがままなのはわかってるんだけどね」
わがままだとわかっていると言いながらも、困ったように微笑むのではなく、覚悟を決めた表情だ。環は思わず見惚れてしまう。愁いを帯びた表情をすることが多い壮五だが、覚悟を決めた時の凛とした表情は、言葉にできないほど美しい。壮五の、こういうところに、どうしようもないほど惹かれたのだ。
「……あんたは、ちょっとくらいわがまま言えたほうがいいと思う」
「うん」
環がどう言葉を続けるのかわかっているような頷きに、気恥ずかしさを感じる。
「酔ったあんたの介抱、何回もさせられてっし」
「ごめん。……ありがとう」
「おー……。あんなに面倒な時のそーちゃんでも最後まで見てやれるの、世界中探しても俺くらいだぞ」
そうだろうな、と思う。元々の面倒見のよさもあるが、環が壮五を甘やかすのは、ひとえに、環が壮五に惚れ込んでいるからだ。
「そうだね。本当に、感謝してる」
「そーちゃん、あの……」
そこまで言って照れくさくなったのか、環はがしがしと頭を掻くと「あー」と呻き声を上げた。
「ふふ。どうしたの?」
環の瞳の色にも、そして、それを覗き込む自分の瞳にも、同じ感情が滲んでいる。焦がれた相手と想いを結んだことでの喜びや、照れくささだ。
「もー……好き」
毎日見ている顔なのに、想いを伝える前と伝えたあとでは、こうも違って見えるのか。
照れくささを隠しもしない環の表情が言葉にできないほどかわいくて、壮五は胸がきゅうっと疼く。こんなにかわいいところ、他の誰にも見せたくない。
「知ってる。きみを見てたからね。それにしても……困ったな」
「なにが」
「自分で思ってた以上に、環くんのことが好きみたいだ。きれいな感情だけを見せたいのに、こんなにかわいい環くんのこと、ひとりじめできたらなぁって思ってしまう」
困ったね。自分たちはアイドルで、仕事で求められたら照れた表情どころか、キスシーンだって演じなければならないのに。眉を八の字に下げて笑う壮五に、昨日までの頑なな態度はなんだったのかと思ってしまう。環が抱いている好意をそれとなく示しても、気付いていないふりをしていた壮五とはまるで別人ではないか。環のほうがずっと好きだったはずが、今朝の壮五ときたら、まるで自分のほうが以前からずっと好きだったかのような態度だ。
「……言っとくけど、俺のほうが、ずっと好きだったから」
拗ねた声音になってしまい、腕の中でくすくすと笑われる。それが悔しくて、両頬を手で包んで勢いよくくちづけた。ムードもへったくれもない、ぶちゅうっという情けない音付き。昨晩初めて経験したばかりだから、ゆっくりくちづけないと、うまくできない。
「ごめん、へたくそだった」
「キスが?」
「そう。ぶちゅってなった」
これがドラマだったらリテイクものだろう。けれど、これはドラマではなくて現実だから、ちょっとくらい格好悪くても構わない。
「いいんだよ。僕だって初めてだったのに、環くんだけ上手だったら困る。……それに、昨日の夜は気持ちよかっ……あ……いや、なんでも」
そこまで言ってから昨晩のいやらしいくちづけを思い出し、頬が熱くなる。
「……なっ、に言ってんだあんた…………」
視線を合わせるのも恥ずかしい。恋人になったのだから「キスが気持ちよかった」と言ってもおかしくないのだが、まだ恋人になりたての二人には、なかなかにハードルが高いのだ。
「ごめん、今の発言は忘れてくれ……」
「無理。ぜってえ忘れねえ」
気持ちよかったよくなかったにかかわらず、初めてのキスは特別だし、なにより、昨晩のできごとは一生忘れられないだろう。壮五の父と対峙したことも、壮五が涙を流すところを初めて目にしたことも。そして、今朝、目を覚ましてすぐ、自分の想いが実を結んだことも。今の壮五の発言まで含めて、絶対に忘れてやらない。環が指折り数えながらそう宣言すると、壮五はぱちぱちと目を瞬かせてから「そうだね」と呟いた。
「僕も……昨晩のことは忘れない。きみに涙を拭ってもらって、……眠る前に、たくさんキスをして。今まで生きてきたぶんだけ夜を過ごしてきたけど、あんなに優しく甘やかされた夜はなかった」
「……だな。俺も、あんたのこと、世界で一番優しくしてやりたいって、褒めてやりたいってずっと思ってた。やっと、一番しんどい時に、一番頑張った時に、よくやったなって言ってやれた。そーちゃん、ちゃんと泣けるんじゃんって、安心した。だから、昨日の夜は、俺にとっても、優しい夜だったよ。……あー、こら、泣くなって」
環の言葉で瞳を潤ませた壮五のまなじりを指先で拭うようになぞる。
「さすがにもう泣いてないよ」
「別に、泣いてもいいけどな。俺の前なら」
まなじりに唇を寄せて、押し当てるようにくちづける。
「やっぱり大人だから、そう頻繁に泣くわけにはいかないけどね。……もし、次に泣きたくなるようなことがあったとしたら、それは、僕のつくった曲で、二人で歌えた日がいいな。かなしいことじゃなくて、幸せなことがいい。環くんには、早く泣きやめよって涙を拭ってほしい。今度は、醤油の染みが付いた袖じゃなくて、ハンカチでね」
昨晩染み抜きはしたものの、夜遅かったことから洗濯機に放り込んだままだった。そろそろ洗濯機を回さなければいけないなと思い出す。それに、他のメンバーも目を覚ましていることだろう。朝食の場で、実家へ出向いたことと、環がラジオ番組を欠席したことについて、メンバーに話さなければならない。
「もう起きる?」
「うん。昨日、一織くんと陸くんが心配してただろう? それに、大和さん、三月さん、ナギくんも、仕事のあとにラジオのことは耳にしただろうから」
「……だな」
起き上がり、腕をぐんと上に伸ばす。カーテンの隙間から差し込む朝陽は優しい光で、自分たちを祝福しているような気がした。