催眠術
黒魔術、催眠術――壮五がそれらを自分のものにしようとしているのには、正当な、のっぴきならない事情があった。年下の相方に野菜をきちんと食べさせる? 夜更かししないよう二十三時までには眠らせる? ……それもあるが、それだけではない。
「環くん、こっちを見て」
「またぁ? 何回言われたって、食えないもんは食えねえの!」
文句を言いながらも、壮五の特訓に付き合ってくれる気はあるようで、おもしろくなさそうな顔がこちらを向いた。
(う……格好いい……)
小鳥遊プロダクションに向かう道すがら出会った環は、誰よりも、顔を突き合わせている相手だ。SNSで「親の顔より見た○○」などと誇張した言い回しの投稿を見かけることがあるが、そういう誇張表現を一切抜きにしても、たぶん、親の顔より相方の顔を見ていると思う。実際、壮五の両親は多忙で、家にいないことが多かったし。……いや、もしかしたら、逢坂家の使用人の顔を見た回数には及ばないかもしれない。一刻も早く、顔を見た回数の記録を更新して、相方をトップにしなければ。
「なぁ、まだ?」
「あ……ごめんね。始めるよ」
顔がよ過ぎて本来の目的を失念するところだった。顔のいい人間は相手の思考を霧散させる効果をもたらすらしいと、心のメモに書きとめる。
今日も、どうやら効果の出てくれない「環くんは野菜が食べたくなる」の催眠術をかける特訓を始めた。
◇
特訓を始めて二ヵ月。壮五は目の前の光景を信じられないでいた。
「本当に……? 本当に、環くんが食べたの?」
今夜は寮に二人きり。学校に通いながら仕事をこなす環にご褒美をあげたくて、――あと、催眠術の効果を確かめたくて――夕食は環の好物をメインに、野菜を添えた。ジャガイモやニンジンといった、カレーやシチューにも使われるものは平気で食べてしまうからと、敢えて、出番の少ないブロッコリーやアスパラガスを使った。アスパラガスも、ベーコンで巻いた時しか食べてくれないのに、今日はそのまま焼いて皿の端に添えたものでも食べてくれたらしい。普段なら端に追いやられるブロッコリーも、皿から消えている。
「食ったけど。なんか、だめだった?」
「だめじゃない! すごい……すごいよ、環くん!」
ひと息ついたら、王様プリンを与えよう。甘い甘いプリンを食べて幸せだと喜ぶ顔が見たい。頑張って食べてくれたから、めちゃくちゃ甘やかしたい。
「そう? だって、野菜食べたくなるよって、あんたが言ったんじゃん」
「僕が……言ってたから?」
壮五の問いに、環はこくりと頷いた。……これって、つまり、催眠術がついに効果を発揮したということでは?
「我ながらすごいな……」
人心掌握術はこれでもかというほど父に教え込まれたが、催眠術に関してはズブのド素人だ。その自分が、インターネットで得た知識と、過去に主演した番組で催眠術をかけられた時の経験をもとに、相手にかけられるようになるなんて。やればできるなんて言葉は無責任な励ましなんかじゃない。やれば、できる。
「じゃ……じゃあ……」
催眠術をかけられるなら。環が、催眠術にかかってくれるなら。――ごくりと生唾を飲み込む。野菜が食べたくなると言い続けた環が、ついに、野菜を食べた。しかし、これはゴールではない。壮五が躍起になっていたのには、別の目的がある。
ひと息ついたら王様プリンを……なんて考えていたけれど、それはあとまわしだ。恐らく今も催眠術にかかった状態にあるはずの彼に、更に、言い聞かせたいことがある。
もし、これもうまくいったら、王様プリンの数を増やしてもいい。なんなら、一日当たりの上限を三個から四個へと改定したっていいくらいだ。
環の隣に腰掛け、きれいに食べ終えられた皿を端に寄せる。
「環くん、こっちを見て」
「なに?」
「今から、僕の言う言葉をよく聞いててね」
催眠術にかかってくれない状態では、言えなかった。なに言ってんの? なんて真顔で返されたら、地球の内核に達するまで穴を掘って埋まりたくなる。それくらい、恥ずかしくて、勇気のいる言葉だったから。
「環くんは、僕に、キス……を、したくなる。環くんは僕とキスがしたくなる」
顔から火が出そうだ。今まで、こんなに緊張したことがあっただろうか?
「キスがしたくなる、キスがしたくなる……」
この一分たらずで〝キス〟を連呼している自分が恥ずかしい。でも、恥じらいに蓋をしてでも、キスがしたい。
「……そーちゃん」
「なに、……っ、ん、ん……」
強く抱き寄せられ、状況を理解するより早く、唇にやわらかいものが触れた。やわらかいけれど、少しかさついている。心臓はかつてないほどの大騒ぎ、耳はきんとして、目の奥は熱い。背中から汗が噴き出して、鼻息が相手の顔にかからないよう息を止められたかどうか――そもそも、鼻息って、止める? わからない。だって、キスなんてしたことないし。でも、鼻息がかかったら、気持ち悪いって思われそうだから、止めたほうがいい気がする。止め……息って、どうやって止めるんだっけ。今、止めてる? 苦しいから、たぶん、止めていると思う。たぶん。
お付き合いを始めて三ヵ月。いつになったらキスできるんだろうと思い悩んでいた。いくら環が恋愛に奥手とはいえ、部屋で二人きりなのに、手を繋いだりハグをしたりといったスキンシップだけで満足するとは思えない。自分から仕掛けてもよかったが、環からされたい気持ちのほうが強かった。
「んぁ、……」
息が苦しくて口を開こうとしたら、すかさず、舌が捻じ込まれる。こんなキスをするなんて、壮五の想定にない。
鼻息を止めるなんて考えもどこかにいって、ただ、環の舌が自分の口の中を愛撫するのを受け入れるしかできない。あ、そこはぞわぞわして、気持ちいいから、だめ。
「あっ、んん……っ」
飲み込みきれなかった唾液が顎を伝う。いくら二人きりとはいえ、共有で使っているリビングで、こんなこと。
「……はぁっ」
わけがわからなくなって、頭がくらくらしてきたところて、くちづけが解かれた。
催眠術ってすごい。でも、効き過ぎだ。
「そーちゃん」
「あ……」
環の顔が、また、近付いてくる。もう一回? そりゃあ、めちゃくちゃになりそうなくらいキスしたいってずっと思っていたけれど、本音をいえば、催眠術にかかった状態じゃなくて、正常な状態でキスがしたい。もっといい雰囲気になって、あわよくば、どちらかの部屋で――
「ばーか」
「痛っ」
――キス以上の行為に期待し始めた煩悩は、環の頭突きで砕かれた。
「チューしたいならしたいってちゃんと言って。催眠術とかねえから」
「……え」
だって、さっき、野菜食べてたじゃないか。――そう言いたいのに、声にならない。
「野菜食ったって? あんなの、催眠術とかなくても食うし。そーちゃんがつくってくれたの、俺、今までもちゃんと食ってただろ」
「確かに……」
壮五好みに味付けしたものも、環は唇が痛いと文句を言いながらも完食していた。おいしくないなら食べなくてもいいよと言ったのに、残さず食べてくれた。
「じゃあ、さっきのも、正常な状態で聞いてたってこと?」
「そうだけど」
――環くんは、僕に、キス……を、したくなる。環くんは僕とキスがしたくなる。
数分前の自分の言動を思い出し、今すぐ、地球の内核に達するまで穴を掘って埋まりたくなった。いや、それよりももっと手っ取り早い方法がある。
「介錯をお願いしてもいいかな。……いや、環くんにそんなことお願いできない。やっぱり自分で切腹するしか」
「やめろやめろ。物騒なこと考えんな」
「んっ……」
今度は押し当てるだけのキスで、すぐに離れた。
「催眠術とか切腹とか、そういうのやめて。そーちゃんがしたいこと、普通に言って」
「したいこと」
さっき砕かれたはずの煩悩が、一瞬にしてよみがえる。
「今日、誰もいないから。俺しか聞いてないし、見ないから。……あと、たぶん、俺も同じこと、期待してる……と、思う」
もっといい雰囲気になって、あわよくば、どちらかの部屋で――
「環くん、こっちを見て」
「またぁ? 何回言われたって、食えないもんは食えねえの!」
文句を言いながらも、壮五の特訓に付き合ってくれる気はあるようで、おもしろくなさそうな顔がこちらを向いた。
(う……格好いい……)
小鳥遊プロダクションに向かう道すがら出会った環は、誰よりも、顔を突き合わせている相手だ。SNSで「親の顔より見た○○」などと誇張した言い回しの投稿を見かけることがあるが、そういう誇張表現を一切抜きにしても、たぶん、親の顔より相方の顔を見ていると思う。実際、壮五の両親は多忙で、家にいないことが多かったし。……いや、もしかしたら、逢坂家の使用人の顔を見た回数には及ばないかもしれない。一刻も早く、顔を見た回数の記録を更新して、相方をトップにしなければ。
「なぁ、まだ?」
「あ……ごめんね。始めるよ」
顔がよ過ぎて本来の目的を失念するところだった。顔のいい人間は相手の思考を霧散させる効果をもたらすらしいと、心のメモに書きとめる。
今日も、どうやら効果の出てくれない「環くんは野菜が食べたくなる」の催眠術をかける特訓を始めた。
◇
特訓を始めて二ヵ月。壮五は目の前の光景を信じられないでいた。
「本当に……? 本当に、環くんが食べたの?」
今夜は寮に二人きり。学校に通いながら仕事をこなす環にご褒美をあげたくて、――あと、催眠術の効果を確かめたくて――夕食は環の好物をメインに、野菜を添えた。ジャガイモやニンジンといった、カレーやシチューにも使われるものは平気で食べてしまうからと、敢えて、出番の少ないブロッコリーやアスパラガスを使った。アスパラガスも、ベーコンで巻いた時しか食べてくれないのに、今日はそのまま焼いて皿の端に添えたものでも食べてくれたらしい。普段なら端に追いやられるブロッコリーも、皿から消えている。
「食ったけど。なんか、だめだった?」
「だめじゃない! すごい……すごいよ、環くん!」
ひと息ついたら、王様プリンを与えよう。甘い甘いプリンを食べて幸せだと喜ぶ顔が見たい。頑張って食べてくれたから、めちゃくちゃ甘やかしたい。
「そう? だって、野菜食べたくなるよって、あんたが言ったんじゃん」
「僕が……言ってたから?」
壮五の問いに、環はこくりと頷いた。……これって、つまり、催眠術がついに効果を発揮したということでは?
「我ながらすごいな……」
人心掌握術はこれでもかというほど父に教え込まれたが、催眠術に関してはズブのド素人だ。その自分が、インターネットで得た知識と、過去に主演した番組で催眠術をかけられた時の経験をもとに、相手にかけられるようになるなんて。やればできるなんて言葉は無責任な励ましなんかじゃない。やれば、できる。
「じゃ……じゃあ……」
催眠術をかけられるなら。環が、催眠術にかかってくれるなら。――ごくりと生唾を飲み込む。野菜が食べたくなると言い続けた環が、ついに、野菜を食べた。しかし、これはゴールではない。壮五が躍起になっていたのには、別の目的がある。
ひと息ついたら王様プリンを……なんて考えていたけれど、それはあとまわしだ。恐らく今も催眠術にかかった状態にあるはずの彼に、更に、言い聞かせたいことがある。
もし、これもうまくいったら、王様プリンの数を増やしてもいい。なんなら、一日当たりの上限を三個から四個へと改定したっていいくらいだ。
環の隣に腰掛け、きれいに食べ終えられた皿を端に寄せる。
「環くん、こっちを見て」
「なに?」
「今から、僕の言う言葉をよく聞いててね」
催眠術にかかってくれない状態では、言えなかった。なに言ってんの? なんて真顔で返されたら、地球の内核に達するまで穴を掘って埋まりたくなる。それくらい、恥ずかしくて、勇気のいる言葉だったから。
「環くんは、僕に、キス……を、したくなる。環くんは僕とキスがしたくなる」
顔から火が出そうだ。今まで、こんなに緊張したことがあっただろうか?
「キスがしたくなる、キスがしたくなる……」
この一分たらずで〝キス〟を連呼している自分が恥ずかしい。でも、恥じらいに蓋をしてでも、キスがしたい。
「……そーちゃん」
「なに、……っ、ん、ん……」
強く抱き寄せられ、状況を理解するより早く、唇にやわらかいものが触れた。やわらかいけれど、少しかさついている。心臓はかつてないほどの大騒ぎ、耳はきんとして、目の奥は熱い。背中から汗が噴き出して、鼻息が相手の顔にかからないよう息を止められたかどうか――そもそも、鼻息って、止める? わからない。だって、キスなんてしたことないし。でも、鼻息がかかったら、気持ち悪いって思われそうだから、止めたほうがいい気がする。止め……息って、どうやって止めるんだっけ。今、止めてる? 苦しいから、たぶん、止めていると思う。たぶん。
お付き合いを始めて三ヵ月。いつになったらキスできるんだろうと思い悩んでいた。いくら環が恋愛に奥手とはいえ、部屋で二人きりなのに、手を繋いだりハグをしたりといったスキンシップだけで満足するとは思えない。自分から仕掛けてもよかったが、環からされたい気持ちのほうが強かった。
「んぁ、……」
息が苦しくて口を開こうとしたら、すかさず、舌が捻じ込まれる。こんなキスをするなんて、壮五の想定にない。
鼻息を止めるなんて考えもどこかにいって、ただ、環の舌が自分の口の中を愛撫するのを受け入れるしかできない。あ、そこはぞわぞわして、気持ちいいから、だめ。
「あっ、んん……っ」
飲み込みきれなかった唾液が顎を伝う。いくら二人きりとはいえ、共有で使っているリビングで、こんなこと。
「……はぁっ」
わけがわからなくなって、頭がくらくらしてきたところて、くちづけが解かれた。
催眠術ってすごい。でも、効き過ぎだ。
「そーちゃん」
「あ……」
環の顔が、また、近付いてくる。もう一回? そりゃあ、めちゃくちゃになりそうなくらいキスしたいってずっと思っていたけれど、本音をいえば、催眠術にかかった状態じゃなくて、正常な状態でキスがしたい。もっといい雰囲気になって、あわよくば、どちらかの部屋で――
「ばーか」
「痛っ」
――キス以上の行為に期待し始めた煩悩は、環の頭突きで砕かれた。
「チューしたいならしたいってちゃんと言って。催眠術とかねえから」
「……え」
だって、さっき、野菜食べてたじゃないか。――そう言いたいのに、声にならない。
「野菜食ったって? あんなの、催眠術とかなくても食うし。そーちゃんがつくってくれたの、俺、今までもちゃんと食ってただろ」
「確かに……」
壮五好みに味付けしたものも、環は唇が痛いと文句を言いながらも完食していた。おいしくないなら食べなくてもいいよと言ったのに、残さず食べてくれた。
「じゃあ、さっきのも、正常な状態で聞いてたってこと?」
「そうだけど」
――環くんは、僕に、キス……を、したくなる。環くんは僕とキスがしたくなる。
数分前の自分の言動を思い出し、今すぐ、地球の内核に達するまで穴を掘って埋まりたくなった。いや、それよりももっと手っ取り早い方法がある。
「介錯をお願いしてもいいかな。……いや、環くんにそんなことお願いできない。やっぱり自分で切腹するしか」
「やめろやめろ。物騒なこと考えんな」
「んっ……」
今度は押し当てるだけのキスで、すぐに離れた。
「催眠術とか切腹とか、そういうのやめて。そーちゃんがしたいこと、普通に言って」
「したいこと」
さっき砕かれたはずの煩悩が、一瞬にしてよみがえる。
「今日、誰もいないから。俺しか聞いてないし、見ないから。……あと、たぶん、俺も同じこと、期待してる……と、思う」
もっといい雰囲気になって、あわよくば、どちらかの部屋で――