キスのお作法
俺は今、ある問題に直面している。
スマホのカレンダーアプリにこっそり登録した日付は今からおよそ一ヵ月前。ふとした弾みで周りに見られないよう、カテゴリ名は雨の絵文字ひとつにして、タップひとつでカテゴリごと非表示にできる。別に隠しごとしてるわけじゃないけど、俺たちにとって宝物みたいな日だから、こうしてるってだけ。
そう、一ヵ月経った。仕事で走り回ってたらまぁまぁ秒で駆け抜ける月日ではあるけど、冷静に考えたら一ヵ月って長い。一クールの連ドラは三分の一も話が進むし、ちょっとしたダイエットなら効果が目に見えてくる頃合いだと思う。
一ヵ月――ここ最近は気になり過ぎて、しょっちゅうスマホで検索しちゃう。検索したという事実が恥ずかしいから、読み終えたらすぐに検索履歴とブラウザの閲覧履歴は消す。別にエッチなことを検索してるわけじゃないけど、それに近い扱い。
今夜もあと少ししたら部屋デートかなと思いつつ、ベッドに寝転がる。今日こそ、今夜こそ……そんなふうに考えてたら、一ヵ月経ってた。眠る前に想像するのは、その日も知ることができなかった、好きなひとの温度。
やっぱり、思いきって言葉にすべきだよね。でも、幼馴染みだった期間のほうがまだまだ長いから、そういう話をするのに照れがある。そのせいでこんなに悩んでるんだけど。
〝……しないのかなぁ〟――心のなかで呟いた。
ちょっと強引な面もある可不可のことだから、お付き合いを始めたらすぐに迫ってきてもおかしくないと思ってた。そりゃあ、俺たちふたりとも経験ないし、アレでソレなことは時間をかけてゆっくりがいいけど、キス、くらいは……そろそろしてもいいんじゃないかなぁ!
ホワイトデーに可不可お手製のマカロンをいただいて、あとからマカロンに込められた意味を知ったのが先月のこと。可不可に改めてお礼を言ったら、なんだか怒ってるような顔をするものだから、ケンカになりかけた。なりかけたで留まれたのは「お兄ちゃんは子どもの頃から銀河一鈍感」と妹に言われてる俺でもわかるくらい、ダイレクトな言葉を言われたから。告白されちゃ、ケンカどころじゃないよね。
可不可は「売り言葉に買い言葉みたいな告白だけはしたくなかったのに」って頭を抱えてたけど、そうでもしてもらわないと、俺は一生気付かなかったと思う。二十数年の人生、俺は――学生時代に差出人不明のバレンタインチョコをもらったくらいしか――恋愛と縁がなかったから。
可不可が俺を好きでいてくれてるのがすごく嬉しくて、どきどきして、じゃあお付き合いしようと決めたのが、ケンカにならずに済んだその夜のこと。フィクションの恋愛作品でしか恋を知らなかった俺に、降って湧いたような初めての恋。可不可は「楓ちゃんのペースでいいからね」って言ってくれたけど、恋愛に縁がなかっただけで興味ゼロってわけじゃないから、次の日からスマホであれこれ検索した。今まで読みもしなかった恋愛コラムとか、スルーしてた恋愛運にいちいち情緒を乱されては、眠る前の部屋デートで見る可不可の表情に、どんどんときめくようになった。
好きって言われて好きになるなんて単純かもって悩んだ夜もある。でも、突き詰めて考えたら、可不可が特別なのは昔からだったし、あんなに熱烈な気持ちを傾けられてどきどきしないわけがない。普通に、好き。可不可と、恋人じゃなきゃしないことをしたいって思う。キスとか、いつかは、キス以上のアレソレとか。
それなのに、一ヵ月経っても部屋デートでおしゃべりするだけで、キスのキの字もない。顔が近付くとかもない。並んで座っておしゃべりして、日にちが変わる頃に「じゃあ、おやすみ」と言い合って終わり。話す内容が花より団子なのは俺のせいかもしれないけど、名残惜しそうな顔になることもなく、可不可は普通にすっと立ってすっと帰る。
別に無理してキスしてくれってわけじゃなくて、誰にもあげたことのないものをお互いに贈り合いたいんだ。そして知りたい。可不可のくちびるがどんな感触で、どんな温度なのか。
そろそろ本当に一歩進みたい。今夜こそ決めよう。可不可からこないなら、俺からいく。そのためにも、可不可が部屋にくるまでにもう一回イメトレしておかなくちゃ。
目の前の枕を可不可に見立てる。……こんなに四角くないけど、仕方ない。指で枕を何箇所かぐいぐい押して、とりあえず目や鼻をこのあたりにしようと決めた。くちびるはここ……と、そこだけは指で押さえないでおく。だって、くちびるには、指よりも自分のくちびるで触れたい。イメトレ中だから、これはただの枕だけど。
「……」
キスするときって、目、閉じるんだよね。たぶん。この前見た映画だと閉じてた。……あれ? どのタイミングで閉じてたっけ。わざわざキスシーンに着目したことないから思い出せない。でも、あまり早くからだと狙いを定められないだろうから、くちびるがくっつく寸前でいいのかな。いいってことにしよう。
枕に顔を近付けて、また、疑問が湧いた。息ってどれくらい前から我慢すればいい? 顔が近付いた時点で止めたほうがよさそうだけど、ずっとは止めてられない。何センチ前から呼吸って届くのかな。
枕は一旦端に寄せ、自分の手のひらを顔に近付けた。そのまま手だけを動かして、顔との距離をいろいろ試す。……だめだ、今の呼吸で出る息の量がキスするときと同じかどうかわからない。だってキスしたことないから。
こうなったら、数パターン試して、それぞれで息が気にならない距離を覚えておいて、実際のキスのときもそこに合わせるしかない。あと、自分が何秒までならしれっとした顔で息を止めてられるかもテストしておこう。……実際のときもうまくいくのかな? いや、テストしないよりはしておいたほうがいいのは確かだ。
キスって考えることだらけなんだなと学んだところで、ようやく、枕相手の練習に戻れることになった。まぁ、運転免許取るのだって学科と技能の両方が必要だし、なにごともそういうものだよね。
まず、顔を近付ける。ここまでは大丈夫。……そういえばドラマだと首を傾けてたのを思い出した。そうだよね、そうしなきゃ鼻がぶつかるもんね。鼻がぶつからないよう首を傾けて、ほどよく近付けたら息を止めて、……このあたりで目も閉じればいいかな? あれ? 今の呼吸の量ってどれくらい?
「なにしてるの?」
「ひぁっ!?」
驚き過ぎて枕を吹っ飛ばした。なになになに、どういうこと? どうして!? ――背中どころか全身から汗が一気に噴き出す。いや、本当にどうして?
「勝手に入ってごめんね。ノックしても返事がないし、鍵もかかってないし、どうしたのかなって」
「いや、いいよ……鍵開けてたの俺だから……」
鍵開いてるなら普通に入ってきていいよって言ってたのが、こんなところで裏目に出た。ううん、鍵もかけずにキスについて悶々と考えてた俺が悪い。普段、そういうことを調べて心のなかでわーわー騒ぐときはしっかりばっちり鍵かけるのに、どうして今夜に限って鍵かけずにやっちゃったかな……。
あさっての方向へ元気よく飛んでいった枕はクローゼットの前に落ちたらしい。可不可に当たらなくてよかった。よかったけど、俺の心臓は今もどくどく大きな音を立ててる。どうしよう、この場をどうやって切り抜けばいい?
「可不可、鍵……」
苦しまぎれにしても、もう少しましなこと言いなよ。――自分で自分にそう思ったけど、案の定、可不可も「なに言ってるの」って顔をした。
「かけたに決まってるでしょ。お部屋デートのときは毎回かけてるの、楓ちゃんだって気付いてるくせに」
知ってる。可不可が部屋を訪ねてくれて、俺が迎え入れたら、いつも後ろ手に鍵をかけてるよね。誰にも邪魔させないといわんばかりのその行動に、可不可って本当に俺のことが好きなんだなぁって、こっそりときめいてた。
「ね、なにしてたの」
「えーっと……」
今夜決めるつもりだった。手を握って、内緒話をするみたいに「キスしようよ」って格好よく誘うつもりだった。可不可はきっとリードしたがるから、誘ったあとは可不可にお任せしようかななんて想像もしてた。初めてのキスは一生に一度しかないからこそ、格好よく、ロマンチックに決めたかったんだ。
「僕、枕の何億倍も格好いいと思うんだけど」
「それはそう、って、あの」
可不可がベッドに乗り上げてきた。待ってよ、まだキスもしてないのに、もしかして一気に進んじゃうの?
冷や汗だらだらで目も頭もぐるぐる、心のなかでわーわー騒ぎっぱなしの俺に、可不可はどんどん距離を詰めてくる。ベッドどころか俺に覆いかぶさってきて、まんまと押し倒されちゃった。これはいよいよ本当に、アレでソレな展開に……? 寝支度は済ませてるけど、アレでソレなことに必要なものはさすがにまだ買ってないし、なにより心の準備がそこまでできてない。いや、可不可がしたいって思ってくれてるなら、俺もいずれはそのつもりでいるわけだし、最後までは無理でも途中までとか? ……途中って、どこまで!?
「ふふ、いっぱいいっぱいって顔」
頬に触れる手が、いつもより熱い。でも、それ以上に俺の頬が熱を帯びてるらしく、可不可の手が心地よくて、意識をそちらに傾けた。
「この一ヵ月で、自分でもびっくりするくらい可不可のこと大好きになったんだよ。いっぱいいっぱいにもなる……」
可不可の手が気持ちいい。まだ触れててほしいな。ねだる気持ちが強くて、目を開けていられない。
「そんな顔してると、キスしちゃうよ」
「……してよ」
言い終わるが早いか、くちびるにやわらかいものがぶつかってきた。優しく押し当ててくると思ってたんだけど、こんなところでも強引みたい。
あーあ、もっと格好よく提案するつもりだったのに、おねだりになっちゃった。目は閉じてたけど、息を止めるのは間に合わなかったな。
「……可不可、もう一回」
そんなにすぐにくちびるが離れるの、いやだよ。――吐息がかかるのも気にせず、可不可を抱き寄せて、今度は自分からくちびるをくっつけた。
くちびるだけじゃものたりない。今までで一番強いハグもしたい。背中に回した腕を、掻き抱くみたいに動かす。
「楓ちゃん……、口、開けられる?」
薄くくちびるを開いたら、舌が恐る恐る入ってきた。……可不可、ちょっと強がってるんだ。そりゃそうだよね、俺たち、初めて同士だし。
息がかかるとかかからないとか気にする余裕がない。おっかなびっくりで入ってきたくせに俺の口のなかを舐め尽くすんじゃないかってくらい動くそれに、必死で応える。俺も舌を絡ませてみたり、舐めてもらいやすいようわざと舌の動きを止めてみたり……上顎を舌先で舐められるのが特にくすぐったくて、じっとしてたいのに体がぴくぴく跳ねる。恥ずかしいところがむずむずしそう。
そういえば、俺はキスする前に目を閉じちゃったから、可不可がちゃんと狙いを定めてくれたんだよね。俺、変な顔になってなかったかな。可不可は、どんな顔で俺にキスしたのかな。
絶対に焦点が合わせにくいのをわかってて、薄っすらと目を開く。案の定、至近距離過ぎてなにがなんだかわからないけど、可不可の睫毛だけはわかった。……可不可も、今は目を閉じてるんだ。
口のなかを舐めてたかと思いきや、今度は何度もリップ音を立てて浅いキスをしてきた。離れたかと思えばまたすぐくっつく、磁石遊びしてるみたい。
「なに笑ってるの」
「んん……かわいいなぁって、あ、ちょっと……」
俺たちのくっつく音がかわいいって話なのに、なにを誤解したのか、可不可はまた舌を使ったキスに戻っちゃった。
「ふぁ、っ……ん、ん……っ」
さっきの今で俺がくすぐったがるところをちゃっかり学んだらしく、そこばかりを責められる。どうしよう、めちゃくちゃ気持ちいい。ひと晩中キスしてられるかも……いや、そんなにキスしてたら、くちびるがふやけちゃうから、ひと晩中はなしで。したい気持ちはあるけどね。
「あ、かふ、か……っ」
ようやく解放されたときには、俺の息は完全に上がってたし、熱に浮かされたみたいに頭がぼんやりしてた。
「……色っぽい顔。それ、絶対に僕以外の前でしちゃだめだよ」
「しないよ……」
色っぽいかはさておき、可不可としかこんなことしないんだから、見せるわけがない。可不可だって、その顔、俺以外には見せないでほしいな。
ちょっといろいろあって起き上がれないから、可不可には隣に寝転がってもらった。イメトレの効果はたぶん発揮できなかったけど、今夜こそっていう俺の願いは無事叶ったわけだ。
「……全然、そういう気配なかったよね」
毎日普通の顔でいたくせに、気持ちが熱烈だと、キスも熱烈なのかな。それなら、これからもずっと好きでいてもらいたい。好きと思ってもらえる俺でいよう。
「まぁね。楓ちゃんのことは大事にしたいし」
「大事にしてもらってるよ?」
それに、手を出さないことが大事にするってことじゃないよね。それくらい、俺でもわかる。
「あとは、まぁ……歯止めが利かなくなると困るでしょ?」
言葉の意味するところを察して、また、顔が熱くなった。でも、可不可はひとつだけ間違ってる。
「こま、るけど、困らないよ。今はさすがにだけど、その、俺だって、いつかは……みたいなこと、よく考えてるし……」
「……ふーん?」
え? なに? 俺、なにか変なこと言った?
「よく考えてるんだ? ……ね、どんなことを、どれくらい考えてるの」
「あ……」
うそや隠しごとがちょっとへたな自覚はあるけど、今のは墓穴を掘ったってやつだ。これじゃあ、俺、ただの……いや、違う、違うんだよ可不可。俺は決してムッツリスケベじゃないはずだ。
「後学のために聞いておきたいな」
にこにこにこにこ。可不可の周りにそんな効果音が書いてあるような気がする。
「こ、今度ね……もう少し、キスに慣れたら……」
さすがに今夜はキャパオーバーだよ。――降参のつもりで両手を軽く挙げたら可不可がまた笑った。
スマホのカレンダーアプリにこっそり登録した日付は今からおよそ一ヵ月前。ふとした弾みで周りに見られないよう、カテゴリ名は雨の絵文字ひとつにして、タップひとつでカテゴリごと非表示にできる。別に隠しごとしてるわけじゃないけど、俺たちにとって宝物みたいな日だから、こうしてるってだけ。
そう、一ヵ月経った。仕事で走り回ってたらまぁまぁ秒で駆け抜ける月日ではあるけど、冷静に考えたら一ヵ月って長い。一クールの連ドラは三分の一も話が進むし、ちょっとしたダイエットなら効果が目に見えてくる頃合いだと思う。
一ヵ月――ここ最近は気になり過ぎて、しょっちゅうスマホで検索しちゃう。検索したという事実が恥ずかしいから、読み終えたらすぐに検索履歴とブラウザの閲覧履歴は消す。別にエッチなことを検索してるわけじゃないけど、それに近い扱い。
今夜もあと少ししたら部屋デートかなと思いつつ、ベッドに寝転がる。今日こそ、今夜こそ……そんなふうに考えてたら、一ヵ月経ってた。眠る前に想像するのは、その日も知ることができなかった、好きなひとの温度。
やっぱり、思いきって言葉にすべきだよね。でも、幼馴染みだった期間のほうがまだまだ長いから、そういう話をするのに照れがある。そのせいでこんなに悩んでるんだけど。
〝……しないのかなぁ〟――心のなかで呟いた。
ちょっと強引な面もある可不可のことだから、お付き合いを始めたらすぐに迫ってきてもおかしくないと思ってた。そりゃあ、俺たちふたりとも経験ないし、アレでソレなことは時間をかけてゆっくりがいいけど、キス、くらいは……そろそろしてもいいんじゃないかなぁ!
ホワイトデーに可不可お手製のマカロンをいただいて、あとからマカロンに込められた意味を知ったのが先月のこと。可不可に改めてお礼を言ったら、なんだか怒ってるような顔をするものだから、ケンカになりかけた。なりかけたで留まれたのは「お兄ちゃんは子どもの頃から銀河一鈍感」と妹に言われてる俺でもわかるくらい、ダイレクトな言葉を言われたから。告白されちゃ、ケンカどころじゃないよね。
可不可は「売り言葉に買い言葉みたいな告白だけはしたくなかったのに」って頭を抱えてたけど、そうでもしてもらわないと、俺は一生気付かなかったと思う。二十数年の人生、俺は――学生時代に差出人不明のバレンタインチョコをもらったくらいしか――恋愛と縁がなかったから。
可不可が俺を好きでいてくれてるのがすごく嬉しくて、どきどきして、じゃあお付き合いしようと決めたのが、ケンカにならずに済んだその夜のこと。フィクションの恋愛作品でしか恋を知らなかった俺に、降って湧いたような初めての恋。可不可は「楓ちゃんのペースでいいからね」って言ってくれたけど、恋愛に縁がなかっただけで興味ゼロってわけじゃないから、次の日からスマホであれこれ検索した。今まで読みもしなかった恋愛コラムとか、スルーしてた恋愛運にいちいち情緒を乱されては、眠る前の部屋デートで見る可不可の表情に、どんどんときめくようになった。
好きって言われて好きになるなんて単純かもって悩んだ夜もある。でも、突き詰めて考えたら、可不可が特別なのは昔からだったし、あんなに熱烈な気持ちを傾けられてどきどきしないわけがない。普通に、好き。可不可と、恋人じゃなきゃしないことをしたいって思う。キスとか、いつかは、キス以上のアレソレとか。
それなのに、一ヵ月経っても部屋デートでおしゃべりするだけで、キスのキの字もない。顔が近付くとかもない。並んで座っておしゃべりして、日にちが変わる頃に「じゃあ、おやすみ」と言い合って終わり。話す内容が花より団子なのは俺のせいかもしれないけど、名残惜しそうな顔になることもなく、可不可は普通にすっと立ってすっと帰る。
別に無理してキスしてくれってわけじゃなくて、誰にもあげたことのないものをお互いに贈り合いたいんだ。そして知りたい。可不可のくちびるがどんな感触で、どんな温度なのか。
そろそろ本当に一歩進みたい。今夜こそ決めよう。可不可からこないなら、俺からいく。そのためにも、可不可が部屋にくるまでにもう一回イメトレしておかなくちゃ。
目の前の枕を可不可に見立てる。……こんなに四角くないけど、仕方ない。指で枕を何箇所かぐいぐい押して、とりあえず目や鼻をこのあたりにしようと決めた。くちびるはここ……と、そこだけは指で押さえないでおく。だって、くちびるには、指よりも自分のくちびるで触れたい。イメトレ中だから、これはただの枕だけど。
「……」
キスするときって、目、閉じるんだよね。たぶん。この前見た映画だと閉じてた。……あれ? どのタイミングで閉じてたっけ。わざわざキスシーンに着目したことないから思い出せない。でも、あまり早くからだと狙いを定められないだろうから、くちびるがくっつく寸前でいいのかな。いいってことにしよう。
枕に顔を近付けて、また、疑問が湧いた。息ってどれくらい前から我慢すればいい? 顔が近付いた時点で止めたほうがよさそうだけど、ずっとは止めてられない。何センチ前から呼吸って届くのかな。
枕は一旦端に寄せ、自分の手のひらを顔に近付けた。そのまま手だけを動かして、顔との距離をいろいろ試す。……だめだ、今の呼吸で出る息の量がキスするときと同じかどうかわからない。だってキスしたことないから。
こうなったら、数パターン試して、それぞれで息が気にならない距離を覚えておいて、実際のキスのときもそこに合わせるしかない。あと、自分が何秒までならしれっとした顔で息を止めてられるかもテストしておこう。……実際のときもうまくいくのかな? いや、テストしないよりはしておいたほうがいいのは確かだ。
キスって考えることだらけなんだなと学んだところで、ようやく、枕相手の練習に戻れることになった。まぁ、運転免許取るのだって学科と技能の両方が必要だし、なにごともそういうものだよね。
まず、顔を近付ける。ここまでは大丈夫。……そういえばドラマだと首を傾けてたのを思い出した。そうだよね、そうしなきゃ鼻がぶつかるもんね。鼻がぶつからないよう首を傾けて、ほどよく近付けたら息を止めて、……このあたりで目も閉じればいいかな? あれ? 今の呼吸の量ってどれくらい?
「なにしてるの?」
「ひぁっ!?」
驚き過ぎて枕を吹っ飛ばした。なになになに、どういうこと? どうして!? ――背中どころか全身から汗が一気に噴き出す。いや、本当にどうして?
「勝手に入ってごめんね。ノックしても返事がないし、鍵もかかってないし、どうしたのかなって」
「いや、いいよ……鍵開けてたの俺だから……」
鍵開いてるなら普通に入ってきていいよって言ってたのが、こんなところで裏目に出た。ううん、鍵もかけずにキスについて悶々と考えてた俺が悪い。普段、そういうことを調べて心のなかでわーわー騒ぐときはしっかりばっちり鍵かけるのに、どうして今夜に限って鍵かけずにやっちゃったかな……。
あさっての方向へ元気よく飛んでいった枕はクローゼットの前に落ちたらしい。可不可に当たらなくてよかった。よかったけど、俺の心臓は今もどくどく大きな音を立ててる。どうしよう、この場をどうやって切り抜けばいい?
「可不可、鍵……」
苦しまぎれにしても、もう少しましなこと言いなよ。――自分で自分にそう思ったけど、案の定、可不可も「なに言ってるの」って顔をした。
「かけたに決まってるでしょ。お部屋デートのときは毎回かけてるの、楓ちゃんだって気付いてるくせに」
知ってる。可不可が部屋を訪ねてくれて、俺が迎え入れたら、いつも後ろ手に鍵をかけてるよね。誰にも邪魔させないといわんばかりのその行動に、可不可って本当に俺のことが好きなんだなぁって、こっそりときめいてた。
「ね、なにしてたの」
「えーっと……」
今夜決めるつもりだった。手を握って、内緒話をするみたいに「キスしようよ」って格好よく誘うつもりだった。可不可はきっとリードしたがるから、誘ったあとは可不可にお任せしようかななんて想像もしてた。初めてのキスは一生に一度しかないからこそ、格好よく、ロマンチックに決めたかったんだ。
「僕、枕の何億倍も格好いいと思うんだけど」
「それはそう、って、あの」
可不可がベッドに乗り上げてきた。待ってよ、まだキスもしてないのに、もしかして一気に進んじゃうの?
冷や汗だらだらで目も頭もぐるぐる、心のなかでわーわー騒ぎっぱなしの俺に、可不可はどんどん距離を詰めてくる。ベッドどころか俺に覆いかぶさってきて、まんまと押し倒されちゃった。これはいよいよ本当に、アレでソレな展開に……? 寝支度は済ませてるけど、アレでソレなことに必要なものはさすがにまだ買ってないし、なにより心の準備がそこまでできてない。いや、可不可がしたいって思ってくれてるなら、俺もいずれはそのつもりでいるわけだし、最後までは無理でも途中までとか? ……途中って、どこまで!?
「ふふ、いっぱいいっぱいって顔」
頬に触れる手が、いつもより熱い。でも、それ以上に俺の頬が熱を帯びてるらしく、可不可の手が心地よくて、意識をそちらに傾けた。
「この一ヵ月で、自分でもびっくりするくらい可不可のこと大好きになったんだよ。いっぱいいっぱいにもなる……」
可不可の手が気持ちいい。まだ触れててほしいな。ねだる気持ちが強くて、目を開けていられない。
「そんな顔してると、キスしちゃうよ」
「……してよ」
言い終わるが早いか、くちびるにやわらかいものがぶつかってきた。優しく押し当ててくると思ってたんだけど、こんなところでも強引みたい。
あーあ、もっと格好よく提案するつもりだったのに、おねだりになっちゃった。目は閉じてたけど、息を止めるのは間に合わなかったな。
「……可不可、もう一回」
そんなにすぐにくちびるが離れるの、いやだよ。――吐息がかかるのも気にせず、可不可を抱き寄せて、今度は自分からくちびるをくっつけた。
くちびるだけじゃものたりない。今までで一番強いハグもしたい。背中に回した腕を、掻き抱くみたいに動かす。
「楓ちゃん……、口、開けられる?」
薄くくちびるを開いたら、舌が恐る恐る入ってきた。……可不可、ちょっと強がってるんだ。そりゃそうだよね、俺たち、初めて同士だし。
息がかかるとかかからないとか気にする余裕がない。おっかなびっくりで入ってきたくせに俺の口のなかを舐め尽くすんじゃないかってくらい動くそれに、必死で応える。俺も舌を絡ませてみたり、舐めてもらいやすいようわざと舌の動きを止めてみたり……上顎を舌先で舐められるのが特にくすぐったくて、じっとしてたいのに体がぴくぴく跳ねる。恥ずかしいところがむずむずしそう。
そういえば、俺はキスする前に目を閉じちゃったから、可不可がちゃんと狙いを定めてくれたんだよね。俺、変な顔になってなかったかな。可不可は、どんな顔で俺にキスしたのかな。
絶対に焦点が合わせにくいのをわかってて、薄っすらと目を開く。案の定、至近距離過ぎてなにがなんだかわからないけど、可不可の睫毛だけはわかった。……可不可も、今は目を閉じてるんだ。
口のなかを舐めてたかと思いきや、今度は何度もリップ音を立てて浅いキスをしてきた。離れたかと思えばまたすぐくっつく、磁石遊びしてるみたい。
「なに笑ってるの」
「んん……かわいいなぁって、あ、ちょっと……」
俺たちのくっつく音がかわいいって話なのに、なにを誤解したのか、可不可はまた舌を使ったキスに戻っちゃった。
「ふぁ、っ……ん、ん……っ」
さっきの今で俺がくすぐったがるところをちゃっかり学んだらしく、そこばかりを責められる。どうしよう、めちゃくちゃ気持ちいい。ひと晩中キスしてられるかも……いや、そんなにキスしてたら、くちびるがふやけちゃうから、ひと晩中はなしで。したい気持ちはあるけどね。
「あ、かふ、か……っ」
ようやく解放されたときには、俺の息は完全に上がってたし、熱に浮かされたみたいに頭がぼんやりしてた。
「……色っぽい顔。それ、絶対に僕以外の前でしちゃだめだよ」
「しないよ……」
色っぽいかはさておき、可不可としかこんなことしないんだから、見せるわけがない。可不可だって、その顔、俺以外には見せないでほしいな。
ちょっといろいろあって起き上がれないから、可不可には隣に寝転がってもらった。イメトレの効果はたぶん発揮できなかったけど、今夜こそっていう俺の願いは無事叶ったわけだ。
「……全然、そういう気配なかったよね」
毎日普通の顔でいたくせに、気持ちが熱烈だと、キスも熱烈なのかな。それなら、これからもずっと好きでいてもらいたい。好きと思ってもらえる俺でいよう。
「まぁね。楓ちゃんのことは大事にしたいし」
「大事にしてもらってるよ?」
それに、手を出さないことが大事にするってことじゃないよね。それくらい、俺でもわかる。
「あとは、まぁ……歯止めが利かなくなると困るでしょ?」
言葉の意味するところを察して、また、顔が熱くなった。でも、可不可はひとつだけ間違ってる。
「こま、るけど、困らないよ。今はさすがにだけど、その、俺だって、いつかは……みたいなこと、よく考えてるし……」
「……ふーん?」
え? なに? 俺、なにか変なこと言った?
「よく考えてるんだ? ……ね、どんなことを、どれくらい考えてるの」
「あ……」
うそや隠しごとがちょっとへたな自覚はあるけど、今のは墓穴を掘ったってやつだ。これじゃあ、俺、ただの……いや、違う、違うんだよ可不可。俺は決してムッツリスケベじゃないはずだ。
「後学のために聞いておきたいな」
にこにこにこにこ。可不可の周りにそんな効果音が書いてあるような気がする。
「こ、今度ね……もう少し、キスに慣れたら……」
さすがに今夜はキャパオーバーだよ。――降参のつもりで両手を軽く挙げたら可不可がまた笑った。