未来に続いてるよ
その場で謝るべきだったのにできなかったのは、感情的になり過ぎてたから。俺もだけど、可不可も感情的になってた。これ以上話してても埒が明かないって、お互いにそっぽを向くみたいに、それぞれの部屋に戻ったんだ。
でも、ヒートアップした感情は、時間が経てばそれなりに自己分析できる。そう、俺は今、数時間前の自分の言動に、すっごく後悔してる。そのせいで、なかなか眠れない。ケンカするほど仲がいいなんて言葉があるけど、しないに越したことはないと思う。少なくとも俺は、仲良くしてたい。
もしかしたら可不可も今頃そう思ってくれてるかな。メッセージだけでも送る? ――スマホに手を伸ばして、いや、謝るのに顔を見ないのはいやだなと思った。可不可が入院してた頃はそういう仲直りもあったけど、今は毎日顔を合わせられるんだから、顔を見て謝りたい。
草木も眠る丑三つ時、寅部屋に突撃するわけにはいかないから、朝一番で謝りに行こう。過保護な可不可は、俺が目の下に隈をつくったら心配するに決まってる。ちょっとでも眠っておかなきゃ。
「――ちゃん」
「んん……」
アラームの代わりに俺の名前を呼ぶ声が聞こえて、ベッドのなかでもぞもぞと寝返りを打つ。いつの間にか眠れてたとはいえ、普通に寝不足だから、なかなか目が開かないな。
寝不足……そうだ。朝一番で可不可に謝りに行くんだった。うんうん悩んで寝付けなかったんだった。ねぼすけしてる場合じゃない。可不可が朝ごはんを食べにダイニングへ向かうまでに仲直りしよう。早く身支度しなきゃ。勢いよく布団をめくったら、なぜか「わっ」て声がした。え、なに?
「……可不可?」
声の主は、昨日の夜ケンカした相手。確かに、可不可はこの部屋の合鍵を持ってるけど、俺の許可なく合鍵で部屋に入ってくるようなひとじゃない。それは、ケンカしたままであってもだ。
それに、なんだか……なんだろう、うまくいえないけど、違和感がある。どうしてここに? いや、それよりももっと訊かなきゃならないことがあるような気がするんだ。
でも、それよりも、まずは謝罪からだよね。謝って、じゃあどうするのって訊かれたら、そこはまだうまく答えを出せてないって正直に言おう。
心を決めて、可不可に向き直る。すると、可不可は顔を近付けて――
「おはよう、楓ちゃん」
――頬にくちびるをくっつけてきた。くちびるが離れた瞬間に、キスされたんだって、自覚した。
「か、可不可、今の……」
思わず頬を押さえたのは、離れたのを惜しむからじゃない。可不可に今みたいなことをされたことがなかったから、唯一の証拠を押さえるみたいに手が動いただけ。
「ん? ……あぁ、ごめんね、いつもの癖が出ちゃった」
いつもの癖? 俺、可不可にこんなことされた覚えないんだけど。それとも、俺じゃない誰かにこういうことしてるってこと?
「えぇと、可不可」
違和感がどんどん強くなる。なに、なにが違う? あまりひとをじろじろ見るもんじゃないけど、可不可の頭のてっぺんからゆっくりと視線を下ろしていく。
「あれっ? ピアス変えた?」
いつもはダイヤ型のものを、片耳にだけつけてる。そういうの持ってたっけ? 持ちものすべてを把握してるわけじゃないのに、そんなことを思った。
「これはね、プレゼントにもらったんだ」
「そう、なんだ」
可不可の細い指が、ピアスをなぞる。なんか、いやだな。プレゼントだっていう可不可の表情に、もやもやした。……どうして?
「そんな顔しないで。キミが不安がるようなことはなにもないよ」
可不可の手が伸びてきて、思わず身構える。さっきみたいに頬にキスされたら、たまったものじゃない。
「こら、警戒しない。……って言っても、難しいかな?」
身構えた俺を気遣ってか、可不可は顔を近付けることはせず、頭を撫でてきた。なんか、いつもと逆じゃない? 別に、可不可を子ども扱いしてるわけじゃないけど、普段はもっとこう、俺のほうが年上って感じがちゃんと出てるのに、これじゃあ、まるで――
「なんだか、可不可がいつもより大人っぽい……」
――俺のほうが年下みたい。そんなことあるわけないのに。
「あっはっは! 言い得て妙だ。楓ちゃんって、そういうところだけは鋭いよね」
〝だけは〟ってなに。もしかして、ちょっとばかにしてない? むっとして、言い返そうと睨み付ける。あぁ、朝一番で仲直りしようって思ってた俺はどこへいったんだ。謝るタイミング、逃しっぱなし。
「僕はね、楓ちゃんにこそ、大人だねって思われたかったんだよ」
そう言って、可不可が俺の腕を引っ張る。抵抗する間もなく、まんまと可不可の膝の上に座らされた。
「お、重いでしょ」
腰を浮かせようとしても、可不可の腕がしっかり俺をホールドしてて、体重をかけてしまってる。太ってるとは思わないけど、ここ数日、いろいろ食べ過ぎた自覚があるんだよね。
「全然? 退院してから数年がかりで鍛えたから。お姫様抱っこはまだできないけど、今の僕は、これくらい平気だよ」
「数年!?」
可不可が退院してからの月日と、全然計算が合わない。どういうこと?
「今の僕が楓ちゃんより年上なのは本当。だからピアスも変わってるし、キミをこうして抱っこもできる。なによりの証拠だよ」
そんなこと言われても、すんなりと受け入れられない。でも、可不可の言うとおり、昨日の夜まで一緒にいた可不可と、目の前にいる可不可は同じじゃないってわかる。鍛えたとか大人っぽいとかもそうだけど、身に纏う雰囲気が、……やけに、色っぽいんだ。
混乱する頭のなか、ふと、都市伝説レベルで囁かれてる噂を思い出した。
「タイムマシンが完成してるってうわさ、本当だったんだ?」
「そのへんは僕が答えるわけにはいかないけど、少なくとも、今、僕がここにいるのはタイムマシンを使ったわけじゃないよ。詳しいことは今の僕がいずれ辿り着くはずだし、キミも必然的に知るだろうから、この話はやめておこう」
思いっきりはぐらかされた。でも、確かに、未来の人間が過去の人間にあれこれ話すのって――子どもの頃に見た映画の受け売りだけど――よくないことだよね。
「……目の前の可不可が数年後の可不可ってのはとりあえず信じることにするけど、じゃあ、俺と子どもの頃から一緒にいた可不可は?」
昨日の夜、ケンカしたままだ。ううん、いつもどおり仲良く「おやすみ」って言い合えてたとしても、俺は、あの可不可がいないなんていやだよ。子どもの頃は家の事情もあってずっと一緒にいられたわけじゃない。それを歯がゆく思ったこともある。可不可の傍にいてあげたくて、できるだけJPNに長くいられる進路を選んだくらいには――
「可不可のこと、返して……」
――俺は、可不可のことが大好きなんだ。
「泣かないで。別に、僕が取り上げたわけじゃない」
俺より年上らしい可不可の指が目の近くに触れて、俺は、自分が泣いてることに気付いた。
「だって、昨日、ケンカしたままで、……俺がわかんなかったからだめなのに、ちゃんと謝らなきゃ」
可不可に好きだって言われた。子どもの頃からずっと好きだったって。それを、俺は子どもの頃からの付き合いだからねって言葉で返しちゃったんだ。幼馴染みの延長じゃないって言われたのに、本気で取り合おうとしなかった。可不可が怒るのも無理はないよ。受け止める勇気が俺になかったのが原因なのに、可不可の本気をうやむやにしようとしたんだから。
「どうしよう、可不可。俺、可不可のこと、大好きなのに、傷付けた……」
早く会って謝りたい。そして、俺も大好きだよって言わなきゃ。この〝大好き〟が、可不可が思うようなおそろいの気持ちかは断言できないけど、可不可の本気の言葉をちゃんと受け止めるよって言いたい。
「泣くほど、好き?」
「好きだよ……」
「僕が将来、キミじゃないひとといたら、どう思う?」
……目の前の可不可が、今までとは違うピアスをしてるのを見て、もやもやした。しかも、誰かからのプレゼントだっけ?
「それは、可不可が着けてるそのピアスをくれたひとのこと?」
俺じゃない誰かからのプレゼントを身に着けて、俺の頬にキスなんてしないでよ。もやもやが、いらだちに変わる。……俺だったら、いいのに。
「どうかな。僕は、恋人からのプレゼントとはひとことも言ってないよ」
確かに、そうだ。それなのに、俺は未来の可不可には特別なひとがいて、そのひとが可不可にピアスを贈ったって早合点した。どうして、俺の思考回路はそんなルートを辿ったんだろう。
「さっきの質問。今の楓ちゃんは、昨日までずっと一緒にいた僕と、これからも一緒にいたいって思う?」
「それは……思うよ」
子どもの頃、一生一緒に遊ぼうって約束したし。――そう続けると、可不可は「そうじゃなくて」とやんわり否定した。
「幼い頃の約束を覚えて、守ろうとしてくれてるのは嬉しいよ。でも、心までは約束で縛れないものだと思うんだ。そのうえで、考えてみて。キミより年上の僕を見て、なにを思った? もやもや、いらだち……その根底にあるのは、なに?」
根底にあるものって言われたって、このもやもやとかいらだちは、たった今、出てきたものだ。
「わかんないよ。可不可が大好きってことしかわかんない。可不可のこと、返して」
あぁ、これじゃまるで駄々っ子だ。いい年した大人が情けない。こんな情けないところ、可不可に見せたくないのに。
「ごめん、答えを急ぎ過ぎたね。僕もそろそろ戻らないといけないから、つい」
「え、戻るって」
「さっきの答え。キミが大事に想ってくれてる僕は、僕と入れ替わりで未来にいるよ。きっと、いろいろと驚いてるんじゃないかな。そろそろ戻らないと、彼も、あの子も、困っちゃうからね」
年上の可不可はちょっといじわるだ。俺の心にもやもやの種ばかり植えていく。
「あの子って、そのピアスの贈り主?」
恋人からのプレゼントとは言ってないって言ってたけど、可不可の表情を見てればわかる。もらって嬉しかったって。相手のことが特別だって、顔に書いてるよ。
今の可不可は――昨日、教えてくれたけど――俺のことが好きだって言ってた。その気持ちは、未来にも続いてるのかな。
「あはは、この数分でずいぶんとやきもち妬きになったね。それ、今の僕に少しだけ見せてあげたら? 飛び上がるくらい喜ぶんじゃない? ……ひとつだけ、僕が昔してもらえたように、お膳立てしてあげるからさ」
お膳立て? 尋ねるより早く、可不可の姿が揺らぐ。……違う、俺の視界が揺らいでるんだ。頭のなかがぼんやりしていく。意識が薄れてくって、こういう感じなのかも。
「待ってよ、まだ訊きたいこと、あるのに……」
なんとか声を絞り出した俺に、未来の可不可がなんて言ったはわからない。今の可不可と話すべきだというアドバイスだったかもしれないし、わがままな俺を宥めるみたいに「だめ」とだけ言ったのかもしれない。わかったのは、次に意識を取り戻したときには、未来の可不可はいるべき場所に帰ってて、今の可不可が戻ってきてくれてるはずってこと。
そこからしばらくして、いきなり意識が浮上する感覚に、俺は勢いよく飛び起きた。
「っ、……あれ?」
寝てた? いや、さっき起きて、可不可に謝りに行こうと思ったら、未来の可不可がいて、……あれは、夢?
未来の可不可にキスされた頬を押さえる。感触なんて残ってるかどうかもわからない。夢だったのかもしれないし。
とにかく、今、俺がすべきことは、あれが夢だったかどうかの検証じゃなくて、一分一秒でも早く可不可に謝りに行くこと。
ベッドから降りようとして、あれ? と気付く。
「可不可……」
ベッドの端に突っ伏してる。背中がわずかに上下してるから、寝てるだけなんだとわかった。……今の可不可、だよね?
「可不可、可不可。起きて」
恐る恐る肩を揺らす。少し呻いたあと、可不可がゆっくりと瞼を開いた。大丈夫かな。視線を同じ高さにしたくて、ベッドから急いで降りる。
「あれ、僕……、……あ」
きょろきょろと周りを見て、自分が寅部屋じゃなく俺の部屋にいることに気付いたのか、かーっと顔を赤らめた。
「おはよう、可不可。それから……昨日はごめんなさい」
「楓ちゃん……」
「好きって言ってくれて嬉しかった。それなのに、昔から一緒にいるからねなんて軽くあしらうようなことして、可不可のこと傷付けたよね」
どうしよう、目の奥が熱い。あ、泣きそう。慌てて俯く。
「俺、俺も……可不可が想ってくれてるようなのと同じかはわかんないけど、もしも可不可が将来、俺じゃないひとといたらいやだなって思うくらいには、大好きだよ」
顔が熱い。これって告白なのかな。俺のこれは、可不可とおそろいの気持ち? やっぱりちゃんとは断言できないけど、昨日の可不可も、きっと、今の俺みたいに顔が熱くなってたんだと思うと、俺の気持ちも、可不可のと限りなく近い気がするんだ。可不可は、どう思う?
「……夢を、見たんだ」
「夢?」
「でも、寅部屋にいたはずの僕がいつの間にかここにいるってことは、夢じゃなかったのかも」
それって、もしかして。――もう一度、頬を手で押さえる。やっぱり感触は思い出せないけど、たぶん、あれは現実だったんだ。
「どこかの部屋に、今よりさらにきれいになった楓ちゃんがいて、……部屋のカレンダーが、今より七年先だった」
「七年……」
じゃあ、年上だよって言ってたあの可不可は、二十七歳ってこと? そりゃあ、大人っぽいわけだよね。
「あまり詳しくは教えてもらえなかったけど、すごく幸せそうで……この顔をさせてるのが僕ならいいのにって言っちゃった」
「……未来の俺は、なんて?」
俺の性格だと、あまり隠しごととかできないから、あれこれしゃべっちゃいそう。可不可曰く「あまり詳しくは教えてもらえなかった」ってことは、ほぼなにも答えなかったんだろうな。
「可不可ならそうさせてみせるって意気込むとこでしょって言われちゃった。告白して、振られるどころかちゃんとわかってもらえなかったばかりなのに」
「ご、ごめん……」
可不可はふるふると首を振った。俺の謝罪は、一応は、受け入れてもらえてるらしい。
「楓ちゃんの……あ、七年後の楓ちゃんね。彼の言うとおりなんだよ。一度告白してうまくいかなかったくらいで諦める僕じゃない。子どもの頃からずっと想ってきたんだ。絶対に振り向かせてみせるって、啖呵切っちゃった。そしたら、笑ってた。それでこそ可不可だよ、だって。でも」
可不可の手が、俺の頬を撫でる。
「さっきの楓ちゃんの言葉……僕は、期待していいのかな」
キスされるかもって思った。頬? それとも、もっと特別な場所?
「い、いいよ……」
キスされてもいい。ううん、してみてほしい。可不可の気持ちと限りなくおそろいに近いこれは、可不可が触れてくれたら、おそろいになる気がするんだ。たぶん、最後のピースってやつ。
くるならこいの気持ちで、かたく目を瞑る。
「そんなかわいい顔されると迫りたくなるんだけど……さすがに、ね」
頬に押し当てられる感触で、七年後の可不可にされたキスが上書きされたような気がした。あのときはくちびるが離れて初めてキスだってわかったけど、今は、触れた瞬間にわかったよ。でも――
「頬なんだ……」
「ちょっと、それ、どういう意味? 僕のこと振り回さないでくれる!? ……どきどきし過ぎて、キャパオーバーしそうなんだけど」
――可不可のことだから、くちびるにキスしてくるかと思った。心に秘めた期待を自覚して、数歩遅れて、涙がこぼれた。
「楓ちゃん!? ……ごめん、頬とはいえ、いくらなんでもだめだったよね」
「ううん、違うよ。可不可って俺のこと好きなんだなぁって実感が湧いて、それで……」
〝泣くほど、好き?〟――未来の可不可に尋ねられたときは、即答できた。今の可不可にこそ、それを伝えなきゃ。
◇
「七年前の可不可、かわいかったなぁ……」
戻ってきてみれば、楓ちゃんがうっとりと目を細めてる。
「なにそれ、今の僕はかわいくないってこと?」
「あはは、違うよ。今の可不可はね、すっごく格好いい。昔からずっと格好よかったけどね」
七年前のことをしっかり覚えてたから、今朝はいつもより早起きした。普段なら、もう少しベッドのなかでくっついてるからね。
「俺も一応覚えてはいたけど、起きるなり、指輪外して! とか言うものだから焦っちゃった」
僕が戻ってくるのを見て安心したかのように指輪を着けた楓ちゃんが、寝返りを打った流れで僕になだれかかってくる。
「さすがにこれは決定的過ぎるから」
僕もおろそいのものを着けて、楓ちゃんの前でひらひらと手を振った。
「そう言いながら、可不可はピアスそのままだったくせに」
「そりゃあね。恋人になったあと、初めてくれたものだから」
こまめに手入れしてても、小さな傷はついてる。デザインだって、七年前の流行だ。それでも、お付き合いを始めてしばらく経った頃に、楓ちゃんが「俺のと同じお店で買ったんだ」ってプレゼントしてくれたものだから、一生、大事にするって決めてるんだよ。
でも、ヒートアップした感情は、時間が経てばそれなりに自己分析できる。そう、俺は今、数時間前の自分の言動に、すっごく後悔してる。そのせいで、なかなか眠れない。ケンカするほど仲がいいなんて言葉があるけど、しないに越したことはないと思う。少なくとも俺は、仲良くしてたい。
もしかしたら可不可も今頃そう思ってくれてるかな。メッセージだけでも送る? ――スマホに手を伸ばして、いや、謝るのに顔を見ないのはいやだなと思った。可不可が入院してた頃はそういう仲直りもあったけど、今は毎日顔を合わせられるんだから、顔を見て謝りたい。
草木も眠る丑三つ時、寅部屋に突撃するわけにはいかないから、朝一番で謝りに行こう。過保護な可不可は、俺が目の下に隈をつくったら心配するに決まってる。ちょっとでも眠っておかなきゃ。
「――ちゃん」
「んん……」
アラームの代わりに俺の名前を呼ぶ声が聞こえて、ベッドのなかでもぞもぞと寝返りを打つ。いつの間にか眠れてたとはいえ、普通に寝不足だから、なかなか目が開かないな。
寝不足……そうだ。朝一番で可不可に謝りに行くんだった。うんうん悩んで寝付けなかったんだった。ねぼすけしてる場合じゃない。可不可が朝ごはんを食べにダイニングへ向かうまでに仲直りしよう。早く身支度しなきゃ。勢いよく布団をめくったら、なぜか「わっ」て声がした。え、なに?
「……可不可?」
声の主は、昨日の夜ケンカした相手。確かに、可不可はこの部屋の合鍵を持ってるけど、俺の許可なく合鍵で部屋に入ってくるようなひとじゃない。それは、ケンカしたままであってもだ。
それに、なんだか……なんだろう、うまくいえないけど、違和感がある。どうしてここに? いや、それよりももっと訊かなきゃならないことがあるような気がするんだ。
でも、それよりも、まずは謝罪からだよね。謝って、じゃあどうするのって訊かれたら、そこはまだうまく答えを出せてないって正直に言おう。
心を決めて、可不可に向き直る。すると、可不可は顔を近付けて――
「おはよう、楓ちゃん」
――頬にくちびるをくっつけてきた。くちびるが離れた瞬間に、キスされたんだって、自覚した。
「か、可不可、今の……」
思わず頬を押さえたのは、離れたのを惜しむからじゃない。可不可に今みたいなことをされたことがなかったから、唯一の証拠を押さえるみたいに手が動いただけ。
「ん? ……あぁ、ごめんね、いつもの癖が出ちゃった」
いつもの癖? 俺、可不可にこんなことされた覚えないんだけど。それとも、俺じゃない誰かにこういうことしてるってこと?
「えぇと、可不可」
違和感がどんどん強くなる。なに、なにが違う? あまりひとをじろじろ見るもんじゃないけど、可不可の頭のてっぺんからゆっくりと視線を下ろしていく。
「あれっ? ピアス変えた?」
いつもはダイヤ型のものを、片耳にだけつけてる。そういうの持ってたっけ? 持ちものすべてを把握してるわけじゃないのに、そんなことを思った。
「これはね、プレゼントにもらったんだ」
「そう、なんだ」
可不可の細い指が、ピアスをなぞる。なんか、いやだな。プレゼントだっていう可不可の表情に、もやもやした。……どうして?
「そんな顔しないで。キミが不安がるようなことはなにもないよ」
可不可の手が伸びてきて、思わず身構える。さっきみたいに頬にキスされたら、たまったものじゃない。
「こら、警戒しない。……って言っても、難しいかな?」
身構えた俺を気遣ってか、可不可は顔を近付けることはせず、頭を撫でてきた。なんか、いつもと逆じゃない? 別に、可不可を子ども扱いしてるわけじゃないけど、普段はもっとこう、俺のほうが年上って感じがちゃんと出てるのに、これじゃあ、まるで――
「なんだか、可不可がいつもより大人っぽい……」
――俺のほうが年下みたい。そんなことあるわけないのに。
「あっはっは! 言い得て妙だ。楓ちゃんって、そういうところだけは鋭いよね」
〝だけは〟ってなに。もしかして、ちょっとばかにしてない? むっとして、言い返そうと睨み付ける。あぁ、朝一番で仲直りしようって思ってた俺はどこへいったんだ。謝るタイミング、逃しっぱなし。
「僕はね、楓ちゃんにこそ、大人だねって思われたかったんだよ」
そう言って、可不可が俺の腕を引っ張る。抵抗する間もなく、まんまと可不可の膝の上に座らされた。
「お、重いでしょ」
腰を浮かせようとしても、可不可の腕がしっかり俺をホールドしてて、体重をかけてしまってる。太ってるとは思わないけど、ここ数日、いろいろ食べ過ぎた自覚があるんだよね。
「全然? 退院してから数年がかりで鍛えたから。お姫様抱っこはまだできないけど、今の僕は、これくらい平気だよ」
「数年!?」
可不可が退院してからの月日と、全然計算が合わない。どういうこと?
「今の僕が楓ちゃんより年上なのは本当。だからピアスも変わってるし、キミをこうして抱っこもできる。なによりの証拠だよ」
そんなこと言われても、すんなりと受け入れられない。でも、可不可の言うとおり、昨日の夜まで一緒にいた可不可と、目の前にいる可不可は同じじゃないってわかる。鍛えたとか大人っぽいとかもそうだけど、身に纏う雰囲気が、……やけに、色っぽいんだ。
混乱する頭のなか、ふと、都市伝説レベルで囁かれてる噂を思い出した。
「タイムマシンが完成してるってうわさ、本当だったんだ?」
「そのへんは僕が答えるわけにはいかないけど、少なくとも、今、僕がここにいるのはタイムマシンを使ったわけじゃないよ。詳しいことは今の僕がいずれ辿り着くはずだし、キミも必然的に知るだろうから、この話はやめておこう」
思いっきりはぐらかされた。でも、確かに、未来の人間が過去の人間にあれこれ話すのって――子どもの頃に見た映画の受け売りだけど――よくないことだよね。
「……目の前の可不可が数年後の可不可ってのはとりあえず信じることにするけど、じゃあ、俺と子どもの頃から一緒にいた可不可は?」
昨日の夜、ケンカしたままだ。ううん、いつもどおり仲良く「おやすみ」って言い合えてたとしても、俺は、あの可不可がいないなんていやだよ。子どもの頃は家の事情もあってずっと一緒にいられたわけじゃない。それを歯がゆく思ったこともある。可不可の傍にいてあげたくて、できるだけJPNに長くいられる進路を選んだくらいには――
「可不可のこと、返して……」
――俺は、可不可のことが大好きなんだ。
「泣かないで。別に、僕が取り上げたわけじゃない」
俺より年上らしい可不可の指が目の近くに触れて、俺は、自分が泣いてることに気付いた。
「だって、昨日、ケンカしたままで、……俺がわかんなかったからだめなのに、ちゃんと謝らなきゃ」
可不可に好きだって言われた。子どもの頃からずっと好きだったって。それを、俺は子どもの頃からの付き合いだからねって言葉で返しちゃったんだ。幼馴染みの延長じゃないって言われたのに、本気で取り合おうとしなかった。可不可が怒るのも無理はないよ。受け止める勇気が俺になかったのが原因なのに、可不可の本気をうやむやにしようとしたんだから。
「どうしよう、可不可。俺、可不可のこと、大好きなのに、傷付けた……」
早く会って謝りたい。そして、俺も大好きだよって言わなきゃ。この〝大好き〟が、可不可が思うようなおそろいの気持ちかは断言できないけど、可不可の本気の言葉をちゃんと受け止めるよって言いたい。
「泣くほど、好き?」
「好きだよ……」
「僕が将来、キミじゃないひとといたら、どう思う?」
……目の前の可不可が、今までとは違うピアスをしてるのを見て、もやもやした。しかも、誰かからのプレゼントだっけ?
「それは、可不可が着けてるそのピアスをくれたひとのこと?」
俺じゃない誰かからのプレゼントを身に着けて、俺の頬にキスなんてしないでよ。もやもやが、いらだちに変わる。……俺だったら、いいのに。
「どうかな。僕は、恋人からのプレゼントとはひとことも言ってないよ」
確かに、そうだ。それなのに、俺は未来の可不可には特別なひとがいて、そのひとが可不可にピアスを贈ったって早合点した。どうして、俺の思考回路はそんなルートを辿ったんだろう。
「さっきの質問。今の楓ちゃんは、昨日までずっと一緒にいた僕と、これからも一緒にいたいって思う?」
「それは……思うよ」
子どもの頃、一生一緒に遊ぼうって約束したし。――そう続けると、可不可は「そうじゃなくて」とやんわり否定した。
「幼い頃の約束を覚えて、守ろうとしてくれてるのは嬉しいよ。でも、心までは約束で縛れないものだと思うんだ。そのうえで、考えてみて。キミより年上の僕を見て、なにを思った? もやもや、いらだち……その根底にあるのは、なに?」
根底にあるものって言われたって、このもやもやとかいらだちは、たった今、出てきたものだ。
「わかんないよ。可不可が大好きってことしかわかんない。可不可のこと、返して」
あぁ、これじゃまるで駄々っ子だ。いい年した大人が情けない。こんな情けないところ、可不可に見せたくないのに。
「ごめん、答えを急ぎ過ぎたね。僕もそろそろ戻らないといけないから、つい」
「え、戻るって」
「さっきの答え。キミが大事に想ってくれてる僕は、僕と入れ替わりで未来にいるよ。きっと、いろいろと驚いてるんじゃないかな。そろそろ戻らないと、彼も、あの子も、困っちゃうからね」
年上の可不可はちょっといじわるだ。俺の心にもやもやの種ばかり植えていく。
「あの子って、そのピアスの贈り主?」
恋人からのプレゼントとは言ってないって言ってたけど、可不可の表情を見てればわかる。もらって嬉しかったって。相手のことが特別だって、顔に書いてるよ。
今の可不可は――昨日、教えてくれたけど――俺のことが好きだって言ってた。その気持ちは、未来にも続いてるのかな。
「あはは、この数分でずいぶんとやきもち妬きになったね。それ、今の僕に少しだけ見せてあげたら? 飛び上がるくらい喜ぶんじゃない? ……ひとつだけ、僕が昔してもらえたように、お膳立てしてあげるからさ」
お膳立て? 尋ねるより早く、可不可の姿が揺らぐ。……違う、俺の視界が揺らいでるんだ。頭のなかがぼんやりしていく。意識が薄れてくって、こういう感じなのかも。
「待ってよ、まだ訊きたいこと、あるのに……」
なんとか声を絞り出した俺に、未来の可不可がなんて言ったはわからない。今の可不可と話すべきだというアドバイスだったかもしれないし、わがままな俺を宥めるみたいに「だめ」とだけ言ったのかもしれない。わかったのは、次に意識を取り戻したときには、未来の可不可はいるべき場所に帰ってて、今の可不可が戻ってきてくれてるはずってこと。
そこからしばらくして、いきなり意識が浮上する感覚に、俺は勢いよく飛び起きた。
「っ、……あれ?」
寝てた? いや、さっき起きて、可不可に謝りに行こうと思ったら、未来の可不可がいて、……あれは、夢?
未来の可不可にキスされた頬を押さえる。感触なんて残ってるかどうかもわからない。夢だったのかもしれないし。
とにかく、今、俺がすべきことは、あれが夢だったかどうかの検証じゃなくて、一分一秒でも早く可不可に謝りに行くこと。
ベッドから降りようとして、あれ? と気付く。
「可不可……」
ベッドの端に突っ伏してる。背中がわずかに上下してるから、寝てるだけなんだとわかった。……今の可不可、だよね?
「可不可、可不可。起きて」
恐る恐る肩を揺らす。少し呻いたあと、可不可がゆっくりと瞼を開いた。大丈夫かな。視線を同じ高さにしたくて、ベッドから急いで降りる。
「あれ、僕……、……あ」
きょろきょろと周りを見て、自分が寅部屋じゃなく俺の部屋にいることに気付いたのか、かーっと顔を赤らめた。
「おはよう、可不可。それから……昨日はごめんなさい」
「楓ちゃん……」
「好きって言ってくれて嬉しかった。それなのに、昔から一緒にいるからねなんて軽くあしらうようなことして、可不可のこと傷付けたよね」
どうしよう、目の奥が熱い。あ、泣きそう。慌てて俯く。
「俺、俺も……可不可が想ってくれてるようなのと同じかはわかんないけど、もしも可不可が将来、俺じゃないひとといたらいやだなって思うくらいには、大好きだよ」
顔が熱い。これって告白なのかな。俺のこれは、可不可とおそろいの気持ち? やっぱりちゃんとは断言できないけど、昨日の可不可も、きっと、今の俺みたいに顔が熱くなってたんだと思うと、俺の気持ちも、可不可のと限りなく近い気がするんだ。可不可は、どう思う?
「……夢を、見たんだ」
「夢?」
「でも、寅部屋にいたはずの僕がいつの間にかここにいるってことは、夢じゃなかったのかも」
それって、もしかして。――もう一度、頬を手で押さえる。やっぱり感触は思い出せないけど、たぶん、あれは現実だったんだ。
「どこかの部屋に、今よりさらにきれいになった楓ちゃんがいて、……部屋のカレンダーが、今より七年先だった」
「七年……」
じゃあ、年上だよって言ってたあの可不可は、二十七歳ってこと? そりゃあ、大人っぽいわけだよね。
「あまり詳しくは教えてもらえなかったけど、すごく幸せそうで……この顔をさせてるのが僕ならいいのにって言っちゃった」
「……未来の俺は、なんて?」
俺の性格だと、あまり隠しごととかできないから、あれこれしゃべっちゃいそう。可不可曰く「あまり詳しくは教えてもらえなかった」ってことは、ほぼなにも答えなかったんだろうな。
「可不可ならそうさせてみせるって意気込むとこでしょって言われちゃった。告白して、振られるどころかちゃんとわかってもらえなかったばかりなのに」
「ご、ごめん……」
可不可はふるふると首を振った。俺の謝罪は、一応は、受け入れてもらえてるらしい。
「楓ちゃんの……あ、七年後の楓ちゃんね。彼の言うとおりなんだよ。一度告白してうまくいかなかったくらいで諦める僕じゃない。子どもの頃からずっと想ってきたんだ。絶対に振り向かせてみせるって、啖呵切っちゃった。そしたら、笑ってた。それでこそ可不可だよ、だって。でも」
可不可の手が、俺の頬を撫でる。
「さっきの楓ちゃんの言葉……僕は、期待していいのかな」
キスされるかもって思った。頬? それとも、もっと特別な場所?
「い、いいよ……」
キスされてもいい。ううん、してみてほしい。可不可の気持ちと限りなくおそろいに近いこれは、可不可が触れてくれたら、おそろいになる気がするんだ。たぶん、最後のピースってやつ。
くるならこいの気持ちで、かたく目を瞑る。
「そんなかわいい顔されると迫りたくなるんだけど……さすがに、ね」
頬に押し当てられる感触で、七年後の可不可にされたキスが上書きされたような気がした。あのときはくちびるが離れて初めてキスだってわかったけど、今は、触れた瞬間にわかったよ。でも――
「頬なんだ……」
「ちょっと、それ、どういう意味? 僕のこと振り回さないでくれる!? ……どきどきし過ぎて、キャパオーバーしそうなんだけど」
――可不可のことだから、くちびるにキスしてくるかと思った。心に秘めた期待を自覚して、数歩遅れて、涙がこぼれた。
「楓ちゃん!? ……ごめん、頬とはいえ、いくらなんでもだめだったよね」
「ううん、違うよ。可不可って俺のこと好きなんだなぁって実感が湧いて、それで……」
〝泣くほど、好き?〟――未来の可不可に尋ねられたときは、即答できた。今の可不可にこそ、それを伝えなきゃ。
◇
「七年前の可不可、かわいかったなぁ……」
戻ってきてみれば、楓ちゃんがうっとりと目を細めてる。
「なにそれ、今の僕はかわいくないってこと?」
「あはは、違うよ。今の可不可はね、すっごく格好いい。昔からずっと格好よかったけどね」
七年前のことをしっかり覚えてたから、今朝はいつもより早起きした。普段なら、もう少しベッドのなかでくっついてるからね。
「俺も一応覚えてはいたけど、起きるなり、指輪外して! とか言うものだから焦っちゃった」
僕が戻ってくるのを見て安心したかのように指輪を着けた楓ちゃんが、寝返りを打った流れで僕になだれかかってくる。
「さすがにこれは決定的過ぎるから」
僕もおろそいのものを着けて、楓ちゃんの前でひらひらと手を振った。
「そう言いながら、可不可はピアスそのままだったくせに」
「そりゃあね。恋人になったあと、初めてくれたものだから」
こまめに手入れしてても、小さな傷はついてる。デザインだって、七年前の流行だ。それでも、お付き合いを始めてしばらく経った頃に、楓ちゃんが「俺のと同じお店で買ったんだ」ってプレゼントしてくれたものだから、一生、大事にするって決めてるんだよ。