今夜は「お誘い」させて
HAMAの外れにある古びたビルの地下――そこまで情報を掴んだ可不可は、朔次郎が用意した車に乗り込み、法定速度ぎりぎりで現場に向かっていた。本当ならもっとすっ飛ばしたいところだけれど、仮にも0区長がスピード違反なんてするわけにはいかない。焦る気持ちは奥歯を噛み締めることでやり過ごし、可不可は窓の外を睨みつけた。観光特区としての整備が追いついていないのは感じていたが、まさか、生まれ育った街でこんなことがあるなんて。
「坊ちゃま、火急の用件にございます」
溜まった仕事もないし、あとは外回りに出た楓の帰社を待つだけとなった夕刻。きっかけは、可不可宛に送られてきた差出人不明の手紙だった。郵便で送られてきたものではなく、HAMAツアーズ社屋の郵便受けにいつの間にか投函されていたらしい。差出人がないため先に目を通した朔次郎が、珍しく真っ青な顔でその封書を持ってきたのだ。
匿名の苦情か、謂れのない中傷か、あるいは、幾成の正体をどこかで知って脅迫してきたか――なんにせよ、朔次郎が目を通したところで可不可もすべての書面を目にすることには変わりない。朔次郎の様子に不穏めいたものを感じつつ、中身を検めることにした。
「……着替えてくる。朔次郎は準備をお願い。うちの車で行こうと思う」
取り乱さなかったのは、ここが社内で、他の区長や社員たちの目もあったからだ。これが実家の自室だったら、舌打ちのひとつもしていたに違いない。
「かしこまりました」
「それから、生行。僕はこれから外出するけど、聞き慣れないところからメールや電話があればすぐに連絡をちょうだい」
「はい」
生行に詳しく説明する時間すら惜しく、用件だけ言いつけてしまったが、さすが優秀な社員だけあって、すぐに了承してくれた。本当に、人に恵まれているなと感じる。
手紙の内容は、オークションの招待状であった。ドレスコードが指定されており、招待客は己の身分が悟られぬよう顔の一部を隠すようにとの指定もある。なんの必要があるんだと思ったが会場に入るためならば仕方ない。スリーピースのスーツへと着替えているあいだに、必要なものを朔次郎に用意させることにした。
こういった立場なので、社内には皆と仕事をする部屋のほかに自分専用の仕事部屋を設け、そちらに、機密情報が含まれた資料や、数パターンの着替えなども置いてある。
着替えを済ませて車に向かうと、ちょうど、朔次郎が荷物を積み終えるところだったらしく、早足でこちらに寄ってきた。
「こういう場は口許より目許を隠すのが常かと思いまして。僭越ながらこの朔次郎、大急ぎで坊ちゃまに見合うものをご用意いたしました」
「うん、ありがとう。……着けるのはビルに入るときでいいかな」
「もちろんですとも」
車に乗り込む際、少し離れた場所からこちらを見ている潮に気付いたが、あいにく、今の可不可には、彼に取り合っている余裕がない。事情説明が必要になりそうなら、ここに――彼を連れて――戻ってきてからだ。
「朔次郎、車を出して」
「では、全速前進で向かいます」
急ぎだからと手動運転に切り替え、朔次郎が勢いよくアクセルを踏んだ。
その場に残された潮は――
「なにあれ……礼王の闇オクパロでしか見たことないんだけど」
――仮面や複数のアタッシュケースといったアイテムを目にしたことに、ただ、ただ、唖然としていた。
◇
「では、次の商品をご覧に入れましょう! こちらは――」
楓は、自分の身に起きたことを未だに理解できないでいる。それもそのはず、徒歩での移動中に突然背後を取られたあと、目が覚めたらよくわからない場所に連れてこられていたのだから。ここはどこかと尋ねようにも猿轡のせいで呻き声を出すのがやっとで、すべての事情を知っていると思われる集団は、当然、取り合ってくれやしない。逃げたくても、両手両足を拘束されていて、身動きも取れないのだ。
不可解なのは、恐らく誘拐事件であるにもかかわらず、十数人はいる聴衆の眼前にさらされているということ。全員グルなのか? というか、商品って?
「五千万」
「五千五百万」
聴衆の何人かが声を上げた。
「六千五百万!」
もしかして、これって、オークションなのでは。
人間が出品されることがあるのかはさておき、誘拐以上にまずい状況に置かれていることに気付いた楓は、せめて両手首の拘束だけでもゆるめられないかと、必死に身を捩った。こんなところでどこの誰とも知らないひとに買われては困る。だって、可不可とともにHAMAを復興させると約束したのだ。自分の人生を彼に賭けると誓った。自分にはもっとやるべきことも、できることもある。
しかし、どんなに力を入れても拘束はゆるまず、諦めるしかないのかと絶望を抱き始めたそのとき――
「五億」
――こんなところで聞けるはずのない声が聞こえた。誇張抜きで、親の声より聞いた声といっていいくらい、よく知った声だ。
「聞こえなかった? 五億だよ」
会場内がしんと静まり返った。楓は夢でも見ているかのような感覚で、声の主を見つめる。目許が覆われていて顔の下半分しか見えないけれど、絶対に、勘違いなんかじゃない。会いたい気持ちが生み出した幻覚でもない。
「その子を早く解放してもらえる? もし、まだ僕に勝つ気でいるひとがいるなら、いくらでも勝負するよ」
周囲は声の主に圧倒されっぱなしらしく、異を唱えるものは現れない。それをよしとした声の主――可不可は、こちらまで歩み寄ると、楓の体を抱き寄せた。
「誰も名乗り出ないし、決まりでいいよね。彼は僕がもらう」
可不可が手足の拘束と猿轡を外してくれて晴れて自由の身となった楓は、周囲の目があるにもかかわらず、可不可に抱き着いた。
「どうなることかと思った……」
「もう大丈夫だから。帰ろう」
帰る。……そうだ、自分は外回りの最中に気絶させられて、ここにいるのだ。
「え、ま、待って。ここってまずいところだよね? それに五億って、かふ」
「静かに。一応、正体を隠して来てるんだから」
可不可の手で口を塞がれ、楓はこくこくと頷く。いろいろ訊きたいことはある、むしろ訊きたいことだらけだけれど、とにもかくにもここから早く出たい。可不可に手を引かれ、会場をあとにしようとしたそのとき――
「待て。五億だと?」
「まだなにか? ……あぁ、支払い能力には自信があるし、なんなら、すぐにでも払えるよ」
可不可の視線の先を辿ると、朔次郎がアタッシュケースを積んだ台車を運び込むところであった。
「この子のためなら惜しくないお金だけど、一応、言っておこうかな。ここに来る直前、知り合いの伝手で警察の方と電話で〝おはなし〟してきたところなんだよね」
可不可の言葉に、会場内にいた誰もが我先にと出入り口に殺到した。大きな台車を押しているにもかかわらず、朔次郎は鮮やかな身のこなしで彼らを避けていく。
楓が呆然としているあいだに、会場内には、可不可と楓、朔次郎の三人を残すだけとなってしまった。
「悪いことをしてる自覚がある証拠だ。今更逃げても遅いけど。楓ちゃんをさらった集団含めて、外でお縄になってるんじゃないかな」
可不可は仮面を外して笑ったが、笑いごとではない。しかし、楓は〝どうやら自分は拉致されたうえ、オークションに出品されていたらしい〟としかわからず、その事実すら信じがたいせいで、返すべき言葉を見つけられないでいる。それよりも、連れ去られた恐怖が今更襲ってきて、脚が震えてしまった。
「僕に掴まって。……さすがに事情聴取はあるだろうけど、子タろの知り合いの刑事さんの取り計らいで、明日以降にしてくれる手筈になってる。今夜はゆっくり過ごそうね」
ひとまず、いつまでもここにいるわけにもいかないからと、可不可に連れられて外に出た。出てすぐのところに人影が見え、楓は一瞬だけ身構える。
「あ、お疲れさまでーす」
「えっ、添くん?」
「あぁ、添、出てきたひとたちは?」
「何人かは暴れたんで、言われたとおりにしましたけど、まー、ほとんどはおとなしく刑事さんたちについていきましたねー」
楓にはなにがなにやらわからず、可不可と添の顔を見るしかできない。
「添には外を見張っててもらったんだ。子タろは刑事さんたちと一緒にいてもらう必要があったからね」
きっと、今頃は警察についていっているんじゃないかという可不可の予想に対し、そばで控えていた朔次郎が「そのように連絡がございました」と答えた。
「そっか……。添くん、ありがとう」
自分の不注意でこんなことになったのに、何人ものひとたちに迷惑をかけてしまったようだと、楓は胸を痛める。
「オレ、結構忙しいんですよ〜? 社長がお小遣いくれるっていうから、今回だけってことで」
「最近はいい子にしてるみたいだから、お願いしたんだよ。これからもいい子にしててね」
添が「オレはずっといい子ですけどねー」と笑っていたが、可不可はそれ以上の言葉を返さず、朔次郎と添になにやら指示を出したり、どこかに連絡したりと、慌ただしくしていた。慌ただしくといっても、日頃から言動に余裕のある可不可なので、楓が待ちくたびれることはなく、ほんの二分程度で片がついたらしい。添は「お疲れさまでしたー」とひらひら手を振って去っていった。
「じゃあ、行こうか」
「え?」
「生行に連絡して、主任ちゃんは直帰扱いにしておいた。こんなことがあったし、明日もお昼からでいいよ。僕としては、一日ゆっくり休んでほしいけど、キミは休みたがらないだろうからね」
確かに、楓としては、怖い思いはしたものの、怪我もないし、仕事から離れてまで丸一日休むほうが参ってしまいそうだ。
「でも、日にちが経ってから今日のことを思い出してしんどくなるってケースもあるから、そのときは遠慮なく僕に言って」
「うん、ありがとう。迷惑かけてごめんね」
「……謝らないで。キミを助けるのも守るのも、当然のことだから」
可不可に腰を抱かれ、楓は声にならない声を上げた。
「ちょっと可不可、ここ、外だし、朔次郎さんもいるから……」
「お気になさらず。この朔次郎、五百十二番目の特技として、己の記憶抹消がございますので」
そういうことじゃないんだけどなぁと思いつつ、可不可たちがここに来たという車に乗り込む。社用車ではなく大黒家の車なのは、大金を運ぶ必要があったからということらしい。
「それにしても、五億なんて……」
HAMAの復興のため、可不可は全財産を投じて今の仕事を始めたはずなのに、その大金はどこからきたのかと、楓は驚きを隠せない。
「仕事を始めてからも資産運用は続けてるし、ひとまず結婚資金として貯め始めた分から今すぐ用意できるだけ持ってきたんだけど、僕にとっては、楓ちゃんに値段をつけるみたいでいやだったな」
「結婚資金!?」
「婚約指輪に、結納金に、結婚指輪でしょ? それから、結婚披露宴に新婚旅行、ふたりで暮らす家も必要だし、なんたって、世界中をめいっぱい旅するんだから、今から貯め始めなきゃ」
資金用途を指折り数えながら、可不可は当然といわんばかりに笑っている。貯蓄しようという心意気は素晴らしいが、桁が違い過ぎる。可不可から〝結婚を前提に恋人になってほしい〟と告白され、受け入れた立場として、そんな生々しいお金の話を今から知ってしまってよかったのだろうかと、頭を抱えたくなった。……でも、付き合い始めてからもあたりまえみたいに〝ふたりの未来〟を考えてもらえているのが幸せで、そっと、可不可に寄り添う。
「あれ……?」
なんとなく窓の外を見て、明らかにHAMAハウスではないところへ向かっていることに気付いた。
「今夜はいろいろあったから、ひと晩中、ついててあげたいなって。大丈夫、何度かふたりで泊まりにいってるところだから、楓ちゃんもゆっくり過ごせると思う」
「そんな、俺は全然平気だよ」
「僕のわがままってことにして。楓ちゃんを取り戻せたんだって、確かめさせてほしい。もちろん、あんなことがあったばかりだし、抱っこして寝るだけ。だめ?」
こういうところが好きだなと、この場で発散できないときめきをぶつけるみたいに、楓は可不可にすり寄った。
ふたりきりのときはべったりとくっついて離れず、くちびるがふやけるんじゃないかというくらいキスをしたがるくせに、その先の行為は受け入れる側である楓に決定権を委ねる。そのくせ、欲がまったくないわけでもないから、楓が求めればそれはもう思考がどろどろになるまで触れて、暴いてくれるのだ。
「……可不可が来てくれてよかった」
「楓ちゃんがどこにいたって、僕は探し出して駆けつけるよ」
「可不可なら本当にやりかねないなぁ」
抱き締めて眠るだけだと言われたけれど、こんなに大事にされて、さっきからときめきが止まらない。
「可不可、ちょっと耳貸して」
「なぁに?」
「えっと、――」
可不可は耳まで赤く染めて「僕、楓ちゃんには一生敵わないと思う……」と呟いた。
「坊ちゃま、火急の用件にございます」
溜まった仕事もないし、あとは外回りに出た楓の帰社を待つだけとなった夕刻。きっかけは、可不可宛に送られてきた差出人不明の手紙だった。郵便で送られてきたものではなく、HAMAツアーズ社屋の郵便受けにいつの間にか投函されていたらしい。差出人がないため先に目を通した朔次郎が、珍しく真っ青な顔でその封書を持ってきたのだ。
匿名の苦情か、謂れのない中傷か、あるいは、幾成の正体をどこかで知って脅迫してきたか――なんにせよ、朔次郎が目を通したところで可不可もすべての書面を目にすることには変わりない。朔次郎の様子に不穏めいたものを感じつつ、中身を検めることにした。
「……着替えてくる。朔次郎は準備をお願い。うちの車で行こうと思う」
取り乱さなかったのは、ここが社内で、他の区長や社員たちの目もあったからだ。これが実家の自室だったら、舌打ちのひとつもしていたに違いない。
「かしこまりました」
「それから、生行。僕はこれから外出するけど、聞き慣れないところからメールや電話があればすぐに連絡をちょうだい」
「はい」
生行に詳しく説明する時間すら惜しく、用件だけ言いつけてしまったが、さすが優秀な社員だけあって、すぐに了承してくれた。本当に、人に恵まれているなと感じる。
手紙の内容は、オークションの招待状であった。ドレスコードが指定されており、招待客は己の身分が悟られぬよう顔の一部を隠すようにとの指定もある。なんの必要があるんだと思ったが会場に入るためならば仕方ない。スリーピースのスーツへと着替えているあいだに、必要なものを朔次郎に用意させることにした。
こういった立場なので、社内には皆と仕事をする部屋のほかに自分専用の仕事部屋を設け、そちらに、機密情報が含まれた資料や、数パターンの着替えなども置いてある。
着替えを済ませて車に向かうと、ちょうど、朔次郎が荷物を積み終えるところだったらしく、早足でこちらに寄ってきた。
「こういう場は口許より目許を隠すのが常かと思いまして。僭越ながらこの朔次郎、大急ぎで坊ちゃまに見合うものをご用意いたしました」
「うん、ありがとう。……着けるのはビルに入るときでいいかな」
「もちろんですとも」
車に乗り込む際、少し離れた場所からこちらを見ている潮に気付いたが、あいにく、今の可不可には、彼に取り合っている余裕がない。事情説明が必要になりそうなら、ここに――彼を連れて――戻ってきてからだ。
「朔次郎、車を出して」
「では、全速前進で向かいます」
急ぎだからと手動運転に切り替え、朔次郎が勢いよくアクセルを踏んだ。
その場に残された潮は――
「なにあれ……礼王の闇オクパロでしか見たことないんだけど」
――仮面や複数のアタッシュケースといったアイテムを目にしたことに、ただ、ただ、唖然としていた。
◇
「では、次の商品をご覧に入れましょう! こちらは――」
楓は、自分の身に起きたことを未だに理解できないでいる。それもそのはず、徒歩での移動中に突然背後を取られたあと、目が覚めたらよくわからない場所に連れてこられていたのだから。ここはどこかと尋ねようにも猿轡のせいで呻き声を出すのがやっとで、すべての事情を知っていると思われる集団は、当然、取り合ってくれやしない。逃げたくても、両手両足を拘束されていて、身動きも取れないのだ。
不可解なのは、恐らく誘拐事件であるにもかかわらず、十数人はいる聴衆の眼前にさらされているということ。全員グルなのか? というか、商品って?
「五千万」
「五千五百万」
聴衆の何人かが声を上げた。
「六千五百万!」
もしかして、これって、オークションなのでは。
人間が出品されることがあるのかはさておき、誘拐以上にまずい状況に置かれていることに気付いた楓は、せめて両手首の拘束だけでもゆるめられないかと、必死に身を捩った。こんなところでどこの誰とも知らないひとに買われては困る。だって、可不可とともにHAMAを復興させると約束したのだ。自分の人生を彼に賭けると誓った。自分にはもっとやるべきことも、できることもある。
しかし、どんなに力を入れても拘束はゆるまず、諦めるしかないのかと絶望を抱き始めたそのとき――
「五億」
――こんなところで聞けるはずのない声が聞こえた。誇張抜きで、親の声より聞いた声といっていいくらい、よく知った声だ。
「聞こえなかった? 五億だよ」
会場内がしんと静まり返った。楓は夢でも見ているかのような感覚で、声の主を見つめる。目許が覆われていて顔の下半分しか見えないけれど、絶対に、勘違いなんかじゃない。会いたい気持ちが生み出した幻覚でもない。
「その子を早く解放してもらえる? もし、まだ僕に勝つ気でいるひとがいるなら、いくらでも勝負するよ」
周囲は声の主に圧倒されっぱなしらしく、異を唱えるものは現れない。それをよしとした声の主――可不可は、こちらまで歩み寄ると、楓の体を抱き寄せた。
「誰も名乗り出ないし、決まりでいいよね。彼は僕がもらう」
可不可が手足の拘束と猿轡を外してくれて晴れて自由の身となった楓は、周囲の目があるにもかかわらず、可不可に抱き着いた。
「どうなることかと思った……」
「もう大丈夫だから。帰ろう」
帰る。……そうだ、自分は外回りの最中に気絶させられて、ここにいるのだ。
「え、ま、待って。ここってまずいところだよね? それに五億って、かふ」
「静かに。一応、正体を隠して来てるんだから」
可不可の手で口を塞がれ、楓はこくこくと頷く。いろいろ訊きたいことはある、むしろ訊きたいことだらけだけれど、とにもかくにもここから早く出たい。可不可に手を引かれ、会場をあとにしようとしたそのとき――
「待て。五億だと?」
「まだなにか? ……あぁ、支払い能力には自信があるし、なんなら、すぐにでも払えるよ」
可不可の視線の先を辿ると、朔次郎がアタッシュケースを積んだ台車を運び込むところであった。
「この子のためなら惜しくないお金だけど、一応、言っておこうかな。ここに来る直前、知り合いの伝手で警察の方と電話で〝おはなし〟してきたところなんだよね」
可不可の言葉に、会場内にいた誰もが我先にと出入り口に殺到した。大きな台車を押しているにもかかわらず、朔次郎は鮮やかな身のこなしで彼らを避けていく。
楓が呆然としているあいだに、会場内には、可不可と楓、朔次郎の三人を残すだけとなってしまった。
「悪いことをしてる自覚がある証拠だ。今更逃げても遅いけど。楓ちゃんをさらった集団含めて、外でお縄になってるんじゃないかな」
可不可は仮面を外して笑ったが、笑いごとではない。しかし、楓は〝どうやら自分は拉致されたうえ、オークションに出品されていたらしい〟としかわからず、その事実すら信じがたいせいで、返すべき言葉を見つけられないでいる。それよりも、連れ去られた恐怖が今更襲ってきて、脚が震えてしまった。
「僕に掴まって。……さすがに事情聴取はあるだろうけど、子タろの知り合いの刑事さんの取り計らいで、明日以降にしてくれる手筈になってる。今夜はゆっくり過ごそうね」
ひとまず、いつまでもここにいるわけにもいかないからと、可不可に連れられて外に出た。出てすぐのところに人影が見え、楓は一瞬だけ身構える。
「あ、お疲れさまでーす」
「えっ、添くん?」
「あぁ、添、出てきたひとたちは?」
「何人かは暴れたんで、言われたとおりにしましたけど、まー、ほとんどはおとなしく刑事さんたちについていきましたねー」
楓にはなにがなにやらわからず、可不可と添の顔を見るしかできない。
「添には外を見張っててもらったんだ。子タろは刑事さんたちと一緒にいてもらう必要があったからね」
きっと、今頃は警察についていっているんじゃないかという可不可の予想に対し、そばで控えていた朔次郎が「そのように連絡がございました」と答えた。
「そっか……。添くん、ありがとう」
自分の不注意でこんなことになったのに、何人ものひとたちに迷惑をかけてしまったようだと、楓は胸を痛める。
「オレ、結構忙しいんですよ〜? 社長がお小遣いくれるっていうから、今回だけってことで」
「最近はいい子にしてるみたいだから、お願いしたんだよ。これからもいい子にしててね」
添が「オレはずっといい子ですけどねー」と笑っていたが、可不可はそれ以上の言葉を返さず、朔次郎と添になにやら指示を出したり、どこかに連絡したりと、慌ただしくしていた。慌ただしくといっても、日頃から言動に余裕のある可不可なので、楓が待ちくたびれることはなく、ほんの二分程度で片がついたらしい。添は「お疲れさまでしたー」とひらひら手を振って去っていった。
「じゃあ、行こうか」
「え?」
「生行に連絡して、主任ちゃんは直帰扱いにしておいた。こんなことがあったし、明日もお昼からでいいよ。僕としては、一日ゆっくり休んでほしいけど、キミは休みたがらないだろうからね」
確かに、楓としては、怖い思いはしたものの、怪我もないし、仕事から離れてまで丸一日休むほうが参ってしまいそうだ。
「でも、日にちが経ってから今日のことを思い出してしんどくなるってケースもあるから、そのときは遠慮なく僕に言って」
「うん、ありがとう。迷惑かけてごめんね」
「……謝らないで。キミを助けるのも守るのも、当然のことだから」
可不可に腰を抱かれ、楓は声にならない声を上げた。
「ちょっと可不可、ここ、外だし、朔次郎さんもいるから……」
「お気になさらず。この朔次郎、五百十二番目の特技として、己の記憶抹消がございますので」
そういうことじゃないんだけどなぁと思いつつ、可不可たちがここに来たという車に乗り込む。社用車ではなく大黒家の車なのは、大金を運ぶ必要があったからということらしい。
「それにしても、五億なんて……」
HAMAの復興のため、可不可は全財産を投じて今の仕事を始めたはずなのに、その大金はどこからきたのかと、楓は驚きを隠せない。
「仕事を始めてからも資産運用は続けてるし、ひとまず結婚資金として貯め始めた分から今すぐ用意できるだけ持ってきたんだけど、僕にとっては、楓ちゃんに値段をつけるみたいでいやだったな」
「結婚資金!?」
「婚約指輪に、結納金に、結婚指輪でしょ? それから、結婚披露宴に新婚旅行、ふたりで暮らす家も必要だし、なんたって、世界中をめいっぱい旅するんだから、今から貯め始めなきゃ」
資金用途を指折り数えながら、可不可は当然といわんばかりに笑っている。貯蓄しようという心意気は素晴らしいが、桁が違い過ぎる。可不可から〝結婚を前提に恋人になってほしい〟と告白され、受け入れた立場として、そんな生々しいお金の話を今から知ってしまってよかったのだろうかと、頭を抱えたくなった。……でも、付き合い始めてからもあたりまえみたいに〝ふたりの未来〟を考えてもらえているのが幸せで、そっと、可不可に寄り添う。
「あれ……?」
なんとなく窓の外を見て、明らかにHAMAハウスではないところへ向かっていることに気付いた。
「今夜はいろいろあったから、ひと晩中、ついててあげたいなって。大丈夫、何度かふたりで泊まりにいってるところだから、楓ちゃんもゆっくり過ごせると思う」
「そんな、俺は全然平気だよ」
「僕のわがままってことにして。楓ちゃんを取り戻せたんだって、確かめさせてほしい。もちろん、あんなことがあったばかりだし、抱っこして寝るだけ。だめ?」
こういうところが好きだなと、この場で発散できないときめきをぶつけるみたいに、楓は可不可にすり寄った。
ふたりきりのときはべったりとくっついて離れず、くちびるがふやけるんじゃないかというくらいキスをしたがるくせに、その先の行為は受け入れる側である楓に決定権を委ねる。そのくせ、欲がまったくないわけでもないから、楓が求めればそれはもう思考がどろどろになるまで触れて、暴いてくれるのだ。
「……可不可が来てくれてよかった」
「楓ちゃんがどこにいたって、僕は探し出して駆けつけるよ」
「可不可なら本当にやりかねないなぁ」
抱き締めて眠るだけだと言われたけれど、こんなに大事にされて、さっきからときめきが止まらない。
「可不可、ちょっと耳貸して」
「なぁに?」
「えっと、――」
可不可は耳まで赤く染めて「僕、楓ちゃんには一生敵わないと思う……」と呟いた。