くつろぎバスタイム
也千代っぽい思考でたとえるなら、徳を積み過ぎたかな。ううん、楓ちゃんが僕の手を取ってくれた時点で身に余るほどの幸せは感じてた。とはいえ、僕も人間だし、普通の男だし、好きな子とは少しでもたくさん、甘い時間を過ごしたい。だからこれは僕の理想どおりの展開……に含まれてはいるんだけど。
〝今夜、部屋に来れる?〟――恋人になってからも僕が押せ押せの姿勢だったから、そんなふうに言われて、思わず、自分の耳を疑った。反射的に聞き返して「やっぱりなし」なんてことにならないよう、恋愛において超がつくほど恥ずかしがり屋なこの子の気が変わらないうちに、もちろん大丈夫だよって即答した。ちょっと食い気味に答えちゃってたかも。
でも、ほとんど毎日、眠る前の時間を一緒に過ごしたくてキミの部屋に行ってるのに。そう思ったのが顔に出てたのか〝タオルと着替えも持ってきて〟って言葉が続いた。
「それって」
いつもは買ってきたお弁当を社内で食べる楓ちゃんからのランチデートのお誘いで来たのは、会社から歩いて十分くらいの路地裏にある喫茶店。レトい雰囲気で昔は人気だったらしいけど、店主が高齢で不定期営業になったこともあって、最近じゃ穴場になってる。今だって、お昼どきなのに僕たちしかいない。僕以上にここに来てる楓ちゃんが小耳に挟んだ情報によると、若い頃から本業は投資家で、こっちは長年やってる趣味なんだとか。
「昼休みとはいえ業務時間中だし、明るいうちからこんな話するの、自分でも恥ずかしいんだけど、早めに言わないと日和っちゃいそうで」
そのコーヒー、ミルクも砂糖もとっくに混ざりきってるよ、なんて言わない。サンドイッチをゆっくり食べる僕に対し、ランチメニューのナポリタン(サラダ付き)をぺろりと平らげた楓ちゃんの視線は、さっきからずーっとコーヒーに注がれてる。せっかくのランチデートなんだから、ちょっとくらい恋人の僕を見てくれてもよくない? でも、勇気を出して誘ってくれたのがわかるから、その言葉も飲み込んだ。さっきから、反射的に出そうな言葉を飲み込んでばかりだ。
「お誘いありがとう。じゃあ、今日は定時で終わろうね。もちろん、持ち帰って仕事するのも禁止。主任ちゃんの頑張り屋さんなところは素敵だけど、この前もそれで肩こりに悩んでたでしょ」
仕事に熱中し過ぎて残業しちゃうみたいなんだよね。まぁ、僕も、アテンドアプリの改修とか新機能追加に取り掛かったときは、楽しさもあって遅くまで残っちゃうんだけど。
◇
いつもは、楓ちゃんの部屋を訪ねたら、ベッドに並んで腰掛けて、その日あったことや今クールのドラマの展開予想なんかを話したり、千弥の配信日だったときは一緒に見たりしつつ、言葉数が減ってきたらキスをして、最近は、時間が許せば少しだけ触りっこ。そのあとは「おやすみ」の言葉で、僕は部屋に戻るのが〝お決まり〟になってる。それが、今夜はお風呂も一緒だなんて。
「この前、僕からの誘いで一緒に入ったときは、恥ずかしがって大騒ぎしてたのに」
「今だって恥ずかしいよ」
今回も、体を洗うときは「あっち向いてて」なんて言われたけど、今は湯船で窮屈に並んでる。窮屈っていっても僕は残念ながら小柄だし、僕より背の高い楓ちゃんも体が引き締まってて細いから、ふたりとも膝を抱えてるのがなんだか格好つかないってだけ。僕の背が高かったら、楓ちゃんを後ろから抱き締めて湯船に浸かるのにな。想像したら悔しくなって、楓ちゃんの肩に寄りかかった。
「え、もうのぼせちゃった?」
「まさか。恋人とお風呂に入ってるのに、肩も触れない距離なんて、さみしいでしょ」
乳白色のバスソルトは完全に溶けきって、せっかくの裸なのに鎖骨あたりから下がなんにも見えないんだけど、たぶん、これは恥ずかしがりのこの子がそれでも僕をお風呂に誘うために必要だったものなんだ。そういうところ、すごくかわいいなって思う。
じっと見つめると、楓ちゃんは短く呻いてから、瞼を閉じてくれた。キスしたいなぁの合図に気付いてくれるようになったのって、すごく大きな進歩だよね。
「口、開けて」
吐息とともにお願いすると、楓ちゃんは口を開けて少しだけ舌をのぞかせてくれる。初めて深いキスをした時は僕が舌を捩じ込まなきゃならなかったのに、本当、キスが好きなんだから。
「は、ん……っ」
楓ちゃんの両頬を包んでこっちを向かせて、わざと濡れた音を立てて口のなかを舐る。上顎を舌先でかわいがると、楓ちゃんが体を派手に跳ねさせたんだろう、目を閉じてても水面が揺れるのがわかった。
「んぁ、あ、かふ、っ……」
名前を呼ぶより、キスに集中してほしい。でも、大好きな子に名前を呼ばれるのは嬉しいから、キスしてないときにたくさん呼んでもらおうっと。
頬から首筋、肩……と、手を滑らせる。もちろん、目的地は別のところ。特にここはなんとも思わないなんて言ってたのは、触りっこをするようになってから、いつまでだったっけ。
「ん……」
眠る前に戯れるたび、キスをしながら服の上から触ってた成果が、今夜もちゃんと発揮されてる。だって、水面の揺れがさっきより強くなった。
「……ここ、好きになってきたね?」
くちびるを離して、至近距離のまま、顔を覗き込む。楓ちゃんの瞳はうるうるして、ちょっとつつけば涙がこぼれちゃいそうだ。
「可不可が、触るせいだよ……」
嬉しい。なんともないなんて言ってたのに、僕のせいで変わっちゃったんだ。本当はもっとあちこち甘やかしてあげたいけど、あまりやり過ぎるとふたりとも大変なことになりそうだから、今夜はここまでかな。
ぱっと手を離して、さっきまでと同じように肩を並べて膝を抱えるスタイルに戻ったら、楓ちゃんがあからさまに「えっ」て顔をした。
「どうしたの?」
「ううん、なんでも、……なくはない。いきなりやめるから」
「なに? もっとしていいなら、遠慮しないよ?」
「い、今はここまでで」
許してほしい、って言われた。今じゃないときって、いつのことを指してるんだろ。別の日? それとも、このあと? 少しずつ積極的になってきた楓ちゃんがかわいくて、つい、体を寄せてしまう。でも、好きな子に「許して」って言われたら、僕はちゃんと聞くよ。
「ね、楓ちゃんのこと抱っこしてみたいな」
「えぇ……?」
「お願い、ちょっとだけ」
「わっ」
楓ちゃんの腰に手を伸ばして、浮力を借りて、あっという間に僕の上に跨がらせる。ほら、全然重くない。楓ちゃんの体がきれいに引き締まってて細いおかげでもある。
「か、可不可」
「一度でいいから、この体勢でくっついてみたかったんだよね」
いつもは僕が甘えて楓ちゃんの膝の上に乗ってるんだけど、正直、格好つかないなって思ってるんだ。僕だって、かわいい恋人を膝の上に乗せて甘やかしてみたい。
「ふふ、すっごくどきどき鳴ってる」
僕よりも速いんじゃない? このどきどきも僕のせいなんだよね。本当、嬉しいなぁ。ずーっと、僕ばっかりどきどきしてきたから。楓ちゃんの気持ちがちょっとずつ僕に追いついてきてくれてる証だって、思っていいんだよね。
「はぁ、癒される……」
「本当?」
「うん」
鼓膜を揺らす音は相変わらずの速さだけど、あったかいお湯に浸かって、大好きな子を抱き締める、くつろぎバスタイム。元々、肩こりはそんなに感じないほうだけど、楓ちゃんとくっついてるだけで、疲れなんて吹き飛んじゃうよ。
「そっか、よかった。……可不可、最近遅くまで仕事してて、疲れてるだろうなって思ってたから。一階のお風呂のほうが広いけど、みんながいるとそこまでだらけられないでしょ。俺なら、可不可がどんなにだらーんってしてても平気だし、遠慮しなくていいから」
確かに、他のひとたちの前でここまでぼんやりはできない。社長だし、0区長だし、みんなをまとめる立場でいなきゃって意識が常にある。でも――
「僕は楓ちゃんの前だからこそ、常に格好よくいたいんだけど」
――恋人の前だからってだらしないところは絶対に見せたくない。僕がこの子にずっとどきどきしてきたように、この子にも、僕にずっとどきどきしててほしいんだ。家族みたいに落ち着く穏やかな愛もほしいけど、お互いに触れずにはいられないような恋のときめきも抱えたままがいい。
「言ったでしょ、可不可はずっと格好いいって」
楓ちゃんのくちびるが額に押し当てられた。格好いいって言ってくれるわりには、その顔に「かわいい」って書いてあって、ちょっと悔しい。
「格好いいって思うなら、こっちにもしてよ」
くちびるを突き出すと、楓ちゃんの頬がぽぽぽと染まる。困らせちゃったかな、でも、楓ちゃんが弱いであろう〝あざとい〟顔でおねだりしたから、聞いてくれるはず。
「ちょっとだけだよ」
今度は楓ちゃんが僕の両頬を包むように手を添えて、下唇を吸うようなキスをしてくれた。くちびるをむぎゅっと押し付けられるつもりでいたから、こんなに色っぽくキスしてくれるなんて思ってなくて、正直、びっくり。あぁ、まずいな。
「……っ! 可不可、えっと」
「言わないで。さすがにこんなところで手は出さないから。僕こそ許して」
「う、うん。なんか……ごめんね」
先にキスしておいてなにを今更って感じだけど、約束は守りたい。
かたく目を閉じて、ゆっくりと息を吐き出す。大丈夫、この子のことは一生大事にするって決めてるから、理性を失うようなことは絶対にしない。寮でするのは触りっこまで、お風呂場はのぼせちゃうから触りっこしない。いつか最後までするときがきたら、ここじゃなくて、もっとちゃんとふたりきりになれるところにお泊まりする。――楓ちゃんとふたりで話して、そう決めたんだから。
「……ちょっと取り乱して、僕こそごめんね。そろそろ出ようか。お風呂に時間をかけ過ぎると、ふたりとものぼせちゃうし」
僕にゆっくり過ごしてほしいっていう楓ちゃんの気持ちを思えば、これくらい、なんてことない。
「ありがとう。でも、あの」
楓ちゃんの視線がうろうろして、ぴんときた。なるほど、体を洗うときだって大騒ぎしてたし、湯船から出るのだって見られるのを恥ずかしがってもおかしくないよね。前もそうだった。
「僕は先に出るから、楓ちゃんのタイミングでいいよ。でも、さみしいから早く出てきてほしいな」
楓ちゃんの頬に音を立ててキスをする。うん、いつもの調子に戻れた。……これくらいでさみしがるわけないんだけど、お風呂でのぼせたらどうしようって心配になるから、いつまでもここにこもられると困るのは本当。それに、恋人との時間は一秒だって長く顔を見ていたい。
脱衣所で寝間着に袖を通して、楓ちゃんのベッドに腰掛ける。前に一緒にお風呂に入ったときはちょっと盛り上がっちゃって、髪を乾かす余裕すらないまま、ここで触りっこしたんだよね。今夜は、どうかな。なんだかドライヤーの音が聞こえてきたから、楓ちゃんはもう落ち着いてるのかも。僕も自分のドライヤーを持ってくればよかったな。楓ちゃんをお風呂場に長居させたくなくて、髪も乾かさずにこっちに来ちゃった。――そんなことを考えながら、タオルに髪の水分を吸わせてると、しっかりばっちり髪を乾かし終えた楓ちゃんが来た。
「今日、可不可を誘ったの、これもしたくて」
楓ちゃんは手のひらにヘアオイルを出すと、僕の背後に回って指先で髪を梳いてくれた。
「……楓ちゃんの香りだ」
「その言い方は恥ずかしいかな……」
前にシャンプーを借りても、なんかちょっと違ったんだよね。これかぁと、ベッドの上に転がされたボトルを手に取る。したかったって、僕の髪を手入れすること? それとも、同じ香りを身にまとうこと?
「同じ香りだなんて、僕たちのこと、みんなに知られるかもね」
楓ちゃんの手が止まった。あれ? まさか、そこまで考えてなかった?
「……照れくさいだけで、なにがなんでも隠したいわけじゃないよ。それに、俺にだって」
そこまで言うと、楓ちゃんは言葉も止めた。もしかしてと思って振り向いたら、やっぱり、頬を赤くしてなにかを言い淀んでる。
「俺だって、なに?」
「〜〜っ、俺だって、可不可は俺の恋人だって世界中に言いたい気分になるときがあるんだよ! ……実際に〝じゃあどうぞ〟って言われても、絶対にやらないけど!」
楓ちゃんが照れを誤魔化すみたいにドライヤーのスイッチを入れるものだから、思わず笑っちゃった。熱風じゃ、照れなんて追い払えないよ。
ほんの数ヵ月前まで僕の片想いだったのがうそみたい。十年以上もの期間をそんな短い言葉で切り捨てるつもりはないけど、そう感じるくらいには、楓ちゃんに恋してもらえてるんだって自信が持てるようになった。もっと好きになって、僕の気持ちまで追いついてほしい。
「僕はいつだって、世界中に言いふらしてくれてもいいって思ってるのに」
ドライヤーの音が止むのを待ってそう返す。ヘアブラシで整えられながらこっそり香りを確かめた。うん、楓ちゃんと同じ香りだ。シャンプーとヘアオイル、僕も同じのにしようかな。あ、一緒に使いたいって口実で、楓ちゃんとのくつろぎバスタイムを増やすっていうのもよさそう。
「そういうわけにもいかないよ。HAMAツアーズのみんなにならまだいいとしても、いや、それもだいぶ恥ずかしいから困るけど、社外にまで知られるのはちょっと」
「どうして?」
僕だって、わざわざ言いふらす趣味はないけど、純粋に気になった。顔見知りじゃないひとにまで気を遣う真意が知りたい。
「だって、可不可は0区長兼社長で有名だし、この前のツアーでも可不可のファンだってひとがたくさんいたから、スキャンダル……スキャンダルじゃないな、なんていうか……可不可みたいに格好いいひとに恋人がいて、しかもそれがザ・凡人の俺って知ったら、がっかりするお客さんがいるだろうなって」
そこまで言うと、楓ちゃんが後ろから抱き着いてきた。付き合うまでは、楓ちゃんが僕に対して弱音を吐いたり甘えたりするなんて天地がひっくり返ってもなかったのに、今は普通にそうできちゃうくらい、僕に心を委ねてくれてるんだ。旅が好きで仕事を頑張っててきらきらしてるところも格好よくて大好きだけど、こんなふうに甘えてくれるのも、すごくかわいくていいな。もっと好きになってほしいのに、僕のほうがどんどん沼ってくのを感じる。
「楓ちゃんは凡人じゃないよ。僕が言うんだから間違いない。それに」
楓ちゃんの髪を撫でる。指で梳いて、毛先で少し遊んで、また、同じことをする。くすぐったいのか、楓ちゃんが身じろいだ。あのね、これも、キスしたいって合図だよ。
「僕は大切なひとがいること、メディアからの取材でも全然隠してないしね。でも、楓ちゃんが好奇の目にさらされるのは絶対に回避したいから、僕が今以上に細かく話すつもりはないよ。楓ちゃんが世界中に向けて大声で言いたくなったらいつでも付き合うけど」
残念、この合図はまだ通じなかったみたい。僕から身を捩って、楓ちゃんのくちびるの端にくちづける。そこでやっと合図だったって気付いたのか、楓ちゃんからはちゃんとくちびるにお返しをくれた。
「かふ、……っ」
ベッドの上に乗り上げて、楓ちゃんに覆い被さった。こんなに簡単に押し倒されちゃって、いくら僕が約束を守る男だからって、気を許し過ぎだよ。許されてる範囲内で全力出す性格だって、誰よりも知ってるくせに。
「ん、んっ……」
歯列を辿ったり、上顎をくすぐったり、濡れた音を立てて楓ちゃんの口のなかを堪能する。でも、楓ちゃんも負けず嫌いなところがあって、いつまでも僕にされっぱなしってわけじゃない。必死で僕の舌をつかまえて、吸って、息継ぎの合間に色っぽい吐息を漏らしてる。その色香にたまらなくなって、熱くなったところを、同じように熱くなってる楓ちゃんのそこに押し付けてゆるく腰をまわした。
「あっ、んん、ん……」
「ね、今夜、どうする?」
期待はしてるけど、なんとなく、今夜はそこまでの気分じゃなさそう。このまま押せば「いいよ」って言ってくれるだろうけど――
「今夜……は、その……」
――珍しく楓ちゃんから誘ってくれたってことは、この子なりのプランがあるはずだから、それに合わせたい。
「僕のこと誘って、一緒にお風呂に入って、髪を乾かして……、それでも、いつもの寝る時間まではまだちょっと時間の余裕がある。楓ちゃんが今夜したかったこと、全部教えて」
ねぇ、お願い。――耳に吹き込むようにお願いすると、楓ちゃんはぴくっと肩を跳ねさせた。いちゃいちゃするようになってわかったけど、この子は僕の声に弱いみたい。あと、耳もすごく敏感。
「……したいことがあるから、触りっこは今夜はなしって言っても、怒らない? もう言っちゃったけど」
「怒らないよ。したいことって?」
ふたりで映画を観るでも、仕事の話でも、なんでもいい。映画だと夜更かしになっちゃうか。
「可不可が俺のこと大事にしてくれるの、すごく嬉しい。最初に話し合って、ここでは最後までしないって約束して、それを守ろうとしてくれるのも、すごいなって思う」
楓ちゃんの視線は自分の握りこぶしに集中してるみたい。そうなるくらい、照れて、緊張してるんだろう。力が入り過ぎてる楓ちゃんの手に触れる。
一度顔を上げてこっちを見てくれたけど、また、元のところに戻った。どうしたらすんなり話してくれるかな。触れ合いにはちょっとずつ積極的になってきたけど、自分の希望を言葉にすることにはまだまだ照れてる。かわいくて、愛おしくて、思わず抱き締めてしまった。
「あのね、可不可。今夜、ここに……泊まってほしい」
「……」
背中に汗が滲んだ。急速に喉が渇いて、うまく言葉が出ない。返す言葉がすぐに見つからないのもある。
「こんなに優しくされたあとに可不可が部屋に戻るの見送ると、もっと一緒にいたかったなって……前よりも強く思うようになったんだ。それに、初めての泊まりは外って話もしてたけど、そういうことをする日が初めての泊まりなんて、想像しただけで恥ずかしくてどうにかなりそうで」
少しずつ慣れたい。――楓ちゃんの声が震えた。抱き締める腕に力をこめる。そうだ、大切な日は誰にも気兼ねなく楓ちゃんを大事に甘やかしたいって決めてたけど、ひと晩中ふたりきりってことに楓ちゃんの気持ちがちゃんと追いつくか、考えてあげられてなかった。
「……いいよ。朝までここにいる」
「もしかしたら、朝まで可不可が寅部屋にいなかったとか、ここからふたりで出てきたとか、思われるかもしれないけど」
「そのときはそのときだよ。僕たちの関係は恥ずべきことじゃない。悪いこともしてない。僕が楓ちゃんのことをずっと好きで、楓ちゃんがそれに応えてくれた、それだけでしょ」
楓ちゃんがきょとんとした。そのあと、ふっと笑う。あのね、僕たちは幼馴染みだから大抵のことはわかるようになっちゃったけど、全部を完璧には察知できないから、言葉にして教えてほしいんだ。迷ったら一緒に答えを探すし、さみしいなら一緒にいる。そのための僕なんだから。
「ありがとう、可不可」
「ううん、僕こそ。楓ちゃんが少しずつ慣れたいって言ってくれてたのに、慎重になり過ぎてたね」
少しだけ体を離して見つめ合う。キスも触れ合いも好きだけど、このあとはただ眠るだけっていうのも、想像したらどきどきしてきた。
「本当は、さっき、お風呂のときに言いたかったんだけど、照れちゃって」
もしかして、裸を見られるの恥ずかしがるだろうなって思って僕が先に出たときのことかな。つまり、楓ちゃんが照れ屋で恥ずかしがりだからって、僕が早合点してたってこと?
「そっか、ありがとう。教えてくれて」
楓ちゃんが部屋の灯りを落とす。もう寝ちゃうのかな。まだ眠くないんだけどな。
「普段の寝る時間よりちょっと早いけど、俺たちのことだからすぐに寝付けないかもしれないし」
いつまでもベッドに乗り上げてちゃ、布団のなかに入れない。傍から見たらちょっと格好悪い動作だけど、ベッドから下りて、楓ちゃんが布団をめくってくれるのをじっと眺めた。
「……昔、可不可の病室でも一緒に寝たことあったよね」
情けないことに、一度だけ、楓ちゃんがいなきゃ寝たくないなんてわがままを言ったことがある。
「僕が騒ぎ疲れて寝た隙に帰っちゃった日のことでしょ」
「そうだね。面会時間もあったけど、あの頃は俺たちふたりとも子どもで、自分の行動に責任なんて取れなかった。可不可に会いたいなって思っても、親の都合で海外にいて電話すら満足にできなかったことも普通にたくさんあって……早く大人になりたいって、思ってた」
楓ちゃんに手を引かれて、僕が壁に近いほうに、楓ちゃんは手前に寝転ぶ。どちらからともなく、向かい合わせになった。……本当は、楓ちゃんを壁に近いほうに寝かせて、万が一にも落っこちないように僕が守りたいのに。
「俺たち、もう大人なんだよね。こうやって、ひと晩中ふたりきりで過ごすのだってできるんだ」
可不可はまだ泊まりは早いって思ってたみたいだけど。――楓ちゃんが頬を染めて笑う。そうだよ、誰よりも大事だから、慎重になって当然でしょ。一生大事にするって、片想いだった頃から決めてたくらいだし。
心のなかでひそかにむっとしてたら、楓ちゃんの手が伸びてきて、ベッドのなかで抱き締められた。
「つい照れくさくて騒いじゃうけど、これからは、今日みたいに、したいこと言うようにする。俺だって可不可のこと捕まえてたいんだ」
「したいこと……」
「今夜は一緒に寝るのが目的だから、あんまりむらむらすることはもう許してほしいんだけど、キ、キスは、したいな……って、思ってる」
びっくりした。楓ちゃんの口から〝むらむら〟なんて言葉が出るなんて。ううん、何度か触りっこしたし、そういう欲があるのはお互いわかってる。でも、直接的な言葉で表現されたことはなかったから、楓ちゃんってそういう言葉も使うんだって、正直、腰の奥にちょっとだけ響いちゃった。
「キスしたら、どきどきしちゃわない?」
「軽いのならたぶん平気、っ、ん、んん……」
「意地っ張り。でも、そこもかわいい、……好きだよ」
「んん、んーっ……ん、ん……」
何度もくちびるを押し当てた。ベッドのなかでくっついて「キスしたい」なんて言われて、それでも舌を入れない理性が残ってる僕って、すごくない? くちびるにばかりキスしてたら僕こそどうにかなりそうで、隙をつくみたいに抱き締められた体勢から抜け出して、楓ちゃんに馬乗りになって顔中にくちづける。
「〜〜っ、ストップ、ストップ!」
「これでも、朝まで僕と一緒にいてくれるの?」
くちびるを押し当ててただけでも楓ちゃんがどきどきしちゃったことには当然気付いたから、わざとそう訊いてみた。
「……いてほしい。今夜は、可不可がいなきゃ寝たくないよ」
昔の僕をなぞった言葉なのに、僕たちの関係はあの頃よりもっと深いものになった。それがすごく嬉しくて、許してくれるぎりぎりまでくっつきたいのに、楓ちゃんの言うことを聞いちゃうんだから、本当、惚れた弱みってこういうことだよね。
「朝までいるよ。今夜だけじゃない、一緒にいたいときはいつでも教えて」
ベッドのなかで楓ちゃんに体を寄せる。明日の朝、誰より最初に「おはよう」を言い合えるの、すごく楽しみだな。
〝今夜、部屋に来れる?〟――恋人になってからも僕が押せ押せの姿勢だったから、そんなふうに言われて、思わず、自分の耳を疑った。反射的に聞き返して「やっぱりなし」なんてことにならないよう、恋愛において超がつくほど恥ずかしがり屋なこの子の気が変わらないうちに、もちろん大丈夫だよって即答した。ちょっと食い気味に答えちゃってたかも。
でも、ほとんど毎日、眠る前の時間を一緒に過ごしたくてキミの部屋に行ってるのに。そう思ったのが顔に出てたのか〝タオルと着替えも持ってきて〟って言葉が続いた。
「それって」
いつもは買ってきたお弁当を社内で食べる楓ちゃんからのランチデートのお誘いで来たのは、会社から歩いて十分くらいの路地裏にある喫茶店。レトい雰囲気で昔は人気だったらしいけど、店主が高齢で不定期営業になったこともあって、最近じゃ穴場になってる。今だって、お昼どきなのに僕たちしかいない。僕以上にここに来てる楓ちゃんが小耳に挟んだ情報によると、若い頃から本業は投資家で、こっちは長年やってる趣味なんだとか。
「昼休みとはいえ業務時間中だし、明るいうちからこんな話するの、自分でも恥ずかしいんだけど、早めに言わないと日和っちゃいそうで」
そのコーヒー、ミルクも砂糖もとっくに混ざりきってるよ、なんて言わない。サンドイッチをゆっくり食べる僕に対し、ランチメニューのナポリタン(サラダ付き)をぺろりと平らげた楓ちゃんの視線は、さっきからずーっとコーヒーに注がれてる。せっかくのランチデートなんだから、ちょっとくらい恋人の僕を見てくれてもよくない? でも、勇気を出して誘ってくれたのがわかるから、その言葉も飲み込んだ。さっきから、反射的に出そうな言葉を飲み込んでばかりだ。
「お誘いありがとう。じゃあ、今日は定時で終わろうね。もちろん、持ち帰って仕事するのも禁止。主任ちゃんの頑張り屋さんなところは素敵だけど、この前もそれで肩こりに悩んでたでしょ」
仕事に熱中し過ぎて残業しちゃうみたいなんだよね。まぁ、僕も、アテンドアプリの改修とか新機能追加に取り掛かったときは、楽しさもあって遅くまで残っちゃうんだけど。
◇
いつもは、楓ちゃんの部屋を訪ねたら、ベッドに並んで腰掛けて、その日あったことや今クールのドラマの展開予想なんかを話したり、千弥の配信日だったときは一緒に見たりしつつ、言葉数が減ってきたらキスをして、最近は、時間が許せば少しだけ触りっこ。そのあとは「おやすみ」の言葉で、僕は部屋に戻るのが〝お決まり〟になってる。それが、今夜はお風呂も一緒だなんて。
「この前、僕からの誘いで一緒に入ったときは、恥ずかしがって大騒ぎしてたのに」
「今だって恥ずかしいよ」
今回も、体を洗うときは「あっち向いてて」なんて言われたけど、今は湯船で窮屈に並んでる。窮屈っていっても僕は残念ながら小柄だし、僕より背の高い楓ちゃんも体が引き締まってて細いから、ふたりとも膝を抱えてるのがなんだか格好つかないってだけ。僕の背が高かったら、楓ちゃんを後ろから抱き締めて湯船に浸かるのにな。想像したら悔しくなって、楓ちゃんの肩に寄りかかった。
「え、もうのぼせちゃった?」
「まさか。恋人とお風呂に入ってるのに、肩も触れない距離なんて、さみしいでしょ」
乳白色のバスソルトは完全に溶けきって、せっかくの裸なのに鎖骨あたりから下がなんにも見えないんだけど、たぶん、これは恥ずかしがりのこの子がそれでも僕をお風呂に誘うために必要だったものなんだ。そういうところ、すごくかわいいなって思う。
じっと見つめると、楓ちゃんは短く呻いてから、瞼を閉じてくれた。キスしたいなぁの合図に気付いてくれるようになったのって、すごく大きな進歩だよね。
「口、開けて」
吐息とともにお願いすると、楓ちゃんは口を開けて少しだけ舌をのぞかせてくれる。初めて深いキスをした時は僕が舌を捩じ込まなきゃならなかったのに、本当、キスが好きなんだから。
「は、ん……っ」
楓ちゃんの両頬を包んでこっちを向かせて、わざと濡れた音を立てて口のなかを舐る。上顎を舌先でかわいがると、楓ちゃんが体を派手に跳ねさせたんだろう、目を閉じてても水面が揺れるのがわかった。
「んぁ、あ、かふ、っ……」
名前を呼ぶより、キスに集中してほしい。でも、大好きな子に名前を呼ばれるのは嬉しいから、キスしてないときにたくさん呼んでもらおうっと。
頬から首筋、肩……と、手を滑らせる。もちろん、目的地は別のところ。特にここはなんとも思わないなんて言ってたのは、触りっこをするようになってから、いつまでだったっけ。
「ん……」
眠る前に戯れるたび、キスをしながら服の上から触ってた成果が、今夜もちゃんと発揮されてる。だって、水面の揺れがさっきより強くなった。
「……ここ、好きになってきたね?」
くちびるを離して、至近距離のまま、顔を覗き込む。楓ちゃんの瞳はうるうるして、ちょっとつつけば涙がこぼれちゃいそうだ。
「可不可が、触るせいだよ……」
嬉しい。なんともないなんて言ってたのに、僕のせいで変わっちゃったんだ。本当はもっとあちこち甘やかしてあげたいけど、あまりやり過ぎるとふたりとも大変なことになりそうだから、今夜はここまでかな。
ぱっと手を離して、さっきまでと同じように肩を並べて膝を抱えるスタイルに戻ったら、楓ちゃんがあからさまに「えっ」て顔をした。
「どうしたの?」
「ううん、なんでも、……なくはない。いきなりやめるから」
「なに? もっとしていいなら、遠慮しないよ?」
「い、今はここまでで」
許してほしい、って言われた。今じゃないときって、いつのことを指してるんだろ。別の日? それとも、このあと? 少しずつ積極的になってきた楓ちゃんがかわいくて、つい、体を寄せてしまう。でも、好きな子に「許して」って言われたら、僕はちゃんと聞くよ。
「ね、楓ちゃんのこと抱っこしてみたいな」
「えぇ……?」
「お願い、ちょっとだけ」
「わっ」
楓ちゃんの腰に手を伸ばして、浮力を借りて、あっという間に僕の上に跨がらせる。ほら、全然重くない。楓ちゃんの体がきれいに引き締まってて細いおかげでもある。
「か、可不可」
「一度でいいから、この体勢でくっついてみたかったんだよね」
いつもは僕が甘えて楓ちゃんの膝の上に乗ってるんだけど、正直、格好つかないなって思ってるんだ。僕だって、かわいい恋人を膝の上に乗せて甘やかしてみたい。
「ふふ、すっごくどきどき鳴ってる」
僕よりも速いんじゃない? このどきどきも僕のせいなんだよね。本当、嬉しいなぁ。ずーっと、僕ばっかりどきどきしてきたから。楓ちゃんの気持ちがちょっとずつ僕に追いついてきてくれてる証だって、思っていいんだよね。
「はぁ、癒される……」
「本当?」
「うん」
鼓膜を揺らす音は相変わらずの速さだけど、あったかいお湯に浸かって、大好きな子を抱き締める、くつろぎバスタイム。元々、肩こりはそんなに感じないほうだけど、楓ちゃんとくっついてるだけで、疲れなんて吹き飛んじゃうよ。
「そっか、よかった。……可不可、最近遅くまで仕事してて、疲れてるだろうなって思ってたから。一階のお風呂のほうが広いけど、みんながいるとそこまでだらけられないでしょ。俺なら、可不可がどんなにだらーんってしてても平気だし、遠慮しなくていいから」
確かに、他のひとたちの前でここまでぼんやりはできない。社長だし、0区長だし、みんなをまとめる立場でいなきゃって意識が常にある。でも――
「僕は楓ちゃんの前だからこそ、常に格好よくいたいんだけど」
――恋人の前だからってだらしないところは絶対に見せたくない。僕がこの子にずっとどきどきしてきたように、この子にも、僕にずっとどきどきしててほしいんだ。家族みたいに落ち着く穏やかな愛もほしいけど、お互いに触れずにはいられないような恋のときめきも抱えたままがいい。
「言ったでしょ、可不可はずっと格好いいって」
楓ちゃんのくちびるが額に押し当てられた。格好いいって言ってくれるわりには、その顔に「かわいい」って書いてあって、ちょっと悔しい。
「格好いいって思うなら、こっちにもしてよ」
くちびるを突き出すと、楓ちゃんの頬がぽぽぽと染まる。困らせちゃったかな、でも、楓ちゃんが弱いであろう〝あざとい〟顔でおねだりしたから、聞いてくれるはず。
「ちょっとだけだよ」
今度は楓ちゃんが僕の両頬を包むように手を添えて、下唇を吸うようなキスをしてくれた。くちびるをむぎゅっと押し付けられるつもりでいたから、こんなに色っぽくキスしてくれるなんて思ってなくて、正直、びっくり。あぁ、まずいな。
「……っ! 可不可、えっと」
「言わないで。さすがにこんなところで手は出さないから。僕こそ許して」
「う、うん。なんか……ごめんね」
先にキスしておいてなにを今更って感じだけど、約束は守りたい。
かたく目を閉じて、ゆっくりと息を吐き出す。大丈夫、この子のことは一生大事にするって決めてるから、理性を失うようなことは絶対にしない。寮でするのは触りっこまで、お風呂場はのぼせちゃうから触りっこしない。いつか最後までするときがきたら、ここじゃなくて、もっとちゃんとふたりきりになれるところにお泊まりする。――楓ちゃんとふたりで話して、そう決めたんだから。
「……ちょっと取り乱して、僕こそごめんね。そろそろ出ようか。お風呂に時間をかけ過ぎると、ふたりとものぼせちゃうし」
僕にゆっくり過ごしてほしいっていう楓ちゃんの気持ちを思えば、これくらい、なんてことない。
「ありがとう。でも、あの」
楓ちゃんの視線がうろうろして、ぴんときた。なるほど、体を洗うときだって大騒ぎしてたし、湯船から出るのだって見られるのを恥ずかしがってもおかしくないよね。前もそうだった。
「僕は先に出るから、楓ちゃんのタイミングでいいよ。でも、さみしいから早く出てきてほしいな」
楓ちゃんの頬に音を立ててキスをする。うん、いつもの調子に戻れた。……これくらいでさみしがるわけないんだけど、お風呂でのぼせたらどうしようって心配になるから、いつまでもここにこもられると困るのは本当。それに、恋人との時間は一秒だって長く顔を見ていたい。
脱衣所で寝間着に袖を通して、楓ちゃんのベッドに腰掛ける。前に一緒にお風呂に入ったときはちょっと盛り上がっちゃって、髪を乾かす余裕すらないまま、ここで触りっこしたんだよね。今夜は、どうかな。なんだかドライヤーの音が聞こえてきたから、楓ちゃんはもう落ち着いてるのかも。僕も自分のドライヤーを持ってくればよかったな。楓ちゃんをお風呂場に長居させたくなくて、髪も乾かさずにこっちに来ちゃった。――そんなことを考えながら、タオルに髪の水分を吸わせてると、しっかりばっちり髪を乾かし終えた楓ちゃんが来た。
「今日、可不可を誘ったの、これもしたくて」
楓ちゃんは手のひらにヘアオイルを出すと、僕の背後に回って指先で髪を梳いてくれた。
「……楓ちゃんの香りだ」
「その言い方は恥ずかしいかな……」
前にシャンプーを借りても、なんかちょっと違ったんだよね。これかぁと、ベッドの上に転がされたボトルを手に取る。したかったって、僕の髪を手入れすること? それとも、同じ香りを身にまとうこと?
「同じ香りだなんて、僕たちのこと、みんなに知られるかもね」
楓ちゃんの手が止まった。あれ? まさか、そこまで考えてなかった?
「……照れくさいだけで、なにがなんでも隠したいわけじゃないよ。それに、俺にだって」
そこまで言うと、楓ちゃんは言葉も止めた。もしかしてと思って振り向いたら、やっぱり、頬を赤くしてなにかを言い淀んでる。
「俺だって、なに?」
「〜〜っ、俺だって、可不可は俺の恋人だって世界中に言いたい気分になるときがあるんだよ! ……実際に〝じゃあどうぞ〟って言われても、絶対にやらないけど!」
楓ちゃんが照れを誤魔化すみたいにドライヤーのスイッチを入れるものだから、思わず笑っちゃった。熱風じゃ、照れなんて追い払えないよ。
ほんの数ヵ月前まで僕の片想いだったのがうそみたい。十年以上もの期間をそんな短い言葉で切り捨てるつもりはないけど、そう感じるくらいには、楓ちゃんに恋してもらえてるんだって自信が持てるようになった。もっと好きになって、僕の気持ちまで追いついてほしい。
「僕はいつだって、世界中に言いふらしてくれてもいいって思ってるのに」
ドライヤーの音が止むのを待ってそう返す。ヘアブラシで整えられながらこっそり香りを確かめた。うん、楓ちゃんと同じ香りだ。シャンプーとヘアオイル、僕も同じのにしようかな。あ、一緒に使いたいって口実で、楓ちゃんとのくつろぎバスタイムを増やすっていうのもよさそう。
「そういうわけにもいかないよ。HAMAツアーズのみんなにならまだいいとしても、いや、それもだいぶ恥ずかしいから困るけど、社外にまで知られるのはちょっと」
「どうして?」
僕だって、わざわざ言いふらす趣味はないけど、純粋に気になった。顔見知りじゃないひとにまで気を遣う真意が知りたい。
「だって、可不可は0区長兼社長で有名だし、この前のツアーでも可不可のファンだってひとがたくさんいたから、スキャンダル……スキャンダルじゃないな、なんていうか……可不可みたいに格好いいひとに恋人がいて、しかもそれがザ・凡人の俺って知ったら、がっかりするお客さんがいるだろうなって」
そこまで言うと、楓ちゃんが後ろから抱き着いてきた。付き合うまでは、楓ちゃんが僕に対して弱音を吐いたり甘えたりするなんて天地がひっくり返ってもなかったのに、今は普通にそうできちゃうくらい、僕に心を委ねてくれてるんだ。旅が好きで仕事を頑張っててきらきらしてるところも格好よくて大好きだけど、こんなふうに甘えてくれるのも、すごくかわいくていいな。もっと好きになってほしいのに、僕のほうがどんどん沼ってくのを感じる。
「楓ちゃんは凡人じゃないよ。僕が言うんだから間違いない。それに」
楓ちゃんの髪を撫でる。指で梳いて、毛先で少し遊んで、また、同じことをする。くすぐったいのか、楓ちゃんが身じろいだ。あのね、これも、キスしたいって合図だよ。
「僕は大切なひとがいること、メディアからの取材でも全然隠してないしね。でも、楓ちゃんが好奇の目にさらされるのは絶対に回避したいから、僕が今以上に細かく話すつもりはないよ。楓ちゃんが世界中に向けて大声で言いたくなったらいつでも付き合うけど」
残念、この合図はまだ通じなかったみたい。僕から身を捩って、楓ちゃんのくちびるの端にくちづける。そこでやっと合図だったって気付いたのか、楓ちゃんからはちゃんとくちびるにお返しをくれた。
「かふ、……っ」
ベッドの上に乗り上げて、楓ちゃんに覆い被さった。こんなに簡単に押し倒されちゃって、いくら僕が約束を守る男だからって、気を許し過ぎだよ。許されてる範囲内で全力出す性格だって、誰よりも知ってるくせに。
「ん、んっ……」
歯列を辿ったり、上顎をくすぐったり、濡れた音を立てて楓ちゃんの口のなかを堪能する。でも、楓ちゃんも負けず嫌いなところがあって、いつまでも僕にされっぱなしってわけじゃない。必死で僕の舌をつかまえて、吸って、息継ぎの合間に色っぽい吐息を漏らしてる。その色香にたまらなくなって、熱くなったところを、同じように熱くなってる楓ちゃんのそこに押し付けてゆるく腰をまわした。
「あっ、んん、ん……」
「ね、今夜、どうする?」
期待はしてるけど、なんとなく、今夜はそこまでの気分じゃなさそう。このまま押せば「いいよ」って言ってくれるだろうけど――
「今夜……は、その……」
――珍しく楓ちゃんから誘ってくれたってことは、この子なりのプランがあるはずだから、それに合わせたい。
「僕のこと誘って、一緒にお風呂に入って、髪を乾かして……、それでも、いつもの寝る時間まではまだちょっと時間の余裕がある。楓ちゃんが今夜したかったこと、全部教えて」
ねぇ、お願い。――耳に吹き込むようにお願いすると、楓ちゃんはぴくっと肩を跳ねさせた。いちゃいちゃするようになってわかったけど、この子は僕の声に弱いみたい。あと、耳もすごく敏感。
「……したいことがあるから、触りっこは今夜はなしって言っても、怒らない? もう言っちゃったけど」
「怒らないよ。したいことって?」
ふたりで映画を観るでも、仕事の話でも、なんでもいい。映画だと夜更かしになっちゃうか。
「可不可が俺のこと大事にしてくれるの、すごく嬉しい。最初に話し合って、ここでは最後までしないって約束して、それを守ろうとしてくれるのも、すごいなって思う」
楓ちゃんの視線は自分の握りこぶしに集中してるみたい。そうなるくらい、照れて、緊張してるんだろう。力が入り過ぎてる楓ちゃんの手に触れる。
一度顔を上げてこっちを見てくれたけど、また、元のところに戻った。どうしたらすんなり話してくれるかな。触れ合いにはちょっとずつ積極的になってきたけど、自分の希望を言葉にすることにはまだまだ照れてる。かわいくて、愛おしくて、思わず抱き締めてしまった。
「あのね、可不可。今夜、ここに……泊まってほしい」
「……」
背中に汗が滲んだ。急速に喉が渇いて、うまく言葉が出ない。返す言葉がすぐに見つからないのもある。
「こんなに優しくされたあとに可不可が部屋に戻るの見送ると、もっと一緒にいたかったなって……前よりも強く思うようになったんだ。それに、初めての泊まりは外って話もしてたけど、そういうことをする日が初めての泊まりなんて、想像しただけで恥ずかしくてどうにかなりそうで」
少しずつ慣れたい。――楓ちゃんの声が震えた。抱き締める腕に力をこめる。そうだ、大切な日は誰にも気兼ねなく楓ちゃんを大事に甘やかしたいって決めてたけど、ひと晩中ふたりきりってことに楓ちゃんの気持ちがちゃんと追いつくか、考えてあげられてなかった。
「……いいよ。朝までここにいる」
「もしかしたら、朝まで可不可が寅部屋にいなかったとか、ここからふたりで出てきたとか、思われるかもしれないけど」
「そのときはそのときだよ。僕たちの関係は恥ずべきことじゃない。悪いこともしてない。僕が楓ちゃんのことをずっと好きで、楓ちゃんがそれに応えてくれた、それだけでしょ」
楓ちゃんがきょとんとした。そのあと、ふっと笑う。あのね、僕たちは幼馴染みだから大抵のことはわかるようになっちゃったけど、全部を完璧には察知できないから、言葉にして教えてほしいんだ。迷ったら一緒に答えを探すし、さみしいなら一緒にいる。そのための僕なんだから。
「ありがとう、可不可」
「ううん、僕こそ。楓ちゃんが少しずつ慣れたいって言ってくれてたのに、慎重になり過ぎてたね」
少しだけ体を離して見つめ合う。キスも触れ合いも好きだけど、このあとはただ眠るだけっていうのも、想像したらどきどきしてきた。
「本当は、さっき、お風呂のときに言いたかったんだけど、照れちゃって」
もしかして、裸を見られるの恥ずかしがるだろうなって思って僕が先に出たときのことかな。つまり、楓ちゃんが照れ屋で恥ずかしがりだからって、僕が早合点してたってこと?
「そっか、ありがとう。教えてくれて」
楓ちゃんが部屋の灯りを落とす。もう寝ちゃうのかな。まだ眠くないんだけどな。
「普段の寝る時間よりちょっと早いけど、俺たちのことだからすぐに寝付けないかもしれないし」
いつまでもベッドに乗り上げてちゃ、布団のなかに入れない。傍から見たらちょっと格好悪い動作だけど、ベッドから下りて、楓ちゃんが布団をめくってくれるのをじっと眺めた。
「……昔、可不可の病室でも一緒に寝たことあったよね」
情けないことに、一度だけ、楓ちゃんがいなきゃ寝たくないなんてわがままを言ったことがある。
「僕が騒ぎ疲れて寝た隙に帰っちゃった日のことでしょ」
「そうだね。面会時間もあったけど、あの頃は俺たちふたりとも子どもで、自分の行動に責任なんて取れなかった。可不可に会いたいなって思っても、親の都合で海外にいて電話すら満足にできなかったことも普通にたくさんあって……早く大人になりたいって、思ってた」
楓ちゃんに手を引かれて、僕が壁に近いほうに、楓ちゃんは手前に寝転ぶ。どちらからともなく、向かい合わせになった。……本当は、楓ちゃんを壁に近いほうに寝かせて、万が一にも落っこちないように僕が守りたいのに。
「俺たち、もう大人なんだよね。こうやって、ひと晩中ふたりきりで過ごすのだってできるんだ」
可不可はまだ泊まりは早いって思ってたみたいだけど。――楓ちゃんが頬を染めて笑う。そうだよ、誰よりも大事だから、慎重になって当然でしょ。一生大事にするって、片想いだった頃から決めてたくらいだし。
心のなかでひそかにむっとしてたら、楓ちゃんの手が伸びてきて、ベッドのなかで抱き締められた。
「つい照れくさくて騒いじゃうけど、これからは、今日みたいに、したいこと言うようにする。俺だって可不可のこと捕まえてたいんだ」
「したいこと……」
「今夜は一緒に寝るのが目的だから、あんまりむらむらすることはもう許してほしいんだけど、キ、キスは、したいな……って、思ってる」
びっくりした。楓ちゃんの口から〝むらむら〟なんて言葉が出るなんて。ううん、何度か触りっこしたし、そういう欲があるのはお互いわかってる。でも、直接的な言葉で表現されたことはなかったから、楓ちゃんってそういう言葉も使うんだって、正直、腰の奥にちょっとだけ響いちゃった。
「キスしたら、どきどきしちゃわない?」
「軽いのならたぶん平気、っ、ん、んん……」
「意地っ張り。でも、そこもかわいい、……好きだよ」
「んん、んーっ……ん、ん……」
何度もくちびるを押し当てた。ベッドのなかでくっついて「キスしたい」なんて言われて、それでも舌を入れない理性が残ってる僕って、すごくない? くちびるにばかりキスしてたら僕こそどうにかなりそうで、隙をつくみたいに抱き締められた体勢から抜け出して、楓ちゃんに馬乗りになって顔中にくちづける。
「〜〜っ、ストップ、ストップ!」
「これでも、朝まで僕と一緒にいてくれるの?」
くちびるを押し当ててただけでも楓ちゃんがどきどきしちゃったことには当然気付いたから、わざとそう訊いてみた。
「……いてほしい。今夜は、可不可がいなきゃ寝たくないよ」
昔の僕をなぞった言葉なのに、僕たちの関係はあの頃よりもっと深いものになった。それがすごく嬉しくて、許してくれるぎりぎりまでくっつきたいのに、楓ちゃんの言うことを聞いちゃうんだから、本当、惚れた弱みってこういうことだよね。
「朝までいるよ。今夜だけじゃない、一緒にいたいときはいつでも教えて」
ベッドのなかで楓ちゃんに体を寄せる。明日の朝、誰より最初に「おはよう」を言い合えるの、すごく楽しみだな。