はつこい
少しくらいものごとがうまくいかなくても、いつもなら、まぁそんな日もあるし、ひと晩寝て気持ちを切り替えようと思えるのに、今日はできなかった。
まず、天気予報が驚くほど外れて、普段から持ち歩いている折り畳み傘では凌げないような大雨に見舞われた。雨は好きなほうだし、予定外の大雨くらいで折れる心じゃないけど、風に煽られた折り畳み傘の骨は秒で折れた。この傘、誕生日に可不可からもらったお気に入りで、大事にしてたのにな。クローゼットの奥にしまいこむより持ち歩く、本来の役目どおりに使うほうがいいに決まってる。――そう思ってバッグに入れてたんだけど、お気に入りなら、やっぱり部屋にしまっておくべきだったのかも。
そのあと、雨上がりの空を見上げたのと同じタイミングで、自分のすぐ近くに工事現場の足場を組み立てるのに使われる棒が降ってきた。責任者の方がしきりに頭を下げるものだから、怪我してないし大丈夫ですよって答えて話はすぐに終わった。
でも、道の端ギリギリを歩いていたら直撃だったかもしれないと思うと、あとからあとから恐怖心が強くなってきて、少し休もうと、公園のベンチに腰掛けて、直後に大後悔。座る前にちゃんと見てなかった、というか、雨上がりということはつまりそうなのに、座面が乾ききってなくて、スラックスのおしり部分が盛大に濡れたんだ。下着にも染みちゃった。――凪くんの『禍福のヤジロベエ理論』を思い出したのは、このあたり。あれを逆説的に考えれば、このあとはものすごくいいことがあるに違いない。たとえなにもなかったとしても、気持ちを切り替えて明日からまた頑張ろう。
そう思って帰途についたのに、道中も散々だった。既に不運続きなのにまだ続くのかって頭を抱えたくなるくらい。
既にいろいろあって疲れたからか、どこかぼんやりしてしまって、公園から出てすぐのところにあった水たまりに足を突っ込んだ。雨のたびに大きな水たまりができると近所でも有名で、アスファルトに傷みも見られたから、道路の補修工事の日程を調整してるところだったんだっけ。工事が始まっていれば、立ち入り禁止の囲いがつくられて、俺が足を突っ込むこともなかったのかな。
いや、水たまりができやすいって有名だったのにそれを失念した俺が悪い。ぼんやりし過ぎだったんだよね。やっぱり、疲れてるのかな。今日は早めに寝よう。
あぁ、でも、明らかに疲れた顔で帰ったら、みんなに心配かけちゃうかも。どこかに寄って気分転換にお酒でも飲もうかな――なんて思った瞬間、鳥のフンが落ちてきて髪が汚れた。寄り道ができなくなった。そもそもこんなびしょ濡れでお店に入ったら迷惑なのに、自分でもびっくりするくらい余裕がなくて、気付けなかった。ううん、入る前に気付いたからセーフだよね。
今まで二十年以上生きてきて、ここまでダメダメな日って、あったかな。いっそ笑えてきちゃう。
一周回っておもしろくなったとはいえ、こんな姿を見せたら大騒ぎになること間違いなしだから、HAMAハウスに着くなり、自分の部屋まで全力で走って、着替えとタオルを引っ掴んでお風呂場に駆け込んだ。途中であく太くんが視界の端に見えたけど、ごめん、今の俺は本当にだめな大人過ぎて高校生に見せられたものじゃないから、気付かないふりをさせてもらったよ。
ここにはいろいろな性格のひとたちがいる。俺を見るなりたくさん話しかけてくれるひと、一歩引いてじっと見守るみたいに穏やかな顔をしてるひと――すっごく個性派揃いだけど、みんな、誰かが〝本当にそっとしておいてほしい〟ときは、ちゃんと、待ってくれるひとたちばかりだ。初めからそうだったわけじゃなくて、必要以上に踏み込んで傷つけてしまったり、どこまで尋ねていいか計りかねてすれ違ったりした経験が、俺たちみんなの絆を深めていったんだと思う。思いたい。きっと、そうだよね。
服を脱ぎ始めてやっと、先客がいないかを確かめる。よかった、誰もいなくて。こんなぐだぐだな状態で誰かと鉢合わせて、いつもどおり振る舞える気がしなかったから。ひとりきりのお風呂でくらい、情けないままでいたい。
お風呂から上がって髪を乾かすあたりで、少しだけ、ほんの少しだけ、気持ちも持ち直せた感じがする。でも、みんなと話すほどの元気はまだ戻ってきてなくて、こっそりと自室に戻った。可不可が俺をひとり部屋にしてくれたことに、改めて感謝する。
ここでの共同生活が決まったとき、主任の俺は誰よりも遠出が多くて荷物も増えるからひとり部屋なのかなと思った。そうじゃないとわかったのはほんの半月ほど前で――と〝あの夜〟の言葉を思い出して頬が熱くなる。よくない、よくない。思い出すだけで恥ずかしくてどうにかなりそう。どうにかなったら、顔が見たくなっちゃう。寝て、起きて、頭のなかをしっかりリセットした状態で会いたいから、明日の朝まで我慢、我慢。
いつもより早いけどもう寝ちゃおう。そう決め込んでベッドに寝転がったタイミングで、部屋のドアがノックされた。
「楓ちゃん、起きてる?」
まさに今、思い浮かべてた人物の声がして、寝た状態なのに飛び上がりそうになった。
可不可は俺がいいって言わない限り強引に部屋に入ってくることはないし、寝たふりを決め込むこともできる。今日は散々だったし、情けない顔を可不可に見せるのはやだな。
「……どうぞ」
やだとかいいつつ、可不可の顔を見たい気持ちのほうが強くて、結構すぐにドアを開けちゃった。
「ごめんね、寝るところだったよね。でも、楓ちゃんの顔が見たくて」
ときめきって、今の俺の心臓の動きを指すんだと思う。そんなの、俺だって可不可の顔が見たかったよ。可不可は鋭いから、俺がそう思ってることもわかってるだろうに、自分が会いたいからってことにしてしまう。もちろん、可不可自身が心からそう思ってくれてるのも……うぬぼれなんかじゃなく、わかってる。俺に罪悪感を与えようとしない優しさに、散々な目に遭って、お風呂でも流しきれなかったもやもやが晴れていくのを感じた。
「可不可ぁ……」
「うん、大丈夫だよ、わかってるから。少しだけここにいてもいい?」
可不可がここに来たときの定位置は決まってる。前は部屋のまんなかで座って話してたけど――
「……あく太くんがなにか言ってた?」
――半月前から、ベッドに並んで腰掛けるようになった。部屋のまんなかは他のひとたちも座ることがあるけど、ここは可不可と俺だけの場所。
「なにも。でも、他のみんなも、ずぶ濡れで帰ってきた楓ちゃんを見て、大丈夫かなって」
聞くところによると、俺がばたばたと自室に駆け込んだりお風呂場に向かったりする様子は、あく太くん以外の何人にも目撃されてたらしい。全然気付けなかったな。俺、本当に余裕がなかったんだ。
「だめだよね、誰があの場にいたかすら見えてないなんて」
「大雨に降られて余裕でいられるひとのほうが少ないよ。僕だって、普通の雨には心地いいなって思うけど、夕方の大雨には啞然としたから」
小さな子をあやすみたいに背を撫でられ、いよいよ弱っていく。
「なんだかそのあともトラブル続きで」
言ったってどうにもならない、ただ情けないばかりの数々を打ち明けてしまった。
「それに、可不可がくれた折り畳み傘も風で折れちゃって……ごめんね」
「大丈夫、今度、修理してもらおう。晴れの日でも毎日持ち歩いてくれてありがとう」
「それは……可不可がくれたものだし……」
どうしよう、顔が熱い。可不可の顔を見られない。俯いてしまった俺の手に、可不可の手が重なる。
「……ね、抱き締めてもいい?」
ぎゅうっと目を瞑った。いいよと答えるのが恥ずかしい。でも、黙ったままじゃ可不可も心配するから、必死の思いで頷く。
「今日も一日お疲れさま」
「う、うん。可不可もお疲れさま」
心臓の音、聞こえちゃってないかな。酔った可不可に抱っこをねだられたり、俺もお酒を飲んで可不可にくっついたりしたことはあるのに、というか可不可に抱き締められるのは初めてじゃないのに、初めて抱き締められたときと同じくらいどきどきする。
「楓ちゃん、緊張してる?」
「するよ。するに決まってる」
「心配しなくても、取って食べたりしないよ」
「たっ……」
食べないのかぁとがっかりしそうになって、いや、俺たちにはまだまだ早いよ! と思い直す。だって、あの夜から、まだたったの半月しか経ってない。
「期待した?」
「……どう答えたらいい?」
他のひとがこのやりとりを見たら、いい大人がなにをもだもだしてるんだって思うかもしれないけど、可不可も俺もそういう経験がないんだからしょうがない。ふたりとも行動力があるほうとはいえ、それはあくまでも仕事や旅に関することだけで、こっち方面は本当の本当に、照れもあって、てんでだめなんだ。
「ごめんね、楓ちゃんがかわいくて、僕も、らしくない質問した自覚はあるよ。でも」
そろそろ、もう少し、先に進んでみない? ――俺を抱き締めたまま囁くように言われて、背中に汗がどっと噴き出した。先って、なに? どこまで? いつ? ……今?
「あ、あ、あの」
「うん」
「俺、今、すごく汗かいちゃって、さっきお風呂に入ったのに、……」
可不可はそんなこと言わないけど、いいにおいだって思われていたい。相手が好きなひとならなおさらだ。こんな、背中にだらだら汗をかいてる俺じゃだめだと思う。可不可がよくても、恥ずかしさで俺がどうにかなっちゃうよ。
実際にしたことはないけど、キスも、その先も、知識だけならある。男同士がどうするのかは、可不可とこういう関係になるまで全然知らなかったから、可不可がしたいって思ってくれたときのためにこっそり検索した。びっくりしたけど、可不可も望んでくれるなら頑張れる。だって、ずっと一緒にいるって決めたから。
「だから、その、汗を」
「楓ちゃん、もしかして」
はっと気付いて、勢いよく可不可の顔を見た。せっかく抱き締めてくれてるのに、わざわざ離れてまで。
「言わないで、恥ずかしいから」
俺ばかり先走って、はしたないことを考えて、すっごく恥ずかしい。いくら恋人だからって、可不可はそこまで考えてないかもしれないのに。
「だめ、ふたりのことなんだから、ちゃんと話したい。……ね、楓ちゃんは、恋人の僕をどこまで求めてくれるの?」
歌うときより何十倍も甘い声に、くらくらする。
「どこまでって、そんなの、可不可が、……」
その先はやっぱり恥ずかしくて、怖くて、言えない。だって、違ったら?
「……それってつまり」
可不可の顔が、見たこともないくらい真っ赤になった。半月前、この部屋で俺の手を握って告白してくれたときよりも真っ赤。あのときの可不可は王子様みたいに格好よくて、これまでも数え切れないほど見惚れてきたのに、それを一瞬で上書きするくらいの威力だった。そのせいで、というか、そのおかげで、俺は自分の気持ちに気付かされちゃったんだけど。
あぁ、この顔を見てたらなにもかも打ち明けたくなる。
「いきなりは怖くて、その、可不可も知ってのとおり、この年まで恋愛経験ゼロだったわけだし、可不可の前で失態をさらすような結果になったら」
「そんなの、僕もそうだよ。それに楓ちゃんもそうじゃなかったら、嫉妬でどうにかなってる」
くちびるをむっと尖らせた可不可がかわいくて、思わず笑いがこぼれてしまった。
「俺のことそんなふうに言うの、可不可くらいだよ」
「楓ちゃんって、本当、自分に向けられる好意に鈍いよね。僕としては、僕以外には鈍いままでいてくれたほうが助かるけど」
可不可曰く、俺は危機感がたりないらしい。そんなことないと思うのにな。
「……ちょっと脱線しちゃった。楓ちゃんの気持ち、すごく嬉しい。夢じゃないんだよね? 僕の勘違いでもない? 楓ちゃんのここ、全部、僕に教えてくれるの?」
可不可の手が、俺の臍の下に触れた。すごく際どいところ。外からでも変化すればわかるところだけじゃない、うしろから暴いた先も、指してる。
「夢でも勘違いでもないよ。でも、さすがに今夜いきなりは、……んっ」
くちびるにやわらかいものが押し当てられて、反射的に声が出た。
「可不可……」
「ごめん、ちゃんと訊いてからしたかったのに、さっきからずーっと楓ちゃんがかわいいことしか言わないから。さすがになんの準備もなしではしないよ。もう少し段階も踏みたいしね」
可不可のくちびるが、ここに触れた。――自分のくちびるを指でなぞって、ようやく、キスをされたんだと気付く。
「……っ、どうしよう、一瞬だったから、びっくりしちゃって」
全身が心臓になったかもしれない。どきどきが強過ぎて、勝手に涙が出てきた。俺の全部が、可不可との初めてのキスにびっくりしてる。
「じゃあ、仕切り直させて。……ね、キスしてもいい?」
可不可の手が頬に添えられた。顔が熱いのも、これでばればれだ。でも、触れてくれた可不可の手もいつもよりあったかかったから、可不可も同じくらいどきどきしてるんだよね。
いいよって答えるのはやっぱり恥ずかしくて、可不可の腕に触れて、かたく目を閉じる。たぶん、今の俺は可不可に負けないくらい真っ赤に違いない。
「……また泣かせちゃった。楓ちゃんには、ずっと笑っててほしいのに」
「これは、……キス、したら、可不可って俺のことすごく好きなんだなぁっていうのが言葉以上に伝わってきて、嬉しくて」
「今更気付いたの? この前も言ったとおり、僕はずーっと、子どもの頃から楓ちゃんひとすじだよ。すごく本気」
可不可に手を取られ、自然と、意識が手許にいく。可不可はそれこそ王子様みたいに手の甲、指の付け根あたりに、静かにくちびるを押し当てた。
「だから、ここも、僕のためだけに開けておいてね」
本当に格好よ過ぎて、声が出なかった。子どもの頃から知ってる可不可は、かわいい幼馴染だったはずなのに、いつから、こんな顔をするようになったの?
そうかと思えば、俺の反応を待って首を傾げるところはかわいいんだから困る。自覚させられたばかりの恋心は日を追うごとに大きくなって、たったの半月でいつかの夜を期待するくらいには、俺も、可不可に夢中なんだ。
「格好よ過ぎるよ……」
「そりゃあ、楓ちゃんには格好いいって思われたくてやってるからね。……気持ち、落ち着いた?」
そうだった。今日は天気予報になかった大雨からずっとトラブル続きで、さすがに落ち込んでたんだった。
「ちょっと忘れてた」
「あ、思い出させちゃった。でも、いやなこと忘れるくらい、僕で頭がいっぱいになってくれたなら、嬉しいな」
「……あのね、可不可が思うより、俺って、結構、可不可のことで頭がいっぱいなんだよ」
可不可が〝予約〟した指をなぞる。可不可のことだから、いつかここに収まるらしい誓いの輪をくれるときも、きっと、今みたいに、ううん、きっと今よりずっとずっと、格好よく決めちゃうんだろうな。
まず、天気予報が驚くほど外れて、普段から持ち歩いている折り畳み傘では凌げないような大雨に見舞われた。雨は好きなほうだし、予定外の大雨くらいで折れる心じゃないけど、風に煽られた折り畳み傘の骨は秒で折れた。この傘、誕生日に可不可からもらったお気に入りで、大事にしてたのにな。クローゼットの奥にしまいこむより持ち歩く、本来の役目どおりに使うほうがいいに決まってる。――そう思ってバッグに入れてたんだけど、お気に入りなら、やっぱり部屋にしまっておくべきだったのかも。
そのあと、雨上がりの空を見上げたのと同じタイミングで、自分のすぐ近くに工事現場の足場を組み立てるのに使われる棒が降ってきた。責任者の方がしきりに頭を下げるものだから、怪我してないし大丈夫ですよって答えて話はすぐに終わった。
でも、道の端ギリギリを歩いていたら直撃だったかもしれないと思うと、あとからあとから恐怖心が強くなってきて、少し休もうと、公園のベンチに腰掛けて、直後に大後悔。座る前にちゃんと見てなかった、というか、雨上がりということはつまりそうなのに、座面が乾ききってなくて、スラックスのおしり部分が盛大に濡れたんだ。下着にも染みちゃった。――凪くんの『禍福のヤジロベエ理論』を思い出したのは、このあたり。あれを逆説的に考えれば、このあとはものすごくいいことがあるに違いない。たとえなにもなかったとしても、気持ちを切り替えて明日からまた頑張ろう。
そう思って帰途についたのに、道中も散々だった。既に不運続きなのにまだ続くのかって頭を抱えたくなるくらい。
既にいろいろあって疲れたからか、どこかぼんやりしてしまって、公園から出てすぐのところにあった水たまりに足を突っ込んだ。雨のたびに大きな水たまりができると近所でも有名で、アスファルトに傷みも見られたから、道路の補修工事の日程を調整してるところだったんだっけ。工事が始まっていれば、立ち入り禁止の囲いがつくられて、俺が足を突っ込むこともなかったのかな。
いや、水たまりができやすいって有名だったのにそれを失念した俺が悪い。ぼんやりし過ぎだったんだよね。やっぱり、疲れてるのかな。今日は早めに寝よう。
あぁ、でも、明らかに疲れた顔で帰ったら、みんなに心配かけちゃうかも。どこかに寄って気分転換にお酒でも飲もうかな――なんて思った瞬間、鳥のフンが落ちてきて髪が汚れた。寄り道ができなくなった。そもそもこんなびしょ濡れでお店に入ったら迷惑なのに、自分でもびっくりするくらい余裕がなくて、気付けなかった。ううん、入る前に気付いたからセーフだよね。
今まで二十年以上生きてきて、ここまでダメダメな日って、あったかな。いっそ笑えてきちゃう。
一周回っておもしろくなったとはいえ、こんな姿を見せたら大騒ぎになること間違いなしだから、HAMAハウスに着くなり、自分の部屋まで全力で走って、着替えとタオルを引っ掴んでお風呂場に駆け込んだ。途中であく太くんが視界の端に見えたけど、ごめん、今の俺は本当にだめな大人過ぎて高校生に見せられたものじゃないから、気付かないふりをさせてもらったよ。
ここにはいろいろな性格のひとたちがいる。俺を見るなりたくさん話しかけてくれるひと、一歩引いてじっと見守るみたいに穏やかな顔をしてるひと――すっごく個性派揃いだけど、みんな、誰かが〝本当にそっとしておいてほしい〟ときは、ちゃんと、待ってくれるひとたちばかりだ。初めからそうだったわけじゃなくて、必要以上に踏み込んで傷つけてしまったり、どこまで尋ねていいか計りかねてすれ違ったりした経験が、俺たちみんなの絆を深めていったんだと思う。思いたい。きっと、そうだよね。
服を脱ぎ始めてやっと、先客がいないかを確かめる。よかった、誰もいなくて。こんなぐだぐだな状態で誰かと鉢合わせて、いつもどおり振る舞える気がしなかったから。ひとりきりのお風呂でくらい、情けないままでいたい。
お風呂から上がって髪を乾かすあたりで、少しだけ、ほんの少しだけ、気持ちも持ち直せた感じがする。でも、みんなと話すほどの元気はまだ戻ってきてなくて、こっそりと自室に戻った。可不可が俺をひとり部屋にしてくれたことに、改めて感謝する。
ここでの共同生活が決まったとき、主任の俺は誰よりも遠出が多くて荷物も増えるからひとり部屋なのかなと思った。そうじゃないとわかったのはほんの半月ほど前で――と〝あの夜〟の言葉を思い出して頬が熱くなる。よくない、よくない。思い出すだけで恥ずかしくてどうにかなりそう。どうにかなったら、顔が見たくなっちゃう。寝て、起きて、頭のなかをしっかりリセットした状態で会いたいから、明日の朝まで我慢、我慢。
いつもより早いけどもう寝ちゃおう。そう決め込んでベッドに寝転がったタイミングで、部屋のドアがノックされた。
「楓ちゃん、起きてる?」
まさに今、思い浮かべてた人物の声がして、寝た状態なのに飛び上がりそうになった。
可不可は俺がいいって言わない限り強引に部屋に入ってくることはないし、寝たふりを決め込むこともできる。今日は散々だったし、情けない顔を可不可に見せるのはやだな。
「……どうぞ」
やだとかいいつつ、可不可の顔を見たい気持ちのほうが強くて、結構すぐにドアを開けちゃった。
「ごめんね、寝るところだったよね。でも、楓ちゃんの顔が見たくて」
ときめきって、今の俺の心臓の動きを指すんだと思う。そんなの、俺だって可不可の顔が見たかったよ。可不可は鋭いから、俺がそう思ってることもわかってるだろうに、自分が会いたいからってことにしてしまう。もちろん、可不可自身が心からそう思ってくれてるのも……うぬぼれなんかじゃなく、わかってる。俺に罪悪感を与えようとしない優しさに、散々な目に遭って、お風呂でも流しきれなかったもやもやが晴れていくのを感じた。
「可不可ぁ……」
「うん、大丈夫だよ、わかってるから。少しだけここにいてもいい?」
可不可がここに来たときの定位置は決まってる。前は部屋のまんなかで座って話してたけど――
「……あく太くんがなにか言ってた?」
――半月前から、ベッドに並んで腰掛けるようになった。部屋のまんなかは他のひとたちも座ることがあるけど、ここは可不可と俺だけの場所。
「なにも。でも、他のみんなも、ずぶ濡れで帰ってきた楓ちゃんを見て、大丈夫かなって」
聞くところによると、俺がばたばたと自室に駆け込んだりお風呂場に向かったりする様子は、あく太くん以外の何人にも目撃されてたらしい。全然気付けなかったな。俺、本当に余裕がなかったんだ。
「だめだよね、誰があの場にいたかすら見えてないなんて」
「大雨に降られて余裕でいられるひとのほうが少ないよ。僕だって、普通の雨には心地いいなって思うけど、夕方の大雨には啞然としたから」
小さな子をあやすみたいに背を撫でられ、いよいよ弱っていく。
「なんだかそのあともトラブル続きで」
言ったってどうにもならない、ただ情けないばかりの数々を打ち明けてしまった。
「それに、可不可がくれた折り畳み傘も風で折れちゃって……ごめんね」
「大丈夫、今度、修理してもらおう。晴れの日でも毎日持ち歩いてくれてありがとう」
「それは……可不可がくれたものだし……」
どうしよう、顔が熱い。可不可の顔を見られない。俯いてしまった俺の手に、可不可の手が重なる。
「……ね、抱き締めてもいい?」
ぎゅうっと目を瞑った。いいよと答えるのが恥ずかしい。でも、黙ったままじゃ可不可も心配するから、必死の思いで頷く。
「今日も一日お疲れさま」
「う、うん。可不可もお疲れさま」
心臓の音、聞こえちゃってないかな。酔った可不可に抱っこをねだられたり、俺もお酒を飲んで可不可にくっついたりしたことはあるのに、というか可不可に抱き締められるのは初めてじゃないのに、初めて抱き締められたときと同じくらいどきどきする。
「楓ちゃん、緊張してる?」
「するよ。するに決まってる」
「心配しなくても、取って食べたりしないよ」
「たっ……」
食べないのかぁとがっかりしそうになって、いや、俺たちにはまだまだ早いよ! と思い直す。だって、あの夜から、まだたったの半月しか経ってない。
「期待した?」
「……どう答えたらいい?」
他のひとがこのやりとりを見たら、いい大人がなにをもだもだしてるんだって思うかもしれないけど、可不可も俺もそういう経験がないんだからしょうがない。ふたりとも行動力があるほうとはいえ、それはあくまでも仕事や旅に関することだけで、こっち方面は本当の本当に、照れもあって、てんでだめなんだ。
「ごめんね、楓ちゃんがかわいくて、僕も、らしくない質問した自覚はあるよ。でも」
そろそろ、もう少し、先に進んでみない? ――俺を抱き締めたまま囁くように言われて、背中に汗がどっと噴き出した。先って、なに? どこまで? いつ? ……今?
「あ、あ、あの」
「うん」
「俺、今、すごく汗かいちゃって、さっきお風呂に入ったのに、……」
可不可はそんなこと言わないけど、いいにおいだって思われていたい。相手が好きなひとならなおさらだ。こんな、背中にだらだら汗をかいてる俺じゃだめだと思う。可不可がよくても、恥ずかしさで俺がどうにかなっちゃうよ。
実際にしたことはないけど、キスも、その先も、知識だけならある。男同士がどうするのかは、可不可とこういう関係になるまで全然知らなかったから、可不可がしたいって思ってくれたときのためにこっそり検索した。びっくりしたけど、可不可も望んでくれるなら頑張れる。だって、ずっと一緒にいるって決めたから。
「だから、その、汗を」
「楓ちゃん、もしかして」
はっと気付いて、勢いよく可不可の顔を見た。せっかく抱き締めてくれてるのに、わざわざ離れてまで。
「言わないで、恥ずかしいから」
俺ばかり先走って、はしたないことを考えて、すっごく恥ずかしい。いくら恋人だからって、可不可はそこまで考えてないかもしれないのに。
「だめ、ふたりのことなんだから、ちゃんと話したい。……ね、楓ちゃんは、恋人の僕をどこまで求めてくれるの?」
歌うときより何十倍も甘い声に、くらくらする。
「どこまでって、そんなの、可不可が、……」
その先はやっぱり恥ずかしくて、怖くて、言えない。だって、違ったら?
「……それってつまり」
可不可の顔が、見たこともないくらい真っ赤になった。半月前、この部屋で俺の手を握って告白してくれたときよりも真っ赤。あのときの可不可は王子様みたいに格好よくて、これまでも数え切れないほど見惚れてきたのに、それを一瞬で上書きするくらいの威力だった。そのせいで、というか、そのおかげで、俺は自分の気持ちに気付かされちゃったんだけど。
あぁ、この顔を見てたらなにもかも打ち明けたくなる。
「いきなりは怖くて、その、可不可も知ってのとおり、この年まで恋愛経験ゼロだったわけだし、可不可の前で失態をさらすような結果になったら」
「そんなの、僕もそうだよ。それに楓ちゃんもそうじゃなかったら、嫉妬でどうにかなってる」
くちびるをむっと尖らせた可不可がかわいくて、思わず笑いがこぼれてしまった。
「俺のことそんなふうに言うの、可不可くらいだよ」
「楓ちゃんって、本当、自分に向けられる好意に鈍いよね。僕としては、僕以外には鈍いままでいてくれたほうが助かるけど」
可不可曰く、俺は危機感がたりないらしい。そんなことないと思うのにな。
「……ちょっと脱線しちゃった。楓ちゃんの気持ち、すごく嬉しい。夢じゃないんだよね? 僕の勘違いでもない? 楓ちゃんのここ、全部、僕に教えてくれるの?」
可不可の手が、俺の臍の下に触れた。すごく際どいところ。外からでも変化すればわかるところだけじゃない、うしろから暴いた先も、指してる。
「夢でも勘違いでもないよ。でも、さすがに今夜いきなりは、……んっ」
くちびるにやわらかいものが押し当てられて、反射的に声が出た。
「可不可……」
「ごめん、ちゃんと訊いてからしたかったのに、さっきからずーっと楓ちゃんがかわいいことしか言わないから。さすがになんの準備もなしではしないよ。もう少し段階も踏みたいしね」
可不可のくちびるが、ここに触れた。――自分のくちびるを指でなぞって、ようやく、キスをされたんだと気付く。
「……っ、どうしよう、一瞬だったから、びっくりしちゃって」
全身が心臓になったかもしれない。どきどきが強過ぎて、勝手に涙が出てきた。俺の全部が、可不可との初めてのキスにびっくりしてる。
「じゃあ、仕切り直させて。……ね、キスしてもいい?」
可不可の手が頬に添えられた。顔が熱いのも、これでばればれだ。でも、触れてくれた可不可の手もいつもよりあったかかったから、可不可も同じくらいどきどきしてるんだよね。
いいよって答えるのはやっぱり恥ずかしくて、可不可の腕に触れて、かたく目を閉じる。たぶん、今の俺は可不可に負けないくらい真っ赤に違いない。
「……また泣かせちゃった。楓ちゃんには、ずっと笑っててほしいのに」
「これは、……キス、したら、可不可って俺のことすごく好きなんだなぁっていうのが言葉以上に伝わってきて、嬉しくて」
「今更気付いたの? この前も言ったとおり、僕はずーっと、子どもの頃から楓ちゃんひとすじだよ。すごく本気」
可不可に手を取られ、自然と、意識が手許にいく。可不可はそれこそ王子様みたいに手の甲、指の付け根あたりに、静かにくちびるを押し当てた。
「だから、ここも、僕のためだけに開けておいてね」
本当に格好よ過ぎて、声が出なかった。子どもの頃から知ってる可不可は、かわいい幼馴染だったはずなのに、いつから、こんな顔をするようになったの?
そうかと思えば、俺の反応を待って首を傾げるところはかわいいんだから困る。自覚させられたばかりの恋心は日を追うごとに大きくなって、たったの半月でいつかの夜を期待するくらいには、俺も、可不可に夢中なんだ。
「格好よ過ぎるよ……」
「そりゃあ、楓ちゃんには格好いいって思われたくてやってるからね。……気持ち、落ち着いた?」
そうだった。今日は天気予報になかった大雨からずっとトラブル続きで、さすがに落ち込んでたんだった。
「ちょっと忘れてた」
「あ、思い出させちゃった。でも、いやなこと忘れるくらい、僕で頭がいっぱいになってくれたなら、嬉しいな」
「……あのね、可不可が思うより、俺って、結構、可不可のことで頭がいっぱいなんだよ」
可不可が〝予約〟した指をなぞる。可不可のことだから、いつかここに収まるらしい誓いの輪をくれるときも、きっと、今みたいに、ううん、きっと今よりずっとずっと、格好よく決めちゃうんだろうな。