おやすみ
ダイニングテーブルの椅子に腰掛け、コンロの前に立つ彼を見遣る。こちらに背を向けたまま、数分前からケトルと睨めっこ。熱烈な視線を送ったところで、ケトルの中身を熱くするのはそこにあるクッキングヒーターなのに。情熱的な視線で食材をあたためたり焼いたりできるのであれば、調理器や炊飯器がここまで進化することはなかっただろう。今や、多くの人が持っているスマートフォンさえあれば、調理器の遠隔操作だって手軽にできる時代だ。
だいたい、熱烈な視線はケトルにではなく、こちらに注ぐべきなのでは?
「なぁ、一織ぃ」
「待っててください。もう少し」
こちらを振り返りもしない声に、むっと唇を尖らせる。そのくせ、不満となって言葉にならないのは、待っててという声がやわらかくて、決して陸に冷たくしたいわけではないことが伝わってきたから。
行儀悪い座り方だと思いつつ、椅子に対して反対向きに座り直し、背の縁に肘下をのせる。腕に顎をのせて〝待ってはいるけれど退屈で仕方ない〟アピールだ。こちらを振り向きさえしてくれれば。そうしたら、一織はきっと「なんて格好してるんですか」と呆れた溜息をつきながらも、ケトルより陸を選んでくれることだろう。心を持たないケトルが相手だろうが、いつだって、一織の視線をひとりじめしたい。――そんなこと、自分たちがアイドルである以上、無理なことだけれど。ステージの上やカメラの前では、一織の視線も、陸の視線も、ファンのもの。
(せっかくの連続オフだったのにな……)
久しぶりにオフが重なると喜んで、一週間前からそわそわしていたのに、その前夜になって、陸が熱を出してしまった。今日の昼過ぎには平熱まで下がったし、喉も痛くなければ食欲もある。元気だから少しだけでも出かけたいという陸に対して、一織は首を縦に振ってくれなかった。夕方から……たとえば、郊外のショッピングモールに出かけて、互いの服を選び合ったり、洋食カフェで春の新作スイーツに舌鼓を打ったり。最近は映画を観に行く余裕もなかったから、レイトショーで一作観てから帰っても、問題はなかったはずだ。というか、本来、そのつもりで用意していた。
(オレが……熱、出したから…………)
言葉にはしないものの、一織も楽しみにしてくれていたはず。体力がついて喘息発作の頻度もかなり減ったとはいえ、IDOLiSH7のメンバー内で陸がもっとも体調を崩しやすいことには変わりなかった。
ケトルがけたたましく騒ぎ出す。陸が「あ」と思うより早く、コンロと睨めっこをしていた一織がクッキングヒーターのスイッチを切った。こちらに背を向けたまま、傍に出しておいたマグカップに中身を注ぐ。色違いのマグカップを左右それぞれの手に持った一織がこちらを振り返り、――陸の予想通り、眉間に皺を寄せた。
「なんて格好してるんですか」
行儀悪いですよ。そう言って、テーブルの上にマグカップをそっと置く。ことりという音さえしない、優しい置き方。この男は、マグカップひとつにさえも、優しいのだ。そう思うと急に機嫌がよくなってしまい、陸はおとなしく座り直す。マグカップの持ち手が陸の掴みやすい角度になるよう置かれているあたり、さすがは一織だ。
「いただきまーす」
ふぅふぅと息を吹きかけて口をつける。唇から流れ込んだ液体は舌先にのり、ゆっくりと喉の奥へ。そこから食道を通って……まるで、血液とともに全身に行き渡るよう。もしかして、これがいわゆる五臓六腑に染み渡るというやつなのだろうか。そんなことを考えていたのに、陸の口から出たのは「幸せ~」というふにゃふにゃした声だった。
「……それは、なによりです。ところで、七瀬さん。体調は?」
「もう、元気だってば。一織の心配性!」
甘ったるい口で毒づいたところで、一織の耳には、かわいい文句にしか聞こえない。照れくささから呆れたもの言いをしてしまうことはあれど、なんだかんだいって、陸のことを構いたくて仕方がないのだ。実際、IDOLiSH7のセンターとして立つ陸には厳しくしている一織だが、それ以外の場――特に、ここ――では、陸のことを蝶よ花よとかわいがっている。
「……それならいいんですけど。再来週にはホワイトデーライブが控えてるんですから、無理はしないでくださいよ」
「わかってる。……それよりさ、これ、はちみつ入ってないんだけど。忘れた?」
あたたかいホットミルクで幸せを感じたものの、なにかものたりない。なにがものたりないのか。コンロと睨めっこをしている一織の背中を睨んでいた陸は、彼の一連の動作を思い起こし、はちみつが入れられていないからだという答えに辿り着いた。
毎晩、ここで一織のつくるホットミルクを飲んで、ふたりで「おやすみ」と笑い合って同じ寝室に向かうのが習慣だ。数年前までは、他のメンバーの目を気にして、陸の部屋で少しだけ過ごしてそれぞれの部屋で眠ることが圧倒的に多かったのだが、ここは、二人だけだから。できたてのホットミルクをダイニングテーブルでいただいて。甘いミルクと甘い視線にすっかりやられて、とろとろに甘くなってしまった口からどんなに甘い言葉が飛び出しても、ここは二人きりだから、許されるのだ。
「よく気付きましたね」
「そりゃあ気付くに決まってるだろ。何年、一織のお手製ホットミルク飲んでると思ってるんだよ」
一織が十七歳、陸が十八歳の頃からだから……と指折り数える。まだ、片手で数えられる年数だけれど、利き酒ならぬ利きミルクができるくらいには、眠る前に一織がつくるホットミルクを飲んでいる。
「……ちょっとは言い方を考えてください。少なくとも、外でその言い回しは誤解を招きます」
「誤解? なんの?」
「なんでもありません。……甘くし過ぎると、あなた、すぐに眠ってしまうでしょう?」
身体があたたまって、口の中が優しい味に変わったら、陸はあまり時間を置かずに眠ってしまう。一織と二人、笑い合って「おやすみ」の言葉を言う頃には、実は半分、夢の中だ。
「だって、そりゃあ、身体あったまるし」
「ですから……」
視線をうろうろと彷徨わせながら手許のマグカップを持つ手に力を込める。
「あなたが、……ずっと見てたでしょう? 私がこれをあたためてる間。背中越しに熱烈な視線を投げかけられて。体調に問題はないと言うし、明日もその、……あぁもう、鈍い人だな」
半分ほど残っていたミルクを一気に飲み干し、大股で二、三歩、シンクに置く。いつもなら水で軽く濯ぐか、しっかりと洗うくせに。今夜の一織はどこか落ち着きがない。
顔を真っ赤にした一織は陸の手を掴んで立ち上がらせた。
「ですから、……今日は、すぐにはおやすみなんて言わせないってことです」
「えっと……、えっ? あ、そういうこと?」
甘いミルクと甘い視線にすっかりやられて、とろとろに甘くなってしまった口からどんなに甘い言葉が飛び出しても、明日も休日だから、許されるのだ。
だいたい、熱烈な視線はケトルにではなく、こちらに注ぐべきなのでは?
「なぁ、一織ぃ」
「待っててください。もう少し」
こちらを振り返りもしない声に、むっと唇を尖らせる。そのくせ、不満となって言葉にならないのは、待っててという声がやわらかくて、決して陸に冷たくしたいわけではないことが伝わってきたから。
行儀悪い座り方だと思いつつ、椅子に対して反対向きに座り直し、背の縁に肘下をのせる。腕に顎をのせて〝待ってはいるけれど退屈で仕方ない〟アピールだ。こちらを振り向きさえしてくれれば。そうしたら、一織はきっと「なんて格好してるんですか」と呆れた溜息をつきながらも、ケトルより陸を選んでくれることだろう。心を持たないケトルが相手だろうが、いつだって、一織の視線をひとりじめしたい。――そんなこと、自分たちがアイドルである以上、無理なことだけれど。ステージの上やカメラの前では、一織の視線も、陸の視線も、ファンのもの。
(せっかくの連続オフだったのにな……)
久しぶりにオフが重なると喜んで、一週間前からそわそわしていたのに、その前夜になって、陸が熱を出してしまった。今日の昼過ぎには平熱まで下がったし、喉も痛くなければ食欲もある。元気だから少しだけでも出かけたいという陸に対して、一織は首を縦に振ってくれなかった。夕方から……たとえば、郊外のショッピングモールに出かけて、互いの服を選び合ったり、洋食カフェで春の新作スイーツに舌鼓を打ったり。最近は映画を観に行く余裕もなかったから、レイトショーで一作観てから帰っても、問題はなかったはずだ。というか、本来、そのつもりで用意していた。
(オレが……熱、出したから…………)
言葉にはしないものの、一織も楽しみにしてくれていたはず。体力がついて喘息発作の頻度もかなり減ったとはいえ、IDOLiSH7のメンバー内で陸がもっとも体調を崩しやすいことには変わりなかった。
ケトルがけたたましく騒ぎ出す。陸が「あ」と思うより早く、コンロと睨めっこをしていた一織がクッキングヒーターのスイッチを切った。こちらに背を向けたまま、傍に出しておいたマグカップに中身を注ぐ。色違いのマグカップを左右それぞれの手に持った一織がこちらを振り返り、――陸の予想通り、眉間に皺を寄せた。
「なんて格好してるんですか」
行儀悪いですよ。そう言って、テーブルの上にマグカップをそっと置く。ことりという音さえしない、優しい置き方。この男は、マグカップひとつにさえも、優しいのだ。そう思うと急に機嫌がよくなってしまい、陸はおとなしく座り直す。マグカップの持ち手が陸の掴みやすい角度になるよう置かれているあたり、さすがは一織だ。
「いただきまーす」
ふぅふぅと息を吹きかけて口をつける。唇から流れ込んだ液体は舌先にのり、ゆっくりと喉の奥へ。そこから食道を通って……まるで、血液とともに全身に行き渡るよう。もしかして、これがいわゆる五臓六腑に染み渡るというやつなのだろうか。そんなことを考えていたのに、陸の口から出たのは「幸せ~」というふにゃふにゃした声だった。
「……それは、なによりです。ところで、七瀬さん。体調は?」
「もう、元気だってば。一織の心配性!」
甘ったるい口で毒づいたところで、一織の耳には、かわいい文句にしか聞こえない。照れくささから呆れたもの言いをしてしまうことはあれど、なんだかんだいって、陸のことを構いたくて仕方がないのだ。実際、IDOLiSH7のセンターとして立つ陸には厳しくしている一織だが、それ以外の場――特に、ここ――では、陸のことを蝶よ花よとかわいがっている。
「……それならいいんですけど。再来週にはホワイトデーライブが控えてるんですから、無理はしないでくださいよ」
「わかってる。……それよりさ、これ、はちみつ入ってないんだけど。忘れた?」
あたたかいホットミルクで幸せを感じたものの、なにかものたりない。なにがものたりないのか。コンロと睨めっこをしている一織の背中を睨んでいた陸は、彼の一連の動作を思い起こし、はちみつが入れられていないからだという答えに辿り着いた。
毎晩、ここで一織のつくるホットミルクを飲んで、ふたりで「おやすみ」と笑い合って同じ寝室に向かうのが習慣だ。数年前までは、他のメンバーの目を気にして、陸の部屋で少しだけ過ごしてそれぞれの部屋で眠ることが圧倒的に多かったのだが、ここは、二人だけだから。できたてのホットミルクをダイニングテーブルでいただいて。甘いミルクと甘い視線にすっかりやられて、とろとろに甘くなってしまった口からどんなに甘い言葉が飛び出しても、ここは二人きりだから、許されるのだ。
「よく気付きましたね」
「そりゃあ気付くに決まってるだろ。何年、一織のお手製ホットミルク飲んでると思ってるんだよ」
一織が十七歳、陸が十八歳の頃からだから……と指折り数える。まだ、片手で数えられる年数だけれど、利き酒ならぬ利きミルクができるくらいには、眠る前に一織がつくるホットミルクを飲んでいる。
「……ちょっとは言い方を考えてください。少なくとも、外でその言い回しは誤解を招きます」
「誤解? なんの?」
「なんでもありません。……甘くし過ぎると、あなた、すぐに眠ってしまうでしょう?」
身体があたたまって、口の中が優しい味に変わったら、陸はあまり時間を置かずに眠ってしまう。一織と二人、笑い合って「おやすみ」の言葉を言う頃には、実は半分、夢の中だ。
「だって、そりゃあ、身体あったまるし」
「ですから……」
視線をうろうろと彷徨わせながら手許のマグカップを持つ手に力を込める。
「あなたが、……ずっと見てたでしょう? 私がこれをあたためてる間。背中越しに熱烈な視線を投げかけられて。体調に問題はないと言うし、明日もその、……あぁもう、鈍い人だな」
半分ほど残っていたミルクを一気に飲み干し、大股で二、三歩、シンクに置く。いつもなら水で軽く濯ぐか、しっかりと洗うくせに。今夜の一織はどこか落ち着きがない。
顔を真っ赤にした一織は陸の手を掴んで立ち上がらせた。
「ですから、……今日は、すぐにはおやすみなんて言わせないってことです」
「えっと……、えっ? あ、そういうこと?」
甘いミルクと甘い視線にすっかりやられて、とろとろに甘くなってしまった口からどんなに甘い言葉が飛び出しても、明日も休日だから、許されるのだ。