柘榴にくちづけ
ノートのページを繰る。IDOLiSH7の、そして、七瀬陸のプロデュースの構想を綴ったノート。彼をスーパースターとするためのもの。一織自身の不注意から九条鷹匡にノートを見られた時は、ひやりとしたものだ。構想通りにいかないことが何度かあったものの、現状を見る限り、おおむね順調にプロデュースは進んでいると言っていい。想定よりも早くラジオの仕事が舞い込んだのもそのひとつ。共演者が自分でないことは残念だが、ナギと陸によるラジオは今も好評だ。IDOLiSH7の曲を主題歌とした七瀬陸主演のドラマも視聴率やSNSの評判を見る限り成功したと判断できるだけの結果になったし、映画主演の話も夢ではない。もちろん、その時にはIDOLiSH7が主題歌となるよう、マネージャーの紡に発破をかけるつもりだ。
(大丈夫だ、これで、間違いはない)
陸の、明るく屈託のない笑顔。のびやかな歌声は、やわらかいだけではなく、心に突き刺さるものを持っている。ひとたび聴けば、皆が虜。惹き付けられない者はいない。そして、ふとした時に見せる真剣な表情。とにかく、目が離せない。いつだったか、陸が一織に、天のことを「みんな、天にぃを、好きにならずにいられないんだよ」と語ったことがあった。一織からすれば、陸こそが「誰もが好きにならずにいられない」存在。
人々は夜空を見上げる時、無意識のうちに、なんらかの願いを込めている。それは叶えたい願いであったり、今日は疲れたから早く休みたいという日常的なものであったり、程度はさまざま。そうして見上げた夜空に、彼の歌声は流星のように降り注ぐ。彼自身に万人の願いを叶える力はないけれど、その歌声を聴けば、願いを叶える力が自分の中からみなぎってくるような、そんな気にさせられる。一織自身がその最たる例だ。
ただ……決して誰にも口外できない、心の奥底に仕舞い込んだ願い。それだけは、叶えてみせるという気持ちにすらなれない。
――一織は、陸に恋をしている。
どうして、と尋ねられてもわからない。くるくると変わる表情がかわいらしくて、目が離せなくて。そして、彼の歌声を聴いた時、一織の世界は確かに変わった。変わってしまった。
初めは、それを憧憬だと思っていた。それだけではないとわかったのは、彼の顔を眠る前に思い浮かべ、欲情してしまった時。一織の小言に瞳を潤ませた陸に、あろうことか劣情を抱いてしまったのだ。メンバーである陸のことを考えて身体を熱くさせるなど、あってはならない。陸のことを聖人君子ではないと思いつつどこか神聖視している自覚はあるけれど、それを差し引いても、彼は劣情を孕んだ視線を投げかけられていいような人物ではない。
(これ以上、深みにはまってはいけない)
ついた溜息が重くて、自分でも笑ってしまう。
自嘲の笑みを浮かべていたその時、部屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
扉を開いたのは、今まさに一織の心を占めている相手。
「お昼どうする? 今いるの、オレと一織と環なんだけど」
ふむ……と一織は冷蔵庫の中身を脳裏に浮かべた。
「そうですね……確か、ほうれん草が余ってますから、なにかつくりましょう」
「やった! 一織がつくってくれるの?」
調理師免許を持つ兄には及ばないものの、簡単なものであれば一織もつくることができる。もちろん、その腕はIDOLiSH7のメンバーも頷くレベルのものだ。
「四葉さんに任せると菓子が昼食になりかねませんし、七瀬さんではオムライスになりそうです」
昨晩、陸のつくったオムライスを食べたばかりだ。彼の手料理を食べたくないといえば嘘になるが、同じものが続くのは胃が飽きてしまう。
「なんだよ、オレだってオムライス以外もできるし!」
頬を膨らませる姿は実に愛らしい。そして同時に、一織の胸が締め付けられる。それを誤魔化すように、膨らんだ頬を指でつついて萎ませ、一織はキッチンへと向かった。彼の頬をつついた指先が熱い。たったこれだけの触れ合いに、心が震えてしまう。
(だめだな……こんなことで浮かれてしまうなんて)
叶えるつもりもない願いが、心を苦しめる。一体どうすれば、諦められるのだろう。
◇
「さて、では一織さん、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
十二月上旬、今日は雑誌のインタビューを受ける日だ。
「まず、もうじき誕生日を迎えるにあたっての抱負なんかを」
質問内容は事前に聞かされていたから、回答も考えてある。
「十八歳になれば普通免許が取れますから、まずはそちらを取得したいですね。今はマネージャーが仕事の送り迎えをしてくれてますけど、自分たちのグループは七人いて、今回のように個人の仕事をいただくこともあります。マネージャーの負担を軽減させるためにも、自分たちでできることはやりたいと思ってます」
「なるほど、一織さんらしいですね。それに、小鳥遊事務所は社員とタレントの仲もいいと聞きます。一織さんのように自分のできることは自分でやろうというタレントさんたちがいるんですから、事務所の方々も、それならタレントのためにもっと頑張ろうって思うでしょうね。いいサイクルだな。他には、どうでしょう」
話しやすいインタビュアーだなと思いながら、一織は言葉を続ける。
「それはもちろん、IDOLiSH7としての活動です。最近ではうちの七瀬がドラマの主演を果たしました。二階堂に続く映画主演も夢ではない。その主題歌を私たちが歌えたらと思ってます」
一織の強いまなざしに、インタビュアーがほう……と溜息をつく。
「あぁ、あのドラマなら僕も見てましたよ。演技といえば二階堂大和さんというイメージだったけど、七瀬陸さんもいい演技をするんだなと思いました。役が憑依してるというのかな。見てるうちに、ドラマの世界にどんどん惹き込まれましたね」
陸を賞賛する言葉に、一織口許がゆるみそうになる。そりゃあ、そうだ。七瀬陸は、かならずスーパースターになる男。自分が誇らしく思っている男を賞賛する言葉に、浮かれそうになってしまう。
「ありがとうございます。七瀬が聞いたら喜ぶと思います」
「一織さんまで嬉しそうですね」
「そりゃあ、メンバーのことを褒めていただけたのですから嬉しいですよ」
これは本当。たとえ陸でなくても、メンバーが褒められれば嬉しい。しかし、陸が褒められると、他のどのメンバーが褒められた時よりも、嬉しくなってしまう。
「一織さんは、七瀬陸さんとユニット曲を歌ったことがありましたね。今でもライブのセットリストに組み入れることがあるとか。日常でも、仲がいいんですか?」
あらかじめ聞いていた質問内容に含まれていたことなのに、陸とのことを聞かれてどきりとしてしまう。
(大丈夫、あらかじめ想定してたことだ……)
前もって聞かされていた質問に対する回答で、インタビュアーがどこに興味を示すか、どのように話が広がるか、一織は複数のパターンを想定していた。どのパターンになっても、IDOLiSH7の宣伝をうまく挟み込むような流れとなるように、頭の中でシミュレーションしてきたのだ。
頭の中に叩き込んである回答を引き摺り出す。
「うちは基本的に、皆、仲がいいと自負してます。デビュー前から、小鳥遊事務所の社員寮で寝起きをともにしてるというのもあるでしょう。七瀬さ……七瀬とは部屋が隣なんです。そして、年齢がひとつしか違わない。それもあってか、眠る前に共有のリビングで雑談をすることが多いと思います。それから、四葉は私と年齢が同じで、学校も、クラスも同じなので学校の課題を一緒にすることもあります。兄とはもちろん、六弥、二階堂、逢坂とも、……私たちはなにかとリビングに集まることが多いですね」
「寮生活って楽しそうですね」
「退屈することが一切ないですね。言い換えれば、一人でのんびりしたい時にのんびりできないというか」
一織の言葉にインタビュアーが「はは」と笑った。
「やはり、思春期の高校生としては、一人になりたい時とかあるんですか?」
その質問に、自分がもっとも一人になりたいと思っている時のことが脳裏を過ぎり、こめかみを冷や汗が伝う。
「……そうですね、一人で翌日の授業に備えて予習をしたい時とか、今回のように単独の仕事を頂いて、その準備をしたい時なんかは、一人で静かに過ごしたいです」
一織の返答に納得したのか、インタビュアーは次の質問に移った。
予定されていたインタビューを終え、次はグラビア撮影。発売される雑誌にはこの写真と、さきほどのインタビューが四ページにわたって掲載されることになっている。時刻は昼過ぎ、少し遅い昼食を取ることで休憩とした。
行儀悪いと思いつつ、サンドイッチを齧りながらスマートフォンに視線を落とす。ラビットチャットがいくつかのメッセージを受信していて、何度も手を離しては、それらに一つ一つ返信していった。
(……っ、七瀬さん)
陸とのトークルームに新着アイコンが表示されている。トークルームを開かなくても、二行目まではトーク履歴一覧から見えるようになっていて、その内容から、自分の今日の仕事をねぎらうものであることは見て取れた。
『一織、お疲れさま! 今日って雑誌の撮影だろ? いつ発売?』
トークルームを開くと、きょろきょろしているきなこのスタンプも添えられていて、思わずにやけそうになってしまう。
『一月二十日頃の発売だそうですよ』
返信するとすぐに既読となり、陸からのメッセージが続く。そういえば今日のあの人はオフだったな、と思い出した。
『わかった! 忘れないように買うからな!』
わざわざ購入しなくても、中身を読むだけなら事務所に献本されるのに。しかし、それを言うと陸が「かわいくない!」と怒りだすことが予想できる。どうしたものかと返信内容を考えていると、あらかじめ設定していたアラームが鳴り、そろそろ現場に戻る時間が近いことに気付いた。
『ありがとうございます。では、現場に戻りますね』
着替えとメイクの時間を確保するのはもちろんのこと、食後には歯磨きもしなければならないからと、アラームは早めに設定してある。もう少し陸とのやり取りを楽しんでいたかったな……と名残惜しい気持ちになってしまった。
スタイリストに用意された衣装に身を包み、カメラの前に立つ。
この瞬間は、この仕事をしてどれだけの月日が経とうと、緊張せずにはいられない。ここにいるのはすべてがプロで、妥協は許されない。もちろん、一織だってプロだし、妥協を許さない気持ちは人一倍強いと自負している。それでも、目の前にいる彼らの中で、人生経験がもっとも浅いのは自分。年の功には敵わない。だからといって、舐められるわけにはいかない。それが、一織のプライドだ。一織のプライドはIDOLiSH7をトップアイドルにし、七瀬陸をスーパースターにするためのもの。
レンズ越しにカメラマンと対峙する。この人には、和泉一織を通して、IDOLiSH7の魅力を正しく伝えられる写真を撮っていただきたい。そのためには、プロのカメラマンである彼に最大の敬意を。
「よろしくお願いします」
自分はプロだ。だから、この恋心もひた隠しにしてみせる。
◇
雑誌のインタビューと撮影を終え、寮に戻る。キッチンでは三月と陸が夕食の用意をしていた。
「ただいま戻りました」
「おー、おかえり。撮影お疲れさん」
「おかえり、一織! お疲れさま!」
兄と陸のねぎらいに、緊張で張り詰めていたことによる疲労がやわらぐ。すん、と鼻を鳴らすと漂ってくるのはカレーの香りだった。
「そうだ、環起こしてきてよ」
「四葉さん、寝てるんですか?」
明日提出の課題があるのに。
(きっと終わってないんだろうな……)
今夜は早めに眠ろうと思っていたのだが、彼の課題が終わるのを見届けなければ、安心して眠れそうにない。
「わかりました。……他のみなさんは?」
「あぁ、壮五は今、買いもの行ってもらってる。明日の朝に使う味噌切らしてるのに買いそびれてさ。大和さんはドラマの撮影が長引くって連絡あった。ナギは部屋。でも、あと二十分は静かにしてやってくれ」
なるほど、彼は今、アニメ視聴中といったところか。一織は頷くと、まずは自室へ荷物を置きに行こうと、階段のほうへ向かう。
「では、四葉さんを叩き起こして課題を多少進めさせたら下りてきますので」
三月と陸が返事するのを確かめると、そのまま、一織は階段を上っていった。その後ろ姿をこっそりと見送る。
「……なぁ、三月」
「んー?」
サラダに入れるトマトを洗いながら、陸が呟くように話す。
「一織ってさ、最近、……悩んでるのかな」
「あいつが?」
陸は三月の顔をちらりと見遣る。気付いていて、しらばっくれているというのではなさそうだ。メンバーの中で誰よりも他人の感情に機敏で、なおかつ一織とはクラスメイトでもある環も、心当たりがないようだった。大和や壮五、ナギにはまだ確かめていないが、これ以上、この質問を他の人間にすることは憚られる。一織が悩んでいるようだと触れまわっていることになりかねないから。
陸の気のせいかもしれないし、もし、気のせいでなかったとしても、一織の性格を考えると、本人の知らないところで悩みを抱えているようだと触れ回るのは得策ではない。
「ん~……オレの考え過ぎかな」
「あいつは昔っからなに考えてんのか、わかんないことがあったけどさ。最近の一織見てると、本当に困った時には話してくれると思うんだ」
「そっか……、うん、そうだよね」
三月の言う通りだ。自分たちには、信頼関係がある。なにか悩んでいるとして、一人で抱え込むなんて水くさいと言いたいところだが、一織自身が自分で解決できることであれば、自分たちが首を突っ込んではいけない。
「それにしても、陸って一織のことよく見てくれてるんだな」
「えっ」
兄として嬉しいよ、と三月が笑う。
このメンバーと出会うまで、一織には友人らしい友人がいなかった。一織が悩んでいるのではないかと気遣う相手も、家族以外いなかった。今の一織にはIDOLiSH7のメンバーがいる。三月自身も、……そして、陸も。いや、どのメンバーも、IDOLiSH7に助けられてきた。
「そりゃあ、大事な仲間だもん」
そう答えながら、陸は胸の奥にちくりと痛むものを感じた。
(ばれてない、よな)
洗い終えたトマトを輪切りにしていく。包丁の刃がトマトの皮を突き破って、するすると実を割いていく。まな板の上、切ったところから種を纏った胎座がどろりと垂れて、まるで自分みたいだと思った。
一織へ抱いている気持ち。今はなんとか心の内に押し留めているが、薄皮一枚で覆った気持ちはほんの少しのきっかけで中身がこぼれてしまいそう。今だって、三月に「一織のことよく見てくれてるんだな」と言われて、ひやりとした。三月だけではない。他のメンバーはもちろん、事務所の人間、仕事で関わったスタッフなんかも「二人は仲がいいですね」と、なんでもないことのように言ってくれる。天気予報でお天気キャスターが「今日は雲一つない青空です」と言うような声のトーンで、一織と陸は仲がいいなと微笑ましく話しかけてくれる。彼らにはなんの罪もない。ただ、陸が勝手に意識してしまうだけのこと。
「おい、陸!」
「えっ? ……あっ、あ~…………ごめん」
同じ厚みになるよう輪切りにしたかったのに、いつの間にかぶつ切りになっていた。
「いいよ、腹に入れば同じだ! でも、どうしたんだ? ぼんやりして」
「ううん、なんでもない! お腹空いたなぁってぼんやりしちゃった!」
「あぁ、確かになぁ。あともうちょっと我慢してくれよ!」
鍋をかき混ぜながら笑う三月に頷き、陸はこっそりと溜息を漏らした。
――陸もまた、一織に恋をしている。
理由は単純明快だ。自分の持病を考慮して「やめておいたほうが」と安全策を提示されるばかりだった陸に、初めて発破をかけてきた相手。諦めることに慣れつつあった陸に、諦めている場合じゃないと教えてくれたのが一織だ。歌声を評価してくれて、スーパースターにしてみせるとまで言い張る一織。天が見ている世界を自分も見てみたいと歩き出した陸に、同じ世界で満足するのではなく、更にその上までいこうと手を引いてくれる。一織としては背を押しているつもりなのだろうが、陸にとっての一織は、自分の目指す場所がどこにあるのかを教えてくれる、方位磁針のような存在。
いつだって陸を奮い立たせてくれる一織には、常に感謝の気持ちを抱いている。
しかし、それだけではないと気付いたのは、環から、一織が学校でラブレターをもらっていたと聞いた時。それは共有のリビングでの雑談の中で明かされたもので、メンバー一様に一織をからかったものだけれど、陸としては気が気ではなかった。そうか、一織も告白とかされるんだ。格好いいし、頭もいいし、優しいから当然かもしれない。皆にからかわれながらも、一織は「今は仕事が大事で交際をしてる場合ではない」とその場で丁重に断ったと言っていたのだが、陸は思いのほか打ちのめされてしまった。
今はIDOLiSH7をトップにし、陸をスーパースターにするのだと仕事に夢中になっている一織も、大人になれば、きれいな女の人と寄り添うのかもしれない。
そんな可能性に気付いて、愕然とした。いやだと思った。自分ではない誰かの手を引く一織なんて想像したくない。一体、この気持ちはなんだろう。もやもやとするものを感じながら、次の思考に移る。一織の隣に立つのが自分ならどうか? というものだ。想像して、それが一番いいと思ってしまった。なんて自分勝手な想像なのだろう。それでも、一織の隣にいるのは自分以外、許せないと思った。メンバーから指摘されたことがあるように、自分に頑固な面があることは自覚している。誰になにを言われようと、一織の隣にいるのは自分であり続けたい。
その話を酔った大和にそれとなくしてみたところ「恋愛トークか?」と揶揄された。
もちろん、自分自身の感情だとは言わず、自分がインタビューを受けた女性向けファッション雑誌のコラムに『恋愛? それとも執着?』という投稿があったのだと雑談を持ちかけた。実際にそういった特集が掲載されていたので嘘をついたわけではないのだが、この時の陸は、アイドルと女性向けファッション雑誌の組み合わせは便利だと学んでしまっていた。女性向けファッション雑誌が若手俳優や男性アイドルへのインタビューをグラビア付きで掲載することで、日頃、ファッション雑誌を積極的に購入しない層も雑誌を手に取る。売上アップに繋がるわけだ。そのため、女性ファンの多い若手俳優や男性アイドルは呼ばれやすい。そして、その女性向けファッション雑誌のほとんどは、後半の色刷りページで恋愛や結婚、貯蓄の特集を組んでいることが多い。陸は献本されたものをチェックしたという建前で、普段は口にしづらい恋愛の話題を雑談としてメンバーに振ることができる。なんてうまくできた世の中だろうと思った。雑誌のネタを活用するなんてずるいことばかり上手になっていないで、実際に悩んでいる点がうまくいってくれたらいいのに。
ともあれ、それとなく話を振ることに成功した陸に待っていたのは「そりゃあ他の子と結婚しないで~私とずっと一緒にいて~って、もうその時点で恋しちゃってるってことでしょ、その投稿の子」という酔っ払いのご意見。
ビールを呷りながら笑う大和に適当な相槌を打ちながら、陸は内心、気が気ではなかった。そうか、自分は一織に恋をしているのか、と。
そう自覚してからは、あっという間。毎日毎日、一織の一挙一動が気になって仕方がない。気が付くと目で追ってしまうし、ばちりと視線がかち合うと頬が熱くなる。
誰かが聞いたら、叱るだろうか。それとも、恋に恋している状態だと窘めるだろうか。
それでもいい。他人からは恋に恋している状態にしか見えなくても、陸にとっての一織は一番星であることには変わりないのだから。
鍋から漂うスパイシーな香りに、空腹感がいよいよ本格的なものとなったらしく、腹の虫が鳴ってしまい、陸は我に返った。隣では三月が笑いを噛み殺している。
「そろそろいい頃合いだな。陸、一織たち呼んできてくれ。ナギももうここな見終わっただろ」
「うん、わかった」
キッチンを出たところで玄関から帰寮を告げる壮五の淑やかな声が聞こえ、次いで、三月が大きな声で返事をするのが背後から聞こえた。陸も壮五に「おかえりなさい!」と声をかけてから、一織の部屋へと向かった。
六人での夕食を終え、順番に風呂へと入る。入浴を終えた陸が頭にタオルをのせたままキッチンを覗くと、大和が帰ってきていた。ちょうど、あたため直したカレーを食べるところだったようだ。
「おかえりなさい」
一人で食べるのもさみしかろうと思い、食器棚からグラスを取り出した陸は大和の斜め向かいに腰掛けた。
「なに、お兄さんの晩飯に付き合ってくれんの」
「まぁ、ちょっとだけ」
大和から受け取った麦茶のボトルをそっと傾ける。以前、勢いよく傾けてグラスからあふれさせてしまったことがあり、一織にしこたま叱られたのだ。それ以来、とぷとぷとゆっくり注ぐようにしている。
「イチのつくったホットミルクじゃなくていいのか?」
グラスに口を付けたところでそう話しかけられ、思わずむせ返ってしまった。
「……大和さぁん…………」
わざとそんなタイミングで話しかけなくてもいいじゃないかと睨み付ける。
「はは、悪い悪い。リクはイチのお手製ホットミルクを毎晩一緒に飲むはずなのにって思ってな」
「もう……意地が悪いですよ? 今日大和さん朝早かったから話しかけようって思ったのに」
忙しいのはありがたいことだが、七人でIDOLiSH7だ。眠る前のささやかなひと時でも、こうして会話の機会をもうけるようにしたい。
「冗談だって、そうむくれるなよ」
スプーンいっぱいにすくったカレーを大きく開いた口の中に運び込む。咀嚼して、しばらくしてから「うまっ」と感嘆の溜息。そりゃあそうだ、今日の夕食は三月が当番、陸がメンバーへの愛情を込めて手伝ったのだからおいしいに決まっている。
大和がカレーとサラダを食べている間、陸はゆっくりと麦茶を飲む。風呂で火照った身体に冷たい麦茶がじわじわと広がっていく。喉はあたためたほうがいいから、今夜もきっと、あとで一織お手製のホットミルクを飲むのだろうなとぼんやり考えた。その前に髪をしっかり乾かさなければ叱られてしまう。……せっかくなら、髪を乾かしてほしいと甘えてみようかなどと考えてしまう自分がいかにも恋に夢中な男のようで恥ずかしい。実際、恋に夢中なのだけれど。
「……それで? この前の特集のお話の続きか?」
「へ?」
「へ? じゃねぇよ。あのな、いくら酔っててもかわいい子どもたちからの悩み相談は覚えてるんだよ」
どきりと心臓が嫌な音を立て、背筋を汗が伝う。雑誌で見かけたという設定で話を振ったのは、大和が酔っているからという状況でもあったからだ。大和も酒の肴に話しただけと済ませてくれるだろうと踏んだから。それをまさか、素面の時にこうして蒸し返されるなんて。
「悩みって……」
「リク、よく覚えとけ。友達の話なんですけどとか、雑誌にあったんですけどって前置きで語られるのは、大抵が、その本人の身の上話だ。聞いたのが俺だからいいけど、仕事先のスタッフや他の共演者だったら……相手によっちゃ、やばいことになってもおかしくないんだぞ。IDOLiSH7のセンター・七瀬陸は同業者と熱愛中ってな、いくらリク自身に敵意がなくても、手段は選ばないからとにかく売れたいってやつは誇張して芸能リポーターや週刊誌の記者にその手の話をうまいこともらすんだ」
「すみません……で、でも熱愛中って別に」
空になったスプーンで陸をぴっと指して大和は続ける。
「実際にデキてなくてもデキてるって持ち込むんだよ。スクープにさえなればとりあえずの打撃にはなる。事実無根だと奔走するにしても、鎮静化するまでは活動に支障が出ることは否めない。悪意のあるやつはな、そうやって人を陥れるんだ。……まぁ、そんなせこいやつがのし上がれるほど、この世界甘くないけどな」
半分ほど減ったグラスを握り締める。
「……ごめんなさい」
ばれていたことでの恥ずかしさと、雑誌ネタで話題をもちかけることを便利だと思っていた自分の思慮の浅さがばからしくて、涙が出そうになる。しかし、こんなことで泣いていてはいけない。悪いのは自分なのだから。
陸が唇に力を込めて涙を堪えていると、向かいから大きな溜息がこぼれる。
「あ~、もう。違う違う。リクを泣かせたいわけじゃないんだ。それに、聞いたのが俺だからいいけどって言っただろ。リクはばかじゃない。それは俺もわかってる。だから、同じミスはしない。そうだろ?」
やっぱりこぼれてしまった涙を拭い、力強く頷く。
「もちろんです! でも、本当……どうしよう。恥ずかしいな……」
誰にも知られていないと思って、毎日一織のことを盗み見ていた。大和にはそれもお見通しだったというわけだ。
「まぁ、安心しろ。気付いてるのは俺だけだ。……多分」
「多分?」
どうしよう。他の人たちにも知られていたら恥ずかしいどころではない。
「メンバーのことを見てるのは俺だけじゃないってことだ。リクだって、イチがなにか悩んでるんじゃないかって気にしてたらしいじゃないか」
大和の言葉で、さきほどの三月とのやり取りを思い出す。一織がなにか悩み事を抱え込んでいるのではないかと三月に探りを入れたのは自分だ。つまり、自分の言動が、三月から大和に伝わり、自分のところに戻ってきている。
「ミツは悪くないからな」
「わかってます」
「まぁ、……ミツも心配してたぞ。トマトがぶつ切りになったって」
フォークでトマトを突き刺し、大きく口を開けて頬張る。一織のことを考えるあまり、輪切りにできなかったものだ。
ここまで知られてしまっていては、もはやなにも隠すことはない。陸は小さく溜息をつくと、ゆるゆるとかぶりを振ってから大和に向き直った。
「これからは気を付けます。……正直なところ、どうしたらいいかわからなくて。恥ずかしいんですけど、オレ、いつの間にか…………ねぇ、大和さん。これって、放っておいたら好きじゃなくなりますかね? そりゃあ、当たって砕けろって言葉はあるけど、オレ、砕けたくないし……」
もちろん、互いに同じ気持ちとなることが理想だ。しかし、環曰く、一織は「今は仕事が大事で交際をしてる場合ではない」と考えているところから、彼の頭の中に恋愛という言葉はないのだろう。そもそも、陸に対する態度から、彼に交換を抱いてもらえているとは思えない。そんな中で告白なんかしては断られるのが関の山だ。毎日のように顔を合わせる間柄で気まずくなりたくない。
「どうだろうなぁ。……でも、おまえさんとしてはどうなんだ? そのうち好きじゃなくなればいいって思ってんのか?」
「そういうわけじゃ……あ」
「それが答えだろ」
グラスに残っていた麦茶を一気に呷ると、大和はのっそりと立ち上がった。
「まぁ、うまくやんなさいな」
陸の肩を軽く叩き、ウインクをする大和。共有のリビングのほうへ向ける視線の先を追う。
「~~っ! い、一織……」
どこから聞いていたのだろう。もしかして、自分の気持ちを知られてしまった? 全身からぶわりと汗が噴き出した。
だらだらと汗をかく陸をよそに、一織は黙ったまま冷蔵庫から牛乳を取り出すと、鍋に注いであたため始める。どうしたものかと咄嗟に大和を見遣ったが、彼は肩を竦めるだけだ。
(うまくやれって、そんなの……)
「あぁ、二階堂さん、食器は片付けますから」
「お、サンキュー」
あとから食事をとったら片付けは自分で。それが自分たちの中でのルールなのに、大和が使った食器を洗っておくと申し出た一織が恨めしい。
「じゃあな、お二人さん。俺は風呂入るから」
「大和さ……」
陸の呼び止めもむなしく、大和はさっさと出て行ってしまった。
今、一織がやっていることはホットミルクづくりだ。毎晩、眠る前に陸のために用意してくれている。二人で飲みながらたわいもない話をするのが習慣で、一織のことを意識するようになってからは「好きな人と二人きりで過ごせる貴重な時間」として、陸の楽しみとなっている。目の前で用意してくれているのにそそくさと去るわけにもいかず、陸はダイニングに着席したまま、自分の太腿に視線を落としている。
(どうしようどうしようどうしよう……! 聞こえてなかったんならいいけど、聞こえてたら、オレが一織のこと好きって知られちゃったってことだよな。一織のやつ、さっきからなんにも言わないけど……)
聞こえていなかったため無言なのであれば、命を救われた気になる。しかし、聞こえていて、敢えて話題に触れないようにしているのであれば……陸の片想いは絶望的なのだと思わざるを得ない。さきほどの大和との会話で、当たって砕けたくないと言いつつも時間の経過で気持ちが色褪せるのを待つことはできなさそうだと自覚したばかりだ。初恋は叶わないとなにかで読んだことがあるけれど、こんなかたちで失恋したくなかった。
ぐるぐると考えていると、こつんという音とともに、目の前に赤いマグカップが置かれる。一織も自分のマグカップを持って、陸の向かいに腰掛けた。
「そんなに怯えないでください」
「……だって」
マグカップを両手で包むように持ち、ゆっくりと息を吹きかける。こんなことをしなくても、陸がすぐに飲めるよう、熱すぎない温度まで冷ましてから出してくれていることを知っている。それでも、いつもこうしてふぅふぅと息を吹きかけるのは、陸がホットミルクを飲もうとするのを見ている一織の視線がやわらかくて、照れくさくなるからだ。
口の中に広がる甘くて優しい味。まるで、一織の歌声のようだと思う。飲むたびに心が締め付けられて、自分がいかに一織のことを好きなのかと思い知らされる。
三分の一ほど飲んだところでマグカップを置くと、陸は勢いよく顔を上げた。
「あのさ、さっきの……その、聞いてた?」
陸の言葉に、一織の手がぴくりと反応する。その反応は、聞いていたということだ。
「……盗み聞きする意図はありませんでしたが」
あぁ、どうしよう。思わずテーブルに突っ伏してしまう。顔が熱いのは、自分の気持ちを知られていたことが確かなものとなったことでの気恥ずかしさだ。ここまできたら、素直に認めるしかない。
「…………オレたちアイドルとしてまだまだ若手だし、恋とか表立ってできないけど、それでも、オレは一織のこと、…………好きで、ごめん。迷惑だよな。頑張って、今まで通りできるようにするから。だから……できたら、嫌わないで」
最後のほうは涙声になってしまい、本当に涙が出そうだったのを隠すように俯く。話しながら、一織に嫌われる想像をしてしまったのだ。
そのままじっと待っていると、向かいから、大きな溜息が聞こえた。呆れられたのだろうか。
「……七瀬さん。七瀬さん、顔を上げてください」
「やだ……怖い…………」
俯いた状態で身をかたくしていると、一織が立ち上がる気配がした。顔を上げない陸にいよいよ呆れて、この場を去るのだろうか。でも、誰だって、振られる直前は怖くて前を向くなんてできないのでは。
涙目で自分の太腿に置いた握り拳を見つめていると、視界の端に、見慣れたスリッパが見えた。陸が「え」と顔を上げる前に一織がしゃがみ込み、陸の手に自分の手を重ねる。
「一織……」
「……驚きました。私は口うるさく言ってばかりですから、七瀬さんから敬遠されててもおかしくない」
「そんなこと」
否定しようとしたが、一織の人差し指が唇に触れて「聞いて」と乞われる。自分の唇に一織の指先が触れたことにどきどきしながら、こくりと頷いた。陸はそこでようやく一織の表情を見ることができたのだが、呆れの色は見受けられず、どちらかというと……。
(もしかして、照れてる……?)
一織の表情に「まさか」という気持ちが沸き起こる。レッスン室で一織をこっそり見つめたあと、ふと鏡を見た時の自分に、とても似ているような気がしたのだ。
「さっきの、本当ですか? 私を好きって」
白い肌が赤く染まっている。少なくとも、いやがられていないことはわかる。陸はごくりと生唾を飲み込み、ゆっくりと頷いた。
「好きだよ。……好き」
再び「好き」と口にしたら、もう、止まらなかった。
「一織が学校でラブレターもらったって聞いて、すごくいやだった。もやもやした。今でなくても、いずれ一織には好きな人ができて、その人が一織の隣に並ぶ日がくるんだって思ったら、いやだって思った。オレにしたらいいのにって。一織がオレのこと、他の誰よりも知ってくれてるみたいに、オレだって一織のこと……そりゃ、三月とか環には敵わないかもしれないけど、オレだって、一織のこと、誰よりも知ってるって思いたい。これってなんだろうって考えて、……一織のこと考えるたび、どきどきして。一織のこと見るたび、泣きたくなって。どうしても、一織の隣にいるのはオレがいいって思ったんだ」
まくし立てるように想いを打ち明ける。ひとたび蛇口をひねれば流れ出す水のように、ほんの少しのきっかけであふれてしまいそうなほど、陸は想いを募らせていたのだ。我慢して、気持ちをひた隠しにしようとも思っていたのに、実際にきっかけを与えられたら、もう、だめだった。ここまで切羽詰まっていたことに、自分でも驚いてしまう。
気持ちが言葉となってあふれ出したとともに、陸の瞳からも涙がこぼれる。声だけでは言いあらわせられないほどだったということだ。全身が、一織を好きだと言っている。ぽろぽろとこぼれる涙を、一織の細くて長い指がそっと拭った。
「ぅ……一織、一織は、……?」
自分はなんてほしがりなんだろう。さきほどの一織の表情を見て、できれば、同じ気持ちを返してほしいと思ってしまっている。
ぐずぐずと鼻を鳴らす陸の涙を拭いながら、一織もまた、涙がこぼれてしまいそうだった。
(七瀬さんが、私のことを……)
誰にも口外できない、心の奥底に仕舞い込んだ願い。叶えてみせるという気持ちにすらなれない想い。これ以上、深みにはまってはいけないと、自分を律してきたのに。
人間とは複雑なようでいて単純で、自分の想いが叶うとわかると、途端に、手を伸ばしたくなる。もちろん、手を伸ばさずに踏み止まる者もいるが、まだまだ青い一織には、できなかった。元々、陸のことを手中に収めたい、独占したいという想いがあったのだ。初めは仕事でそう思っていたのが、いつしか、恋愛感情にまで膨れ上がっていた。
「え、一織っ……?」
涙を拭ってやるだけでは伝えられない。陸を強く抱き締め、後頭部を押さえ込むように髪を掻き混ぜた。
「七瀬さん、七瀬さんっ……すみません、……ごめんなさい……」
好きだと打ち明けて、ごめんなさいと言われている。その状況に、心臓がばくばくと大きな音を立てる。
「え、え……」
自分はあっけなく振られてしまうのだろうか。そう覚悟して身をかたくする。
「ごめんなさい、ずっと、……黙ってました。あなたが好きです。好きで、どうしようもないくらいの独占欲がある。ずっと、押し殺さなければと言い聞かせてました。あなたに素っ気なくすることで、自分の感情を誤魔化そうと思ったこともあった。でも、……七瀬さんにこんなふうに言われて、我慢、できるはずがない…………」
抱き締めていた腕をゆるめ、陸の顔を覗き込む。額を合わせると、その距離の近さに陸の頬が赤く染まった。涙で潤んだままの瞳は、柘榴石のようにきらきらと輝いている。
「……オレ、一織のこと、好きでいていいの?」
「えぇ。……というか、私も、好きでいて、いいですか?」
「当然だよぉ~~!」
くしゃりと顔を歪め、陸はまたしても泣き出してしまった。目許も鼻も真っ赤にして、この表情をしている原因が自分なのだと思うと嬉しくなってしまう。
泣き過ぎて熱くなった頬を両手で包むようにすると、唇の端にそっとくちづけた。
(大丈夫だ、これで、間違いはない)
陸の、明るく屈託のない笑顔。のびやかな歌声は、やわらかいだけではなく、心に突き刺さるものを持っている。ひとたび聴けば、皆が虜。惹き付けられない者はいない。そして、ふとした時に見せる真剣な表情。とにかく、目が離せない。いつだったか、陸が一織に、天のことを「みんな、天にぃを、好きにならずにいられないんだよ」と語ったことがあった。一織からすれば、陸こそが「誰もが好きにならずにいられない」存在。
人々は夜空を見上げる時、無意識のうちに、なんらかの願いを込めている。それは叶えたい願いであったり、今日は疲れたから早く休みたいという日常的なものであったり、程度はさまざま。そうして見上げた夜空に、彼の歌声は流星のように降り注ぐ。彼自身に万人の願いを叶える力はないけれど、その歌声を聴けば、願いを叶える力が自分の中からみなぎってくるような、そんな気にさせられる。一織自身がその最たる例だ。
ただ……決して誰にも口外できない、心の奥底に仕舞い込んだ願い。それだけは、叶えてみせるという気持ちにすらなれない。
――一織は、陸に恋をしている。
どうして、と尋ねられてもわからない。くるくると変わる表情がかわいらしくて、目が離せなくて。そして、彼の歌声を聴いた時、一織の世界は確かに変わった。変わってしまった。
初めは、それを憧憬だと思っていた。それだけではないとわかったのは、彼の顔を眠る前に思い浮かべ、欲情してしまった時。一織の小言に瞳を潤ませた陸に、あろうことか劣情を抱いてしまったのだ。メンバーである陸のことを考えて身体を熱くさせるなど、あってはならない。陸のことを聖人君子ではないと思いつつどこか神聖視している自覚はあるけれど、それを差し引いても、彼は劣情を孕んだ視線を投げかけられていいような人物ではない。
(これ以上、深みにはまってはいけない)
ついた溜息が重くて、自分でも笑ってしまう。
自嘲の笑みを浮かべていたその時、部屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
扉を開いたのは、今まさに一織の心を占めている相手。
「お昼どうする? 今いるの、オレと一織と環なんだけど」
ふむ……と一織は冷蔵庫の中身を脳裏に浮かべた。
「そうですね……確か、ほうれん草が余ってますから、なにかつくりましょう」
「やった! 一織がつくってくれるの?」
調理師免許を持つ兄には及ばないものの、簡単なものであれば一織もつくることができる。もちろん、その腕はIDOLiSH7のメンバーも頷くレベルのものだ。
「四葉さんに任せると菓子が昼食になりかねませんし、七瀬さんではオムライスになりそうです」
昨晩、陸のつくったオムライスを食べたばかりだ。彼の手料理を食べたくないといえば嘘になるが、同じものが続くのは胃が飽きてしまう。
「なんだよ、オレだってオムライス以外もできるし!」
頬を膨らませる姿は実に愛らしい。そして同時に、一織の胸が締め付けられる。それを誤魔化すように、膨らんだ頬を指でつついて萎ませ、一織はキッチンへと向かった。彼の頬をつついた指先が熱い。たったこれだけの触れ合いに、心が震えてしまう。
(だめだな……こんなことで浮かれてしまうなんて)
叶えるつもりもない願いが、心を苦しめる。一体どうすれば、諦められるのだろう。
◇
「さて、では一織さん、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」
十二月上旬、今日は雑誌のインタビューを受ける日だ。
「まず、もうじき誕生日を迎えるにあたっての抱負なんかを」
質問内容は事前に聞かされていたから、回答も考えてある。
「十八歳になれば普通免許が取れますから、まずはそちらを取得したいですね。今はマネージャーが仕事の送り迎えをしてくれてますけど、自分たちのグループは七人いて、今回のように個人の仕事をいただくこともあります。マネージャーの負担を軽減させるためにも、自分たちでできることはやりたいと思ってます」
「なるほど、一織さんらしいですね。それに、小鳥遊事務所は社員とタレントの仲もいいと聞きます。一織さんのように自分のできることは自分でやろうというタレントさんたちがいるんですから、事務所の方々も、それならタレントのためにもっと頑張ろうって思うでしょうね。いいサイクルだな。他には、どうでしょう」
話しやすいインタビュアーだなと思いながら、一織は言葉を続ける。
「それはもちろん、IDOLiSH7としての活動です。最近ではうちの七瀬がドラマの主演を果たしました。二階堂に続く映画主演も夢ではない。その主題歌を私たちが歌えたらと思ってます」
一織の強いまなざしに、インタビュアーがほう……と溜息をつく。
「あぁ、あのドラマなら僕も見てましたよ。演技といえば二階堂大和さんというイメージだったけど、七瀬陸さんもいい演技をするんだなと思いました。役が憑依してるというのかな。見てるうちに、ドラマの世界にどんどん惹き込まれましたね」
陸を賞賛する言葉に、一織口許がゆるみそうになる。そりゃあ、そうだ。七瀬陸は、かならずスーパースターになる男。自分が誇らしく思っている男を賞賛する言葉に、浮かれそうになってしまう。
「ありがとうございます。七瀬が聞いたら喜ぶと思います」
「一織さんまで嬉しそうですね」
「そりゃあ、メンバーのことを褒めていただけたのですから嬉しいですよ」
これは本当。たとえ陸でなくても、メンバーが褒められれば嬉しい。しかし、陸が褒められると、他のどのメンバーが褒められた時よりも、嬉しくなってしまう。
「一織さんは、七瀬陸さんとユニット曲を歌ったことがありましたね。今でもライブのセットリストに組み入れることがあるとか。日常でも、仲がいいんですか?」
あらかじめ聞いていた質問内容に含まれていたことなのに、陸とのことを聞かれてどきりとしてしまう。
(大丈夫、あらかじめ想定してたことだ……)
前もって聞かされていた質問に対する回答で、インタビュアーがどこに興味を示すか、どのように話が広がるか、一織は複数のパターンを想定していた。どのパターンになっても、IDOLiSH7の宣伝をうまく挟み込むような流れとなるように、頭の中でシミュレーションしてきたのだ。
頭の中に叩き込んである回答を引き摺り出す。
「うちは基本的に、皆、仲がいいと自負してます。デビュー前から、小鳥遊事務所の社員寮で寝起きをともにしてるというのもあるでしょう。七瀬さ……七瀬とは部屋が隣なんです。そして、年齢がひとつしか違わない。それもあってか、眠る前に共有のリビングで雑談をすることが多いと思います。それから、四葉は私と年齢が同じで、学校も、クラスも同じなので学校の課題を一緒にすることもあります。兄とはもちろん、六弥、二階堂、逢坂とも、……私たちはなにかとリビングに集まることが多いですね」
「寮生活って楽しそうですね」
「退屈することが一切ないですね。言い換えれば、一人でのんびりしたい時にのんびりできないというか」
一織の言葉にインタビュアーが「はは」と笑った。
「やはり、思春期の高校生としては、一人になりたい時とかあるんですか?」
その質問に、自分がもっとも一人になりたいと思っている時のことが脳裏を過ぎり、こめかみを冷や汗が伝う。
「……そうですね、一人で翌日の授業に備えて予習をしたい時とか、今回のように単独の仕事を頂いて、その準備をしたい時なんかは、一人で静かに過ごしたいです」
一織の返答に納得したのか、インタビュアーは次の質問に移った。
予定されていたインタビューを終え、次はグラビア撮影。発売される雑誌にはこの写真と、さきほどのインタビューが四ページにわたって掲載されることになっている。時刻は昼過ぎ、少し遅い昼食を取ることで休憩とした。
行儀悪いと思いつつ、サンドイッチを齧りながらスマートフォンに視線を落とす。ラビットチャットがいくつかのメッセージを受信していて、何度も手を離しては、それらに一つ一つ返信していった。
(……っ、七瀬さん)
陸とのトークルームに新着アイコンが表示されている。トークルームを開かなくても、二行目まではトーク履歴一覧から見えるようになっていて、その内容から、自分の今日の仕事をねぎらうものであることは見て取れた。
『一織、お疲れさま! 今日って雑誌の撮影だろ? いつ発売?』
トークルームを開くと、きょろきょろしているきなこのスタンプも添えられていて、思わずにやけそうになってしまう。
『一月二十日頃の発売だそうですよ』
返信するとすぐに既読となり、陸からのメッセージが続く。そういえば今日のあの人はオフだったな、と思い出した。
『わかった! 忘れないように買うからな!』
わざわざ購入しなくても、中身を読むだけなら事務所に献本されるのに。しかし、それを言うと陸が「かわいくない!」と怒りだすことが予想できる。どうしたものかと返信内容を考えていると、あらかじめ設定していたアラームが鳴り、そろそろ現場に戻る時間が近いことに気付いた。
『ありがとうございます。では、現場に戻りますね』
着替えとメイクの時間を確保するのはもちろんのこと、食後には歯磨きもしなければならないからと、アラームは早めに設定してある。もう少し陸とのやり取りを楽しんでいたかったな……と名残惜しい気持ちになってしまった。
スタイリストに用意された衣装に身を包み、カメラの前に立つ。
この瞬間は、この仕事をしてどれだけの月日が経とうと、緊張せずにはいられない。ここにいるのはすべてがプロで、妥協は許されない。もちろん、一織だってプロだし、妥協を許さない気持ちは人一倍強いと自負している。それでも、目の前にいる彼らの中で、人生経験がもっとも浅いのは自分。年の功には敵わない。だからといって、舐められるわけにはいかない。それが、一織のプライドだ。一織のプライドはIDOLiSH7をトップアイドルにし、七瀬陸をスーパースターにするためのもの。
レンズ越しにカメラマンと対峙する。この人には、和泉一織を通して、IDOLiSH7の魅力を正しく伝えられる写真を撮っていただきたい。そのためには、プロのカメラマンである彼に最大の敬意を。
「よろしくお願いします」
自分はプロだ。だから、この恋心もひた隠しにしてみせる。
◇
雑誌のインタビューと撮影を終え、寮に戻る。キッチンでは三月と陸が夕食の用意をしていた。
「ただいま戻りました」
「おー、おかえり。撮影お疲れさん」
「おかえり、一織! お疲れさま!」
兄と陸のねぎらいに、緊張で張り詰めていたことによる疲労がやわらぐ。すん、と鼻を鳴らすと漂ってくるのはカレーの香りだった。
「そうだ、環起こしてきてよ」
「四葉さん、寝てるんですか?」
明日提出の課題があるのに。
(きっと終わってないんだろうな……)
今夜は早めに眠ろうと思っていたのだが、彼の課題が終わるのを見届けなければ、安心して眠れそうにない。
「わかりました。……他のみなさんは?」
「あぁ、壮五は今、買いもの行ってもらってる。明日の朝に使う味噌切らしてるのに買いそびれてさ。大和さんはドラマの撮影が長引くって連絡あった。ナギは部屋。でも、あと二十分は静かにしてやってくれ」
なるほど、彼は今、アニメ視聴中といったところか。一織は頷くと、まずは自室へ荷物を置きに行こうと、階段のほうへ向かう。
「では、四葉さんを叩き起こして課題を多少進めさせたら下りてきますので」
三月と陸が返事するのを確かめると、そのまま、一織は階段を上っていった。その後ろ姿をこっそりと見送る。
「……なぁ、三月」
「んー?」
サラダに入れるトマトを洗いながら、陸が呟くように話す。
「一織ってさ、最近、……悩んでるのかな」
「あいつが?」
陸は三月の顔をちらりと見遣る。気付いていて、しらばっくれているというのではなさそうだ。メンバーの中で誰よりも他人の感情に機敏で、なおかつ一織とはクラスメイトでもある環も、心当たりがないようだった。大和や壮五、ナギにはまだ確かめていないが、これ以上、この質問を他の人間にすることは憚られる。一織が悩んでいるようだと触れまわっていることになりかねないから。
陸の気のせいかもしれないし、もし、気のせいでなかったとしても、一織の性格を考えると、本人の知らないところで悩みを抱えているようだと触れ回るのは得策ではない。
「ん~……オレの考え過ぎかな」
「あいつは昔っからなに考えてんのか、わかんないことがあったけどさ。最近の一織見てると、本当に困った時には話してくれると思うんだ」
「そっか……、うん、そうだよね」
三月の言う通りだ。自分たちには、信頼関係がある。なにか悩んでいるとして、一人で抱え込むなんて水くさいと言いたいところだが、一織自身が自分で解決できることであれば、自分たちが首を突っ込んではいけない。
「それにしても、陸って一織のことよく見てくれてるんだな」
「えっ」
兄として嬉しいよ、と三月が笑う。
このメンバーと出会うまで、一織には友人らしい友人がいなかった。一織が悩んでいるのではないかと気遣う相手も、家族以外いなかった。今の一織にはIDOLiSH7のメンバーがいる。三月自身も、……そして、陸も。いや、どのメンバーも、IDOLiSH7に助けられてきた。
「そりゃあ、大事な仲間だもん」
そう答えながら、陸は胸の奥にちくりと痛むものを感じた。
(ばれてない、よな)
洗い終えたトマトを輪切りにしていく。包丁の刃がトマトの皮を突き破って、するすると実を割いていく。まな板の上、切ったところから種を纏った胎座がどろりと垂れて、まるで自分みたいだと思った。
一織へ抱いている気持ち。今はなんとか心の内に押し留めているが、薄皮一枚で覆った気持ちはほんの少しのきっかけで中身がこぼれてしまいそう。今だって、三月に「一織のことよく見てくれてるんだな」と言われて、ひやりとした。三月だけではない。他のメンバーはもちろん、事務所の人間、仕事で関わったスタッフなんかも「二人は仲がいいですね」と、なんでもないことのように言ってくれる。天気予報でお天気キャスターが「今日は雲一つない青空です」と言うような声のトーンで、一織と陸は仲がいいなと微笑ましく話しかけてくれる。彼らにはなんの罪もない。ただ、陸が勝手に意識してしまうだけのこと。
「おい、陸!」
「えっ? ……あっ、あ~…………ごめん」
同じ厚みになるよう輪切りにしたかったのに、いつの間にかぶつ切りになっていた。
「いいよ、腹に入れば同じだ! でも、どうしたんだ? ぼんやりして」
「ううん、なんでもない! お腹空いたなぁってぼんやりしちゃった!」
「あぁ、確かになぁ。あともうちょっと我慢してくれよ!」
鍋をかき混ぜながら笑う三月に頷き、陸はこっそりと溜息を漏らした。
――陸もまた、一織に恋をしている。
理由は単純明快だ。自分の持病を考慮して「やめておいたほうが」と安全策を提示されるばかりだった陸に、初めて発破をかけてきた相手。諦めることに慣れつつあった陸に、諦めている場合じゃないと教えてくれたのが一織だ。歌声を評価してくれて、スーパースターにしてみせるとまで言い張る一織。天が見ている世界を自分も見てみたいと歩き出した陸に、同じ世界で満足するのではなく、更にその上までいこうと手を引いてくれる。一織としては背を押しているつもりなのだろうが、陸にとっての一織は、自分の目指す場所がどこにあるのかを教えてくれる、方位磁針のような存在。
いつだって陸を奮い立たせてくれる一織には、常に感謝の気持ちを抱いている。
しかし、それだけではないと気付いたのは、環から、一織が学校でラブレターをもらっていたと聞いた時。それは共有のリビングでの雑談の中で明かされたもので、メンバー一様に一織をからかったものだけれど、陸としては気が気ではなかった。そうか、一織も告白とかされるんだ。格好いいし、頭もいいし、優しいから当然かもしれない。皆にからかわれながらも、一織は「今は仕事が大事で交際をしてる場合ではない」とその場で丁重に断ったと言っていたのだが、陸は思いのほか打ちのめされてしまった。
今はIDOLiSH7をトップにし、陸をスーパースターにするのだと仕事に夢中になっている一織も、大人になれば、きれいな女の人と寄り添うのかもしれない。
そんな可能性に気付いて、愕然とした。いやだと思った。自分ではない誰かの手を引く一織なんて想像したくない。一体、この気持ちはなんだろう。もやもやとするものを感じながら、次の思考に移る。一織の隣に立つのが自分ならどうか? というものだ。想像して、それが一番いいと思ってしまった。なんて自分勝手な想像なのだろう。それでも、一織の隣にいるのは自分以外、許せないと思った。メンバーから指摘されたことがあるように、自分に頑固な面があることは自覚している。誰になにを言われようと、一織の隣にいるのは自分であり続けたい。
その話を酔った大和にそれとなくしてみたところ「恋愛トークか?」と揶揄された。
もちろん、自分自身の感情だとは言わず、自分がインタビューを受けた女性向けファッション雑誌のコラムに『恋愛? それとも執着?』という投稿があったのだと雑談を持ちかけた。実際にそういった特集が掲載されていたので嘘をついたわけではないのだが、この時の陸は、アイドルと女性向けファッション雑誌の組み合わせは便利だと学んでしまっていた。女性向けファッション雑誌が若手俳優や男性アイドルへのインタビューをグラビア付きで掲載することで、日頃、ファッション雑誌を積極的に購入しない層も雑誌を手に取る。売上アップに繋がるわけだ。そのため、女性ファンの多い若手俳優や男性アイドルは呼ばれやすい。そして、その女性向けファッション雑誌のほとんどは、後半の色刷りページで恋愛や結婚、貯蓄の特集を組んでいることが多い。陸は献本されたものをチェックしたという建前で、普段は口にしづらい恋愛の話題を雑談としてメンバーに振ることができる。なんてうまくできた世の中だろうと思った。雑誌のネタを活用するなんてずるいことばかり上手になっていないで、実際に悩んでいる点がうまくいってくれたらいいのに。
ともあれ、それとなく話を振ることに成功した陸に待っていたのは「そりゃあ他の子と結婚しないで~私とずっと一緒にいて~って、もうその時点で恋しちゃってるってことでしょ、その投稿の子」という酔っ払いのご意見。
ビールを呷りながら笑う大和に適当な相槌を打ちながら、陸は内心、気が気ではなかった。そうか、自分は一織に恋をしているのか、と。
そう自覚してからは、あっという間。毎日毎日、一織の一挙一動が気になって仕方がない。気が付くと目で追ってしまうし、ばちりと視線がかち合うと頬が熱くなる。
誰かが聞いたら、叱るだろうか。それとも、恋に恋している状態だと窘めるだろうか。
それでもいい。他人からは恋に恋している状態にしか見えなくても、陸にとっての一織は一番星であることには変わりないのだから。
鍋から漂うスパイシーな香りに、空腹感がいよいよ本格的なものとなったらしく、腹の虫が鳴ってしまい、陸は我に返った。隣では三月が笑いを噛み殺している。
「そろそろいい頃合いだな。陸、一織たち呼んできてくれ。ナギももうここな見終わっただろ」
「うん、わかった」
キッチンを出たところで玄関から帰寮を告げる壮五の淑やかな声が聞こえ、次いで、三月が大きな声で返事をするのが背後から聞こえた。陸も壮五に「おかえりなさい!」と声をかけてから、一織の部屋へと向かった。
六人での夕食を終え、順番に風呂へと入る。入浴を終えた陸が頭にタオルをのせたままキッチンを覗くと、大和が帰ってきていた。ちょうど、あたため直したカレーを食べるところだったようだ。
「おかえりなさい」
一人で食べるのもさみしかろうと思い、食器棚からグラスを取り出した陸は大和の斜め向かいに腰掛けた。
「なに、お兄さんの晩飯に付き合ってくれんの」
「まぁ、ちょっとだけ」
大和から受け取った麦茶のボトルをそっと傾ける。以前、勢いよく傾けてグラスからあふれさせてしまったことがあり、一織にしこたま叱られたのだ。それ以来、とぷとぷとゆっくり注ぐようにしている。
「イチのつくったホットミルクじゃなくていいのか?」
グラスに口を付けたところでそう話しかけられ、思わずむせ返ってしまった。
「……大和さぁん…………」
わざとそんなタイミングで話しかけなくてもいいじゃないかと睨み付ける。
「はは、悪い悪い。リクはイチのお手製ホットミルクを毎晩一緒に飲むはずなのにって思ってな」
「もう……意地が悪いですよ? 今日大和さん朝早かったから話しかけようって思ったのに」
忙しいのはありがたいことだが、七人でIDOLiSH7だ。眠る前のささやかなひと時でも、こうして会話の機会をもうけるようにしたい。
「冗談だって、そうむくれるなよ」
スプーンいっぱいにすくったカレーを大きく開いた口の中に運び込む。咀嚼して、しばらくしてから「うまっ」と感嘆の溜息。そりゃあそうだ、今日の夕食は三月が当番、陸がメンバーへの愛情を込めて手伝ったのだからおいしいに決まっている。
大和がカレーとサラダを食べている間、陸はゆっくりと麦茶を飲む。風呂で火照った身体に冷たい麦茶がじわじわと広がっていく。喉はあたためたほうがいいから、今夜もきっと、あとで一織お手製のホットミルクを飲むのだろうなとぼんやり考えた。その前に髪をしっかり乾かさなければ叱られてしまう。……せっかくなら、髪を乾かしてほしいと甘えてみようかなどと考えてしまう自分がいかにも恋に夢中な男のようで恥ずかしい。実際、恋に夢中なのだけれど。
「……それで? この前の特集のお話の続きか?」
「へ?」
「へ? じゃねぇよ。あのな、いくら酔っててもかわいい子どもたちからの悩み相談は覚えてるんだよ」
どきりと心臓が嫌な音を立て、背筋を汗が伝う。雑誌で見かけたという設定で話を振ったのは、大和が酔っているからという状況でもあったからだ。大和も酒の肴に話しただけと済ませてくれるだろうと踏んだから。それをまさか、素面の時にこうして蒸し返されるなんて。
「悩みって……」
「リク、よく覚えとけ。友達の話なんですけどとか、雑誌にあったんですけどって前置きで語られるのは、大抵が、その本人の身の上話だ。聞いたのが俺だからいいけど、仕事先のスタッフや他の共演者だったら……相手によっちゃ、やばいことになってもおかしくないんだぞ。IDOLiSH7のセンター・七瀬陸は同業者と熱愛中ってな、いくらリク自身に敵意がなくても、手段は選ばないからとにかく売れたいってやつは誇張して芸能リポーターや週刊誌の記者にその手の話をうまいこともらすんだ」
「すみません……で、でも熱愛中って別に」
空になったスプーンで陸をぴっと指して大和は続ける。
「実際にデキてなくてもデキてるって持ち込むんだよ。スクープにさえなればとりあえずの打撃にはなる。事実無根だと奔走するにしても、鎮静化するまでは活動に支障が出ることは否めない。悪意のあるやつはな、そうやって人を陥れるんだ。……まぁ、そんなせこいやつがのし上がれるほど、この世界甘くないけどな」
半分ほど減ったグラスを握り締める。
「……ごめんなさい」
ばれていたことでの恥ずかしさと、雑誌ネタで話題をもちかけることを便利だと思っていた自分の思慮の浅さがばからしくて、涙が出そうになる。しかし、こんなことで泣いていてはいけない。悪いのは自分なのだから。
陸が唇に力を込めて涙を堪えていると、向かいから大きな溜息がこぼれる。
「あ~、もう。違う違う。リクを泣かせたいわけじゃないんだ。それに、聞いたのが俺だからいいけどって言っただろ。リクはばかじゃない。それは俺もわかってる。だから、同じミスはしない。そうだろ?」
やっぱりこぼれてしまった涙を拭い、力強く頷く。
「もちろんです! でも、本当……どうしよう。恥ずかしいな……」
誰にも知られていないと思って、毎日一織のことを盗み見ていた。大和にはそれもお見通しだったというわけだ。
「まぁ、安心しろ。気付いてるのは俺だけだ。……多分」
「多分?」
どうしよう。他の人たちにも知られていたら恥ずかしいどころではない。
「メンバーのことを見てるのは俺だけじゃないってことだ。リクだって、イチがなにか悩んでるんじゃないかって気にしてたらしいじゃないか」
大和の言葉で、さきほどの三月とのやり取りを思い出す。一織がなにか悩み事を抱え込んでいるのではないかと三月に探りを入れたのは自分だ。つまり、自分の言動が、三月から大和に伝わり、自分のところに戻ってきている。
「ミツは悪くないからな」
「わかってます」
「まぁ、……ミツも心配してたぞ。トマトがぶつ切りになったって」
フォークでトマトを突き刺し、大きく口を開けて頬張る。一織のことを考えるあまり、輪切りにできなかったものだ。
ここまで知られてしまっていては、もはやなにも隠すことはない。陸は小さく溜息をつくと、ゆるゆるとかぶりを振ってから大和に向き直った。
「これからは気を付けます。……正直なところ、どうしたらいいかわからなくて。恥ずかしいんですけど、オレ、いつの間にか…………ねぇ、大和さん。これって、放っておいたら好きじゃなくなりますかね? そりゃあ、当たって砕けろって言葉はあるけど、オレ、砕けたくないし……」
もちろん、互いに同じ気持ちとなることが理想だ。しかし、環曰く、一織は「今は仕事が大事で交際をしてる場合ではない」と考えているところから、彼の頭の中に恋愛という言葉はないのだろう。そもそも、陸に対する態度から、彼に交換を抱いてもらえているとは思えない。そんな中で告白なんかしては断られるのが関の山だ。毎日のように顔を合わせる間柄で気まずくなりたくない。
「どうだろうなぁ。……でも、おまえさんとしてはどうなんだ? そのうち好きじゃなくなればいいって思ってんのか?」
「そういうわけじゃ……あ」
「それが答えだろ」
グラスに残っていた麦茶を一気に呷ると、大和はのっそりと立ち上がった。
「まぁ、うまくやんなさいな」
陸の肩を軽く叩き、ウインクをする大和。共有のリビングのほうへ向ける視線の先を追う。
「~~っ! い、一織……」
どこから聞いていたのだろう。もしかして、自分の気持ちを知られてしまった? 全身からぶわりと汗が噴き出した。
だらだらと汗をかく陸をよそに、一織は黙ったまま冷蔵庫から牛乳を取り出すと、鍋に注いであたため始める。どうしたものかと咄嗟に大和を見遣ったが、彼は肩を竦めるだけだ。
(うまくやれって、そんなの……)
「あぁ、二階堂さん、食器は片付けますから」
「お、サンキュー」
あとから食事をとったら片付けは自分で。それが自分たちの中でのルールなのに、大和が使った食器を洗っておくと申し出た一織が恨めしい。
「じゃあな、お二人さん。俺は風呂入るから」
「大和さ……」
陸の呼び止めもむなしく、大和はさっさと出て行ってしまった。
今、一織がやっていることはホットミルクづくりだ。毎晩、眠る前に陸のために用意してくれている。二人で飲みながらたわいもない話をするのが習慣で、一織のことを意識するようになってからは「好きな人と二人きりで過ごせる貴重な時間」として、陸の楽しみとなっている。目の前で用意してくれているのにそそくさと去るわけにもいかず、陸はダイニングに着席したまま、自分の太腿に視線を落としている。
(どうしようどうしようどうしよう……! 聞こえてなかったんならいいけど、聞こえてたら、オレが一織のこと好きって知られちゃったってことだよな。一織のやつ、さっきからなんにも言わないけど……)
聞こえていなかったため無言なのであれば、命を救われた気になる。しかし、聞こえていて、敢えて話題に触れないようにしているのであれば……陸の片想いは絶望的なのだと思わざるを得ない。さきほどの大和との会話で、当たって砕けたくないと言いつつも時間の経過で気持ちが色褪せるのを待つことはできなさそうだと自覚したばかりだ。初恋は叶わないとなにかで読んだことがあるけれど、こんなかたちで失恋したくなかった。
ぐるぐると考えていると、こつんという音とともに、目の前に赤いマグカップが置かれる。一織も自分のマグカップを持って、陸の向かいに腰掛けた。
「そんなに怯えないでください」
「……だって」
マグカップを両手で包むように持ち、ゆっくりと息を吹きかける。こんなことをしなくても、陸がすぐに飲めるよう、熱すぎない温度まで冷ましてから出してくれていることを知っている。それでも、いつもこうしてふぅふぅと息を吹きかけるのは、陸がホットミルクを飲もうとするのを見ている一織の視線がやわらかくて、照れくさくなるからだ。
口の中に広がる甘くて優しい味。まるで、一織の歌声のようだと思う。飲むたびに心が締め付けられて、自分がいかに一織のことを好きなのかと思い知らされる。
三分の一ほど飲んだところでマグカップを置くと、陸は勢いよく顔を上げた。
「あのさ、さっきの……その、聞いてた?」
陸の言葉に、一織の手がぴくりと反応する。その反応は、聞いていたということだ。
「……盗み聞きする意図はありませんでしたが」
あぁ、どうしよう。思わずテーブルに突っ伏してしまう。顔が熱いのは、自分の気持ちを知られていたことが確かなものとなったことでの気恥ずかしさだ。ここまできたら、素直に認めるしかない。
「…………オレたちアイドルとしてまだまだ若手だし、恋とか表立ってできないけど、それでも、オレは一織のこと、…………好きで、ごめん。迷惑だよな。頑張って、今まで通りできるようにするから。だから……できたら、嫌わないで」
最後のほうは涙声になってしまい、本当に涙が出そうだったのを隠すように俯く。話しながら、一織に嫌われる想像をしてしまったのだ。
そのままじっと待っていると、向かいから、大きな溜息が聞こえた。呆れられたのだろうか。
「……七瀬さん。七瀬さん、顔を上げてください」
「やだ……怖い…………」
俯いた状態で身をかたくしていると、一織が立ち上がる気配がした。顔を上げない陸にいよいよ呆れて、この場を去るのだろうか。でも、誰だって、振られる直前は怖くて前を向くなんてできないのでは。
涙目で自分の太腿に置いた握り拳を見つめていると、視界の端に、見慣れたスリッパが見えた。陸が「え」と顔を上げる前に一織がしゃがみ込み、陸の手に自分の手を重ねる。
「一織……」
「……驚きました。私は口うるさく言ってばかりですから、七瀬さんから敬遠されててもおかしくない」
「そんなこと」
否定しようとしたが、一織の人差し指が唇に触れて「聞いて」と乞われる。自分の唇に一織の指先が触れたことにどきどきしながら、こくりと頷いた。陸はそこでようやく一織の表情を見ることができたのだが、呆れの色は見受けられず、どちらかというと……。
(もしかして、照れてる……?)
一織の表情に「まさか」という気持ちが沸き起こる。レッスン室で一織をこっそり見つめたあと、ふと鏡を見た時の自分に、とても似ているような気がしたのだ。
「さっきの、本当ですか? 私を好きって」
白い肌が赤く染まっている。少なくとも、いやがられていないことはわかる。陸はごくりと生唾を飲み込み、ゆっくりと頷いた。
「好きだよ。……好き」
再び「好き」と口にしたら、もう、止まらなかった。
「一織が学校でラブレターもらったって聞いて、すごくいやだった。もやもやした。今でなくても、いずれ一織には好きな人ができて、その人が一織の隣に並ぶ日がくるんだって思ったら、いやだって思った。オレにしたらいいのにって。一織がオレのこと、他の誰よりも知ってくれてるみたいに、オレだって一織のこと……そりゃ、三月とか環には敵わないかもしれないけど、オレだって、一織のこと、誰よりも知ってるって思いたい。これってなんだろうって考えて、……一織のこと考えるたび、どきどきして。一織のこと見るたび、泣きたくなって。どうしても、一織の隣にいるのはオレがいいって思ったんだ」
まくし立てるように想いを打ち明ける。ひとたび蛇口をひねれば流れ出す水のように、ほんの少しのきっかけであふれてしまいそうなほど、陸は想いを募らせていたのだ。我慢して、気持ちをひた隠しにしようとも思っていたのに、実際にきっかけを与えられたら、もう、だめだった。ここまで切羽詰まっていたことに、自分でも驚いてしまう。
気持ちが言葉となってあふれ出したとともに、陸の瞳からも涙がこぼれる。声だけでは言いあらわせられないほどだったということだ。全身が、一織を好きだと言っている。ぽろぽろとこぼれる涙を、一織の細くて長い指がそっと拭った。
「ぅ……一織、一織は、……?」
自分はなんてほしがりなんだろう。さきほどの一織の表情を見て、できれば、同じ気持ちを返してほしいと思ってしまっている。
ぐずぐずと鼻を鳴らす陸の涙を拭いながら、一織もまた、涙がこぼれてしまいそうだった。
(七瀬さんが、私のことを……)
誰にも口外できない、心の奥底に仕舞い込んだ願い。叶えてみせるという気持ちにすらなれない想い。これ以上、深みにはまってはいけないと、自分を律してきたのに。
人間とは複雑なようでいて単純で、自分の想いが叶うとわかると、途端に、手を伸ばしたくなる。もちろん、手を伸ばさずに踏み止まる者もいるが、まだまだ青い一織には、できなかった。元々、陸のことを手中に収めたい、独占したいという想いがあったのだ。初めは仕事でそう思っていたのが、いつしか、恋愛感情にまで膨れ上がっていた。
「え、一織っ……?」
涙を拭ってやるだけでは伝えられない。陸を強く抱き締め、後頭部を押さえ込むように髪を掻き混ぜた。
「七瀬さん、七瀬さんっ……すみません、……ごめんなさい……」
好きだと打ち明けて、ごめんなさいと言われている。その状況に、心臓がばくばくと大きな音を立てる。
「え、え……」
自分はあっけなく振られてしまうのだろうか。そう覚悟して身をかたくする。
「ごめんなさい、ずっと、……黙ってました。あなたが好きです。好きで、どうしようもないくらいの独占欲がある。ずっと、押し殺さなければと言い聞かせてました。あなたに素っ気なくすることで、自分の感情を誤魔化そうと思ったこともあった。でも、……七瀬さんにこんなふうに言われて、我慢、できるはずがない…………」
抱き締めていた腕をゆるめ、陸の顔を覗き込む。額を合わせると、その距離の近さに陸の頬が赤く染まった。涙で潤んだままの瞳は、柘榴石のようにきらきらと輝いている。
「……オレ、一織のこと、好きでいていいの?」
「えぇ。……というか、私も、好きでいて、いいですか?」
「当然だよぉ~~!」
くしゃりと顔を歪め、陸はまたしても泣き出してしまった。目許も鼻も真っ赤にして、この表情をしている原因が自分なのだと思うと嬉しくなってしまう。
泣き過ぎて熱くなった頬を両手で包むようにすると、唇の端にそっとくちづけた。