感謝
ふぅ、と溜息を一つ。一織は眉間に皺が寄っていたことに気付き、指先で揉み解した。首を回すと小気味いい音が響いて、相当、根を詰めていたのだと実感する。課題もきりのいいところまで進んだことだし、一休みすべきかと回したままの首で天井を見上げる。ちょうどそのタイミングで部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「一織、今いい?」
弾んだ声に少しの疲労を感じていた一織の心もふわふわと浮き足立つ。そのまま入室を促すと、ドアが開くとともにひょっこりと癖のある赤い髪が見えた。
「どうしました?」
「一織、今日ずっと部屋にこもってるだろ? そろそろ休憩したほうがいいんじゃないかと思って」
陸が掲げたトレイを見て、まなじりが下がる。まったく、タイミングのいい男だ。
「珍しいですね、七瀬さんがこぼさずに運んでこられるなんて」
「あ、おまえ、そういうの失礼だぞ。オレだって、いつもいつもこぼしてるわけじゃないんだからな!」
そう言いながらトレイをもって部屋に入ってくる陸の足許はやや危なっかしい。見ていられなくて、一織は慌てて駆け寄ると、陸の手からトレイごと取り上げた。
「反論は、しっかりとした足取りで運んでからにしてください」
環の勉強を見てやる時や、陸がこうして訪れた時のため、折り畳み式の小さなテーブルを置いてある。陸は慣れた所作でそれを組み立てると、部屋の中心にあるラグの上に置いた。
(紅茶か……)
日頃、ブラックコーヒーかエスプレッソでいいと言うことが多いなか、今回、陸が持ってきたのは紅茶だった。本当は一織が甘いものを好むことくらい、陸はとうにわかっていて、そのうえで「オレが飲みたかったから」と言って一織に甘い飲みものを用意することがある。添えられていたクッキーからふわりと香るシナモンは、紅茶との相性がよさそうだ。それまで躍起になって課題に向かっていたことで気付かなかった空腹感が、一気にその姿を現した。
「いいにおいだろ? ナギがいつも紅茶買ってくるお店のなんだ!」
話を聞いてみたところ、昨日、ラジオ収録に向かう前にナギとともに立ち寄って買い求めたとのこと。
「ありがとうございます……って、七瀬さん?」
陸にも座るよう促し、ローテーブルの前に腰を下ろす。てっきり自分の向かい側に座るものとばかり思っていた陸は、なぜか、一織の隣にやってきた。
ティーポットから紅茶を注ぎ、にこにことご機嫌な様子でミルクと砂糖を入れた。
「あ、ちょっと」
一織の制止もむなしく、一織の紅茶にまでミルクと砂糖が投入される。あぁ、甘ったるそう。赤茶の中でじわじわと広がっていく白の多さに、一織は生唾を飲み込んだ。
「疲れた時は甘いものって言うだろ?」
じわじわと広がるミルクの白が、スプーンによってどんどん溶け込んでいく。疲労を感じた時に摂取する糖分は、ミルクティーの甘さとは違うのにな……と思いつつ、陸によって突然開催されたティータイムを甘んじて受け入れることにした。だって、久しぶりだったのだ。仕事が忙しく、出席できない部分を埋めるための課題に追われていて、陸とゆっくり過ごす時間がなかなかもうけられなかった。
淹れたてのあたたかいミルクティーに口をつけると、思っていたよりも熱くて唇がひりついた。
「あつっ」
隣で、陸も同じような反応を示す。カップの水面が揺れて「あ」と咄嗟に手を伸ばし、カップを取り上げた。
「まったく……慎重になってください。こぼすところだったじゃないですか」
「う、ごめん。ありがと」
同じくらいの背丈なのに上目遣いをされることが多くて、一織はそのたびに「う」と言葉に詰まってしまう。そそっかしいと叱りながらも、すぐに許してしまう。それに、陸は些細なことでも「ありがとう」と欠かさず言ってくれるものだから、そのたびに、一織の心の中にあたたかな気持ちが広がっていくのだ。あまり細やかに礼を言われ続けると、感謝の言葉が薄っぺらく感じられて、うんざりしてもおかしくないのに、陸だけは違う。
(七瀬さんの魅力か、それとも)
それとも、自分が陸に対して親愛以上の情を抱いているからか。
隣にぴったりくっついて座る陸を見遣る。自分の膝の近くには、陸の手がある。もしここで、自分の手を重ねたら、陸はどんな反応をするのだろうか。陸とは気持ちを確かめ合ったばかりで、まだ、恋人らしい触れ合いをしたことがない。そういった時間をゆっくりともうける間もなく、仕事に忙殺されていたのだ。
どきどきと高鳴る己の鼓動が耳障りで、一織は小さくかぶりを振ると、わざと視線を逸らしたまま、陸の手に自分の手をゆっくりと近付けた。多分、今、手汗がすごいと思う。
「あのさ」
「なん、ですか、唐突に」
驚かさないでほしい。動揺していることを悟られないよう、必死で取り繕った。
「ありがとな」
「は?」
さきほどの会話以外で、なにか礼を言われるようなことをしただろうか。心当たりがなくて、訝しげな表情になってしまう。
「一織、いっつもラジオ聴いてくれてるんだろ? ナギが言ってた。もちろん、IDOLiSH7の仲間としてオレの仕事を見てるだけかもしれないけど、……でも、嬉しかったんだ。その、オレたち、付き合ったばっかりでまだそれらしいことなんにもできてないけど、一織が見てくれてるんだっていうだけで、いつも以上に頑張れる。だから、その、いつも聴いてくれている一織になにかお礼がしたいなって、ナギに聞いたんだ」
それで、新作の紅茶とクッキーを買い求めたのだと。ティーカップに視線を落としたまま打ち明けた陸に、心が締め付けられそうなほどの愛おしさを感じる。もちろん、IDOLiSH7の仲間として彼らのラジオ放送を確認していたことは事実だ。しかし、それ以上に、恋しくてたまらない相手の声を少しでもたくさん聴いていたくて、ラジオ放送の時間になると他のことをしていても、手を止めてラジオに集中するようになった。
(あぁ、なんてかわいい人なんだろう)
「七瀬さん、お礼を言いたいのはこちらのほうです」
あんなに緊張していたのに、すぐ傍にある陸の手に自分の手を重ねることができた。
「七瀬さんと六弥さんの声が電波に乗って流れてくるこの時間、悔しいことに、私はまだ仕事をすることができません。それでも、目を閉じてラジオに耳を傾けて……まるで、自分もすぐ傍にいるような気になれるんです。……まぁ、実際に私がその場にいたら、あそこまで破天荒なラジオにはならないと思いますけど」
「最後のひとこと余計!」
唇を尖らせた陸の頬を両手で包み込むと、ぱっと頬を赤らめた。
「今も、……少し根を詰め過ぎてしまっていたところに、こうして気分転換をさせてもらって……本当に、感謝してるんですよ」
顔の距離が近くて、今にも唇が触れてしまいそう。かたく目を瞑って身構える陸に、一織がふっと笑う気配がする。次いで、熱くなっていた頬にやわらかい感触がした。
「…………へ?」
ぱちぱちと瞳を瞬かせる陸。唇にしてほしかったなと思いながら、頬に触れた痕跡を逃したくなくてみずからの手で頬を押さえた。
「感謝の意を伝えるには、ここにするのがいいそうなので」
なんのこと? と首を傾げる陸がその意味を知るのは、もう少し先のこと。
「一織、今いい?」
弾んだ声に少しの疲労を感じていた一織の心もふわふわと浮き足立つ。そのまま入室を促すと、ドアが開くとともにひょっこりと癖のある赤い髪が見えた。
「どうしました?」
「一織、今日ずっと部屋にこもってるだろ? そろそろ休憩したほうがいいんじゃないかと思って」
陸が掲げたトレイを見て、まなじりが下がる。まったく、タイミングのいい男だ。
「珍しいですね、七瀬さんがこぼさずに運んでこられるなんて」
「あ、おまえ、そういうの失礼だぞ。オレだって、いつもいつもこぼしてるわけじゃないんだからな!」
そう言いながらトレイをもって部屋に入ってくる陸の足許はやや危なっかしい。見ていられなくて、一織は慌てて駆け寄ると、陸の手からトレイごと取り上げた。
「反論は、しっかりとした足取りで運んでからにしてください」
環の勉強を見てやる時や、陸がこうして訪れた時のため、折り畳み式の小さなテーブルを置いてある。陸は慣れた所作でそれを組み立てると、部屋の中心にあるラグの上に置いた。
(紅茶か……)
日頃、ブラックコーヒーかエスプレッソでいいと言うことが多いなか、今回、陸が持ってきたのは紅茶だった。本当は一織が甘いものを好むことくらい、陸はとうにわかっていて、そのうえで「オレが飲みたかったから」と言って一織に甘い飲みものを用意することがある。添えられていたクッキーからふわりと香るシナモンは、紅茶との相性がよさそうだ。それまで躍起になって課題に向かっていたことで気付かなかった空腹感が、一気にその姿を現した。
「いいにおいだろ? ナギがいつも紅茶買ってくるお店のなんだ!」
話を聞いてみたところ、昨日、ラジオ収録に向かう前にナギとともに立ち寄って買い求めたとのこと。
「ありがとうございます……って、七瀬さん?」
陸にも座るよう促し、ローテーブルの前に腰を下ろす。てっきり自分の向かい側に座るものとばかり思っていた陸は、なぜか、一織の隣にやってきた。
ティーポットから紅茶を注ぎ、にこにことご機嫌な様子でミルクと砂糖を入れた。
「あ、ちょっと」
一織の制止もむなしく、一織の紅茶にまでミルクと砂糖が投入される。あぁ、甘ったるそう。赤茶の中でじわじわと広がっていく白の多さに、一織は生唾を飲み込んだ。
「疲れた時は甘いものって言うだろ?」
じわじわと広がるミルクの白が、スプーンによってどんどん溶け込んでいく。疲労を感じた時に摂取する糖分は、ミルクティーの甘さとは違うのにな……と思いつつ、陸によって突然開催されたティータイムを甘んじて受け入れることにした。だって、久しぶりだったのだ。仕事が忙しく、出席できない部分を埋めるための課題に追われていて、陸とゆっくり過ごす時間がなかなかもうけられなかった。
淹れたてのあたたかいミルクティーに口をつけると、思っていたよりも熱くて唇がひりついた。
「あつっ」
隣で、陸も同じような反応を示す。カップの水面が揺れて「あ」と咄嗟に手を伸ばし、カップを取り上げた。
「まったく……慎重になってください。こぼすところだったじゃないですか」
「う、ごめん。ありがと」
同じくらいの背丈なのに上目遣いをされることが多くて、一織はそのたびに「う」と言葉に詰まってしまう。そそっかしいと叱りながらも、すぐに許してしまう。それに、陸は些細なことでも「ありがとう」と欠かさず言ってくれるものだから、そのたびに、一織の心の中にあたたかな気持ちが広がっていくのだ。あまり細やかに礼を言われ続けると、感謝の言葉が薄っぺらく感じられて、うんざりしてもおかしくないのに、陸だけは違う。
(七瀬さんの魅力か、それとも)
それとも、自分が陸に対して親愛以上の情を抱いているからか。
隣にぴったりくっついて座る陸を見遣る。自分の膝の近くには、陸の手がある。もしここで、自分の手を重ねたら、陸はどんな反応をするのだろうか。陸とは気持ちを確かめ合ったばかりで、まだ、恋人らしい触れ合いをしたことがない。そういった時間をゆっくりともうける間もなく、仕事に忙殺されていたのだ。
どきどきと高鳴る己の鼓動が耳障りで、一織は小さくかぶりを振ると、わざと視線を逸らしたまま、陸の手に自分の手をゆっくりと近付けた。多分、今、手汗がすごいと思う。
「あのさ」
「なん、ですか、唐突に」
驚かさないでほしい。動揺していることを悟られないよう、必死で取り繕った。
「ありがとな」
「は?」
さきほどの会話以外で、なにか礼を言われるようなことをしただろうか。心当たりがなくて、訝しげな表情になってしまう。
「一織、いっつもラジオ聴いてくれてるんだろ? ナギが言ってた。もちろん、IDOLiSH7の仲間としてオレの仕事を見てるだけかもしれないけど、……でも、嬉しかったんだ。その、オレたち、付き合ったばっかりでまだそれらしいことなんにもできてないけど、一織が見てくれてるんだっていうだけで、いつも以上に頑張れる。だから、その、いつも聴いてくれている一織になにかお礼がしたいなって、ナギに聞いたんだ」
それで、新作の紅茶とクッキーを買い求めたのだと。ティーカップに視線を落としたまま打ち明けた陸に、心が締め付けられそうなほどの愛おしさを感じる。もちろん、IDOLiSH7の仲間として彼らのラジオ放送を確認していたことは事実だ。しかし、それ以上に、恋しくてたまらない相手の声を少しでもたくさん聴いていたくて、ラジオ放送の時間になると他のことをしていても、手を止めてラジオに集中するようになった。
(あぁ、なんてかわいい人なんだろう)
「七瀬さん、お礼を言いたいのはこちらのほうです」
あんなに緊張していたのに、すぐ傍にある陸の手に自分の手を重ねることができた。
「七瀬さんと六弥さんの声が電波に乗って流れてくるこの時間、悔しいことに、私はまだ仕事をすることができません。それでも、目を閉じてラジオに耳を傾けて……まるで、自分もすぐ傍にいるような気になれるんです。……まぁ、実際に私がその場にいたら、あそこまで破天荒なラジオにはならないと思いますけど」
「最後のひとこと余計!」
唇を尖らせた陸の頬を両手で包み込むと、ぱっと頬を赤らめた。
「今も、……少し根を詰め過ぎてしまっていたところに、こうして気分転換をさせてもらって……本当に、感謝してるんですよ」
顔の距離が近くて、今にも唇が触れてしまいそう。かたく目を瞑って身構える陸に、一織がふっと笑う気配がする。次いで、熱くなっていた頬にやわらかい感触がした。
「…………へ?」
ぱちぱちと瞳を瞬かせる陸。唇にしてほしかったなと思いながら、頬に触れた痕跡を逃したくなくてみずからの手で頬を押さえた。
「感謝の意を伝えるには、ここにするのがいいそうなので」
なんのこと? と首を傾げる陸がその意味を知るのは、もう少し先のこと。