もうさみしくないよ
*『MECHANICAL LULLABY』パロディ(ジャヌ×テラ)
アコルダトゥーラのロボットドールたちは、この世に生を受けたその瞬間から、自分の役割を把握している。
ジャヌの役割は、町の図書館にある本の管理。どんな本を探しているのかを伝えれば、該当する本がどの書架にあるのかを瞬時に導き出して、図書館の利用者を案内する。その優秀な頭脳には、本の情報のみならず、その中身までインプットされてあるというから驚きだ。しかし、優秀過ぎる頭脳が災いし、以前は図書館を利用する者もいたのだけれど、最近では「ジャヌに聞けばいい」と、本を読むに至らないことが増えてしまった。
(これが自分の役割だけど……このままでいいのだろうか)
ロボットドールに迷いというものは存在しないはずなのに、いくつかの感情がプリセットされているせいで、人間が抱くような感情を抱いてしまうことがある。
役割の変更なんて前例はない。しかし、誰も来ない図書館を管理するより、皆の辞書役に徹したほうがいいのではないだろうか。今度、ファブラに聞いてみてもいいかもしれない。ファブラはジャヌと同じ上位階級のロボットドールだけれど、巻鍵を管理していることもあって、この街ではリーダー的存在だ。
「まぁ、誰も来ないなら、それでもいいんですけど……」
思いのほか、独り言の声が響いてしまって気恥ずかしくなる。この気恥ずかしいという感情も、本来ならロボットドールに必要ないはずなのに、どうしてプリセットされているのだろうか。
今日も一人、広いばかりで誰も来ない図書館に、時計の秒針と、ジャヌの胸の中に埋め込まれた歯車が、それぞれ決められた規則通りに正しい音を刻んでいる。
歯車の速度よりややゆったりとした時計の秒針。オーガスはどうして速度を統一してくれなかったのだろう。時計塔の時計を管理するオーガスに、そう尋ねたことがある。答えは「ものごとが一通りしかないなんて、つまらないだろう?」というものだった。ジャヌにはその言葉の意図することがわからない。もちろん、この図書館にある本のすべてを網羅しているから、変則の美という概念を認識しているけれど、プリセットされている感情がそこに追い付かないのだ。
そうはいっても、オーガスの管理する時計塔の時計が、この街の時間の基準ということには変わりなく、自分はそれに合わせるしかない。時間を管理しているという点で、オーガスもまた、このアコルダトゥーラではリーダーのような存在だ。
ジャヌは図書館の窓から見える植物園に視線を投げた。あそこでは毎日、動植物の繁栄について研究がおこなわれている。絶滅危惧種とされる動植物を保護し、管理をしているのはディッセンという男。ロボットドールに種族の繁栄という概念はないため、これもまた、本から得た知識でしかないのだけれど、種族が途絶えると世界のバランスが崩れてしまうらしい。ディッセンに課せられた役割は非常に重要だ。ここ最近は、植物の受粉について、集中的に研究をしていると聞く。
こうして考えると、自分以外の上位階級のロボットドールたちは、皆、重要な役割を担っている。それに引き換え、自分はどうだろうか。誰も来ない図書館ということは、つまり、自分の役割は誰にも必要とされていないのでは?
静かな図書館に、ジャヌの溜息がこぼれる。
「おい、いるか?」
聞き慣れた声に、ジャヌは我に返った。広い図書館を早足で歩き、入口まで向かう。
「ようこそお越しくださいました、ファブラ。本日はどのような本を……と、そちらの方は?」
ファブラの後ろに、誰かがいる。体格の大きなファブラの陰になっているので顔は見えないけれど、見覚えのない髪色から、自分の知らないロボットドールだと判断した。
「用件はこいつのことだ」
そう言って、ファブラは連れてきた男を前に突き出した。
「えっと……初めまして、テラといいます」
男の姿を見て、ジャヌは、一瞬、言葉を失ってしまった。
緋と金のオッドアイ。まるで、炎と光のようではないか。燃えるような赤い髪も、この街では初めて見る。
ポストマンをしているマーチンは瑞々しいオレンジの瞳だし、バイオリンを片手に演奏をして回っているジューヌは太陽に愛されたような金糸の髪をしている。街中のメカの整備をしてくれているオクトの瞳だって、黄金に輝いている。見目のよいロボットドールはたくさんいるけれど、今、目の前に現れたテラという男は、ジャヌがこれまで見たなにものよりも美しい。
あぁ、今、自分の視線が釘付けにされている、この状態。これはなんと呼ばれる行動だったか。頭の中にある本の情報を辿る。そう、これは〝見惚れる〟というものだ。
「テラさん、ですか。ジャヌといいます。本をお探しなのはあなたですか?」
人好きのする笑みを浮かべ、テラに尋ねる。心なしか、テラの頬が紅潮して見えた。熱疲労を起こしてしまっているのだろうか。
「えっと……」
「こいつは覚醒したばかりでな、自分の役目がわからないというんだ」
ファブラが代わりに応える。
「わからない? それはまた、どうして……」
「いや……わからないというと語弊があるな。自分の役目を思い出せないといったほうが正しいか。どうすれば思い出せるか、それを知るためにここに連れてきた」
ロボットドールには、必ず、なにかしらの役割が与えられている。
(そう、役割……え?)
ファブラが『役目』と言ったことが少し気にかかった。上位階級の中でもリーダー的存在であるファブラが、言い間違うとは思えない。
「ジャヌ? どうした、ぼんやりして」
しかし、わざわざ指摘するのは憚られ、ジャヌは言葉を飲み込んだ。
「あぁ、いえ。……すみません。お求めの本はここには……いえ、世界中探したって、ないでしょう。」
瞬時に本の内容を頭の中に並べてみたものの、該当するものはなかった。そもそも、役割がわからないロボットドールということ自体、有り得ないからだ。
「それにしても……思い出せないということは、記憶媒体の損傷ですか? それならここではなくオクトに見てもらったほうがいいのでは」
「ここに来る前にオクトってロボットドールのところで点検と整備もしてもらったけど、どこにも損傷はなかったんです」
眉を八の字に下げて、テラが言う。記憶媒体に損傷がない、それなのに役割がわからない。わからないというより忘れている。そんな事例、聞いたことがない。
「……だめですね、どうやら私では、お役に立てそうもありません。シエロに聞いてみてはどうでしょう? 彼なら、本にならないようなことを知っているかもしれません」
シエロというのは、この世界では珍しい、探偵を役割としたロボットドールだ。聞くところによると、彼は自分自身の秘密を解き明かすために、この街のことを探っているらしい。
「それが、最近捕まらないんだ。あいつは街中を探って、常に動き回っているからな。まぁ、巻鍵が必要になれば顔を出すだろうから、その時に聞いてみるつもりだ。しかし、ここでならなんでもわかると思ったんだけどな」
図書館に誰も来なくなったとはいえ、これまで完璧に自分の役割をこなしてきたジャヌにとって、求められている知識を返すことができないというのは屈辱であり、同時に、大変なショックでもあった。あぁ、少し、歯車の回転速度が増した気がする。
「すみません……」
「……あぁ、ジャヌ、気を落とさないでくれ。こうなったら、テラ自身が思い出すのを待つしかないな」
「ボクが? それがボクの役目ですか?」
その言葉に、痛まないはずの心が痛む。そんな役割、聞いたことがない。役割を思い出すのが役割だなんて、役割を思い出せない彼に対しての、慰めの言葉でしかないじゃないか。ロボットドールには、自分の役割がインプットされている。生まれた瞬間に、インプットされた内容が脳にアウトプットされ、役割を理解するのだ。
「まぁ、そういう感じでいい。色々なものを見ろ。自分の心にすとんとくるものが見つかるはずだ。わかるな?」
諭すように言われ、テラはこくりと頷く。
ファブラは、テラの返答を見てから、ジャヌに向き直った。
「……というわけだ」
「はぁ、おめでとうございます、と言えばよろしいのですか?」
自分は求められた知識に応えられるものを提示できなかったけれど、彼らが今後の方向性を決められたのであれば、めでたいことだ。
「察しろよ。テラには色々なものを見る必要がある。それには、ここの図書館はうってつけだ。そう思わないか? 司書ロボットのジャヌ」
「つまり、これから彼がここで本を探すお手伝いをしろということですね? ……まったく、いくら巻鍵を管理していただいているからとはいえ、あなたとわたしは同じ立場なんですけど」
しかし、テラがここに通うということであれば、誰も来ない図書館で、日がな一日、孤独に過ごす必要はないということ。それが少し嬉しくて、必要以上に憎まれ口を叩いてしまった。ジャヌはなぜか、素直に感情を表現できないのだ。
「はは、そう怒るなよ。まぁ、そういうことだ。いいんじゃないか、ここにはあらゆる本があるし、おまえも最近は退屈してただろ」
「……やかましいです」
「えっと、ボクはここにいていいってことですか?」
おず……とテラが口を開く。その表情に、ジャヌの歯車の速度が変わった。
「もちろん、開館中に限ります。九時から二十時まで、それ以外は施錠しなければなりませんので。時間外の利用は一切認められません。本の中身が私の頭の中にあるとはいえ、本という形になっていることで生じる価値までは、私の知識ではカバーしきれませんからね。あなたを疑っているわけではありませんが、例外を認めるわけにはいかないので」
「わかってるよ! ……じゃなくて、わかってますよ。いくらなんでも、ずっと本を読んでいたら、熱疲労してしまいますからね!」
そう言って笑うのを見て、ジャヌのほうこそ、熱疲労を起こしてしまうのではないかというくらい頬が熱くなった。これはなんと呼ぶのだったか。そうだ……〝かわいい〟というものだ。かわいいと思って、頬が熱くなった。
(まただ……)
さきほどから歯車の速度が狂ったり、熱疲労を起こしかけたり、今日の自分はどうもよくない。ジャヌは軽くかぶりを振った。
「……すみません、今日は閉館時間を早めてもよろしいですか。少し、熱疲労を起こしているようです」
「あぁ、それは別に……調子が悪いならオクトに見てもらえよ? 送って行ってやりたいところだが、このあとディッセンのところに行って、ノーベンが開発した新作の昆虫ロボットを見なければならなくてな……困ったな……」
ノーベンが開発する昆虫ロボットは、主に植物の受粉を助けるという役割がある。新作の出来によっては、昆虫ロボット用の巻鍵を用意して、ファブラが管理しなければならない。そのため、新作と聞けばファブラが出向かないわけにはいかないのだ。
「いえ、大丈夫です。恐らく、軽度の熱疲労ですから。一人での帰宅に心配だというのなら、アプリルでも呼びますよ」
「はは、あいつを呼ぼうって気になるくらいなら心配はいらないか」
アプリルは、主に上位階級のロボットドールを運ぶ空中移動車の運転手。しかし、運転が荒いため、依頼の数は少ない。一人で動くことが困難なレベルの不調ならば、アプリルに運んでもらう前に、オクトの出張整備を頼むのが常だ。それを、アプリルを呼ぶというのだから、ジャヌの言う熱疲労はたいしたことはないのだな……とファブラは判断する。
「テラさんはどうされますか? お一人で帰られますか?」
覚醒したばかりで役割がわからないロボットドール。一人で帰ることができないのであれば、植物園に行くファブラについて行ってもらうのがいいだろう。
「一人でも帰れます。でも……ジャヌさんについて行ってはだめですか?」
「私に?」
人間の風邪とは異なり、ロボットドールの熱疲労は感染しない。軽度の熱疲労であれば少し休息すれば済むため、人間でいうところの看病も不要だ。
「心配ですから。……だめですか?」
大きな瞳で見つめられると、また、歯車の動きが速まる。
熱疲労ではないかと感じるのも、歯車の回転速度が不規則になるのも、テラの表情を見るたびに起こっている。テラがジャヌに対してなにかをしているわけではないのに、どうして、テラによって身体に変化が起きてしまうのだろう。ジャヌは本日何度目かの、頭の中にある本の情報検索を始めた。
これ以上、テラと一緒にいては、脳内の電気回路システムがショートしてもおかしくない。そう思うのに、自分に付き添うというテラの申し出を断ることができない。
「別に、構いませんよ。……そうですね、二人になるなら、やはり、アプリルを呼びましょうか」
「あいつなら、Capsaicinにいるだろう」
ロボットドールに食事は必要ないのだけれど、図書館がまだロボットドールで賑わっていた頃に人気だった本から得た知識で、人間の真似ごとをする者が現れた。バイオリンを片手に演奏をして回っているジューヌや、Capsaicinという名称でレストランを経営しているメイアがその一例だ。彼らは下位階級のロボットドールで、中位階級や上位階級のロボットドールでは提供できない娯楽を提供してくれたり、オクトのようにロボットドールの整備をおこなってくれたりしている。そのCapsaicinに中位階級であるアプリルが立ち寄っているのも、食事という娯楽が楽しいからだろう。
「わかりました。テラさんと二人で向かいます。ここを施錠しますので、ファブラも出てくださいね。そろそろディッセンのところに行かなければならないのでは?」
「そうだった。じゃあ先に出る。あまり無理はするなよ。おまえはこの街の頭脳なんだからな」
ファブラはそう言って、図書館をあとにした。残ったのは、ジャヌとテラの二人だ。
「じゃあ、そのアプリルさん? を呼びましょう!」
顔見知りが増えることを期待してか、テラは顔をほころばせた。
「そうですね。その前に、ここを片付けてからです。彼は呼ぶと、すぐに来てしまいますから。片付けが終わってから呼ぶくらいでちょうどいいんですよ」
「へぇ……そんなに速いんですね、アプリルさんの空中移動車って」
どんなのだろう……と期待の声を滲ませるテラに、ジャヌは心の中で溜息をつく。
(なんだか今日は調子がよくない)
いつも一人きりで過ごしていたこの図書館に、久しぶりに自分以外のロボットドールが訪れたものだから、負荷がかかってしまったのかもしれない。ジャヌはそう考えながら、図書館の施錠作業を始めた。
どうせ誰も来ないと思っていても、毎日ここを管理することが役割である以上、ジャヌは毎日鍵を開けている。広さがあるせいで、開錠・施錠の都度、時間がかかって仕方がない。いっそ、ノーベンの知識を借りて、開錠・施錠ロボットを開発するのもいいかもしれないなと考えながら、ひとつひとつ、施錠していく。
「テラさん……どうされました?」
見ると、テラが一冊の本をじっと見つめている。
「……あぁ、すみません。なんだかこの本が、とても気になって」
「それなら、貸出いたしますよ」
「えっ、いいんですか?」
ぱぁっと花が咲くような笑顔に、ジャヌは「しまった」と思った。この、くるくるとよく変わる表情に、この数時間ずっと心を乱されているのだ。
「えぇ、私についてきてください」
幸い、貸出のシステムはまだ稼働させてある。まずは、テラ用のIDカードをつくるところから始めなければ。IDカード発行に必要なものを頭の中に並べながら歩くジャヌの後ろを、テラがついて歩く。
「わぁ、すごい! ……ですね」
IDカード申請用の端末を起動させていると、テラがぴったりと隣にくっついて画面を覗き込んできた。ロボットドールはその身体温度も一定であるよう制御されている。それなのに、テラとの物理的距離が縮まっただけで、ジャヌは、自身の身体が熱を帯びていることに気付いてしまった。身体から熱を発するほど大きな負荷がかかっているとは思えないのに、今日は一体、どうしたというのだろう。
「……無理に敬語になさらなくて結構ですよ」
身体が熱を帯びていることを悟られないよう、わざと淡々とした声音で話す。
上位階級から下位階級まで設けられているものの、実のところ、それは与えられた役割がこの街への貢献度や影響度で分類されているだけに過ぎない。ファブラやオーガス、ディッセンの役割は上位階級と言われて頷けるものだけれど、図書館の管理をしている自分が上位階級という点には、ジャヌ自身、常に疑問を抱いている。それに、ノーベンやマーチン、オクト、アプリルの役割だって、自分たちがよりよい暮らしをするために必要なものだ。娯楽という人間の真似ごとを役割としているジューヌやメイアだって、ロボットドールたちに、リフレッシュタイムが必要だということを思い出させてくれる。……リフレッシュと呼ぶには、ジューヌの奏でる音楽は不協和音が多く、不安感を煽るものが多いのだけれど。
すぐにテラ専用のIDカードが機械から排出され、ジャヌはそれをテラに手渡しながら使用手順を説明する。早速貸出の手続きを済ませたテラが、嬉しそうに本を抱き締めた。
「ありがとう! なんだかすっごくきれいな絵だったから、一目惚れしちゃった!」
「……一目惚れ?」
それは、この図書館にある本の中でも、時々、出てくる言葉だ。そういえば、さきほどテラを初めて見た時も、自分は彼に〝見惚れた〟のだった。なるほど、一目見て、見惚れたのであれば、自分はテラに対して〝一目惚れ〟をしたという単語を当てはめるのが正解なのだろうか。
「うん、ボク、自分の役目は思い出せないんですけど……じゃなくて、思い出せないんだけど、なぜか、こういうのが好きだなっていうことだけはわかるんだ」
自然と出た敬語をわざわざ言い直すテラに、律儀だなと心の中で呟く。
テラが借りた本は、娯楽本に分類されるものだ。改めて表紙を確認し、その本の情報を自分の頭の中にあるデータから引き出す。
「……人間の恋愛の本ですね。テラさんは、恋愛に興味を抱いたんですか?」
「うーん……? どうなのかな、本を読むのだって初めてだし、絵がきれい! と思って惹かれたからこれが恋愛? の本とかってわからなかったんです……じゃなくて、わからなかったんだ」
いちいち言い直すテラに、ジャヌは思わず笑みをこぼした。
「無理に敬語になさらなくていいとは言いましたけど、わざわざ言い直さなくてもいいんですよ」
なにせ、今日出会ったばかりだ。おおかた、ファブラから自分が上位階級であることを聞いているのだろう。そして、役割がわからないテラは、少なくともその役割がわかるまでは自分は下位階級であるということも。
「う……ごめん。なんか、ジャヌさんを見てるとうまく話せなくて。あ、話しにくいってことじゃないよ。すっごくきれいだから、きれいに話さなきゃって思っちゃうんだ」
「きれい?」
それは、テラの容姿を見た時に、ジャヌが真っ先に思ったこと。同じことを、テラも自分に思っているなんて。ジャヌは瞳をまあるく見開いた。
「うん、ジャヌさんってすっごくきれい! ……あ、男のロボットドールに男のロボットドールがきれいとか言うの、おかしいのかな。きれいだけじゃなくて、今だって、ぱぱっと手早く、これつくっちゃうのとか格好よかったよ」
テラに他意はないのだろうけれど、さきほどから繰り出される発言は、どれもこれも、人間の恋愛を描いた本に出てくる言葉たちによく似ている。
「……その言葉、不用意によそで発言しないことをお勧めします」
「えっ、なんで?」
なぜって、人間の恋愛について知識のある者が、テラのこういった発言を聞けば、恋愛という人間の真似ごとをするロボットドールが出てきてしまうかもしれない。それに、なぜだかわからないけれど、自分以外のロボットドールに、こういった発言をしてほしくないと思ってしまった。
「なんでも、です」
ジャヌはそう答えながら、テラと出会ってから数時間、自分の歯車の回転速度を狂わせたり、熱疲労を起こさせたりするきっかけとなったやり取りを思い出していた。
「ふぅん? でも心配しなくていいんだけどな。ボクがきれいだって思ったの、ジャヌさんだけだし。ねぇ、本借りたし、アプリルさんのこと呼びましょう!」
「私だけ、ですか……」
テラがまた敬語に戻っていることは、もう言及しないことにする。自分だけに向けてくれる言葉だというのが嬉しくて、今のジャヌは、もうそれどころではないからだ。あぁ、この感情はなんと呼ぶのだったか。ロボットドールにプリセットされている感情の名前を脳裏に並べてみる。
(だめだ、該当するものがない……)
こうなったら、頭の中にインプットされた、この図書館にある本のデータと照合してみよう。疑問は早急に解決するに限る。ジャヌはいつだって、そうしてきた。
「ファブラさんが言ってた、メイアって人にも会ってみたいな! アプリルさんも、そこにいるんでしょう? ついでだから、そこに連れて行ってもらいたいです!」
ジャヌが端末を終了させている間に、テラは入口へ向かって駆け出していた。
この感情の正体を、データの中から、ひとつひとつ照合していきたいのに、テラといるとその余裕がない。とにかく、目まぐるしく感情を揺さ振られるのだ。まったく、忙しない人だ……と、ジャヌも、テラを追いかけて足早に図書館をあとにした。図書館を出て、アプリルを呼べば、五分とかからず来てくれる。
彼の運転は荒いから、テラはさぞかし驚くことだろう。
(Capsaicinに行きたいと言ってたな……)
ジャヌはCapsaicinに行ったことはないものの、アプリルからその店の評判を耳にしている。なんでも、水がなければ完食できないほど真っ赤な料理がオススメメニューになっているのだとか。
「……え? すぐには来られない?」
呼べば、この街のどこへでも駆け付ける空中移動車の運転手を役割とするアプリル。しかし、今夜ばかりはメイアのオススメメニューの影響で、動作不良に陥ってしまい、オクトのところへ向かっている最中なのだとか。
『十五分くらいかかっちまう。速いのがおれの売りなのに、ごめん、ジャヌさん』
通信機越しに聞こえるアプリルの声。多少息が荒いものの、簡単な修理ですぐに直るとのことだ。彼の背後、謝罪を繰り返す声の主はメイアだろうか。
「いえ、構いません。久しぶりに呼ぶのもいいかと思って気まぐれに連絡してみただけなので。アプリル、今夜はゆっくりしてください。あぁ、ついでに。速さ以外、丁寧さも売りにできるように調整してもらうといいかもしれませんね」
『はぁっ? そんなこと言うと、ジャヌさんが急ぎの時に飛ばしてやんねーぞ』
「冗談ですよ。距離もたいしたことはありませんし……まぁ、とにかく、お大事に」
ジャヌはそう言って、通信機を切断した。
(私としたことが……この人と歩くのもいいかもしれないなどと思うなんて)
隣でもの珍しそうに通信の様子を見ているテラをちらりと見遣る。
「どうしたんですか? 来られないって……」
「……あぁ、すみません。彼はちょっとした修理が必要とのことです。Capsaicinも今日は店じまいのようなので、また後日、アプリルを呼んでCapsaicinに案内してもらうことにしましょう」
オクトのところへ向かうアプリルに付き添っているようだから、今日はそのまま店じまいなのだろうとジャヌは判断した。
「そうなんだ……アプリルさん、大丈夫かな」
「大丈夫ですよ。速さが売りの彼はかなり頑丈にできていますので。……時間が経って熱疲労が落ち着いてきましたので、テラ、あなたをお送りします」
テラと出会って数時間、不規則な回転速度を見せる歯車の動きにも慣れてきた。これくらいであれば、自宅へ戻ってスリープモードになれば小一時間ほどで改善できるだろう。
「えっ……一人ででも帰れるんですけど、……ううん、でも、ジャヌさんともう少しお話ししていたいから、お願いします!」
そう言ってぺこりと頭を下げるテラに、ジャヌの頬がゆるむ。なんだろう、このテラというロボットドールは、動作がいちいち愛らしい。
(……愛らしい…………?)
あぁ、まただ。心臓部にある歯車が、また、回転速度を増した。
「ジャヌさん?」
「……っ、いえ、なんでもありません。さぁ、行きますよ」
小さくかぶりを振って、ジャヌはテラの背を軽く押した。テラの衣服の感触、その下に隠された本体の温度までもが手のひらに伝わってきて、なぜか、心臓部まであたたかくなる。
「あっ、そういえば、ジャヌさんはボクの家、知らないですよね? こっちです!」
くるりと振り返ったテラに、手指を絡め取られた。そのままきゅうっと軽く力が込められて、……これは、まるで。
(まるで、人間の恋愛の本にあった、恋人たちが手を繋ぐ時のようだ)
自分たちはロボットドールなのに、人間の真似事をしている。おかしいことなのに、なぜだか心地いい。心臓部の歯車だって、回転速度が少し増したままだけれど。
(このくらいの速度なら、不快ではない。……不思議だ)
誰も来ない図書館で、毎日一人きり。つい数時間前まで、自分は孤独を感じていたはずなのに。テラに手を引かれて、接触したところがあたたかい。このあたたかさに抱く感情なら、プリセットされているからすぐにわかる。
(これは、さみしくないという感情だ)
歯車の回転速度が狂う理由までは、ジャヌはまだ知らない。
「ボク、この街のことたくさん知って、早く自分の役目を思い出したいです。ジャヌさんのお役に立てることだったらいいな」
「私の、ですか?」
どうして。今日、初めて顔を合わせたばかりの相手なのに、どうして、自分の役に立ちたいなどと言ってくれるのだろうか。
「はい! だって、こんなに広い図書館に一人きりは、多分……さみしいだろうから。ボクの役目がジャヌさんに関係することだったら、毎日、傍にいられるかなぁって思ったんです。……おかしい、ですか?」
「……いいえ。あなたはなんだか放っておけませんから、私が傍で見ていられるような役割だと、こちらとしても安心です」
まるで花が咲いたような表情を見せるテラから、目を離すことができない。左右で色の違う瞳も、もっと近くで見つめたいと思ってしまう。
(本当に、美しい色だ…………)
瞳に吸い込まれそう、とはこういう状態を指すのだろうか。
「……ジャヌさん?」
「~~っ、すみません!」
テラの声に、ジャヌははっと我に返る。気が付けば、テラの唇に触れてしまいそうなほど、顔を近付けてしまっていた。これではまるで、人間の恋愛の本に出てきたキスを仕掛けようとしたみたいではないか。自分のおこないに混乱するジャヌを見ていたテラは、しばらく考えると、なにかを閃いたらしく、両手をぱんと合わせてジャヌに歩み寄った。
「さっき、ジャヌさんが貸出のカードをつくってくれてる間に、ちょっとだけ読んだ本にありました。一番仲良くしたい人への挨拶に、って」
ジャヌの頬に、やわらかいものが押し当てられる。それがテラの唇だと気付いたのは、テラが顔を離して、たっぷり十秒は経過してからのことだった。
アコルダトゥーラのロボットドールたちは、この世に生を受けたその瞬間から、自分の役割を把握している。
ジャヌの役割は、町の図書館にある本の管理。どんな本を探しているのかを伝えれば、該当する本がどの書架にあるのかを瞬時に導き出して、図書館の利用者を案内する。その優秀な頭脳には、本の情報のみならず、その中身までインプットされてあるというから驚きだ。しかし、優秀過ぎる頭脳が災いし、以前は図書館を利用する者もいたのだけれど、最近では「ジャヌに聞けばいい」と、本を読むに至らないことが増えてしまった。
(これが自分の役割だけど……このままでいいのだろうか)
ロボットドールに迷いというものは存在しないはずなのに、いくつかの感情がプリセットされているせいで、人間が抱くような感情を抱いてしまうことがある。
役割の変更なんて前例はない。しかし、誰も来ない図書館を管理するより、皆の辞書役に徹したほうがいいのではないだろうか。今度、ファブラに聞いてみてもいいかもしれない。ファブラはジャヌと同じ上位階級のロボットドールだけれど、巻鍵を管理していることもあって、この街ではリーダー的存在だ。
「まぁ、誰も来ないなら、それでもいいんですけど……」
思いのほか、独り言の声が響いてしまって気恥ずかしくなる。この気恥ずかしいという感情も、本来ならロボットドールに必要ないはずなのに、どうしてプリセットされているのだろうか。
今日も一人、広いばかりで誰も来ない図書館に、時計の秒針と、ジャヌの胸の中に埋め込まれた歯車が、それぞれ決められた規則通りに正しい音を刻んでいる。
歯車の速度よりややゆったりとした時計の秒針。オーガスはどうして速度を統一してくれなかったのだろう。時計塔の時計を管理するオーガスに、そう尋ねたことがある。答えは「ものごとが一通りしかないなんて、つまらないだろう?」というものだった。ジャヌにはその言葉の意図することがわからない。もちろん、この図書館にある本のすべてを網羅しているから、変則の美という概念を認識しているけれど、プリセットされている感情がそこに追い付かないのだ。
そうはいっても、オーガスの管理する時計塔の時計が、この街の時間の基準ということには変わりなく、自分はそれに合わせるしかない。時間を管理しているという点で、オーガスもまた、このアコルダトゥーラではリーダーのような存在だ。
ジャヌは図書館の窓から見える植物園に視線を投げた。あそこでは毎日、動植物の繁栄について研究がおこなわれている。絶滅危惧種とされる動植物を保護し、管理をしているのはディッセンという男。ロボットドールに種族の繁栄という概念はないため、これもまた、本から得た知識でしかないのだけれど、種族が途絶えると世界のバランスが崩れてしまうらしい。ディッセンに課せられた役割は非常に重要だ。ここ最近は、植物の受粉について、集中的に研究をしていると聞く。
こうして考えると、自分以外の上位階級のロボットドールたちは、皆、重要な役割を担っている。それに引き換え、自分はどうだろうか。誰も来ない図書館ということは、つまり、自分の役割は誰にも必要とされていないのでは?
静かな図書館に、ジャヌの溜息がこぼれる。
「おい、いるか?」
聞き慣れた声に、ジャヌは我に返った。広い図書館を早足で歩き、入口まで向かう。
「ようこそお越しくださいました、ファブラ。本日はどのような本を……と、そちらの方は?」
ファブラの後ろに、誰かがいる。体格の大きなファブラの陰になっているので顔は見えないけれど、見覚えのない髪色から、自分の知らないロボットドールだと判断した。
「用件はこいつのことだ」
そう言って、ファブラは連れてきた男を前に突き出した。
「えっと……初めまして、テラといいます」
男の姿を見て、ジャヌは、一瞬、言葉を失ってしまった。
緋と金のオッドアイ。まるで、炎と光のようではないか。燃えるような赤い髪も、この街では初めて見る。
ポストマンをしているマーチンは瑞々しいオレンジの瞳だし、バイオリンを片手に演奏をして回っているジューヌは太陽に愛されたような金糸の髪をしている。街中のメカの整備をしてくれているオクトの瞳だって、黄金に輝いている。見目のよいロボットドールはたくさんいるけれど、今、目の前に現れたテラという男は、ジャヌがこれまで見たなにものよりも美しい。
あぁ、今、自分の視線が釘付けにされている、この状態。これはなんと呼ばれる行動だったか。頭の中にある本の情報を辿る。そう、これは〝見惚れる〟というものだ。
「テラさん、ですか。ジャヌといいます。本をお探しなのはあなたですか?」
人好きのする笑みを浮かべ、テラに尋ねる。心なしか、テラの頬が紅潮して見えた。熱疲労を起こしてしまっているのだろうか。
「えっと……」
「こいつは覚醒したばかりでな、自分の役目がわからないというんだ」
ファブラが代わりに応える。
「わからない? それはまた、どうして……」
「いや……わからないというと語弊があるな。自分の役目を思い出せないといったほうが正しいか。どうすれば思い出せるか、それを知るためにここに連れてきた」
ロボットドールには、必ず、なにかしらの役割が与えられている。
(そう、役割……え?)
ファブラが『役目』と言ったことが少し気にかかった。上位階級の中でもリーダー的存在であるファブラが、言い間違うとは思えない。
「ジャヌ? どうした、ぼんやりして」
しかし、わざわざ指摘するのは憚られ、ジャヌは言葉を飲み込んだ。
「あぁ、いえ。……すみません。お求めの本はここには……いえ、世界中探したって、ないでしょう。」
瞬時に本の内容を頭の中に並べてみたものの、該当するものはなかった。そもそも、役割がわからないロボットドールということ自体、有り得ないからだ。
「それにしても……思い出せないということは、記憶媒体の損傷ですか? それならここではなくオクトに見てもらったほうがいいのでは」
「ここに来る前にオクトってロボットドールのところで点検と整備もしてもらったけど、どこにも損傷はなかったんです」
眉を八の字に下げて、テラが言う。記憶媒体に損傷がない、それなのに役割がわからない。わからないというより忘れている。そんな事例、聞いたことがない。
「……だめですね、どうやら私では、お役に立てそうもありません。シエロに聞いてみてはどうでしょう? 彼なら、本にならないようなことを知っているかもしれません」
シエロというのは、この世界では珍しい、探偵を役割としたロボットドールだ。聞くところによると、彼は自分自身の秘密を解き明かすために、この街のことを探っているらしい。
「それが、最近捕まらないんだ。あいつは街中を探って、常に動き回っているからな。まぁ、巻鍵が必要になれば顔を出すだろうから、その時に聞いてみるつもりだ。しかし、ここでならなんでもわかると思ったんだけどな」
図書館に誰も来なくなったとはいえ、これまで完璧に自分の役割をこなしてきたジャヌにとって、求められている知識を返すことができないというのは屈辱であり、同時に、大変なショックでもあった。あぁ、少し、歯車の回転速度が増した気がする。
「すみません……」
「……あぁ、ジャヌ、気を落とさないでくれ。こうなったら、テラ自身が思い出すのを待つしかないな」
「ボクが? それがボクの役目ですか?」
その言葉に、痛まないはずの心が痛む。そんな役割、聞いたことがない。役割を思い出すのが役割だなんて、役割を思い出せない彼に対しての、慰めの言葉でしかないじゃないか。ロボットドールには、自分の役割がインプットされている。生まれた瞬間に、インプットされた内容が脳にアウトプットされ、役割を理解するのだ。
「まぁ、そういう感じでいい。色々なものを見ろ。自分の心にすとんとくるものが見つかるはずだ。わかるな?」
諭すように言われ、テラはこくりと頷く。
ファブラは、テラの返答を見てから、ジャヌに向き直った。
「……というわけだ」
「はぁ、おめでとうございます、と言えばよろしいのですか?」
自分は求められた知識に応えられるものを提示できなかったけれど、彼らが今後の方向性を決められたのであれば、めでたいことだ。
「察しろよ。テラには色々なものを見る必要がある。それには、ここの図書館はうってつけだ。そう思わないか? 司書ロボットのジャヌ」
「つまり、これから彼がここで本を探すお手伝いをしろということですね? ……まったく、いくら巻鍵を管理していただいているからとはいえ、あなたとわたしは同じ立場なんですけど」
しかし、テラがここに通うということであれば、誰も来ない図書館で、日がな一日、孤独に過ごす必要はないということ。それが少し嬉しくて、必要以上に憎まれ口を叩いてしまった。ジャヌはなぜか、素直に感情を表現できないのだ。
「はは、そう怒るなよ。まぁ、そういうことだ。いいんじゃないか、ここにはあらゆる本があるし、おまえも最近は退屈してただろ」
「……やかましいです」
「えっと、ボクはここにいていいってことですか?」
おず……とテラが口を開く。その表情に、ジャヌの歯車の速度が変わった。
「もちろん、開館中に限ります。九時から二十時まで、それ以外は施錠しなければなりませんので。時間外の利用は一切認められません。本の中身が私の頭の中にあるとはいえ、本という形になっていることで生じる価値までは、私の知識ではカバーしきれませんからね。あなたを疑っているわけではありませんが、例外を認めるわけにはいかないので」
「わかってるよ! ……じゃなくて、わかってますよ。いくらなんでも、ずっと本を読んでいたら、熱疲労してしまいますからね!」
そう言って笑うのを見て、ジャヌのほうこそ、熱疲労を起こしてしまうのではないかというくらい頬が熱くなった。これはなんと呼ぶのだったか。そうだ……〝かわいい〟というものだ。かわいいと思って、頬が熱くなった。
(まただ……)
さきほどから歯車の速度が狂ったり、熱疲労を起こしかけたり、今日の自分はどうもよくない。ジャヌは軽くかぶりを振った。
「……すみません、今日は閉館時間を早めてもよろしいですか。少し、熱疲労を起こしているようです」
「あぁ、それは別に……調子が悪いならオクトに見てもらえよ? 送って行ってやりたいところだが、このあとディッセンのところに行って、ノーベンが開発した新作の昆虫ロボットを見なければならなくてな……困ったな……」
ノーベンが開発する昆虫ロボットは、主に植物の受粉を助けるという役割がある。新作の出来によっては、昆虫ロボット用の巻鍵を用意して、ファブラが管理しなければならない。そのため、新作と聞けばファブラが出向かないわけにはいかないのだ。
「いえ、大丈夫です。恐らく、軽度の熱疲労ですから。一人での帰宅に心配だというのなら、アプリルでも呼びますよ」
「はは、あいつを呼ぼうって気になるくらいなら心配はいらないか」
アプリルは、主に上位階級のロボットドールを運ぶ空中移動車の運転手。しかし、運転が荒いため、依頼の数は少ない。一人で動くことが困難なレベルの不調ならば、アプリルに運んでもらう前に、オクトの出張整備を頼むのが常だ。それを、アプリルを呼ぶというのだから、ジャヌの言う熱疲労はたいしたことはないのだな……とファブラは判断する。
「テラさんはどうされますか? お一人で帰られますか?」
覚醒したばかりで役割がわからないロボットドール。一人で帰ることができないのであれば、植物園に行くファブラについて行ってもらうのがいいだろう。
「一人でも帰れます。でも……ジャヌさんについて行ってはだめですか?」
「私に?」
人間の風邪とは異なり、ロボットドールの熱疲労は感染しない。軽度の熱疲労であれば少し休息すれば済むため、人間でいうところの看病も不要だ。
「心配ですから。……だめですか?」
大きな瞳で見つめられると、また、歯車の動きが速まる。
熱疲労ではないかと感じるのも、歯車の回転速度が不規則になるのも、テラの表情を見るたびに起こっている。テラがジャヌに対してなにかをしているわけではないのに、どうして、テラによって身体に変化が起きてしまうのだろう。ジャヌは本日何度目かの、頭の中にある本の情報検索を始めた。
これ以上、テラと一緒にいては、脳内の電気回路システムがショートしてもおかしくない。そう思うのに、自分に付き添うというテラの申し出を断ることができない。
「別に、構いませんよ。……そうですね、二人になるなら、やはり、アプリルを呼びましょうか」
「あいつなら、Capsaicinにいるだろう」
ロボットドールに食事は必要ないのだけれど、図書館がまだロボットドールで賑わっていた頃に人気だった本から得た知識で、人間の真似ごとをする者が現れた。バイオリンを片手に演奏をして回っているジューヌや、Capsaicinという名称でレストランを経営しているメイアがその一例だ。彼らは下位階級のロボットドールで、中位階級や上位階級のロボットドールでは提供できない娯楽を提供してくれたり、オクトのようにロボットドールの整備をおこなってくれたりしている。そのCapsaicinに中位階級であるアプリルが立ち寄っているのも、食事という娯楽が楽しいからだろう。
「わかりました。テラさんと二人で向かいます。ここを施錠しますので、ファブラも出てくださいね。そろそろディッセンのところに行かなければならないのでは?」
「そうだった。じゃあ先に出る。あまり無理はするなよ。おまえはこの街の頭脳なんだからな」
ファブラはそう言って、図書館をあとにした。残ったのは、ジャヌとテラの二人だ。
「じゃあ、そのアプリルさん? を呼びましょう!」
顔見知りが増えることを期待してか、テラは顔をほころばせた。
「そうですね。その前に、ここを片付けてからです。彼は呼ぶと、すぐに来てしまいますから。片付けが終わってから呼ぶくらいでちょうどいいんですよ」
「へぇ……そんなに速いんですね、アプリルさんの空中移動車って」
どんなのだろう……と期待の声を滲ませるテラに、ジャヌは心の中で溜息をつく。
(なんだか今日は調子がよくない)
いつも一人きりで過ごしていたこの図書館に、久しぶりに自分以外のロボットドールが訪れたものだから、負荷がかかってしまったのかもしれない。ジャヌはそう考えながら、図書館の施錠作業を始めた。
どうせ誰も来ないと思っていても、毎日ここを管理することが役割である以上、ジャヌは毎日鍵を開けている。広さがあるせいで、開錠・施錠の都度、時間がかかって仕方がない。いっそ、ノーベンの知識を借りて、開錠・施錠ロボットを開発するのもいいかもしれないなと考えながら、ひとつひとつ、施錠していく。
「テラさん……どうされました?」
見ると、テラが一冊の本をじっと見つめている。
「……あぁ、すみません。なんだかこの本が、とても気になって」
「それなら、貸出いたしますよ」
「えっ、いいんですか?」
ぱぁっと花が咲くような笑顔に、ジャヌは「しまった」と思った。この、くるくるとよく変わる表情に、この数時間ずっと心を乱されているのだ。
「えぇ、私についてきてください」
幸い、貸出のシステムはまだ稼働させてある。まずは、テラ用のIDカードをつくるところから始めなければ。IDカード発行に必要なものを頭の中に並べながら歩くジャヌの後ろを、テラがついて歩く。
「わぁ、すごい! ……ですね」
IDカード申請用の端末を起動させていると、テラがぴったりと隣にくっついて画面を覗き込んできた。ロボットドールはその身体温度も一定であるよう制御されている。それなのに、テラとの物理的距離が縮まっただけで、ジャヌは、自身の身体が熱を帯びていることに気付いてしまった。身体から熱を発するほど大きな負荷がかかっているとは思えないのに、今日は一体、どうしたというのだろう。
「……無理に敬語になさらなくて結構ですよ」
身体が熱を帯びていることを悟られないよう、わざと淡々とした声音で話す。
上位階級から下位階級まで設けられているものの、実のところ、それは与えられた役割がこの街への貢献度や影響度で分類されているだけに過ぎない。ファブラやオーガス、ディッセンの役割は上位階級と言われて頷けるものだけれど、図書館の管理をしている自分が上位階級という点には、ジャヌ自身、常に疑問を抱いている。それに、ノーベンやマーチン、オクト、アプリルの役割だって、自分たちがよりよい暮らしをするために必要なものだ。娯楽という人間の真似ごとを役割としているジューヌやメイアだって、ロボットドールたちに、リフレッシュタイムが必要だということを思い出させてくれる。……リフレッシュと呼ぶには、ジューヌの奏でる音楽は不協和音が多く、不安感を煽るものが多いのだけれど。
すぐにテラ専用のIDカードが機械から排出され、ジャヌはそれをテラに手渡しながら使用手順を説明する。早速貸出の手続きを済ませたテラが、嬉しそうに本を抱き締めた。
「ありがとう! なんだかすっごくきれいな絵だったから、一目惚れしちゃった!」
「……一目惚れ?」
それは、この図書館にある本の中でも、時々、出てくる言葉だ。そういえば、さきほどテラを初めて見た時も、自分は彼に〝見惚れた〟のだった。なるほど、一目見て、見惚れたのであれば、自分はテラに対して〝一目惚れ〟をしたという単語を当てはめるのが正解なのだろうか。
「うん、ボク、自分の役目は思い出せないんですけど……じゃなくて、思い出せないんだけど、なぜか、こういうのが好きだなっていうことだけはわかるんだ」
自然と出た敬語をわざわざ言い直すテラに、律儀だなと心の中で呟く。
テラが借りた本は、娯楽本に分類されるものだ。改めて表紙を確認し、その本の情報を自分の頭の中にあるデータから引き出す。
「……人間の恋愛の本ですね。テラさんは、恋愛に興味を抱いたんですか?」
「うーん……? どうなのかな、本を読むのだって初めてだし、絵がきれい! と思って惹かれたからこれが恋愛? の本とかってわからなかったんです……じゃなくて、わからなかったんだ」
いちいち言い直すテラに、ジャヌは思わず笑みをこぼした。
「無理に敬語になさらなくていいとは言いましたけど、わざわざ言い直さなくてもいいんですよ」
なにせ、今日出会ったばかりだ。おおかた、ファブラから自分が上位階級であることを聞いているのだろう。そして、役割がわからないテラは、少なくともその役割がわかるまでは自分は下位階級であるということも。
「う……ごめん。なんか、ジャヌさんを見てるとうまく話せなくて。あ、話しにくいってことじゃないよ。すっごくきれいだから、きれいに話さなきゃって思っちゃうんだ」
「きれい?」
それは、テラの容姿を見た時に、ジャヌが真っ先に思ったこと。同じことを、テラも自分に思っているなんて。ジャヌは瞳をまあるく見開いた。
「うん、ジャヌさんってすっごくきれい! ……あ、男のロボットドールに男のロボットドールがきれいとか言うの、おかしいのかな。きれいだけじゃなくて、今だって、ぱぱっと手早く、これつくっちゃうのとか格好よかったよ」
テラに他意はないのだろうけれど、さきほどから繰り出される発言は、どれもこれも、人間の恋愛を描いた本に出てくる言葉たちによく似ている。
「……その言葉、不用意によそで発言しないことをお勧めします」
「えっ、なんで?」
なぜって、人間の恋愛について知識のある者が、テラのこういった発言を聞けば、恋愛という人間の真似ごとをするロボットドールが出てきてしまうかもしれない。それに、なぜだかわからないけれど、自分以外のロボットドールに、こういった発言をしてほしくないと思ってしまった。
「なんでも、です」
ジャヌはそう答えながら、テラと出会ってから数時間、自分の歯車の回転速度を狂わせたり、熱疲労を起こさせたりするきっかけとなったやり取りを思い出していた。
「ふぅん? でも心配しなくていいんだけどな。ボクがきれいだって思ったの、ジャヌさんだけだし。ねぇ、本借りたし、アプリルさんのこと呼びましょう!」
「私だけ、ですか……」
テラがまた敬語に戻っていることは、もう言及しないことにする。自分だけに向けてくれる言葉だというのが嬉しくて、今のジャヌは、もうそれどころではないからだ。あぁ、この感情はなんと呼ぶのだったか。ロボットドールにプリセットされている感情の名前を脳裏に並べてみる。
(だめだ、該当するものがない……)
こうなったら、頭の中にインプットされた、この図書館にある本のデータと照合してみよう。疑問は早急に解決するに限る。ジャヌはいつだって、そうしてきた。
「ファブラさんが言ってた、メイアって人にも会ってみたいな! アプリルさんも、そこにいるんでしょう? ついでだから、そこに連れて行ってもらいたいです!」
ジャヌが端末を終了させている間に、テラは入口へ向かって駆け出していた。
この感情の正体を、データの中から、ひとつひとつ照合していきたいのに、テラといるとその余裕がない。とにかく、目まぐるしく感情を揺さ振られるのだ。まったく、忙しない人だ……と、ジャヌも、テラを追いかけて足早に図書館をあとにした。図書館を出て、アプリルを呼べば、五分とかからず来てくれる。
彼の運転は荒いから、テラはさぞかし驚くことだろう。
(Capsaicinに行きたいと言ってたな……)
ジャヌはCapsaicinに行ったことはないものの、アプリルからその店の評判を耳にしている。なんでも、水がなければ完食できないほど真っ赤な料理がオススメメニューになっているのだとか。
「……え? すぐには来られない?」
呼べば、この街のどこへでも駆け付ける空中移動車の運転手を役割とするアプリル。しかし、今夜ばかりはメイアのオススメメニューの影響で、動作不良に陥ってしまい、オクトのところへ向かっている最中なのだとか。
『十五分くらいかかっちまう。速いのがおれの売りなのに、ごめん、ジャヌさん』
通信機越しに聞こえるアプリルの声。多少息が荒いものの、簡単な修理ですぐに直るとのことだ。彼の背後、謝罪を繰り返す声の主はメイアだろうか。
「いえ、構いません。久しぶりに呼ぶのもいいかと思って気まぐれに連絡してみただけなので。アプリル、今夜はゆっくりしてください。あぁ、ついでに。速さ以外、丁寧さも売りにできるように調整してもらうといいかもしれませんね」
『はぁっ? そんなこと言うと、ジャヌさんが急ぎの時に飛ばしてやんねーぞ』
「冗談ですよ。距離もたいしたことはありませんし……まぁ、とにかく、お大事に」
ジャヌはそう言って、通信機を切断した。
(私としたことが……この人と歩くのもいいかもしれないなどと思うなんて)
隣でもの珍しそうに通信の様子を見ているテラをちらりと見遣る。
「どうしたんですか? 来られないって……」
「……あぁ、すみません。彼はちょっとした修理が必要とのことです。Capsaicinも今日は店じまいのようなので、また後日、アプリルを呼んでCapsaicinに案内してもらうことにしましょう」
オクトのところへ向かうアプリルに付き添っているようだから、今日はそのまま店じまいなのだろうとジャヌは判断した。
「そうなんだ……アプリルさん、大丈夫かな」
「大丈夫ですよ。速さが売りの彼はかなり頑丈にできていますので。……時間が経って熱疲労が落ち着いてきましたので、テラ、あなたをお送りします」
テラと出会って数時間、不規則な回転速度を見せる歯車の動きにも慣れてきた。これくらいであれば、自宅へ戻ってスリープモードになれば小一時間ほどで改善できるだろう。
「えっ……一人ででも帰れるんですけど、……ううん、でも、ジャヌさんともう少しお話ししていたいから、お願いします!」
そう言ってぺこりと頭を下げるテラに、ジャヌの頬がゆるむ。なんだろう、このテラというロボットドールは、動作がいちいち愛らしい。
(……愛らしい…………?)
あぁ、まただ。心臓部にある歯車が、また、回転速度を増した。
「ジャヌさん?」
「……っ、いえ、なんでもありません。さぁ、行きますよ」
小さくかぶりを振って、ジャヌはテラの背を軽く押した。テラの衣服の感触、その下に隠された本体の温度までもが手のひらに伝わってきて、なぜか、心臓部まであたたかくなる。
「あっ、そういえば、ジャヌさんはボクの家、知らないですよね? こっちです!」
くるりと振り返ったテラに、手指を絡め取られた。そのままきゅうっと軽く力が込められて、……これは、まるで。
(まるで、人間の恋愛の本にあった、恋人たちが手を繋ぐ時のようだ)
自分たちはロボットドールなのに、人間の真似事をしている。おかしいことなのに、なぜだか心地いい。心臓部の歯車だって、回転速度が少し増したままだけれど。
(このくらいの速度なら、不快ではない。……不思議だ)
誰も来ない図書館で、毎日一人きり。つい数時間前まで、自分は孤独を感じていたはずなのに。テラに手を引かれて、接触したところがあたたかい。このあたたかさに抱く感情なら、プリセットされているからすぐにわかる。
(これは、さみしくないという感情だ)
歯車の回転速度が狂う理由までは、ジャヌはまだ知らない。
「ボク、この街のことたくさん知って、早く自分の役目を思い出したいです。ジャヌさんのお役に立てることだったらいいな」
「私の、ですか?」
どうして。今日、初めて顔を合わせたばかりの相手なのに、どうして、自分の役に立ちたいなどと言ってくれるのだろうか。
「はい! だって、こんなに広い図書館に一人きりは、多分……さみしいだろうから。ボクの役目がジャヌさんに関係することだったら、毎日、傍にいられるかなぁって思ったんです。……おかしい、ですか?」
「……いいえ。あなたはなんだか放っておけませんから、私が傍で見ていられるような役割だと、こちらとしても安心です」
まるで花が咲いたような表情を見せるテラから、目を離すことができない。左右で色の違う瞳も、もっと近くで見つめたいと思ってしまう。
(本当に、美しい色だ…………)
瞳に吸い込まれそう、とはこういう状態を指すのだろうか。
「……ジャヌさん?」
「~~っ、すみません!」
テラの声に、ジャヌははっと我に返る。気が付けば、テラの唇に触れてしまいそうなほど、顔を近付けてしまっていた。これではまるで、人間の恋愛の本に出てきたキスを仕掛けようとしたみたいではないか。自分のおこないに混乱するジャヌを見ていたテラは、しばらく考えると、なにかを閃いたらしく、両手をぱんと合わせてジャヌに歩み寄った。
「さっき、ジャヌさんが貸出のカードをつくってくれてる間に、ちょっとだけ読んだ本にありました。一番仲良くしたい人への挨拶に、って」
ジャヌの頬に、やわらかいものが押し当てられる。それがテラの唇だと気付いたのは、テラが顔を離して、たっぷり十秒は経過してからのことだった。