バレンタインデー
共有のリビングに広がるのは甘い香り。リビングに続くドアを開く前から、これでもかというほど環の嗅覚を刺激してきた。いくら甘いプリンが大好きとはいっても、ここまでの濃厚な香りには重苦しさを感じてしまうほどだ。環は眉間に皺を寄せながら、堪えきれずにあくびをひとつ。本当ならあと二時間は眠っていられたのだが、重苦しいほどの甘い香りがわずかに食欲を煽るものだから、空腹を我慢できなくなってしまった。
「なに……? なんのにおい?」
リビングのドアを開くと、甘い香りは、その濃厚さを増した。思わず「うっ」と息を詰める。
「お、環! これか? もうすぐバレンタインだからな、お菓子つくってんだよ」
三月の答えに「あぁ」と合点がいく。そうか、バレンタインが近いのか。そういえば、この前インタビューを受けた雑誌で、バレンタインにもらったら嬉しいものはなにかと尋ねられたなと思い出す。王様プリンのチョコレート味と答えておいたのだった。
「ふーん」
環はバレンタインそのものに、特に興味を抱いていない。
バレンタインでなくても王様プリンは食べたいし、期間限定の味は全部試したい。クリスマスだって誕生日だって、なんのイベントごともない日だって、王様プリンであればいつでも、いくらでもほしい。……かわいい恋人に叱られてしまうから、一日三個までという約束の範囲内で。
「おはよう、環くん」
寝起きのぼんやりした頭でそんなことを考えていると、三月の後ろから、凛とした声が聞こえた。耳に心地よく響く、自分より少し高くてやわらかい声。彼の声が聞こえた途端に環の目はぱっちりと開いたものだから、我ながら現金なやつだなと自嘲してしまう。犬が尻尾を振っているようだというのは、こういうことを指すのだろう。
「そーちゃん、なにしてんの」
壮五の手には、ボウルと泡立て器。その姿は何度か見たことがあって、環の記憶では、十中八九、赤い物体がうみだされてきた時だ。
「見ての通り、三月さんのお手伝いだよ」
ほら、と見せてくれたボウルの中身はチョコレート色。
「えー、また真っ赤なやつ入れんなよ」
「失礼だな。さすがにチョコレートには入れないよ」
口を尖らせるところがかわいいなぁと頬がゆるむのを抑えられない。
壮五のことをかわいいと言うと「僕は男だよ」と怒ってしまうから、三回に一回……もう少し頑張って、なんとか、五回に一回しか言わないようにしている。これでも相当我慢しているので褒めてほしい。壮五が男であることくらい理解している。それでも、好きな人だから、かわいいと思ってしまうのだ。
「なぁみっきー、つくったらどうすんの?」
「事務所に差し入れしようと思って。環もやるか?」
三月の誘いにふるふると首を振る。
「俺、腹減った」
「まったく……しょーがねえなぁ」
三月はそう言いながらも菓子づくりの手を止めると、冷蔵庫から環のぶんのサラダとジュースを取り出し、食パンをトースターに入れてくれた。焼き上がるまでの二分半、サラダを先に食べることも考えたが、環としては、壮五の手許が気になって仕方がない。
「そーちゃん、そのチョコって」
「これ? トリュフだよ。これなら、お菓子づくりの経験が浅くても大きな失敗はしないだろうって三月さんが」
環が聞きたいのは、そういうことではない。
「んー、そうじゃなくて……それも事務所にやんの?」
確かに、バレンタインそのものに特に興味はないが、そこに恋人が関わってくるとなると話は別だ。自炊ができるとはいえ、菓子づくりの経験は浅いという恋人が、バレンタインの菓子をつくっている。そりゃあ、世話になっている事務所に贈るのは当然かもしれないが、それより先に、贈るべき相手がいるのでは? と問いたい。たとえば、恋人とか。
正直なところ、事務所に贈るのだって、阻止したいくらいだ。三月がつくっている菓子でじゅうぶんだと思う。数がたりないなら、自分の王様プリンを分けてやってもいい。とにかく、壮五の手づくりチョコレートは自分が一人占めしたい。
環の考えが表情に出ていたのだろう。壮五は眉を八の字に下げて笑った。
「そんなに怖い顔しなくても、これは環くんのだよ」
「……へ、まじで?」
背後で、トースターが焼き上がりを告げる音がしたが、今すぐには取り出してあげられそうにない。環の中では焼きたての食パンよりも壮五。食欲より恋人だ。
菓子づくりを再開させていた三月がやれやれといった様子で手を止め、トーストした食パンにジャムを塗ってくれている。三月にとっては、二人のこうしたやりとりなんて日常茶飯事。MEZZO"の甘い空気にわざわざ口を挟むほど、IDOLiSH7はばかじゃない。
「うん、本当だよ」
「まじで? やったー!」
がたん、と音を鳴らして椅子から立ち上がり、壮五に抱き着く。
「ちょっと、三月さんも見てるだろう? あぁ、チョコが……」
早く形を整えないと、チョコレートが固まってしまうじゃないか。環の腕の中で壮五がぼやく。残念ながら本人の耳には入っていないようで、環はなおも、壮五のことをぎゅうぎゅうと抱き締めている。
困ったなぁ……と視線を泳がせていると、食パンにジャムを塗り終えた三月と視線がかち合った。親指と人差し指で「あと少しだけ」と、それから首を横に振って「我慢してやれ」というジェスチャー。この中で場を仕切るのは三月の役目。その三月がもう少し環に抱き締められていろというのなら、今しばらくはこのままでいよう。
(まぁ、僕としても、環くんに抱き締められることはやぶさかではないし……)
間近に迫ったバレンタインデー、壮五なりに、環を喜ばせたいと思って三月に教えを乞うたのだ。
さて、バレンタインデー当日。
壮五がつくった菓子はきれいにラッピングされていたのだが、ひとつだけ、問題があった。
「贈りものにはメッセージカードを添えるべきかなと思って」
まなじりを赤く染めながら差し出された箱は、メッセージカードとともにリボンが巻かれていた。恋人の手づくりチョコレートがもらえるだけでなく、まさかメッセージカードもあるなんて、なんて最高のバレンタインなんだろう。一体、どんな愛の言葉が書かれているのかと、環は逸る気持ちを抑えきれず、先にメッセージカードを開いた。
「…………なんっで、チョコレートに手足が生えてるんだよ! そーちゃんのばーか!」
〝ハッピーバレンタイン、愛を込めて 逢坂壮五〟
メッセージとともに、逢坂壮五画伯によるハートのキャラクターなるものが描かれていたのである。
「なに……? なんのにおい?」
リビングのドアを開くと、甘い香りは、その濃厚さを増した。思わず「うっ」と息を詰める。
「お、環! これか? もうすぐバレンタインだからな、お菓子つくってんだよ」
三月の答えに「あぁ」と合点がいく。そうか、バレンタインが近いのか。そういえば、この前インタビューを受けた雑誌で、バレンタインにもらったら嬉しいものはなにかと尋ねられたなと思い出す。王様プリンのチョコレート味と答えておいたのだった。
「ふーん」
環はバレンタインそのものに、特に興味を抱いていない。
バレンタインでなくても王様プリンは食べたいし、期間限定の味は全部試したい。クリスマスだって誕生日だって、なんのイベントごともない日だって、王様プリンであればいつでも、いくらでもほしい。……かわいい恋人に叱られてしまうから、一日三個までという約束の範囲内で。
「おはよう、環くん」
寝起きのぼんやりした頭でそんなことを考えていると、三月の後ろから、凛とした声が聞こえた。耳に心地よく響く、自分より少し高くてやわらかい声。彼の声が聞こえた途端に環の目はぱっちりと開いたものだから、我ながら現金なやつだなと自嘲してしまう。犬が尻尾を振っているようだというのは、こういうことを指すのだろう。
「そーちゃん、なにしてんの」
壮五の手には、ボウルと泡立て器。その姿は何度か見たことがあって、環の記憶では、十中八九、赤い物体がうみだされてきた時だ。
「見ての通り、三月さんのお手伝いだよ」
ほら、と見せてくれたボウルの中身はチョコレート色。
「えー、また真っ赤なやつ入れんなよ」
「失礼だな。さすがにチョコレートには入れないよ」
口を尖らせるところがかわいいなぁと頬がゆるむのを抑えられない。
壮五のことをかわいいと言うと「僕は男だよ」と怒ってしまうから、三回に一回……もう少し頑張って、なんとか、五回に一回しか言わないようにしている。これでも相当我慢しているので褒めてほしい。壮五が男であることくらい理解している。それでも、好きな人だから、かわいいと思ってしまうのだ。
「なぁみっきー、つくったらどうすんの?」
「事務所に差し入れしようと思って。環もやるか?」
三月の誘いにふるふると首を振る。
「俺、腹減った」
「まったく……しょーがねえなぁ」
三月はそう言いながらも菓子づくりの手を止めると、冷蔵庫から環のぶんのサラダとジュースを取り出し、食パンをトースターに入れてくれた。焼き上がるまでの二分半、サラダを先に食べることも考えたが、環としては、壮五の手許が気になって仕方がない。
「そーちゃん、そのチョコって」
「これ? トリュフだよ。これなら、お菓子づくりの経験が浅くても大きな失敗はしないだろうって三月さんが」
環が聞きたいのは、そういうことではない。
「んー、そうじゃなくて……それも事務所にやんの?」
確かに、バレンタインそのものに特に興味はないが、そこに恋人が関わってくるとなると話は別だ。自炊ができるとはいえ、菓子づくりの経験は浅いという恋人が、バレンタインの菓子をつくっている。そりゃあ、世話になっている事務所に贈るのは当然かもしれないが、それより先に、贈るべき相手がいるのでは? と問いたい。たとえば、恋人とか。
正直なところ、事務所に贈るのだって、阻止したいくらいだ。三月がつくっている菓子でじゅうぶんだと思う。数がたりないなら、自分の王様プリンを分けてやってもいい。とにかく、壮五の手づくりチョコレートは自分が一人占めしたい。
環の考えが表情に出ていたのだろう。壮五は眉を八の字に下げて笑った。
「そんなに怖い顔しなくても、これは環くんのだよ」
「……へ、まじで?」
背後で、トースターが焼き上がりを告げる音がしたが、今すぐには取り出してあげられそうにない。環の中では焼きたての食パンよりも壮五。食欲より恋人だ。
菓子づくりを再開させていた三月がやれやれといった様子で手を止め、トーストした食パンにジャムを塗ってくれている。三月にとっては、二人のこうしたやりとりなんて日常茶飯事。MEZZO"の甘い空気にわざわざ口を挟むほど、IDOLiSH7はばかじゃない。
「うん、本当だよ」
「まじで? やったー!」
がたん、と音を鳴らして椅子から立ち上がり、壮五に抱き着く。
「ちょっと、三月さんも見てるだろう? あぁ、チョコが……」
早く形を整えないと、チョコレートが固まってしまうじゃないか。環の腕の中で壮五がぼやく。残念ながら本人の耳には入っていないようで、環はなおも、壮五のことをぎゅうぎゅうと抱き締めている。
困ったなぁ……と視線を泳がせていると、食パンにジャムを塗り終えた三月と視線がかち合った。親指と人差し指で「あと少しだけ」と、それから首を横に振って「我慢してやれ」というジェスチャー。この中で場を仕切るのは三月の役目。その三月がもう少し環に抱き締められていろというのなら、今しばらくはこのままでいよう。
(まぁ、僕としても、環くんに抱き締められることはやぶさかではないし……)
間近に迫ったバレンタインデー、壮五なりに、環を喜ばせたいと思って三月に教えを乞うたのだ。
さて、バレンタインデー当日。
壮五がつくった菓子はきれいにラッピングされていたのだが、ひとつだけ、問題があった。
「贈りものにはメッセージカードを添えるべきかなと思って」
まなじりを赤く染めながら差し出された箱は、メッセージカードとともにリボンが巻かれていた。恋人の手づくりチョコレートがもらえるだけでなく、まさかメッセージカードもあるなんて、なんて最高のバレンタインなんだろう。一体、どんな愛の言葉が書かれているのかと、環は逸る気持ちを抑えきれず、先にメッセージカードを開いた。
「…………なんっで、チョコレートに手足が生えてるんだよ! そーちゃんのばーか!」
〝ハッピーバレンタイン、愛を込めて 逢坂壮五〟
メッセージとともに、逢坂壮五画伯によるハートのキャラクターなるものが描かれていたのである。