次に会うときは覚悟して
*2024年グループ記念日楽曲『MEDiUM』パロディ(庭師×貴族)
街からなにかが盗まれるなら、絶対に、この屋敷からに違いない。街の硝子職人につくらせたグラスは、他と比べれば盗まれる可能性は低そうだ。毎日眺めずにはいられないティアラは、国で一番といわれる職人によるものだから狙われるかもしれない。いや、絵画だって、どれも一点ものだから盗まれては困る。先のグラスも、価値はそこまで高くないけれど、だからといって盗まれていいわけではない。それから、書斎には希少価値の高い本がたくさん置いてある。
あぁ、すべてを守るにはどうすればいい? 大半はこの――僕のコレクションばかりを集めた――部屋にあるけれど、いくつかは隣の寝室や、応接間にも飾ってある。書斎はここから離れているから、なにかあってもすぐに駆けつけられない。
こうなったら、コレクションのなにもかもをここに移動させ、寝ずの番をするしかないのでは? 使用人たちを信頼していないわけではないけれど、最後まで信じられるのは己だけだ。では、ここに運ぶのだけは使用人たちに手伝ってもらい、あとは僕が引きこもって――そんなことを考えながら、ふと、窓の外に視線を向けた。半年前に大掛かりな手入れをさせた庭園が見える。
「あそこには……」
いけない、と、大急ぎで部屋を飛び出した。走るなんていつぶりだろう。見た目の美しさで選んだこの靴の走りにくさを、初めて知った。
敵は『Twilight Troupe』――一番価値のあるものを盗むと噂の奇術芸団だ。傍目には無価値と思われがちなあれの真の価値に気付かれてもおかしくない。いくらなんでも陽の高いうちから堂々と盗みに来るとは思わないけれど、のんびりと歩ける気分でもなかった。
「珍し、こんな時間から……っておい、なにやってんだよ!」
「うるさい!」
気まぐれで雇った男と、これまた気まぐれで茶会をするようになった。貴族の家に生まれたからには慈善事業をすべきという風潮に従ってなんの資格も持たない労働者階級の男を雇っただけのつもりが、話し相手としても申し分なく、いい暇潰しになるとわかって、庭園がよく見渡せるところに以前からあったガゼボにテーブルと椅子を運び込ませ、今日に至る。この男は知らないだろうが、テーブルや椅子にあしらわれた宝石は、この国ではあまり採れない種類のものだ。
「なに、どっか運びてえの? 手伝ってやろうか?」
こんな重いもん、あんたは運べねえだろ――恐らく気を遣ったのだろう彼の言葉が癇に障り、意地でも自分ひとりでなんとかしてやろうと、テーブルを掴んだ手に力を込めた。
「ばか、危なっ」
あとから思えば周りの柱にぶつからないよう慎重にやるべきだったとわかるのに、そのときは焦りといらだちで周りを見る余裕がなく、梃子の原理でていねいに動かせば、自分ひとりでどうにかできるとしか考えられていなかった。
派手な音がした、その次に認識できたものは、自分が誰かに抱え込まれているということと、地面がすぐ近くにあるというふたつだった。
はっとして、倒れたテーブルを見遣る。側面にいくらか汚れはついただろうが、天板が割れたり脚が折れたりということはなく、天板にあしらわれた宝石は皆こちらを向いて、変わらぬ輝きを見せてくれている。椅子は倒れていないみたいだし、僕のコレクションは無事だと判断していいだろう。
「痛……」
次に見たのは声の主だ。僕を抱え込んで、顔を顰めている。どうやら、転倒しそうになったところを、この男が身を挺して助けてくれたらしい。
「申し訳ない、すぐに……」
転倒の痛みに歪んだ顔が目の前にあって、僕の声で、彼の瞳がゆっくりと開かれた。
「あんた、見かけによらずやんちゃだな」
揶揄されたのに、彼の顔から目が離せなくて――
「んん?」
――彼のくちびるに自分のくちびるを押し当てていた。彼の瞳が、このテーブルや椅子に埋め込まれた淡い水の宝石みたいに美しいなんて、どうして気付かなかったんだ。茶会をするようになって、何ヵ月経つっけ。その期間、僕は彼と話しながら、なにを見ていた?
顔を離すと、目の前の男はきょとんとしていた。そりゃあそうだろう、僕だって、表情にこそ出さないものの、自分の行動に驚いている。
「今、……っ、痛ぇ……」
そうだ、僕はずっとこの男を下敷きにしたままだった。今更慌てて飛び退き、彼が体を起こすのを待つ。
「これ、やっちゃったかも」
「えっ」
肘のあたりを怪我したのか、袖口から血が垂れているのが見えた。
幼い頃から世話になっている医師を呼びつけ、彼の腕を見せた。僕が怪我をしたと思い込んですっ飛んできたらしく、この男を診てくれと突き出したときには顔を顰められたが、いくら労働者階級の人間とはいえ、僕が雇っている以上、怪我をしたなら手当てを受けさせなければならない。
「彼のおかげで僕は無傷なんだ。僕がこの怪我を負ったものとして丁重に扱ってくれ」
それから……と、傍に控えている執事長に視線を送る。
「大至急、庭園のテーブルと椅子を奥の部屋に運び込んで。それと、彼の診察が終わったら、僕のところまで案内してほしい。僕はずっと部屋にいるから」
「ですが、あそこは」
「僕がいいって言ってるんだ。彼とはふたりで話したい。部屋の前まで連れてきたあとは何人も立ち入らず、皆は各自の持ち場に戻って仕事をするように」
どこか釈然としない様子の執事長に、念押しするように「主人の恩人をどう扱うべきか、おまえたちなら、これ以上言わなくてもわかるだろう」と言い、彼を迎え入れる予定の部屋へと向かった。
ほどなくして、まずはテーブルと椅子が運び込まれた。もとはこの部屋にあったのだが、当時は、どうして庭園なんかにと、使用人たちは訝しんだものだ。多少の雨や急な強風がくるたび執事たちが大慌てで装飾部分が無事か確かめ、空を見て大雨がきそうだと感じた日は屋敷内に運ばせていた。彼らの努力によって、僕の気に入りのこれは今日も美しさを保っている。
もちろん、僕だって、大事なコレクションのひとつを外に持ち出すつもりはなかったし、執事たちをいたずらに走らせたかったわけでもない。でも、彼と話してみたくなったんだから仕方ないじゃないか。普通に声をかけても「貴族様の時間を俺なんかに使わせるなんて」と敬遠されたのが悔しくて、彼の仕事がひと段落する時間帯に「ここで気分転換をしたいから暇つぶしに付き合え」と茶会を開くようになって……どうせなら、気に入りのテーブルと椅子で、彼との時間を過ごしたかった。
初めはこちらの質問に恐る恐る答えるだけだった彼も、どうやら敬語が苦手らしいと踏んだ僕が「普通に話して構わない」と言ってからは、いろいろな話を聞かせてくれるようになった。おかげで、たいして興味のなかった紅茶がわりとおいしいことがわかったし、庭園にある植物の知識まで増えてしまった。それらを知らなくても、僕は生きていけるのに。
「……」
あぁ、彼の怪我の具合が気になる。運ばせた椅子に腰掛け、いらだちを紛らわせるようにテーブルの上で指先を動かす。領地が広いおかげで不自由を感じない生活を送れているものの、僕は交流があまり好きではなく、子どもの頃に教えられたダンスだって活かす機会はないままだ――と、指先を脚に見立てて、ステップを踏ませた。透きとおった水のような宝石に囲まれた天板が舞踏会の会場だ。
いくら引きこもっていても、この貴族社会では近隣の領地からの誘いが途切れることはない。なかには縁談をにおわせたものもある。己の資産や功績を見せびらかして他人の腹を探るばかりの食事会は数回で飽きたし、そういうひとたちの娘と添い遂げたいとは思えない。あのひとたちは僕でなくても、裕福な貴族との繋がりを確保できさえすれば、なんでもいいんだ。代わりがきく人間になりたくない。それに、僕も、僕じゃなくても手に入れられるようなものに魅力は感じない。
待つばかりの時間が苦痛で、彼の顔を頭のなかに思い浮かべる。あのくちびるに、触れてしまった。数ヵ月話して得た情報よりも、あの一瞬でもっとたくさんのものを知った気がする。キスって、言葉より饒舌なのかもしれない。
学生時代、周りが遊んでいるのを尻目に勉学にばかり向き合っていたから、たぶん、この年までキスのひとつも知らない貴族なんて僕くらいなんじゃないか。下の階級の者たちは身分さえ同じなら自由恋愛だろうから、もっと早く経験しているだろうし。
そこまで考えて、彼に決まったひとがいたらどうしようという焦りが湧く。画家と暮らしていると聞いたが、それは恋人がいないことの証明にはなり得ない。そもそも、僕の立場で下の階級の者に手を出すなんて、権力を振りかざした暴力みたいなものだ。怪我の治療費だけではなく、なんらかの保障をしなければ。
待つ焦れったさと自分がしでかしたことへの罪悪感でぐるぐるしているうちに、ドアがノックされる音がして、はっと顔を上げた。
「どうぞ」
「旦那様、お連れしました」
執事長の後ろに、腕に包帯を巻きつけた彼の姿が見える。
「入って。……君はもう下がってくれ。さっきも言ったように、僕がいいと言うまで誰もこの部屋に近寄らせるな」
「……かしこまりました」
相変わらず〝納得いきません〟と顔に書いたままの執事長に、あとで躾が必要だなと、心のなかでだけ溜息をつく。この屋敷では僕が絶対で、この国は身分がすべてだ。……ときどき、というか、庭師の彼と話すたび、生まれで将来が決まるこの国に絶望を抱くけれど。
執事長が下がり、ドアの外に意識を集中させて〝本当に誰もいない〟ことを確かめてから、彼を手招きする。
「怪我の具合は? その様子だと擦り傷だけじゃないみたいだけど」
「あ、えっと……骨が折れてる、らしくて」
添え木とともに包帯で巻かれた左腕。確か彼は右利きだったと記憶しているけれど、片方の腕が使えないとなると、日常生活への影響は大きいだろう。訊けば、三ヵ月は左腕が使えないらしい。
「僕のせいでしばらく不自由を強いてしまうこと、大変申し訳なく思っている。治療にかかる費用はすべてこちらで支払うし、仕事ができない期間も生活に困らないだけの援助を」
「そこまでしてもらうわけにはいかねえ……いかない、です」
当然受け入れてもらえると思っていた施しを拒絶された――その事実に、頭のなかがかっと熱くなる。いけない、ここで声を荒らげては、雇った人間に怪我をさせたうえ身分を振りかざすだけの暴君になってしまう。少なくとも彼の前では、そうはなりたくない。
「そう。でも、せめて治療費だけは支払わせてほしい。君は仕事中だったし、雇い主である僕の不注意が招いたことだ。ここは君がどんなに謙虚でも譲らないよ」
「はぁ、じゃあ……ありがとうございます」
あれ、と思った。一歩遅れたが、そういえば、さきほども彼は言い直してまで敬語になっていなかったか?
「僕の前では敬語はいらないって言ったはずだけど」
「それは、そう……だけど……」
思えば、この部屋に入ってきてからの彼の態度がよそよそしい気がする。大怪我をさせてしまったから、だけではない。
「もう、ここには来たくない?」
ほんの一瞬とはいえ、吸い寄せられるようにキスをしてしまった。身分が上の人間から無理矢理くちづけられる――彼の身分で想像するのは難しいものの、恋仲でもない相手からという視点でなら、僕も想像できる。ぞっとするよね。
「別に、そこまでは」
「じゃあ、どうして? この部屋に来てから僕を避けようとしてる」
自分でも、いらだちがそのまま声に出ているのがわかった。こんな態度じゃ、相手を萎縮させるだけだ。それなのに、彼との茶会と執事たちへの指示くらいしか会話をしない生活を送ってきた僕は、どうするのが正しいのか、わからない。一時期しつこく誘ってきていた近隣の貴族たちと適当に交流しておけば、こんなときでもすらすらと相手の望む言葉を生み出せたのだろうか。
茶会で何度も腰掛けた椅子から離れ、ゆっくりと彼に歩み寄る。少しだけあとずさりされたけれど、部屋から逃げ出す様子はない。それは彼が僕を貴族だから反抗してはならないと思ってのことか、――今は萎縮させてしまっているけれど――少なくない回数の茶会で、少しは心を開いてくれたからか。後者であったなら、僕はどんなに嬉しいだろう。
「……テーブルに埋め込まれた宝石と似た色なんだね。君とはたくさん話してきたのに、今日まで気付けなかった」
意外なことに、頬に触れても、逃げられなかった。
「俺は、気付いてたけど」
それは、宝石の色の話? それとも、僕が君を見てるようで見れていなかったこと? 言葉にして問わなくても、両方だということは、なんとなく、わかった。頬に触れたままの僕の手に、彼が触れたから。少なくとも、彼にいいひとはいなさそうだ。
「まだ、逃げないでね」
顔を背けられたら、今度こそ心が折れてしまう。半ば強迫ともとられかねない言葉を告げ、もう一度、今度は明確な意思を持って顔を近付ける。
「……二回目ってことは、気まぐれじゃないってこと?」
「僕自身も驚いたけど、一回目だって、気まぐれのつもりはなかったよ」
彼の瞳がお気に入りの石と似た色だと気付きもしていなかったけれど、汗を流して庭を手入れしてする姿をこの部屋から見ては、僕のことも見てほしいと思っていた。言葉を発しない草花より、僕に構ってほしくて、茶会をしようと誘った。その時点で、もう、惹かれていたんだ。
「俺、どこにでもいる、身分ひっくいやつだし。貴族様のお戯れって思うじゃん」
「君じゃなきゃ、こんなことしようとも思わない。……二回目も逃げずにいたってことは、君も、憎からず想ってくれていると判断していいのかな」
大きな溜息のあと、怪我をしていないほうの腕が僕の腰にまわった。さっきの転倒で初めて知った彼の体格のよさを、今度は不注意ではなく、思い知らされる。
「お茶にしようって誘ってくれるの、本当はいっつもどきどきしてた。あんたがそういうつもりでいてくれるんなら、これからもあんたにどきどきしてていいんだよな」
「そう……だね。あぁ、なんだか恥ずかしくなってきた」
彼と恋仲になることで、この家の使用人たちに顔を顰められたり、近隣の貴族たちから後ろ指を指されたりするかもしれない。でも、十代の頃からこの家を守り続けてこられた僕には、それらすべてを説き伏せるなり、相手にせずにいられる自信がある。
「治療の経過はうちに来てくれてる医者に引き続き診てもらうようにするけど、それ以外では治るまで会えない? どうやら僕は、恋人を傍に置いておきたいタイプみたいなんだよね」
恋人という言葉に彼の顔が赤く染まるのを見て、少し、気分がよくなった。もしかすると、僕と同じで、初めての恋人なのかもしれない。そうだといいな。
「さすがに、家で友だち待ってるし、生活の面倒見てるの俺だし……、仕事できないのに怪我治すため以外で来てたら、この家のひとたちがあんたのこと悪く思いそうでやだ」
「そんなの、僕がなんとでもするのに。でも、君の気持ちは尊重したいから、待ってるね。早く治して」
ヒールの高い靴を履いているおかげで、彼との身長差は少ししかない。彼と同じようなぺたんこの靴を履いたら、くちびるがもっと遠くなってしまうんだろうな。でも、屋敷のなかを案内したり、庭を歩き回ったりといった恋人っぽいことをするためには、もっとヒールが低くて歩きやすい靴を履かなくちゃ。
街からなにかが盗まれるなら、絶対に、この屋敷からに違いない。街の硝子職人につくらせたグラスは、他と比べれば盗まれる可能性は低そうだ。毎日眺めずにはいられないティアラは、国で一番といわれる職人によるものだから狙われるかもしれない。いや、絵画だって、どれも一点ものだから盗まれては困る。先のグラスも、価値はそこまで高くないけれど、だからといって盗まれていいわけではない。それから、書斎には希少価値の高い本がたくさん置いてある。
あぁ、すべてを守るにはどうすればいい? 大半はこの――僕のコレクションばかりを集めた――部屋にあるけれど、いくつかは隣の寝室や、応接間にも飾ってある。書斎はここから離れているから、なにかあってもすぐに駆けつけられない。
こうなったら、コレクションのなにもかもをここに移動させ、寝ずの番をするしかないのでは? 使用人たちを信頼していないわけではないけれど、最後まで信じられるのは己だけだ。では、ここに運ぶのだけは使用人たちに手伝ってもらい、あとは僕が引きこもって――そんなことを考えながら、ふと、窓の外に視線を向けた。半年前に大掛かりな手入れをさせた庭園が見える。
「あそこには……」
いけない、と、大急ぎで部屋を飛び出した。走るなんていつぶりだろう。見た目の美しさで選んだこの靴の走りにくさを、初めて知った。
敵は『Twilight Troupe』――一番価値のあるものを盗むと噂の奇術芸団だ。傍目には無価値と思われがちなあれの真の価値に気付かれてもおかしくない。いくらなんでも陽の高いうちから堂々と盗みに来るとは思わないけれど、のんびりと歩ける気分でもなかった。
「珍し、こんな時間から……っておい、なにやってんだよ!」
「うるさい!」
気まぐれで雇った男と、これまた気まぐれで茶会をするようになった。貴族の家に生まれたからには慈善事業をすべきという風潮に従ってなんの資格も持たない労働者階級の男を雇っただけのつもりが、話し相手としても申し分なく、いい暇潰しになるとわかって、庭園がよく見渡せるところに以前からあったガゼボにテーブルと椅子を運び込ませ、今日に至る。この男は知らないだろうが、テーブルや椅子にあしらわれた宝石は、この国ではあまり採れない種類のものだ。
「なに、どっか運びてえの? 手伝ってやろうか?」
こんな重いもん、あんたは運べねえだろ――恐らく気を遣ったのだろう彼の言葉が癇に障り、意地でも自分ひとりでなんとかしてやろうと、テーブルを掴んだ手に力を込めた。
「ばか、危なっ」
あとから思えば周りの柱にぶつからないよう慎重にやるべきだったとわかるのに、そのときは焦りといらだちで周りを見る余裕がなく、梃子の原理でていねいに動かせば、自分ひとりでどうにかできるとしか考えられていなかった。
派手な音がした、その次に認識できたものは、自分が誰かに抱え込まれているということと、地面がすぐ近くにあるというふたつだった。
はっとして、倒れたテーブルを見遣る。側面にいくらか汚れはついただろうが、天板が割れたり脚が折れたりということはなく、天板にあしらわれた宝石は皆こちらを向いて、変わらぬ輝きを見せてくれている。椅子は倒れていないみたいだし、僕のコレクションは無事だと判断していいだろう。
「痛……」
次に見たのは声の主だ。僕を抱え込んで、顔を顰めている。どうやら、転倒しそうになったところを、この男が身を挺して助けてくれたらしい。
「申し訳ない、すぐに……」
転倒の痛みに歪んだ顔が目の前にあって、僕の声で、彼の瞳がゆっくりと開かれた。
「あんた、見かけによらずやんちゃだな」
揶揄されたのに、彼の顔から目が離せなくて――
「んん?」
――彼のくちびるに自分のくちびるを押し当てていた。彼の瞳が、このテーブルや椅子に埋め込まれた淡い水の宝石みたいに美しいなんて、どうして気付かなかったんだ。茶会をするようになって、何ヵ月経つっけ。その期間、僕は彼と話しながら、なにを見ていた?
顔を離すと、目の前の男はきょとんとしていた。そりゃあそうだろう、僕だって、表情にこそ出さないものの、自分の行動に驚いている。
「今、……っ、痛ぇ……」
そうだ、僕はずっとこの男を下敷きにしたままだった。今更慌てて飛び退き、彼が体を起こすのを待つ。
「これ、やっちゃったかも」
「えっ」
肘のあたりを怪我したのか、袖口から血が垂れているのが見えた。
幼い頃から世話になっている医師を呼びつけ、彼の腕を見せた。僕が怪我をしたと思い込んですっ飛んできたらしく、この男を診てくれと突き出したときには顔を顰められたが、いくら労働者階級の人間とはいえ、僕が雇っている以上、怪我をしたなら手当てを受けさせなければならない。
「彼のおかげで僕は無傷なんだ。僕がこの怪我を負ったものとして丁重に扱ってくれ」
それから……と、傍に控えている執事長に視線を送る。
「大至急、庭園のテーブルと椅子を奥の部屋に運び込んで。それと、彼の診察が終わったら、僕のところまで案内してほしい。僕はずっと部屋にいるから」
「ですが、あそこは」
「僕がいいって言ってるんだ。彼とはふたりで話したい。部屋の前まで連れてきたあとは何人も立ち入らず、皆は各自の持ち場に戻って仕事をするように」
どこか釈然としない様子の執事長に、念押しするように「主人の恩人をどう扱うべきか、おまえたちなら、これ以上言わなくてもわかるだろう」と言い、彼を迎え入れる予定の部屋へと向かった。
ほどなくして、まずはテーブルと椅子が運び込まれた。もとはこの部屋にあったのだが、当時は、どうして庭園なんかにと、使用人たちは訝しんだものだ。多少の雨や急な強風がくるたび執事たちが大慌てで装飾部分が無事か確かめ、空を見て大雨がきそうだと感じた日は屋敷内に運ばせていた。彼らの努力によって、僕の気に入りのこれは今日も美しさを保っている。
もちろん、僕だって、大事なコレクションのひとつを外に持ち出すつもりはなかったし、執事たちをいたずらに走らせたかったわけでもない。でも、彼と話してみたくなったんだから仕方ないじゃないか。普通に声をかけても「貴族様の時間を俺なんかに使わせるなんて」と敬遠されたのが悔しくて、彼の仕事がひと段落する時間帯に「ここで気分転換をしたいから暇つぶしに付き合え」と茶会を開くようになって……どうせなら、気に入りのテーブルと椅子で、彼との時間を過ごしたかった。
初めはこちらの質問に恐る恐る答えるだけだった彼も、どうやら敬語が苦手らしいと踏んだ僕が「普通に話して構わない」と言ってからは、いろいろな話を聞かせてくれるようになった。おかげで、たいして興味のなかった紅茶がわりとおいしいことがわかったし、庭園にある植物の知識まで増えてしまった。それらを知らなくても、僕は生きていけるのに。
「……」
あぁ、彼の怪我の具合が気になる。運ばせた椅子に腰掛け、いらだちを紛らわせるようにテーブルの上で指先を動かす。領地が広いおかげで不自由を感じない生活を送れているものの、僕は交流があまり好きではなく、子どもの頃に教えられたダンスだって活かす機会はないままだ――と、指先を脚に見立てて、ステップを踏ませた。透きとおった水のような宝石に囲まれた天板が舞踏会の会場だ。
いくら引きこもっていても、この貴族社会では近隣の領地からの誘いが途切れることはない。なかには縁談をにおわせたものもある。己の資産や功績を見せびらかして他人の腹を探るばかりの食事会は数回で飽きたし、そういうひとたちの娘と添い遂げたいとは思えない。あのひとたちは僕でなくても、裕福な貴族との繋がりを確保できさえすれば、なんでもいいんだ。代わりがきく人間になりたくない。それに、僕も、僕じゃなくても手に入れられるようなものに魅力は感じない。
待つばかりの時間が苦痛で、彼の顔を頭のなかに思い浮かべる。あのくちびるに、触れてしまった。数ヵ月話して得た情報よりも、あの一瞬でもっとたくさんのものを知った気がする。キスって、言葉より饒舌なのかもしれない。
学生時代、周りが遊んでいるのを尻目に勉学にばかり向き合っていたから、たぶん、この年までキスのひとつも知らない貴族なんて僕くらいなんじゃないか。下の階級の者たちは身分さえ同じなら自由恋愛だろうから、もっと早く経験しているだろうし。
そこまで考えて、彼に決まったひとがいたらどうしようという焦りが湧く。画家と暮らしていると聞いたが、それは恋人がいないことの証明にはなり得ない。そもそも、僕の立場で下の階級の者に手を出すなんて、権力を振りかざした暴力みたいなものだ。怪我の治療費だけではなく、なんらかの保障をしなければ。
待つ焦れったさと自分がしでかしたことへの罪悪感でぐるぐるしているうちに、ドアがノックされる音がして、はっと顔を上げた。
「どうぞ」
「旦那様、お連れしました」
執事長の後ろに、腕に包帯を巻きつけた彼の姿が見える。
「入って。……君はもう下がってくれ。さっきも言ったように、僕がいいと言うまで誰もこの部屋に近寄らせるな」
「……かしこまりました」
相変わらず〝納得いきません〟と顔に書いたままの執事長に、あとで躾が必要だなと、心のなかでだけ溜息をつく。この屋敷では僕が絶対で、この国は身分がすべてだ。……ときどき、というか、庭師の彼と話すたび、生まれで将来が決まるこの国に絶望を抱くけれど。
執事長が下がり、ドアの外に意識を集中させて〝本当に誰もいない〟ことを確かめてから、彼を手招きする。
「怪我の具合は? その様子だと擦り傷だけじゃないみたいだけど」
「あ、えっと……骨が折れてる、らしくて」
添え木とともに包帯で巻かれた左腕。確か彼は右利きだったと記憶しているけれど、片方の腕が使えないとなると、日常生活への影響は大きいだろう。訊けば、三ヵ月は左腕が使えないらしい。
「僕のせいでしばらく不自由を強いてしまうこと、大変申し訳なく思っている。治療にかかる費用はすべてこちらで支払うし、仕事ができない期間も生活に困らないだけの援助を」
「そこまでしてもらうわけにはいかねえ……いかない、です」
当然受け入れてもらえると思っていた施しを拒絶された――その事実に、頭のなかがかっと熱くなる。いけない、ここで声を荒らげては、雇った人間に怪我をさせたうえ身分を振りかざすだけの暴君になってしまう。少なくとも彼の前では、そうはなりたくない。
「そう。でも、せめて治療費だけは支払わせてほしい。君は仕事中だったし、雇い主である僕の不注意が招いたことだ。ここは君がどんなに謙虚でも譲らないよ」
「はぁ、じゃあ……ありがとうございます」
あれ、と思った。一歩遅れたが、そういえば、さきほども彼は言い直してまで敬語になっていなかったか?
「僕の前では敬語はいらないって言ったはずだけど」
「それは、そう……だけど……」
思えば、この部屋に入ってきてからの彼の態度がよそよそしい気がする。大怪我をさせてしまったから、だけではない。
「もう、ここには来たくない?」
ほんの一瞬とはいえ、吸い寄せられるようにキスをしてしまった。身分が上の人間から無理矢理くちづけられる――彼の身分で想像するのは難しいものの、恋仲でもない相手からという視点でなら、僕も想像できる。ぞっとするよね。
「別に、そこまでは」
「じゃあ、どうして? この部屋に来てから僕を避けようとしてる」
自分でも、いらだちがそのまま声に出ているのがわかった。こんな態度じゃ、相手を萎縮させるだけだ。それなのに、彼との茶会と執事たちへの指示くらいしか会話をしない生活を送ってきた僕は、どうするのが正しいのか、わからない。一時期しつこく誘ってきていた近隣の貴族たちと適当に交流しておけば、こんなときでもすらすらと相手の望む言葉を生み出せたのだろうか。
茶会で何度も腰掛けた椅子から離れ、ゆっくりと彼に歩み寄る。少しだけあとずさりされたけれど、部屋から逃げ出す様子はない。それは彼が僕を貴族だから反抗してはならないと思ってのことか、――今は萎縮させてしまっているけれど――少なくない回数の茶会で、少しは心を開いてくれたからか。後者であったなら、僕はどんなに嬉しいだろう。
「……テーブルに埋め込まれた宝石と似た色なんだね。君とはたくさん話してきたのに、今日まで気付けなかった」
意外なことに、頬に触れても、逃げられなかった。
「俺は、気付いてたけど」
それは、宝石の色の話? それとも、僕が君を見てるようで見れていなかったこと? 言葉にして問わなくても、両方だということは、なんとなく、わかった。頬に触れたままの僕の手に、彼が触れたから。少なくとも、彼にいいひとはいなさそうだ。
「まだ、逃げないでね」
顔を背けられたら、今度こそ心が折れてしまう。半ば強迫ともとられかねない言葉を告げ、もう一度、今度は明確な意思を持って顔を近付ける。
「……二回目ってことは、気まぐれじゃないってこと?」
「僕自身も驚いたけど、一回目だって、気まぐれのつもりはなかったよ」
彼の瞳がお気に入りの石と似た色だと気付きもしていなかったけれど、汗を流して庭を手入れしてする姿をこの部屋から見ては、僕のことも見てほしいと思っていた。言葉を発しない草花より、僕に構ってほしくて、茶会をしようと誘った。その時点で、もう、惹かれていたんだ。
「俺、どこにでもいる、身分ひっくいやつだし。貴族様のお戯れって思うじゃん」
「君じゃなきゃ、こんなことしようとも思わない。……二回目も逃げずにいたってことは、君も、憎からず想ってくれていると判断していいのかな」
大きな溜息のあと、怪我をしていないほうの腕が僕の腰にまわった。さっきの転倒で初めて知った彼の体格のよさを、今度は不注意ではなく、思い知らされる。
「お茶にしようって誘ってくれるの、本当はいっつもどきどきしてた。あんたがそういうつもりでいてくれるんなら、これからもあんたにどきどきしてていいんだよな」
「そう……だね。あぁ、なんだか恥ずかしくなってきた」
彼と恋仲になることで、この家の使用人たちに顔を顰められたり、近隣の貴族たちから後ろ指を指されたりするかもしれない。でも、十代の頃からこの家を守り続けてこられた僕には、それらすべてを説き伏せるなり、相手にせずにいられる自信がある。
「治療の経過はうちに来てくれてる医者に引き続き診てもらうようにするけど、それ以外では治るまで会えない? どうやら僕は、恋人を傍に置いておきたいタイプみたいなんだよね」
恋人という言葉に彼の顔が赤く染まるのを見て、少し、気分がよくなった。もしかすると、僕と同じで、初めての恋人なのかもしれない。そうだといいな。
「さすがに、家で友だち待ってるし、生活の面倒見てるの俺だし……、仕事できないのに怪我治すため以外で来てたら、この家のひとたちがあんたのこと悪く思いそうでやだ」
「そんなの、僕がなんとでもするのに。でも、君の気持ちは尊重したいから、待ってるね。早く治して」
ヒールの高い靴を履いているおかげで、彼との身長差は少ししかない。彼と同じようなぺたんこの靴を履いたら、くちびるがもっと遠くなってしまうんだろうな。でも、屋敷のなかを案内したり、庭を歩き回ったりといった恋人っぽいことをするためには、もっとヒールが低くて歩きやすい靴を履かなくちゃ。