恋に優しく

 キスは付き合っている相手とするものだという考えは、少し前に捨てた。捨てさせられた。
 MEZZO”の『キズナ』をリリースした少しあと、寮で新曲リリースを祝う会が催された。そこでしこたま酒を飲んだ壮五を部屋まで運んだ際に、あっけなく〝初めて〟を奪われたのだ。
 しかし、そのあとが最悪だった。プライベートでキスをしたということは向こうも同じ気持ちで、両想いイコール付き合うものだとばかり思っていたのに、壮五にはなんの変化も見られない。いつものように酔っている間の言動を忘れているにしても、行動に出てしまうくらい恋心が抑えきれなくなっているなら、日常のふとした仕草にもそれが滲み出るはず。そこを目敏く見つけて、揺さぶってやるつもりだった。すぐに告白しないのは、軽いジャブを打って、その反応を見てからじゃないと照れくさいから。初恋くらい、石橋を恐る恐る叩きながら渡ったっていいじゃないか。
 慎重に行動するのが不得手なわりに、すごく頑張ったほうだと思う。丁寧に、恐る恐る叩いたものだから、石橋にはヒビひとつ入っていない。壮五への恋心を敷き詰めた道はまっさらなままだ。
 こんなに観察してもそれらしき素振りが見られないなら、いっそ両想いだというのは己の願望と結論づけて、酒くさいファーストキスを忘れてしまいたいのに、それもできない。あのキスのせいで、諦められる程度の恋ではなくなってしまったのだ。
「こら、そんな目をするもんじゃないよ」
「そんな目?」
 スマートフォンを見ながらにやにやしていたはずの大和を仰ぎ見る。そのセリフは、こっちが言ってやりたい。一体なにを見ているんだか。
「ギラギラしてる。そんなんじゃ、いくら肝が据わったソウでも怯むって」
「なんでそーちゃんが出てくんだよ」
 この場にいない想い人の名を挙げられて、背中にどっと汗が噴き出た。昔の自分だったら、思いっきり顔に出ていたに違いない。声は、震えていなかったか。一瞬前の自分の声色を客観的に判断できないくらいには、動揺している。
 IDOLiSH7で演技力といえば大和というのはデビュー前から言われてきたことだが、最近では、環の演技力も評価されるようになってきた。うそや隠しごとを嫌うくせに、ここぞという場でのうそや隠しごとはうまいタイプだよね――そう言ったのは千だ。末恐ろしいよと笑っていた。相手を喜ばせたい奉仕精神がそうさせているのかもね、とも。自分ではよくわからないけれど、演技で評価される彼がそう言うのだから、たぶん、自分の演技力はなかなかのものなんだろう。
 三秒、四秒……するつもりのなかった腹の探り合いを終わらせたのは、リビングに現れた一織の声だ。
「……なんですか、この空気」
 そう言いつつも話に加わるまではしないらしく、一織はキッチンへと向かってしまった。ただ、今のひとことで、大和との間にあったいやな空気がわずかにゆるんだのは確かだ。この機を逃してなるものかと、思い付きで一織に話しかける。
「なにしてんの。あ、ホットミルク?」
 視界の端で大和が小さく溜息をつくのが見えたが、気付かない振りをした。そこを咎められることもなかったから、大和も、少なくともこの場ではこれ以上話を続けるつもりはなくなったらしい。
 渡りに船といわんばかりに話しかけたのがわかったのか、一織はこちらを一瞥したあと、コンロのスイッチを入れた。
「えぇ、台本の読み合わせをするので」
 来週から、彼らは『劇場版・オオカミ少年と少年探偵』の撮影期間に入る。劇場版というだけあってドラマよりもずっとスケールが大きく、今回は九州地方でのロケもあるらしい。レインボーアリーナこけら落とし公演の余韻もまだ残っているのに、なんと慌ただしいことか。
 鍋の中であたためられていくミルクに視線を落としたままの一織。環は冷や汗が滲むのを覚えた。メンバーの中で壮五の次に過ごす時間が多い相手なのに、今の彼とは話しづらさを感じる。なぜか。理由はひとつだ。
「……いおりんも、俺の顔やばいって思った?」
「も、ということは既に誰かにそう指摘されて、打ちのめされでもしてたんですか。たとえば、二階堂さんとか」
「わかってて訊くのずるくね?」
 ちょっとは優しくしてくれたっていいじゃん。――ふてくされた声は、キッチンの床に落とした。一織だけに向けて言いたいわけではないからだ。
 ちょっとは優しくされたい。いきなり「そんな目をするな」なんて言葉で追及を始めた大和にも、それまでの会話を実は知っていたくせに知らないふりをしていた一織にも、一方的にキスをしておきながら忘れたままの壮五にも、優しくされたい。
 ううん、誰よりも、自分自身に優しくされたい。ままならない恋だと頭を抱えたり、確信がほしくてこれまで以上に壮五を見つめたりと、上手な恋ができない自分に優しくしたい。
「あー……ごめん、わかった」
「自己解決されたならよかったです」
 確証ほしさに石橋を叩き過ぎて、いらいらしていた。余裕もなくなっていた。これじゃあ、普段なら見つけられるであろう壮五のささやかな変化にも気付けやしない。気付けないからまたいらいらして、それが顔にも出て、負の連鎖だ。
「んーん、ありがと。撮影頑張れよ」
「私はなにもしてませんけどね。それと、映画のことならご心配なく。期待以上のものにしますので」
 つんと澄ました顔をしているが、瞳の色は穏やかだ。
「知ってる。でもあんまりりっくんいじめんなよ」
「あの人がそそっかしくなければ大丈夫ですよ」
 それってかなり難しそうだ。。でも、一織の叱責には彼なりの思いやりと優しさがあるから、陸もなんだかんだ言いつつ受け止めているのだろう。

 ◇

〝部屋行っていい?〟
 壮五がスタジオから帰ってきたのを見計らって、ラビットチャットでお伺いを立てた。今までも――別に、告白するつもりではなく、ただ、顔が見たくて――こういうおねだりは何度もしてきた。少し待ってほしいと言われたことはあれど、一度だって拒絶されたことはない。今回も、すぐに〝いいよ〟という返事があった。
「そーちゃん……」
 いつもより気持ち控えめにノックをして、壮五の了承を得て部屋に入る。ここ最近、自分がひどい顔をしていたであろうことを自覚したばかりだから、なんとなく、ばつが悪い。
「どうしたの?」
 最初からこうすればよかった。いつもみたいに、翌朝、酔ったあんたを介抱をしてやったんだぞと詰め寄ればよかったんだ。一体どんなことをしでかしたのかと知りたがるだろうから、切腹はするなと念押ししたうえで、あの夜起きたすべてを突きつけて、逃げ場を奪ってやればよかった。
 どうせ、真正面からぶつかっても〝アイドルはファンが一番でなければ〟とか〝グループ内でそういう関係になるなんて仕事に支障をきたしたら〟なんていろいろなことを考えてしまうだろうから、出口はひとつしかないんだから俺を選んでと迫ったほうが、――傷付く結果になったかもしれないけれど――周囲に指摘されるほどいらいらせずに済んだし、自分にも、周りにも、優しくできたはずだ。
「あのさ、訊きたいこと、あって」
 壮五の表情がわずかにこわばった。他の人なら見過ごすかもしれない程度の変化だが、環がこれを見逃すはずがない。あの夜の答え合わせを求めて、壮五を見つめてきたのだから。
「前にさ……、や、前置き長いの向いてねえから直球で言う。今のあんた見て、ちょっとわかったし」
 壮五の返答はない。それを、話を拒絶するつもりがないものとして受け取る。
「そーちゃん、あの夜のこと覚えてんだろ。俺に部屋まで抱っこされて、ぐにゃぐにゃのくせに抱き着いてきて」
「……ごめんね」
「ごめんねって言われたいんじゃなくて、俺が訊きたいのは別のことなの。わかってんだろ」
〝わからない〟という否定の言葉はない。答えないことで肯定するなんてずるいやつだ。全部、こちらに言わせるつもりか。あのキスを追及する言葉も、恋心を打ち明ける言葉も、なにもかも。
「俺、本当は優しくしたいの。ヤマさんにも、いおりんにも、みっきー、ナギっち、りっくんにも。もちろん、そーちゃんにも。それから、あの時のチュー思い出すだけでわーって暴れそうになってる俺のことも、優しく止めてやりたいんだよ」
 視線を合わせないようにしていた壮五が勢いよくこちらを見た。
 優しい恋じゃなければ、恋心が暴れ出して、あらゆるものを壊したり、食らったりしてしまいそうだから。
「本当は覚えてるくせに知らんぷりして、そーちゃんはそれで平気? そーちゃんは、そーちゃんの気持ちに優しくできてんの?」
「……僕は、僕に優しくありたいとは思わないかな。大切な人たちには優しくありたいけど」
「やだよ。自分にもちゃんと優しくしろよ。んで、優しくありたいならだんまり決めこまないで、俺にちゃんと優しくして」
 指先を触れ合わせる。やっぱり、拒絶の言葉は出ない。
「俺、今からチューしようとしてんだけど。だめならだめって、ちゃんと言って。だんまり決め込むの、そーちゃんが自分に優しくしてなさそうでやだ」
 できたら、いいよって言ってほしい。――つい、本音がもれてしまった。
「……いいよ」
「ほんとに?」
 あとには引けないという思いで、一気に至近距離まで顔を近付ける。
「うん。……あの時のは、途中までは本当に酔っていて、でも、した途端に酔いが醒めて……。逃げなきゃって、酔ったまま眠ったことにしてしまったんだ。自制できない自分が情けなかったし、あれを初めてだったと思いたくなかった。言うつもりはなかったけど、もし、なにかの歯車が狂ってきみとそういうことになったら」
「歯車狂ってとか言うなよ」
「ごめん。でも、……環くんの気持ちをなんとなく〝そうかも〟と思ってからも、あり得ないことだと思ってた。だから、ふわふわした頭でああいうことをしてしまって、それがすごくショックで。どうせなら」
 壮五の口からは後悔の念ばかり出てくる。溜め込んでいたらしいそれをすべて食べるみたいに、唇に食らいついた。
「……話の途中だったのに」
「さっき、いいよって言ったじゃん。いいよって言ったら、そのあとはいつされても文句言えねえんだよ」
 顔を見るのが恥ずかしくて、ぎゅうぎゅうと抱き締めた。
「素面だとこれが初めてなのに、ロマンのかけらもない」
「酔ったあんたに奪われた俺だって素面だったよ。ロマンのかけらなんてなかった。酒くさかったからゼロどころかマイナス」
 ファーストキスがロマンチックでなければならないなんて決まりはない。できればロマンチックであってほしかったけれど、もう、済んでしまったことだ。
「ひどい言い草だ」
「だんまり決め込まれた腹いせ。俺も、自分から全然訊こうとしないでだんまりだったけど。……でも、腹いせとか本当はいやで、あんたにはめちゃくちゃ優しくしたいの、わかって」
「わかってるよ。だって、環くんはいつも優しいから」
 壮五が身を捩り、少しだけ腕の力をゆるめる。たぶん、今の自分はすごく情けない顔をしているに違いない。見せたくないなと顔を背けようとしたが、壮五の両手に頬をしっかりと固定されてしまった。
「あのね、順番は違ってしまったし、過去は消せないけど……やっぱり、ロマンチックなキスに憧れはあるから」
 壮五の瞼が伏せられるのを見て、心臓がどっと大きな音を立てた、気がした。
「いいの?」
「……いいよって言った。いいよって言ったら、そのあとはいつされても文句は言えないんだろう? 次は、話の途中だったとか文句も言わな……っ、ん」
 話の流れのままキスをして、果たして、これが彼の望むロマンチックなキスになったのかはわからない。ただ、唇を離してはすぐにまたキスをしたくなって、何度も、何度も唇を押し当てた。


    《ひとこと感想》

     



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