一緒に暮らそう

「ぱぱー!」
 そんな声とぴこぴこと効果音のついた足音、一歩遅れて「ちーちゃん待って!」と追いかける声が、環たちの右側を通り過ぎていった。
 金曜の夜。新幹線の駅待ち合わせなんてごくありふれた風景なのに、なんとなく、その〝ちーちゃん〟と呼ばれた子どもを視線で追う。地面を踏みしめるたびに音が鳴る靴。迷子にならないようにと親が選んだのか、あの子自身が求めたのかはわからない。ただ、他にも家族連れがいるこの駅構内で、その音は確かに目立っていた。
「ぱぱ、ぱぱ! おかえりなさい!」
「こら、ママを困らせちゃだめだろ」
 ゴールテープの代わりに、父親らしき男性が〝ちーちゃん〟を抱き上げる。母親と思しき女性も男性のもとに辿り着いていて「おかえりなさい」と嬉しそうに笑っていた。もしかしたら、単身赴任かなにかで長期間離れて暮らしていたのかもしれない。父親を見つけた途端、母親の制止も聞かずに走る娘。大人が子どもに足で追いつくなんて簡単なことなのに、久しぶりに娘を抱き上げる夫の姿が見たかったのか、追いかける足をゆるめた母親。――真実はわからないけれど、たぶん、そういうことなのだろう。
「環くん?」
「ん? あぁ、なんもねえよ」
 岡山でのロケを終えて東京に戻ってきた。このあとはラジオ番組にゲストとして出演する。東京駅からラジオ局への送迎を申し出てくれた万理には断りを入れて、タクシーで向かうことにした。車で送ってもらえるのは確かにありがたいけれど、事務所は忙しい時期で、万理も電話やメールの対応に忙しそうだったから。
「帰る頃にはみんな寝てっかな」
「そうだね」
 ラジオが終わってすぐにタクシーに乗っても、寮に着く頃には深夜一時を過ぎている。一織は土曜朝のレギュラー番組があるし、大和も映画の撮影期間中でいつも以上に疲れを溜め込んでいる。アニメ視聴で夜更かしに慣れたナギも、ついさきほどノースメイアでの写真集撮影を終えて帰国したところだと連絡を受けた。三月も、陸も、最近は単独の仕事が続いている。
「先に寝ててって言う?」
「うん。じゃなきゃ、みんな、起きていてくれそうだから」
 確かに。乗り込んだタクシーにラジオ局へ向かってもらうよう頼み、その時間を使って、壮五は万理へ、環はIDOLiSH7のグループチャットへとメッセージを打ち込む。東京に戻ってきたこと、今はラジオ局に向かうタクシーの中であること。
 万理からはタクシーで行き来させてしまうことへの詫びが返ってきたらしい。環がメッセージを打ち込んでいるグループチャットでは、既読数がぱらぱらと増え、お疲れさまのスタンプや、二人を労うメッセージが返ってきた。ノースメイアから帰国したばかりのナギも、反応を返してくれる。お土産はあるかという冗談めかした大和の言葉を敢えて適当に流し、先に眠っていてほしいと打ち込んで、反応がくる前にラビットチャットのアプリを閉じた。
 閉じられたトークルームの中で「待ってるよ」というメッセージが、環と壮五の数だけ既読数が増えないままになっていることだろう。たぶん、起きて待っていてくれる。そういうメンバーだ。
 スマートフォンをポケットに捻じ込み、二人の間に置かれた発泡スチロール箱を見遣る。
 土産は買ってある。ロケで訪れた果実園で、岡山に来たなら是非にと薦められたものだ。試食させてもらったものが本当においしくて、撮影のあと、二人で個人的に購入した。寮で食べる用、事務所用、なにかと交流の多い先輩や友人用……正確な人数を数えるのは途中で諦めた。夜にはラジオ番組への出演があるのに、その日のうちに持って帰りたくて、配送を断ったほど、おいしかったのだ。
 買ったフルーツの量は、重さだけで言えば、二人の荷物を足して二で割ったくらい。でも、大ぶりな品種だからとにかく箱が大きい。他の客に迷惑が掛からない程度に抑えたとはいえ、買い過ぎたかもしれない。
「配送にしてもらっても、よかったかもしれないね」
「わかる。でも、あの時はなんか、このまんま、箱ごと担いで帰りたい! ってなった」
 それくらい、おいしかった。環の言葉に、壮五も目を細めて笑った。

 ◇

 ラジオ番組への出演を終え、挨拶をしている間に、スタッフがタクシーを手配してくれていた。普段、MEZZO”のラジオ番組でも顔を合わせるスタッフがいたからもう少し話していたかったけれど、彼も仕事を終えたことだし早く帰りたいだろう。失礼にあたらないよう挨拶を済ませ、壮五と二人でタクシーに乗り込む。収録中、二人の荷物とともに置かれていた〝土産〟ももちろん一緒に。ただし、中身は少しだけ減った。
「配送にしなくて正解かも。お土産渡せた」
「うん。でも、次はちゃんとした袋に入れてからにしようね」
 それだけ言うと、壮五は環の返事も待たずに視線を背けた。
 長距離移動で疲れている? それはそうだ。でも、それだけじゃない。
 少し前、寮を出る話が出た。二年前とは違って、今度こそ、七人が別々の暮らしをすることを前提とした退寮だ。初めに暮らした寮から今のところに移って二年、いつ、そういう話が出てもおかしくないと思ってはいた。思ってはいたが――
「さみしい?」
 窓の外を眺めたままの壮五が、よく見なければわからないほど小さく頷く。
 ――改めて期限を明示されたことに、誰よりも動揺したのは壮五だった。音晴の言葉にいやがることなく「わかりました」と言ったものの、その表情には困惑の色がしっかりと浮かんでいて、隣で見ていて痛ましさを感じた。
「ただいまって言ってもちゃんと応えてくれる人のいない生活なんて、とっくに知ってたはずなのにね」
 実家で暮らしていた頃の壮五を想像する。使用人がいるから、誰かは「おかえりなさいませ」と言ってくれたはずだ。それは壮五に向けてのものではなく、逢坂家の長男に向けてのものだったのだろう。
「……だな」
 施設の先生に「おかえり」と言われた環には、真の意味で、壮五のその気持ちをわかってやることはできない。寄り添うしか、できない。
 買ったフルーツの半分近くは、寮で食べるためのものだ。ばらばらの生活を始めたら、こんなに買うことはなくなると思う。仕事で一緒になるタイミングか、オフで遊びに行けそうな日をあらかじめ想像するようになる。ロケで遠くに行っても、土産を買う頻度もぐっと下がるに違いない。共同生活だからこそ考えなくてもなんとかなったことを、これからは、たくさん考えなければいけなくなる。
「もちろん、一生続くなんて初めから思ってないけど、感傷的にはなっちゃうかな」
 タクシーが寮の前に停まる。これくらいと思ったが、事務所から経費は経費できちんと申告するようにと言われているから、領収証を受け取った。
「やっぱみんな寝てんなー」
 以前の寮と同じように、それぞれの部屋は同じフロアにある。違うのは、今の寮は三階が個々の部屋になっている点だ。一階はレッスン場、二階を広い共同スペースにしている。どの窓も、起きている者はいないと示していた。
「さすがに一時半だしね」
 外で話す声の大きさのままではいけない。壮五は少しだけ声のトーンを下げ、玄関のドアを解錠した。
「ただいま戻……」
 皆、とうに眠っている。それでも、ただいまとおかえりの言葉は、家というものにさみしい思い出を抱える二人にとって、大切な言葉だ。
「おかえり。お疲れさん」
 誰もいないと思い込んでいたから、大和の出迎えに対して、壮五はすぐに言葉が出なかったらしい。
「え? ヤマさん起きて待っててくれてたん?」
 壮五の後ろから覗き込む。ぼんやりと突っ立っていないで、早く入ればいいのに。
「まぁ、いろいろとあって」
「えー、ヤマさんまじ神!」
「起きてただけで神様なら、俺たちは全員神様だな」
 大和の言葉に、陸の「えっ、もう帰ってきた?」という声と、慌ただしい足音が続く。陸だけではない。走らないでと陸を注意する一織、ノースメイアの土産らしきものを抱えたナギ、環の手にある大きな箱を代わりに持ってやるからと手を伸ばす三月。――寮の中が、一気に騒がしくなる。
「グルチャにも起きてるからって返したんだけどなぁ」
 大和の言葉に、環も壮五も「あ」と声を漏らす。起きて待っていてくれる人たちだろうからこそ、気を遣わせたくなくて、返事を見ないままにしていたのだ。
「バンちゃんに終わった報告した時、グルチャ見なかったん?」
「万理さんには通知欄からそのまま返信してたから……」
 壮五も、気を遣わせたくなくてグループチャットの画面を見ないようにしていたのかもしれない。二人して言い逃げみたいなことをしてしまった。
「ねぇ環、これなに?」
 三月が持つ箱に、陸が興味を示す。キッチンに持って行くくらいだからそのまま自分が持つと言ったのに、三月は長旅の労いだとかなんとか言っていた。
「まだ内緒ー。開けてのお楽しみ」
「オレはなんとなーく予想ついてるけど。岡山でー、この重さでー」
「みっきー、それ以上はだめ。あと数分だけ内緒!」

 ◇

 箱の中身は喜んでもらえた。こんなに遅い時間なのにと言いつつも欲望には抗えず、ひと口程度ならという一織の言葉に、深夜ということも忘れて皆ではしゃいだ。話したいこと、聞きたい話はたくさんあったけれど、二人が帰宅した時点で草木も眠る丑三つ時だったことから、食べ終わってすぐ、床に就くことになった。
 翌日をオフにしてもらっていたとはいえ、ゆっくりと風呂に浸かるほどの体力は残っていない。二人ともシャワーで済ませ、おやすみの言葉もそこそこに各々の部屋に戻る。
 ロケはとても楽しかった。しんどいこともあるけれど、楽しいと思える仕事ができている自分は幸せだと思う。でも、皆が起きて待っていてくれたのを知った時のほうが、もっと、幸せだと思った。
 新幹線で東京駅に着いた時のことを思い出す。ぴこぴこと効果音の鳴る靴で走っていた女の子。どうやら久しぶりに会えたらしい父親に抱き上げられて、喜んでいた。温度を感じる「おかえり」――あまり遠くない未来に、それを感じられなくなる生活が始まる。
「……」
 きっと、まだ起きている。彼は自分よりもずっとずっと眠りの浅い人だから。
 ゆっくりと起き上がり、音を立てないように部屋を出た。そのまま、迷うことなく隣の部屋のドアを――これまた小さく――ノックする。
 返事はないけれど、たぶん、叱られない。それどころか、来訪を待っているような気さえする。環はやっぱり音を立てないよう、ドアを開けた。
「……やっぱり起きてんじゃん」
「環くんだって、わかってて開けたんだろ」
 その言葉を了承の意と捉え、部屋の中に体を滑り込ませる。
「あのさ、話、あんだけど」
 今度こそ七人が別々の生活を送るのだとわかってから、何度か考えていた。でも、断られるのが怖くて、その言葉を飲み込んできた。壮五のさみしそうな顔を見るたび、他のメンバーが今後の生活についてあれこれと想像をめぐらせた話をするたび、環の頭の中に浮かんだ言葉だ。
「うん、待ってた」
「ほんとに?」
「本当だよ」
 それって、彼も同じことを考えていたということだ。
「なら、そーちゃんから言ってくれてもよかったじゃん」
「そこはね、断られたらどうしようって」
「そんなとこまで同じかよ」
 根本的なところが似ているからかも。壮五の言葉に、そんなわけあるかよと言い返しながら、何度も口の中で転がしてきた言葉を声にする。


    《ひとこと感想》

     



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