「環は俺に似てるな」と言われたことがある。外で酒を飲んでおらず、優しくて、帰りに菓子とらくがき帳を買ってきてくれた日だ。その日の親父はすごく機嫌がよくて、夜遅くなっても酒を飲まず、おふくろにも普通に接していた。
おふくろが生きていた頃のことなのにどうして覚えているかというと、そういう日は滅多になかったから。珍し過ぎて、忘れられなかった。この人、怒鳴らずにしゃべれるんだ。壁を蹴らずに、ものを投げずにいられるんだ。おふくろを殴らずに過ごせるんだ。――そう思ったからこそ、じゃあいつものはなんなんだよって、腹が立った。
難しいことはわからなくても、三歳のガキんちょなりに、いつも今日みたいにしてくれたらいいのにって心の中で毒づいたっけ。そんな気持ちをおふくろに知られたらきっと哀しませるから、言葉にはせず、土産だと渡されたらくがき帳におふくろを描いた。親父からもらったものにおふくろを描くなんてと思ったけれど、好きじゃない親父からもらったものだからこそ、親父以外の、俺の好きなもので上書きしなきゃという気持ちが勝った。
十二歳、鏡を見る。本当に似ているんだろうか。写真がないから比べられない。施設の先生たちは俺に気を遣っているのか、そんなことないよと言う。でも「そんなこと言わないで」って怒ってほしかった。野菜を残したら怒るくせに、そんな時だけ宥めるみたいに言うなよ。
小学校に上がる少し前までは、頻繁に「子どもを返せ」なんて怒鳴り込みに来ていたあいつの顔を、もう何年も見ていない。生きているのかどうかも知らないし、知りたくない。でも、俺はあいつの子どもだから、あいつになにかあったら施設に連絡がくるんだと思う。それがないってことは、まだ、生きているんだろう。今も、酒を飲んで暴れているのかな。まともになっていたら、親として迎えに来るもんな。来ないってことはまともじゃないってことなんだよな。……この顔、嫌いなあいつに似ていないといいな。
十五歳、鏡を見る。なんか……似ているんじゃないだろうか。この一年でそこそこ身長が伸びて、声も低くなったから、そう思うのかもしれない。
声は? 声はどうだろう。
「あ、あー……あー」
歌手の発声練習みたいにいろいろな高さの声を出してみる。親父の声って、どんなのだったっけ。酒を飲んでは怒鳴っていたという事実しか思い出せない。記憶の中の人については声から忘れていくらしいって聞いたことがあるけれど、本当にそのとおりだ。
……うそ。おふくろの声は忘れていないから、やっぱり、人によるのかもしれない。おふくろと理のことは一秒だって逃さず覚えているつもり。大嫌いな親父のことは一秒だって思い出したくない。
思い出したくないのに、鏡を見るたび、小さな頃に言われた言葉を反芻してしまう。でも、その時の――珍しく優しかった――親父の声そのものは、靄がかかったみたいになっている。
記憶の中の親父は、俺が小学校に上がる前、つまり九年前で止まっている。九年も経っていれば親父もその頃より老けているはずなのに、俺の記憶の中にうっすらと残っている親父は、まだ、若いままだ。
そのままでいい、そのまま、今の親父を知らないままでいさせて。
十七歳、鏡を見なくてもわかる。やっぱり、俺は親父に似ていた。写真がなくても断言できる。この目であいつを見て、この手であいつを殴ったから。
みんなが俺を責める。親父を殴ったことにじゃない。仕事を軽々しく引き受けたこと、その仕事をだいなしにしたことにだ。
なんでだよ。理を探して会わせてくれるっていうから引き受けたのに。約束を守らなかったのは向こうだろ。どうして、あいつらじゃなくて俺を責めるんだよ。……俺の仲間なら、俺と一緒に、なんで約束を破るんだって怒ってくれよ。
悔し涙を我慢できない。こんなところで泣いたって理には会えないし、泣けば泣くほど惨めになるだけなのに、悔しくて、腹が立って、むかついて……ぐちゃぐちゃした気持ちが全部、涙になってあふれてくる。その間も、俺を責める声は止まらない。
「……大丈夫、大丈夫だから」
誰よりも先に俺のことを怒りそうな人が、俺の体を抱き止めてくれた。なにが大丈夫なのかはわからないけれど、今、俺の味方でいてくれそうなのはこの人だけかもしれない。口うるさくて、細かくて、メンバーじゃなかったら、絶対に友だちにはならなさそうな人。アイドルになろうって決めた理由も、それまでの暮らしも全然違って、ボスのスカウトに頷かなきゃ、たぶん、会うこともなかった人。
そーちゃんの「大丈夫」って言葉、信じてみてもいいかな。口うるさくて細かいけれど、優しくて、俺のことを気にかけてくれているのは本当だし。
アイドルになって二度目の夏、そーちゃんと大喧嘩をした。そーちゃんの言葉に何度も救われて、お礼……っていうわけじゃないけれど、そーちゃんのためにもいろいろなことをちゃんと頑張ろうって決めたところだった。
これまでも小さな喧嘩はあったから、どんなに腹が立ったって、相手の言い分をすべて聞かずに怒鳴るなんてだめだ。感情的になって思いつく限りの怒りの言葉をぶつける前に、ちゃんと話し合おう。――そう思っていたはずなのに、そーちゃんが理のキーホルダーを持っているのを見つけた瞬間、なにもかも吹き飛んだ。
隠しごとをしたそーちゃんにも、感情を抑えられなくてびーびー泣いて怒鳴った自分にも、むかついた。怒鳴り散らすなんて、親父みたいじゃんか。
アイドルになって二度目の夏が終わった。着々と準備が進む『Friends Day』の少し前、そーちゃんが泣いているのを初めて見た。
「大人だから泣けない」と言ったあの人が苦しい時、俺が代わりに泣く係だって約束したのを、守れなかった。あの人が泣くのは、嬉し涙がいいって思っていたのにな。でも、自分の思っていることをちゃんと打ち明けられての涙でもあるから、この涙は、必要だったんだと思う。
代わりに泣いてやれなかったぶん、安堵の涙は袖で拭ってやった。拭いながら、俺は人に貸せるハンカチを持つ習慣がないことに気が付いた。嬉し涙を流させてやるって意気込んだものの、そーちゃんは泣かない人のままかもなって、思っていたから。
この前、俺が泣いた時はハンカチを貸してくれたし、俺もこれからはそーちゃん用のハンカチを持とうかな。
アイドルになって二度目の冬がきた。人に優しくしてやれる自分を知るたび、俺は親父みたいにならないで済むと思えるようになっていた。これからもみんなに優しくして、あったかくて、幸せな世界で生きていきたい。
――お父さんみたいに怒鳴らないでよ!
むかつくやつとの喧嘩じゃなくて、大事にすべき相手に対してこうなんだから、やっぱり、俺は親父に似ているんだ。
理に拒絶されたことにも、親父みたいだと言われたことにも、ショックを受けた。ショックを受ける自分に腹が立った。なにが〝俺は親父みたいにならないで済むと思えるようになっていた〟だよ。全然済んでねえよ。
トイレに行ったタイミングで鏡を見る。理に拒絶されたばかりの俺は、おふくろを自分の思いどおりにできなくて不機嫌な顔をした親父に似ている気がする。実際のところどんな表情だったかは覚えていないけれど、親父みたいだっていうなら、そうなんだろ。
理に拒絶されるんならアイドルになった意味がないってやけっぱちになった俺に、そーちゃんはキレた。今までは俺がへこんだら優しくしてくれていたのに、なんで怒るんだよって、ちょっと喧嘩になった。
でも、少し経った今ならわかるよ。俺がなにかに傷付けられた時、そーちゃんは怒ってくれるんだったよな。俺が俺を傷付けたから、そーちゃんはめちゃくちゃ怒ったんだ。
親父みたいになりたくないな。人に優しくするだけじゃなくて、俺自身のことも大事にできたら、大丈夫かな。
アイドルになって三度目の夏、鏡を見る。
少し前に、ガキんちょの頃の写真を手に入れた。親父もいるけれど、そーちゃんには、親父のところは見なくていいからって写真を見てもらった。優しかったおふくろと、まだ諦めきれない理の小さな頃を見てほしかったから。
そーちゃんは、ガキんちょの頃の俺に話しかけてくれた。二度と会いたくないと思っていた親父と引き合わされて暴れてしまったあの日みたいに、ううん、あの日よりもっと優しい声で「大丈夫」って言ってくれたんだ。
こんなに優しい人に「大丈夫」って言ってもらえる俺は、頑張ったら、親父みたいなやつにはならずに済むかもしれない。やっと、そう思えた。
鏡を見て、親父と似ているんじゃないかなんて疑うのは、もう、やめよう。
心の中で、写真の中のおふくろに話しかける。――俺、好きな人ができたんだ。俺と一緒に写真を見て、優しい声で話しかけてくれたこの人だよ。怒ったら怖いけれど、誰よりも優しくて、強い人なんだ。
告白するかどうかは未定。いつか言えたらいいなって思う。