最初にお付き合いをした時は事務所への報告はせず、二人だけの秘密にしていた。キスはするくせに決定的な言葉がないなどという曖昧な関係を続けた期間があって、完全にタイミングを逃したんだと思う。何気ない会話の折に「恋人なんだし、デートをするのもいいかもね」と――実はどきどきしながら――言ってからも、メンバーの前では必死で平然を装って過ごしていた。相方に戻ろうと告げられた時に思ったのは「事務所に報告してなくてよかった」と「報告してたら、環くんは別れようなんて思いすらしなかったかも」という、相反する気持ち。付き合っていたら、付き合っていない状態よりも傷付けてしまうから離れるべきだと思ったらしいけれど、そんなことないよ。だって、環くんが誰よりも優しい子だって、他でもない僕が知っているんだから。

 ◇

 ふわふわ、くらくら。お酒を飲んだ時の浮遊感が心地いい。これ以上飲んだら、わけがわからなくなってしまいそうだから、今夜はここまでかな。――環くんがいたら、もう少し飲めたかも。会計を頼みながら、そんなことを考えた。環くんがいたって、これ以上飲むのはよくないのに。
 相方に戻ってから、一度だけセックスをした。快感を思い出させれば、もう一度恋人になれるかもしれないなんて浅はかな期待で、困った顔をする環くんに跨って、手を出さずにはいられなくなるくらい煽りまくった。最終的には抱いてくれたけれど、たぶん、僕を甘やかすためじゃなくて、優しくしなきゃって思ったからだろう。あの夜は、そういう夜だった。今でも、あの夜を思い出しては、一人暮らしの部屋で自分の体を慰めている。何年も前のセックスの思い出にみっともなく縋りつく自分なんて、恋をしなければ、知ることもなかった。環くんとキスをするまで、誰かと恋をする可能性すら、ないと思って生きてきたから。
「んー……」
 お酒を飲むと感傷的になるからよくない。相方に戻って、皆で暮らしていたマンションから環くんが出て行って、もう何年経った? いつまで、昔の恋を引きずるつもりだ?
「いち、にー、さん……」
 環くんと別れてからの年数を指折り数える。恋人と呼べた期間より、相方に戻ってからの期間のほうが長い。そんなにも、僕はあの思い出に固執しているのかと、ちょっと引いた。みっともないなぁ。みっともなくて、誰かに話して笑い飛ばしたいくらいだ。笑い飛ばせたら、思い出にできる気がする。
 アルコールでいつもより少しあたたかい手でバッグの中をがさごそ。環くんはポケットに入れるタイプだけれど、あれじゃあ、座りにくいんじゃないかなぁ。
 僕のみっともないところはまだある。硬質ケースをつけてわかりづらくしているスマートフォンの本体は、なんと、環くんのイメージカラーの水色だ。これは本人にだって知られないようにしている。
「……あ、でた。ねぇねぇ、たあくん」
 恋人じゃなくなっても、僕たちは結構頻繁に連絡を取り合う。MEZZO”だから。そのおかげで、僕はたった三コールで好きな人とおしゃべりできるんだ。……そう、今も変わらず、好きで、好きでたまらない。叶うなら、もう一度相方以上の関係になりたい。
「めんどいとかいっちゃやだ! ……そーちゃんにこえきかせてよ」
 本当はね、気付いているんだ。きみがまた僕を好きになってくれていること。もしかしたら、好きじゃない時間なんて、一秒たりとも存在していないのかもしれない。……それは考え過ぎ? 願望?
 でも、好意は感じているよ。その証拠に、面倒くさいって言いながらも電話の向こうで車のキーを探しているっぽい物音が聞こえる。相方だからって言葉で片付けるには無理がある溜息つき。家に入れてくれないから勘だけれど、たぶん、探し物は枕の下。ベッドの傍に置いているのが、環くんの寝相でいつの間にか枕の下に入り込んでしまうんだ。付き合っていた頃、よく、家の鍵やスマートフォンがそうなっていた。
「おうちにどとけてくれるの? わ、おこっちゃやだ」
 だってそうしねえとどこ行くかわかんねえだろって言われた。家には入れてくれないくせに、そして、僕の家にもあれ以来入ってくれないくせに、僕がこうやって助けを求めたら、駆け付けて、僕を家まで送り届けてくれる。そのまま上がっていってよってしがみつくんだけれど、毎回、振り解かれる。今のところ全戦全敗。ベッドまで運んでくれないせいで、環くんに送ってもらったあとの僕はいつも玄関で眠ってしまう。お姫様抱っこもおんぶもするくせに、なんてひどい王子様なんだ。
「たまきくんはー、おうじさまってより、おおかみかな」
 大きな声で「は?」って言われて、耳がキンとした。思ったことを言っただけだよ。なにもおかしくない。実際、赤ずきんの狼役をやったことがあるじゃないか。狼なら、赤ずきんの僕を食べてよ。
 電話の向こうの環くんは車に乗ったらしい。ハンズフリーで通話状態のままにしてくれているけれど、僕が一人でしゃべるばかりで、返事は少ない。
「たあくん、ぼく、……あいたい」
 いつだったか、お酒を飲んだあとの僕は「さみしい」とか「行かないで」って言うんだって、指摘されたことがある。叔父さんを引き留められなかったことを引きずっているんだろうって。でも、今のこれは違うよ。ずっと環くんが好きで、前みたいに環くんに好かれたいんだ。
 好きな気持ちが、きらきらした前向きなものだけなら、どんなによかったことか。実際は、さみしくて、くっつきたくて、わがままを言いたくなってばかり。
「すき、すきだよ。ずっとすきで、くるしい」
 恋心で窒息しそうだから、キスで、呼吸を分けてほしい。もしかしたら、好きな人とキスをしたくなる本当の理由って、それなんじゃないか。温度を分け合うのは肌、緊張を伝えるのは指先。なら、キスは呼吸の共有だ。
「そーちゃん!」
 きっと、法定速度ぎりぎりで駆けつけてくれたんだろう。環くんの家からここまで、普通ならもう少しかかるはずだし。
「たぁ、く……や、……」
 いきなり手が伸びてきて、とっさに身構える。
「もー、外で泣くなって。ほら、行くぞ」
 コートの袖で適当に涙を拭われて、初めて、自分が泣いていることに気付いた。
「……ごめんなさい」
 周りの人に気付かれないよう、足早に環くんの車へと向かう。今日の僕はだめだ。お酒に酔って、感傷的になって、環くんに迷惑をかけた。しかも、みっともなく泣いた。こんなの、たとえ本当に好意を抱いてもらえていても、もう一度恋人になってもらえるわけがない。
 駅近くの駐車場についてすぐ、環くんは周囲を確認して僕を助手席に押し込んだ。涙を拭ってくれてからここまで、ずっと無言だ。怒っているんだろうな。
「あの、ほんとうにごめ、っ……」
「……そーちゃんのばか」
「ばかって」
 確かにばかだよ。でも、別れて何年も経つ相手にキスをするのもばかじゃないか。僕に恋をされている自覚があるくせに、そんなことをするなんて。
「ばかだよ。まじでちょーばか。でも、俺もばかだから、ばか同士お似合い。……いっぱい傷付けてごめんなさい」
 車が動き出す。向かう先が僕の家じゃないとわかるまで、少し、時間がかかった。


    《ひとこと感想》

     



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