キス

 よくあるなんてことない雑談の最中、なんの前触れもなく、相方というカテゴリに収めるにはちょっとおかしな雰囲気が漂ったのは、僕もすぐに気付いた。それでも、まさかキスをされるなんて、予想できるわけないじゃないか。おかげで、なんの話をしていたか忘れてしまった。
「いやだった?」
 今にも泣き出しそうな顔。それがあまりにもかわいかったのと、まったくいやじゃなかったのとで、自然と「いやじゃなかったよ」という言葉が口から出た。声になって初めて、あぁ、僕は環くんとキスをしても平気なんだと気付いたんだ。順番が逆だと思う。
「そうだよな。なんっつーか、口と口がぶつかったみたいな感じだったし」
 あからさまにほっとした様子に、少しだけ、いじわるを言いたくなった。ぶつかっただけなんて、へたなうそ。今のはどう考えても、事故なんかじゃない。実戦経験のない僕でもわかるよ。
「そうだね。環くんはよかったの?」
「なにが?」
「その……僕の思い込みでなければ、初めてだったんじゃないかって」
 環くんの顔が見る見るうちに赤く染まっていく。人間って、アルコールを摂取していなくても、ここまで顔を赤くできるものなんだ。
「はじめて、だけど! でもさ、事故みたいなもんだし。……仕事で知らない人とするのが初めてになるよりいいよ」
 まるで〝まし〟とでも言わんばかりの表現に、また、いじわるを言いたい気分にさせられる。全部、全部全部、環くんが悪いんだ。
「それって、僕だから妥協できるってこと? なんだか軽く扱われてる気がする」
「そういうんじゃなくて。……ごめん、ちょっと見栄張った。本当は、心臓めっちゃばくばくしてる。そーちゃんのこと、雑に扱ったことねえよ」
 初心なところがあるのは知っているけれど、それを差し引いても、僕とのキスでこんなにも動揺しているなんて。彼にとって、僕はそれほどまでに重要な存在ということだ。わかりやすい言葉で表すなら〝優越感〟だろうか。
 もっと、動揺させたい。動揺して、それを隠そうと必死におしゃべりする口をふさいでやりたい。――そうか、僕は環くんともう一度キスをしたいんだ。
「動揺してるところ悪いんだけど、僕も初めてだったんだよ」
「ごめ、……っ」
「……これで、おあいこだね」
 前触れもなくキスをされたから、僕も予告なしでキスを返した。それも、環くんより少し秒数が長めのものを。
 気の置けない友人という言葉では表現しきれないくらい、僕たちの距離は近い。
 出会って三年、誰よりも一緒にいる時間が長いと言っても過言ではない相方。でも、家族ではない。甘いときめきを感じたことはないけれど、格好いいなとは思っている。かわいがりたいとも。
「ね、環くん」
 不意打ちとそれに対する仕返しみたいなものじゃなくて、ちゃんとしたキスをしてみたい。
 目を閉じて待っていると、環くんが壊れものを扱うような手つきで肩に触れてきた。僕は決して、やわじゃないのに。
「そーちゃん、いいの?」
「いいよ。……いいよっていうか、されたい」
 肩に触れる手に力が入った。もう二回もキスをしたのに、まだ、緊張しているんだろうか。ここまできたら、三回も四回も同じだと思う。……同じだと思いたいから、キスをしたい。きみとのこの行為が特別なものなんかじゃない、二人の間であたりまえにあるものだとわかったなら、どんなに幸せだろう。
 恋をしたいと思ったことはないけれど、あたりまえのように幸せと思える時間が、ずっとほしかった。
 三回目のキスで、環くんの唇が乾燥しているのに気付いた。心身のケアも仕事のうちだし、歌っている最中に唇が切れたら痛いに決まっている。リップケアを怠らないよう言わなければ。僕だって、痛そうな唇とはキスしたくない。
「……明日は、僕からしてもいい?」
 甘ったるいリップを使われると僕の唇にまで香りが移ってしまうから、あとで無香料のものを買ってこようかな。

 ◇

「あ、コンビニ寄りたい。いい?」
 僕の返事を待たず、環くんは信号の少し手前にあるコンビニエンスストアを目指して車線を変更した。
「いいけど……プリンは買い置きがたくさんあるだろう? 食材も昨日ネットスーパーで買ったばかりだし」
 その他の日用品も、なくなりかけのものはなかったはずだ。お互いに不規則な仕事だからこそ、いざ必要となった時にあれがないこれがないと慌てなくて済むように気を付けているわけだし。
「リップ買う」
 そういえば、さっき楽屋でリップを塗っていた時に「気分転換に他の使ってみたい」なんて言っていたっけ。
「甘いのはやめてね」
「なんで? 俺が使うのに」
「それは、だって、……」
「だって?」
 何十回、何百回とキスをしてきたのに、今更、キスをした時に甘い香りが移ることを懸念しているなんて言えなくて、なんとか別の答えで切り抜けられないかと、必死で頭を回転させる。
 車を停めた環くんは、車内にもかかわらず僕の耳許に唇を寄せた。
「甘いにおい、いーっぱい、うつしてやろっか?」


    《ひとこと感想》

     



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