未来

 ここが限界かと、何度も思った。母の他界、施設に何度も来る最悪な父親、妹との別れと音信不通――そんなに悪いことなんてしていないつもりだったのに、びっくりするくらいいやなことばかり起きるものだから、これ以上なにかを頑張ったって無駄なんじゃないか、自分がむなしくなるだけだと、いろいろなことに投げやりになった時期がある。
 施設では頼ってくれる小さな子どもたちの相手をしたし、そんなに行かなかった学校にもちゃんと通うようになった。それでも手のかかる子どもだった自覚はあるけれど、妹と再会できるなら、他のことはどうだってよかったんだ。
 ……うそ。王様プリンはできれば毎日食べたくて、それから……本音を言えば、さみしい気持ちになった回数を上回るくらいの幸せがほしかった。世界一の幸せ者かもしれないなんて浮かれてみたり、楽しくて笑いまくった涙しか知らないよって言ってみたり、そういう人生に憧れた。他のことはどうだってよかったなんて思ったこと、本当は一度だってなかったよ。たったひとつの願いが大き過ぎて、それ以外を望んじゃだめだと意地を張っていただけ。
 それに、――こんなこと、よっぽど信頼できる人にしか言えないけれど――生きていくために最低限必要なことは施設でなんとかなったし、仕事を始めてからも大抵のことはなんとなくでこなせてきたから、無意識のうちに、ここを限界にしておいたほうがいいと思う癖みたいなものができていた気がする。だって、これ以上を望んで、見えない壁にぶち当たったら怖いだろ。
 昔はわがままを言うことで周りの目を引いてなんとかなってほしいと願っていたけれど、大人に近付くにつれ、それってすごく格好悪いことだと気付いた。
 小さな頃に母親から言われた「アイドルみたい」が現実のものになって、いやな思いも、楽しいできごとも次々に味わって、格好いい人と、格好悪い人の違いを見つけた。いくら大人に混ざって仕事をしていても自分はまだまだ子どもで、このままじゃ格好悪い大人になってしまう。ここが限界かなんて決めるのはまだ早い。

 ◇

 今日は朝から荷物を運んでばかりで、まだ昼過ぎだというのにもうへとへとだ。十七歳の頃なら夕方くらいまで余裕だったかもしれないけれど、二十代後半ともなると、ありあまるほどの元気はない。これでも仕事の合間にジム通いしたり、隙間時間に筋トレしたりと、気を遣っているつもりなのにな。
 髪を結おうとして、先週、短く切ったばかりだったことを思い出す。ドラマの役に合わせてとはいえ、ずっと襟足が長めの髪型をキープしていた身としては、切ってから一週間程度じゃまだまだ慣れない。
 無駄に宙を描いた右腕のやり場に困って、照れを隠すついでに伸びをする。背骨が軋んだ。そのまま左腕も上げて適当にぶんぶん動かせば、ちょっと恥ずかしいうっかりも飛んでいってくれるはず。
「どうしたの、いきなり」
「んー……運動」
 この人、人の気持ちには鈍感なくせに、こういうところはすぐに気付くんだ。まぁ、十年前と比べたらずっとましだけれど。鈍感なままだったらどうなっていたことか。考えただけで、片想いをしていた頃の自分がかわいそうになる。
「最近、ジムに行けてないもんね。ごめんね、久しぶりのオフなのに」
「謝んなって。そーちゃんも最近忙しかったじゃん。今日は特別な日だからいいんですー」
 恋をしていると自覚した時、頑張っていいかすごく悩んだ。相方として結構仲良くやれていたから、ここを限界にしておいたほうが傷付かなくて済むんじゃないかって、何度も自問した。幸せになるため以外頑張らなくていい。失敗は怖い。傷付いて恥ずかしい思いなんてしたくない。たくさん迷って、悩んで――
「少し休憩しようか。お腹も空いたし」
「そーちゃん、結構休憩多くね?」
 ――どうするか決めて、その結果を知ってから七年。目の前には、ぴかぴかの窓と、あちこちに積み重ねられた段ボール箱がある。朝からたくさん動いて汗だくなのにいやな気持ちにならないのは、大好きな人が隣にいるから。
「そうかな」
「そうだよ。さっきも王様プリン食べる? って俺のこと休ませるふりしてぐでーってしてたじゃん。昨日も遅くまで仕事してたし、やっぱ無理してんだろ」
 今日しか都合がつかなかったのは本当だから敢えて言わないでおいたけれど、仕事でしか顔を見れていない間に、また、痩せた気がする。クマもあるし。
 血色の悪い下瞼を撫でようとしたら、へろへろなのがうそみたいな勢いのよさで抱き着かれた。
「俺、ちょー汗かいてっけど」
「平気だよ。……汗かいた環くんの体、とっくに知ってるし」
 汗だけじゃなくて埃まみれだし、今、そういうこと言われるなんて思っていなかったから、普通にどきどきした。
「……これからは近くで見てて」
「見るけどさぁ。つーか、見せてくんなかったのそーちゃんじゃん」
「環くんが先に一人暮らししたくせに。見に来なかったの間違いじゃない?」
 初めての恋だからか、なにもかもうまくいかなかった。七年前に恋人になったこの人とは、甘いだけの時間を過ごせてきたわけじゃない。大好きなのに大切にできなくて、大好きだから恋心が消えたふりをした時期もあった。
「ごめんって」
「ごめんで済んだら警察はいらないって何回も言ってる」
 勝手に恋心を抑え込んだことを、この人は今も根に持っている。普通なら「何回も謝ったじゃん」とか「ぐちぐちいつまでも言われたくない」って言い返すところだけれど、一度離れたことそのものじゃなくて、好きなものを好きって言っていいんだって言った人間がそれを我慢したことに腹を立てたのをわかっているから、言い返しはしない。というか、言い返せない。
「謝罪なんていらない。ここで僕を見てて」
「うん」
 相方になってから十年、気付いているかは知らないし、わざわざ言うつもりもないけれど「きみを見てるよ」って言ってもらえる前から、見てたよ。少し離れていた間のことは、本当に、ごめんなさい。
「……休憩終わり」
「は? もう?」
 汗だくで埃まみれとはいえ、もうちょっと、こう、あるだろ。せめて、この切なさとかこれからの甘い日々への期待を噛み締めながらとか!
「あの辺りの箱は明日以降、ゆっくりでいいから、寝室だけでも終わらせよう」
 前言撤回。超特急で片付ける。だって、寝室だけでもって言ったこの人の顔が、期待しているのがわかったから。
「……俺、世界一の幸せ者かも」
「じゃあ、僕は宇宙一」
「……めっちゃ張り合うじゃん」
「張り合うよ。負けず嫌いだからね」
 宇宙一の上ってなんだろう。無限大とか? 初めての恋が、果てしない規模の恋になるなんて思ってもみなかった。
 いろいろなことに対して「ここが限界」なんて諦めていた頃の自分に教えてやりたい。未来の自分は、大好きな人と、限界なんて知ったことかと言わんばかりの恋をしている。


    《ひとこと感想》

     



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