傍若無人

 普段夕食をとるくらいの時間には寮に帰ってこられた。今日は帰りが遅くなる予定だったから、誰も、なんの準備もできていない。落ち込むメンバーに「気にしないで」と首を振り、いつもどおりの夕食を終えたのが、三時間ほど前のこと。
 なんの準備もできていないなんて言われたけれど、実際には零時になってすぐ、部屋に皆が突撃してきて祝ってくれたし、プレゼントももらっている。見返りを求めない祝いの言葉がもらえるだけでも、じゅうぶん、ありがたい。
 それに、壮五の誕生日会の本番は明日の夕方からだ。なんでも、環とナギと陸が壮五の好きなものをつくってくれるらしい。メニューは当日まで内緒と言われているけれど、食の好みはわかりやすいと自覚していることもあって、だいたいの予想はついている。
〝逢坂家の人間〟ではなく〝壮五〟を祝ってくれる人たちがたくさんいる。誕生日会を開いてもらう立場なのに父の知り合いの情報を頭に叩き込んでいた頃の自分が知ったら、驚くに違いない。あの頃の自分に会えるなら「すごく哀しい思いもするけれど、自分が生きる世界は哀しいだけじゃない」と教えてあげたいくらいだ。……未来を教えるなんて反則か? こと細かく説明するつもりはなく、心が折れそうな時の道標としてなら、詳しく教えるわけじゃないからセーフか? ――タイムマシンなんてないのに、そんなことを考えてしまった。
(楽しみだな……)
 基本的に、人間は欲深い生きものだ。ある程度の幸せが日常の一部になると、もっといい思いをしたいと望むようになる。そのせいだろうか。最近の自分は、以前に比べて随分とわがままになってしまったようだ。

 入浴を済ませ、メンバーの大半が各々の部屋に戻った頃を見計らって、壮五は自室のドアをこっそりと開いた。
 リノベーションされているとはいえ、ドアそのものは、ここが小鳥遊プロダクション社員寮だった頃のままだ。勢いよく開けようものなら、蝶番が「老体なんだからもっと優しくしろ」と怒ってしまう。部屋に閉じこもった環になんとか話をしようとスクリュードライバーを使った時は、二十歳そこそこの若造がなにをするんだと叱られた。あとから冷静になってみれば、あれは蝶番なりの断末魔の叫びだったのだとわかる。事実、彼の部屋のドアは修繕されたから、隣室の蝶番は、一歳にも満たない赤ん坊になってしまったわけだし。
 今夜もドアを丁寧に開いたから、蝶番のお咎めはなしだ。咎めるものがないと、壮五の心はどんどん大胆になっていく。しかし、数秒で赤ん坊の蝶番に守られた隣室のドア前に辿り着いてから、ノックするかどうかには一瞬だけ迷った。今から自分がやろうとしていることへの引け目? そんなものはない。単に、ノックをするかしないかで少しだけ変わる彼の反応を想像した時に、より刺激的なほうを選びたくなってのことだ。誕生日は一年に一日しかない特別な日だから、特別なことがしたい。サプライズは手っ取り早いスパイスとなり、特別感をよりドラマティックに演出してくれる。
 ドアに耳をぴったりとくっつけ、中の様子を窺う。彼にとって、今日という日は相方の誕生日というだけではないはずだから、たぶん、起きてくれている。いつもなら眠っているであろうこの時間でも、ドアがノックされるなり、ラビットチャットが送られてくるなり、壮五からのアクションを待っているはずだ。
 自分から来てくれてもいいのにと頬を膨らませそうになったが、すぐに、そういうところで控えめなのも彼の魅力だったなと思い直す。世間では抱かれたい男と称されているから、今日みたいな夜は相手を寝かせないと思われていそうだけれど、実際は、違う。大事にしたい相手ほど、彼は遠慮してしまう。僕のことが好きだから迫ってこないなんて、かわいいな。――ドアにはりついたまま漏らした吐息が熱くて、早くも自分が欲情していることを思い知る。
 一歳にも満たない赤ん坊同然の蝶番が夜泣きをしないよう、自室のドア以上に気を遣った。ドアの隙間から部屋の中を窺うと、常夜灯の中でもベッドの膨らみが微かに動いたのが見えて、ほら、やっぱり起きているんじゃないかと、口角が上がってしまう。素早く体を滑り込ませながら、今から突撃する相手に、過去、体が薄っぺらいからと蝶にたとえられたことを思い出した。体が薄くても、抱かれる側でも、攻撃力はあるんだよ。
 侵入者がいるとわかっていながら、なおも起き上がらない環に構わず、壮五はベッドに歩み寄る。
「ね、起きてるんだろ?」
 ベッドに手をついて体重をかけると、環よりも先にベッドが声を上げた。結構堂々と入ってきたし、驚かしたつもりはないのに。
「……なに」
「なにって。それ、誕生日を迎えた僕に対する言葉?」
 こんな言葉、幼い頃の自分が知ったら卒倒するかもしれない。なんて不遜な態度なんだと、顔を顰める昔の自分が容易に想像できる。
「だって、先に自分の部屋に戻ったの、そっちじゃん」
 だから今夜は一人で寝ると思った。――薄暗い部屋に溶けた環の声が、少し、さみしそうに聞こえた。ううん、さみしそうだけじゃない。拗ねているのもある。
「本当はそのつもりだったんだけど、環くんのお言葉に甘えるなら今日のうちかなって思って」
 ぱちぱちと目を瞬かせる環の耳に、内緒話をするふりをして唇を押し当てた。
「僕の言うこと、なんでも聞いてくれるって話。まだ二十八日だから間に合うよね」


    《ひとこと感想》

     



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