うさぎ

 翌日の授業に備えた予習を済ませ、一織は小さな溜息をつく。予定より早く終わったから、もう少し先まで進めてもいいけれど……今日のところはこんなものか。あまり進め過ぎるのもよくないだろう。
 時刻を確認すると、まだ二十一時前であった。早めに入浴して、IDOLiSH7の今後について、じっくりと思いを巡らせるのもいいかもしれない。一織はそう決め、椅子から立ち上がった。ちょうどそのタイミングで、部屋のドアをノックされる。
「一織ー」
 声をかけられなくても、ノックの音だけで彼だとわかる。毎日この寮で過ごしているうちに、各個人のノックの癖なんかも、わかるようになってしまった。ちょうど暇を持て余して、入浴しようかと部屋を出るところだった。大抵の用件なら応じられるだろう。
「どうしました?」
 一織は返答しながら、陸を迎え入れようとドアを開く。
「じゃーん!」
「かっ……、……なんですか、その格好」
 陸の頭の上にあるのは、白いうさぎの耳。
「なにって、この前のイースター衣装の時のやつ! 一織も着けただろ?」
 ファッションビルとのコラボレーションイベントで、イースターの季節だからと、パステルカラーの衣装にうさぎのつけ耳、手首周りがふわふわとした真っ白な手袋を纏って撮影したばかりだ。
「それはわかりますけど」
 撮影した際、陸は両手をうさぎのつけ耳のところまで上げて、うさぎの真似事をしていた。衣装もさることながら、陸のその動作もかわいらしくて、一織は目のやり場に困ったことを覚えている。
「大和さんが、これ着けて一織のところ行ったら一織が喜ぶって言ってたから」
「は?」
 二階堂さんありがとうございます! ……じゃなかった。また余計なことを……いや、やはりここは感謝すべきか? 一織は返答に窮してしまう。
「……あ、引いちゃった?」
「んんっ……いえ、収入に支障のない範囲で買い取りをすることに異議を唱えるつもりはありません。七瀬さんは当時のポーズも、全身でうさぎを表現していてクライアント側からの評判も大変よかったですし、好評だった仕事の思い出としていただいておくのも」
 あぁ、自分でもなにを言っているかわからなくなってきた。かわいいという四文字が頭の中をぐるぐるしていて、それ以外の言葉はうまく出てこない。自分のキャラクターを崩さない程度の単語を並べ立ててみたけれど、多分、言っていることは支離滅裂だろう。
 一織自身もなにを言っているかわからないくらいだから、聞いている陸はもっとわからない。しかも、こういう時の一織はぺらぺらと早口だ。
「えっと、だめだった?」
「……っ、だめじゃ、ない、です」
 とても、とてもいいに決まっている。どんなうさぎよりもかわいらしい。ありとあらゆる賞賛の言葉を投げかけたい。自分がもっと素直にものを言えたらそうしていた。残念なことに、かわいいと口許をゆるませられるほどの素直さを持ち合わせていない。あぁ、とにかくかわいい。――そんな言葉さえも、一織は飲み込んでしまう。
「えっと、入っていい?」
 さすがにうさぎの耳を着けて廊下に立ったままなのは恥ずかしいのか、陸はまなじりを赤く染めながら、一織に尋ねた。
「……えぇ、どうぞ」
 一織としても、こんなにかわいらしい状態の陸を拒む理由はない。入浴は後回しだ。せっかく、恋人が部屋を訪ねてきてくれたのだから。

 部屋のドアが閉まるなり、陸は一織にぎゅうっとしがみついた。一織は軽く、たたらを踏んでしまう。
「え、ちょ、っと、……」
 二人して床に倒れ込むことは回避できたものの……一体、どうしたのだろうか。
「この前、一織、きなこのこと、抱っこしたがってたのに我慢してただろ? だからその代わり! ……になるかわかんないけど。……きなこみたいにふわふわじゃないし」
 あっ、でもお風呂入ったばかりだから髪はふわふわかも! と続ける陸に、一織は目眩がした。
(勘弁してくださいよ……)
 いい香りがするし、ものすごくかわいいことをされているし、……今日は誕生日でもなんでもないのに、こんなにいいことがあるなんて。
「………………」
 なおも「撫でて撫でて!」と無邪気に迫ってくる陸。誘惑に抗えなくて、その髪に手を伸ばした。風呂上がり、ドライヤーで丁寧に乾かしたばかりでふわふわだ。毛先が揺れるたび、シャンプーの香りが鼻腔をくすぐる。
(これは……まずいですね……)
 十七歳の、健康な男子高校生。加えて、最近は多忙だったため、そちら方面がご無沙汰である。落ち着け、落ち着け……と必死で自分に言い聞かせた。
「ん、一織、もっと」
「……っ!」
 撫でられて心地いいのだろう。陸がうっとりとした声でねだる。一織にとって、これ以上はないというくらいの大打撃。落ち着くどころか、煽られる一方。まるでベッドの中でねだられている時のようだ。
 このままではまずい……と思った一織は、ほんの少しだけ、腰を引く。密着さえしなければ大丈夫。
 しかし、一織のその行動を「離れられてしまう」と受け取ったのか、陸は更にしがみついてきた。
「………………あ」
 陸のその声に、一織は「まずい」と身体を引き剥がす。あぁ、気付かれてしまった。
「……すみません、その…………」
 言い訳も、言い逃れもできない。いい香りをさせている恋人から甘えた声で「撫でて」なんて言われて、こうならないはずがない。不可抗力、生理現象、自然の摂理……そんな言葉が、一織の脳内を駆け巡る。
「い、一織って……変態さんなの……?」
「はぁっ?」
 顔を赤らめ、瞳を潤ませて。うさぎの耳はつくりものだから勝手には動かないのに、なんだか、陸の感情に合わせて下がっているように見えてしまう。
「だって、オレの頭撫でるだけで、こんな……」
 陸はそう言って、一織に近付き、内腿に手を滑らせた。スラックスの前立てが押し上げられていて、もう窮屈そうになっている。
「これは……」
 陸の手首を掴み、それ以上触れられないように腰を引いた。しかし、陸は足を踏み出して、なおも、一織との距離を詰めてくる。
「別に、いいよ。今のオレはうさぎさんだし、……ね?」
 はぁっ……と熱い吐息が、一織の耳許にかけられて。まるで、発情しているうさぎのようだ。


    《ひとこと感想》

     



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