バレンタイン

 抜き足、差し足、忍び足。
 一織にドジと言われる陸も、今ばかりは慎重だ。だって、重大な任務の真っ最中だから。
 これが、皆のいる場でなら「七瀬隊員、これより、一織の部屋に突撃します!」なんてふざけてみせるのだけれど、この任務は誰にも内緒なので、心の中で呟くに留めた。
 ドアノブに手をかけ、深呼吸。しんと静まり返る廊下に、自分の鼓動が漏れ聞こえているのではないかと錯覚してしまう。
「お邪魔しまーす……」
 現在時刻は四時五十分。太陽が昇るまで、まだ一時間半以上もある。一織は朝が弱いから、もう少し遅くてもよかったのだけれど、念には念を入れて……なんて考えていたら、驚くほど早起きしてしまった。
 かちゃりという音はどうしても消せなかった。ドアが開くとともに、部屋の中からあたたかい空気が陸の頬を撫でる。物音に敏感な一織が起きませんように……と祈りを込めて、足を一歩前へ踏み出した。

 任務の対象者となっている一織は、陸の祈りが通じたのか、ドアの開閉音に気付く様子もなく、今もまだ眠っているようだ。ロフトベッドなので顔はまだ見えないけれど、夜明け前の侵入者を黙って出迎えてくれるほど生易しい男ではない。よって、一織はまだ眠っている。――陸はそう判断した。
 登り慣れたはしごに足を乗せ、テンポよく上がっていく。たった数歩だけれど、陸にとっては任務が成功するかどうかの正念場だ。どきどきとわくわくで、梯子を握る右手に力が入る。……左手は、わけあって使えない。
(わ、寝てる……)
 一織のほうこそ白雪姫なんじゃないだろうか。透き通るような白い肌。艶のある髪は鴨頭草という言葉が似合いそうだ。吸い寄せられるように顔を近付ける。
 眠っているお姫さまの元へやってきた自分は、もちろん王子さま。お姫さまは王子さまのキスで目覚め――
(……って、目的は別なんだった)
 自分がやろうとしたことが急に恥ずかしくなって、口許を手で覆う。あぁ、これじゃあ、いつもの一織みたいだ。恋人同士は似るというけれど、それなら、一織が陸のような所作をしてしまうことがあるのだろうか。ここ最近の一織を思い出してみても、それらしき答えは浮かばない。なんだか自分ばかりが相手を好きみたいで、ちょっと悔しい。
 左手に持っていた包み紙を、一織の枕元にそっと置く。
(気付いたら、クリスマスじゃないんですからとか言うんだろうな)
 今日はバレンタインデー、枕元にプレゼントを置くイベントはとうに過ぎた。だが、陸が早起きをして一織の部屋に忍び込んだのにはわけがある。今日は平日、仕事が入っていなければ一織は学校だ。学校に行けば、一織も環も、たくさんのプレゼントを渡されることだろう。その誰よりも先に渡したい、……自分が一番最初でありたかったのだ。

 ……ともあれ、任務は成功したわけだ。速やかに撤退し、なにごともなかったかのように、朝食までもうひと眠りすればいい。
(けど、オレもう目が冴えちゃったからな)
 一織が目を覚ます様子はないし、もう数分、ここに留まって対象者を観察するのもいいかもしれない。
(……うん、こうして見てると、やっぱりお姫さまみたい)
 陸の中に、いたずら心が湧く。普段は鋭いくせに、眠っているのが悪いんだ。
 頬をそっとつつき、それでも起きないことを確かめてから。陸は、癖の少ない髪を指で梳く。シャンプーの香りがふわりと漂ってきて、抱き付きたい衝動に駆られた。この体勢では難しいから我慢。その代わり、目一杯、息を吸い込んで、香りを嗅ぐ。起きている時にすると恥ずかしがって逃げようとするから、今のうちにたくさんいただいておこう。
 すぅ……とたくさん吸い込んで、身体の中すべてが一織の香りで満たされたような気分になる。
(キス、したいな……)
 もう一度顔を近付けて、声に出さずに、口の動きだけで「好きだよ」と呟く。年下のくせにかわいげのないオレのお姫さま。あんまり心地よさそうに眠っているから、罰として口付けの刑に処してやる。
 一織の顔を擽らないよう、自分の髪を耳にかけて。触れる程度に留めてあげたのは、眠っている相手に勝手に口付けることへの罪悪感があったから。

 任務達成どころか、唇を奪うという、予想以上の戦果を挙げてしまった。完全勝利を決めたところで、今度こそ撤退しなければ。――そう考えて、ゆっくり顔を離しながら瞼を開く。
「…………」
 透き通るような白い肌の、その頬。暗い部屋でも、赤みが差していることがわかる。
 閉じられていたはずの一織の瞼は薄っすらと開いていて。寝起きの悪いお姫さまは、眉間に皺を寄せている。あぁ、格好よくない一織だ。
 「えっと……おはよう?」
 背筋を汗が伝う。誰だ、完全勝利を決めたなんて言ったのは。あぁ、オレ自身だ。撤退するべきポイントを見誤っていた。七瀬隊員、敗北である。
「……お早いお目覚めですね」
 寝起き独特の掠れた声に、心臓が跳ねる。寝起きは格好よくないけれど、それを除けば、全体的には格好いい王子さまなんだった。寝起きの気難しい顔だって、見ようによっては、変な色気があって困る。
「あ、じゃあ、失礼しまー……ひゃっ」
 後頭部に一織の手が回り、強く引き寄せられた。思わず目を瞑るが、身構えていたような衝撃はなく、代わりに、耳を甘噛みされる。痕なんて残らない程度に、軽いもの。そのまま、耳穴にぬるりと舌を差し込まれて、ぞくぞくと全身が粟立つ。
「……人の寝込みを襲う悪い人への、お仕置きです」
「っ、これは、理由があって」

 任務達成だの完全勝利だのと言っていた陸の作戦は、あっという間にその全容を一織に知られることとなった。
 だが、陸の「誰よりも早く一織にあげたかったから」という言葉に一織は咳き込んだため、陸は気付いていないものの、最終判定としては『戦術的勝利』なのである。


    《ひとこと感想》

     



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