なにがほしい?

 一月二十五日。陸にとって、今までは、なんてことない日だったけれど、これからは違う。だって、一織の誕生日だ。

 陸は、一織になにかほしいものはないかとたびたび尋ねていた。それこそ、周囲が苦笑いするほど熱心に。
「なぁ、本当になにもないの?」
「何度も言いましたが、本当に、お気持ちだけで結構です」
 誕生日の一ヶ月前――クリスマスの日――から、何度繰り返されたやり取りだろうか。
「なにかあるだろ、な? 誕生日くらいなんでも言っていいんだから」
「なんでもって……」
 一織は、自分が私欲の少ないタイプだと自覚している。そりゃあ、IDOLiSH7をもっと売り出して、七瀬陸をスーパースターにしたいという目標はある。でも、それは、誕生日にリクエストするようなものではない。
 今でも対外的にはクールでシャープな文房具が好きだということになっているから、真新しいそれをリクエストして、SNSに「誕生日に七瀬さんからいただきました」と投稿するのもありかもしれない。デビュー前から「一織と陸の二人の組み合わせが好き」と言ってくれているファンがいるし、ユニットソングの経歴を踏まえてか、今も、雑誌のピンナップなどでは一織と陸の組み合わせを求められることが多いのだ。そんな二人のプライベートな部分である「誕生日のお祝いをする様子」であれば、かなりのファンサービスとなることだろう。
 しかし、陸が言いたいのはそういうことではないことくらい、さすがにわかっている。そうなると、いよいよなにをリクエストすればいいのか、答えが見つからないのだ。プレゼントをリクエストしてほしいと言われている側なのに、どうしてこうも思い悩まなければならないのだろう。だから、一織は「気持ちだけでいい」と答えてきた。
「こんな時くらい、年上に甘えろよな」
 一ヶ月、質問の仕方を変えても答えが得られないまま誕生日当日を迎えてしまったことで、陸はやや不機嫌だ。本当は、前日までにプレゼントを用意しておきたかった。今日これから用意するにしても、ものによっては、今日中に用意できないかもしれない。……大好きな一織の誕生日だから、ちゃんと当日中にお祝いしたいのに。そう言って頬を膨らませる姿に、こういうところは年上とは思えないなと一織は心の中で呟いた。
「だって、本当に思い付かないんですから仕方ないでしょう。それを何度も何度も……他にすることはないんですか?」
 言ってから、やや棘のある口調になってしまったと気付いたが、もう遅い。言葉は出てしまった後で、もう取り消しができないのだ。
 案の定、陸は一織の発言にわなわなと肩を震わせていた。
「そんな言い方ないだろ! 一織のばか! 後でなにかほしいって言っても、プレゼントしてやらないからな!」
 陸は共有スペースを飛び出し、ばたばたと階段を駆け上がっていく。あぁ、埃が立ったらどうするんですか。一織は追いかけようと立ち上がって、やめた。掃除は当番制で毎日きちんとおこなっている。それに、以前、同じように階段を駆け上がった陸を咎めたところ「大袈裟」と一蹴されたことを思い出した。これくらいなら、恐らく、問題はないのだろう。しばらく冷却期間が必要だ。

 ◇

 陸も頑固だけれど、一織も頑固で。似た者同士、衝突することも少なくない。喧嘩するほど仲がいいなんて言葉もあるが、……まぁ、そこは否定できないなと思う。
 だから、陸の気持ちも、わからないでもないのだ。二人が出会って、初めて迎える一織の誕生日。陸の誕生日の頃、二人の関係は、まだ、IDOLiSH7のメンバーでしかなかったのだから。けれど、今は違う。
「かわいい人だな……」
 恋人の誕生日。その響きの、なんと甘美なことか。これまでだって、メンバーの誕生日は全員でお祝いしてきた。しかし、陸が「プレゼントのリクエストはないのか」と個人的に何度も聞いてきたのは、相手が一織だからだろう。どう頑張ってもほしいものは思い浮かばないが、なにがほしい? と聞いてくる姿は、とてもかわいらしかった。毎日「なにがほしい?」なんてかわいく尋ねられて、正直なところ、一織としては色々と限界だったのだ。素直になれない性格もあって、遠回しにしつこいと言ってしまったけれど。
「おーおー、イチとリクはまーた喧嘩か?」
「っ……二階堂さん……」
 ダイニングからマグカップを持ってこちらに向かってきた大和に、一織は大袈裟に肩を跳ねさせた。思わず漏らした独り言を、聞かれてやしないだろうか。大和の表情を観察するものの、そこからは窺い知ることができない。
 大和は「よっ」と小さく声を上げてソファーに深く腰掛けた。いつだったか、それを見た三月が「おっさんくせぇよ」なんてツッコミを入れていたのを思い出す。
「いいねぇ、若いって」
「……二階堂さんも若い部類に入ると思いますけど」
 二十二歳で年寄りめいたことを言っていては、Re:valeの二人から茶化されそうだ。もっとも、大和はその育った環境から、大人への対応方法を――実父に対してのみ二十二歳でようやく、だが――身に付けているので、多少睨まれたところでびくともしないのだが。
 大和はマグカップに口を付け、一口飲んでから、一織のほうへと向き直った。
「おまえさん、なーに意地張ってんだよ。せっかくリクがなにがほしいって聞いてきてんだぞ? なにもないってことはないだろ?」
 その視線には、一織の心の底を見透かすような強さが含まれていて。一織は思わず、視線を逸らしてしまった。
「別に、……本当に、なにもありませんので」
「誕生日にかこつけて我儘言えるのも、今のうちだけだぞー」
 どこか冷やかすようなその声音は、一織自身が見ないようにしていたものを揺さ振ってくる。
「我儘って」
「健気じゃないの、大事なやつのためにって必死になれるなんてさ」
 マグカップの残りを一気に飲み干し、大和は流し台のほうへと向かった。その様子を視線だけで追ってから、一織はどかりとソファーに沈み込む。自分らしくない、乱雑な座り方だ。
 陸が健気なことくらい、一織だって知っている。大和に食ってかかるつもりはないが、自分が一番、陸のことを理解できているつもりだ。
「まったく……」

 陸と想いが通じ合ってから。忙しい合間を縫って、二人はゆっくりと恋人としての時間を重ねている。だが、二人きりになった時にそっと手を重ねたり、爆発しそうなほど鼓動を高鳴らせながら相手を抱き締め合ったりするまでに留まっていて、その先には進んでいない。わかりやすく言えば、キスや、それ以上のことはまだしていないのだ。
 一度だけ、唇が触れ合いそうになったことがある。抱き締め合って、ぬくもりを堪能し、ゆっくりと身体を離した時。ふと、視線が絡んで。陸の真っ赤な瞳に、吸い込まれそうだと感じていたら、自然と、顔の距離が近くなっていた。恐らく、陸も空気を察したのだろう。瞼がゆっくりと閉じられ、真っ赤な瞳が見えなくなったことで、一織は我に返り、陸からそっと離れた。
(あぁ、そういえば……)
 その時の陸は「あ」と声を発したのみで、直前まで漂っていた甘い空気が途絶えたことに、なにも言及しなかった。それ以来、手を重ねたり、抱き締め合ったりすることはあっても、初めてのキスを交わそうという雰囲気にならない。
「……」
 見ないふりをしていた、自分の心の奥底。
 本当は、なにもほしいものがない……わけではないのだ。クールぶってはいるものの、かわいらしいものが好きな通り、一織は自分がどこか夢見がちなところがあると自覚している。もちろん、そんなことは恥ずかしいので表には出さないが。
 陸から「誕生日にほしいものは?」と聞かれて、まるで恋愛小説のように、とびっきり甘い声で「あなたのキスがほしい」と答えることができたなら。あの日の少し気まずい空気も許されたかもしれない。
 しかし、そんな甘い台詞を現実で言うなんて、一織にはハードルが高過ぎた。素直ではない性格も相俟って、ほしいものなんてなにもない……と押し通してしまったのだ。
 それを一ヶ月も続けた結果が、これだ。陸はすっかりへそを曲げてしまったし、自分は大和に諭されてしまった。このままでは、誕生日が過ぎた後もぎくしゃくとしてしまうだろう。
 互いに踏み出さなければ、事態は好転しない。

 ◇

 一方、共有スペースからばたばたと自分の部屋へ駆け込んだ陸はというと。
「一織のばか!」
 ぼすん、とクッションに拳を埋める。ぐにゃりと形を歪めたそれは、陸の今の心の中のようだ。なんだかむなしくなってきた。

 一織がかわいいものが好きなことくらい、とうに知っている。ふわふわ、きらきら。そういうものを目にすると頬を赤く染めて、口許がゆるむのだ。いつもつんけんして生意気な一織のかわいいところ。ギャップ萌え、と言っていいのかはわからないけれど、そういうところを見ると、陸は胸がきゅうっとなってしまう。
 他にはどんなものが好き? どうしたら笑ってくれる? もっと。もっと見せて。一織の色んな表情が見たい。――それはいつしか、ゆっくり、ゆっくり、恋心へと変化していった。
 陸が一織を目で追うようになって、わかったこと。自分を見る一織の視線に、これまで読んだたくさんの本の中に出てきたものと同じ色を感じる時がある。慈愛、親愛、それらは他のメンバーやマネージャーにも等しく向けられている。陸にだけ、向けられているもの。鈍感だと一織に指摘されたことは少なくないけれど、多分、これは間違っていない。そう思った陸は、いつもの他愛もない言葉の応酬の果てに、一織にかまをかけた。
『もしかして一織って、オレのこと好きだったりして』
 結果は、陸の勝利。一織はみるみるうちに、これまでに見たこともないくらい、耳まで真っ赤になった。言葉では「なにを恥ずかしいことを言ってるんですか」なんて言っていたけれど、赤く染まった表情は、なによりも雄弁に、陸への恋慕の情を物語っている。
 なんだ、オレたち、両想いなんじゃん。陸は嬉しくなって、一織に抱き付いた。そうして、二人の『お付き合い』は、始まったのである。
「はぁ……喧嘩するつもりなかったのに……」
 歪んだクッションを整えながら、陸は溜息をついた。
 一織が一番喜んでくれるものを贈りたい。そして、日頃あまり見せてくれいない笑顔を見せてほしい。他の誰でもない、自分が、一織を一番喜ばせたいのだ。
 売り言葉に買い言葉で部屋に戻ってきてしまったけれど、今日は大事な、一織の誕生日。喧嘩なんてしている場合じゃない。
(一織、まだ怒ってるかな……)
 ひとまずラビチャを送って、部屋に行っていいか聞いてみよう。顔を合わせたら、かっとなってしまったことを謝っ……。
「……オレだけ謝るの、おかしくない?」
 一織も、なにもあんな言い方しなくたって……じゃなかった。だめだ、これじゃあ、また言い合いになってしまう。陸はスマートフォンの画面を睨んだまま、どうすべきか考え込んでしまう。
 ふと、一織と出会ってすぐの頃、彼に言われた言葉を思い出した。
『人に聞く前に、スマホで検索してください。恋愛相談から税金関係まで、ある程度の問題はそれで解決します』
 陸はラビチャの画面から、ブラウザの画面へと切り替えた。
「別に、一織が言うから調べるんじゃないからな」
 自分一人しかいない自室で、誰に向かって言っているのだろう。思ったよりも大きな声で独り言を言ってしまったことに気付いて、陸は少し恥ずかしくなった。
 しかし、部屋で独り言を言うよりも、これからすることのほうが、もっと恥ずかしいんじゃないだろうか……と思い至る。
 ブラウザの検索バーに『恋人 誕生日』と打ち込んだ。表示された検索結果を見て、溜息をつく。なぜなら、出てくるのはほとんどが男女間のものだからだ。女性へのプレゼント候補はこの場合、まったくもって参考にならない。では男性へのプレゼントは? といくつか目を通したが、女性が選ぶものとして書かれた記事ばかりだった。スマートフォンで検索しても解決しなさそうなのは、ある程度の問題じゃなかったということか。まぁ、マイノリティだということはわかっていたけれど。

 無駄に時間だけが過ぎていく。
(あぁ、もう。今からじゃ、お店もゆっくり見に行けないよ)
 クッションに身体をあずけ、むぅ……と頬を膨らませた。カーテンの隙間から見える空の色は、陽が落ちて、夜の色に染まりつつある。冬だから日没時間が早いということを差し引いても、いまから変装をして街中へ出向き、店でゆっくりとプレゼントを選ぶほどの時間はなさそうだ。誕生日のお祝いってこんなに難しいものだったっけ? ただ、一織に喜んでほしいだけなのに。――陸がそう考えていると、ラビチャがメッセージの受信を知らせてきた。思わず、がばりと身を起こす。
「なに? ……一織だ!」
 トーク履歴の一覧で、一織とのものに、新着通知が点灯している。すぐに読みたい、けれど……まだ怒っているかもしれない。このラビチャだって、お説教の続きかも。そう思うと、いつものようにすぐに開くことができなかった。いつもなら、通知が点灯するなりすぐに開いて、一織から『あなた、ラビチャに張り付いてるんですか。暇なんですか』なんて言われることもあるくらいなのに。
「え、えっと、どうしよう……」
 自室に駆け込んだことは一織も知っている。外に出るには共有スペースを通らないといけないから、一織が外出していない限り、陸がここにいることは知られているのだ。じゃあ、寝たふりでもする? ――だめだ、もうすぐ晩ご飯の時間だから、手伝いをしなければ。
(そうだ、ラビチャに気付かなかったことにしよう)
 スマートフォンを裏返しにして、テーブルの上に置いた。裏返しにしたのは、なんとなく。見ないふりをすることへの罪悪感から目を逸らしたい……多分、そういう気分からくるもの。
 階下から、陸を呼ぶ三月の声がする。今日は一織の誕生日だから、三月はいつも以上に張り切っていることだろう。恐らくメニューも多いだろうから、なおのこと、早く手伝いに行かなければ。
「はーい!」
 階下に向けて大きな声で返事をして。陸はキッチンへ向かおうと、部屋の明かりを消してドアを開いた。
「……わっ」
 ドアを開いた途端、目の前に現れた人影に、思わず声を上げてしまった。
「返事がないので、直接来ました」
「一織……」
 あぁ、一織は、まだ怒っているんだろうか。どこか不貞腐れたような表情に、陸の心が翳る。ばかは言い過ぎたかも。自分だけ謝るなんておかしいと憤慨していたけれど、誰だって、誕生日当日に「ばか」なんて言われたら面白くないだろう。誕生日じゃなくても、言われていい気はしないのだから。
「さきほどは、すみませんでした」
「へっ?」
 先に自分から謝ろう。陸はそう決意して口を開いたのだが、先に、一織から謝罪されてしまった。
「……ですから! ……いえ、いけませんね。私はどうも、こういう時に限って、言葉を選び間違えてしまうようです。これではいけないと、わかってはいるのですが。つまり、その……」
 一織の言わんとしていることがなんなのか。彼にしては、珍しくなにかを言い淀んでいて、陸はじれったさを感じてしまう。頭がよくて、同年代の中では恐らくたくさんの言葉を知っているのに、一織は時々、とんでもなく口下手だ。そういうところも、かわいいと思ってしまう。惚れた弱み……かもしれない。
 なにが言いたいのか急かしたいところだけれど、ここで、年上ならではの余裕を見せるというのはどうだろうか。自分だって男だから、恋人からは格好いいと思われたい。まずは自分も謝罪して、一織の言葉を待とう。
「オレのほうこそ、ごめん。ばかなんて言って」
 手を伸ばして、一織の髪に触れる。艶やかで、自分より癖の少ない髪。前に読んだ小説に出てきた、鴨頭草という表現がちょうどいい。
 いつもなら、陸がこうして髪を撫でると、恥ずかしがって「子ども扱いしないでください」と頭を遠ざけようとするのだが、今の一織は、陸に大人しく撫でられている。
「私こそ……せっかく、あなたが私のためにと考えてくださっていたのに」
 陸の手に一織の手が触れ、指先で、手の甲を撫でられる。
「あ、……」
 髪を撫でるのをやめて、一織の手を握った。触れ合った手は互いに離しがたくて、そのまま、じゃれ合うように指を絡める。――次第に、触れ合うのが指先だけでは物足りなくなってきて。
「七瀬さん」
 一織が半歩踏み出して、距離を詰める。
「……なに」
 これまでだって、抱き締め合うことはしてきたから、この距離には慣れつつある。けれど、今のこれは、……多分、違う。まるで、内緒話をするかのような距離。近い。
 一織が口を開きかけたその時。
「おーい、陸ー?」
「っ、忘れてた! 手伝わなきゃ!」
 階下からの呼び声に、陸は慌てて身体を離した。一織も、ここが部屋の中ではなく共有の通路であることを思い出す。
「……行きましょうか」
「うん。あの、……さっき、なに言いかけたの?」
 階下へ向かうよう一織に促されたものの、言いかけてやめた言葉が気になってしまう。陸は階段を降りながら、後ろを歩く一織のほうを振り返った。
「なんでもありませんよ。ほら、ちゃんと足許を見て歩いてください」
「なんでもなくないだろ。一織はすぐにそうやって…………ってこれじゃだめだ。また喧嘩になっちゃうよ。オレ、一織と喧嘩したくない」
 階段の手すりを掴む手に、ぎゅっと力がこもる。誕生日くらい仲良く、いや、誕生日じゃなくても、いつだって仲良くしたい。IDOLiSH7のメンバーとしても、恋人としても。
 陸にじっと見つめられ、一織は少し困った様子で黙りこくっていたものの、やがて「降参です」と溜息をついた。
「ですが、今は夕食前です。兄さんを手伝いましょう。後でもう一度、部屋を訪ねてもいいですか?」
 陸は「わかった」と頷いて、二人でキッチンへと向かった。

 ◇

 一織の誕生日会を兼ねていたため、その日の夕食は三月が腕によりをかけて作ったメニューだった。食後には三月お手製のホールケーキ。一織は渋ったものの、全員やることなんだからと窘められ、年齢の数だけ立てたろうそくの炎を吹き消す。
 学校での一織は賑やかなタイプではないし、環以外の生徒と積極的に会話をすることも少ない。なにか用事があったり、環が友人たちと話している最中に話を振られて受け答えをする、その程度だ。高校だけではなく、小学校、中学校とそうしてきたから、賑やかな場面というのは、寮での生活に慣れた今でも、時々、気恥ずかしさを感じてしまう。
 ましてや、今日は一織の誕生日。いつものように、皆が思い思い好き勝手に話すのではなく、集中的に一織へと話しかけてくる。
 ちらりと陸のほうを見ると、彼は、ぱぁっと表情を輝かせた。これが犬や猫なら、ぴんと耳が立ったことだろう。陸の頭に犬や猫の耳が生えたところを想像してしまい、うっ、かわいい……と声に出してしまいそうになって、慌てて口許を手で押さえた。

 陸がずっとこちらを見ていたのは、夕食の前に「後でもう一度、部屋で」と約束しているからだ。もちろん、約束を違えるつもりはない。
「すみません。私の誕生日を祝っていただいておいて、こう言うのもなんですが……そろそろ夜も遅いですし、お開きにしませんか」
 壁掛け時計を示しながら、皆に声をかける。環は「えー」と声を漏らしたが、それをかき消すようにナギが叫んだ。
「Oh! まじかる★ここなの時間が迫ってます! リアルタイム視聴は信者のタスク。ミツキ、行きますよ」
 ソファーから勢いよく立ち上がって、ナギは三月の腕を掴んだ。鑑賞するのは三月の部屋なので、彼がいなければ部屋に入ることができない。
「あぁ? ……あぁ、もう。わかったわかった、片付けたら行くから」
「それでは間に合いません!」
 残り十分、テーブルの上にあるたくさんの食器を片付けてからでは間に合わない、とナギが嘆く。
「いいですよ、三月さん。僕が片付けておきますから。ナギくんと見てあげてください」
 壮五の申し出に、三月が返事をするより早く、ナギが礼を言って三月を抱え上げた。喚く三月を無視して、そのままシアタールーム――三月の部屋――へと、階段を駆け上がっていく。
「ヤマトも早く来てください! アバンの前から精神統一ですよ!」
「まったく、しよーがねぇなぁ。おい、タマ。ソウを手伝ってやれ」
 やれやれ、と大和が立ち上がる。環が「えー」と不貞腐れているが、それには耳を貸すつもりはないらしい。環は、口では面倒くさいと言いながらも、きちんと手伝いをするだろうとわかっているからだ。
 大和は、階段のほうへと向かいながら、途中で一織にそっと耳打ちをした。
「貸しひとつ、な」
「なっ……」
 一織の返事を待たず、大和はそのまま、軽やかな足取りで階段を昇っていった。
 つまりは、お膳立てされたということだ。
 残された二人、一織と陸はしばらく見つめ合ってから。
「えっと、じゃあ……行こっか」

 ◇

 陸の部屋に入ってすぐ。机の上に裏返しに置いていた、自分のスマートフォンが視界に入る。
「そういえば一織、返事がないからって来てくれたんだったよな。ごめん」
 なにを送ってくれていたんだろうか。確認しようとスマートフォンを手に取る。
「待ってください」
 ロック画面をスワイプしたところで、一織に手首を掴まれてしまった。
 見ると、一織は真っ赤な顔をしている。
「なんだよ、見たっていいだろ。オレに送ってきたラビチャなんだから」
「そうではなくて、……私の目の前で見るのはやめてもらえませんか」
 そんな表情をされていては、余計、気になってしまう。一体なにを送ってきたというのだろう。とても恥ずかしいことなのだろうか。
「気になる! どうせ見るんだし、別に今すぐ見たっていいだろ?」
 こうなると陸も意地で、掴まれた手首を振り解こうと躍起になる。一織も一織で、なんとしても目の前で読まれないようにと、陸の手からスマートフォンを取り上げようと、手を伸ばした。
「いじわるな人だな……やめてくださいというのがわかりませんか」
「わかんない! いじわるなのは一織のほうじゃんか!」
 攻防が続き、勝ったのは陸のほう。見事、一織を振り解くことに成功した陸は、彼に背を向け、スマートフォンを守るようにして、ラビチャの画面を開いた。
「あぁ……」
 背後で一織の慌てる声がするが、それは聞こえないふり。なんなら、声に出して、読み上げてやろうかな……と考える。理由も告げず抵抗を繰り返されたことへの腹いせだ。
「えっと、なになに……七瀬さんへ、さきほどはすみませんでした。……まぁ、いいよ。オレも、ばかとか言っちゃったし! せっかく七瀬さんが私のためにと考えて、……長いから省略。本当、素直じゃないよな、一織って。続きは……、私は人からなにかをもらいたいという欲があまりありませんが……。確かに、一織ってほしいものは自分で買っちゃうもんなぁ。しかも、高いものほしがるタイプじゃないから、なにかほしいって思っても自分で買えちゃうし。年下なんだから、もうちょっと甘えてよ。っていうか前置き長いよ、一織」
 陸はラビチャの内容を読み上げながら、合間合間に自分の返事を挟む。小さな画面に何行にも続く文章は、スクロールしなければ読み切ることができない。まるで、国語の作文みたいだ。でも、一織らしいと思う。文章を読むことは苦ではないし、一織の書く文章はとても読みやすい。機械的な文字なのに、一織の優しさが伝わってくる。
「……七瀬さん?」
 ラビチャの内容を読み上げる声が止まった。喧嘩したままなのは嫌だという気持ちで送ったのだが、必死になるあまり、内容を精査せずに送信してしまった。どこか、わかりづらい文脈などあったかもしれない。一織は、今もなお自分に背を向ける陸の肩に手をかけ、こちらを振り向かせた。
「………………」
「……なんて顔してるんですか」
 こちらを向いた陸は、今にも泣きそうで。あぁ、やっぱり、どこかおかしな文章になっていたんだ、と後悔してしまう。
「一織のせいだろ……」
 一目見た瞬間から惹き付けられた、意志の強い真っ赤な瞳に、涙の膜が張っている。
「えっ、ちょっと、泣」
 泣かないでくださいよ。そう言おうとしたのに、どん……と身体に衝撃が走り、その先は言えなかった。陸に、勢いよく抱き付かれたのだ。
「うぅ……一織……」
 ぐず、と鼻をすするのが聞こえる。あぁ、泣き出してしまった……と考えながら、一織は陸の頭をゆっくりと撫でた。もう片方の手は、ぽんぽんとあやすように背中を軽く叩く。
「七瀬さん。……恥ずかしいので、このままで聞いていただけますか?」
 自分の首許で、陸が頷く動きをしたことを確認し、一織は瞼を閉じた。ゆっくりと息を吐き出し、覚悟を決める。
「残念ながら私は素直ではありません。あなたを困らせたり、怒らせてしまったりすることもあります。そのたびに、次からは注意しなければと思うのですが、どうしても恥ずかしさが勝ってしまって、なかなか素直になれません。そのせいで、今日も喧嘩になってしまいました」
「うん。オレこそ、ごめん」
 陸の、一織を抱き締める腕に力が入る。
「誕生日だから、というわけではありませんが、一つ抱負を掲げようと思います。……もう少し、七瀬さんとの時間を充実したものにしてみせます。口を開けば喧嘩、なんてことにならないよう、……そうですね、努力します。もちろん、対外的には、IDOLiSH7の一員として更なる飛躍をと述べなければなりませんから、これは、私と七瀬さんだけの秘密にしてくださいね」
「オレも。一織に呆れられないように頑張るよ」
 今度は身体を離して、一織の顔を真っ直ぐに見据える。
「七瀬さんはそのまま……いえ、無理をしたり無茶をしたりするところは気を付けていただければと思います。私はIDOLiSH7の和泉一織であるだけでなく、七瀬さんの……その、恋人……なんですから。あまり心配させないでください」
 しゅうしゅうと湯気が出るのでは? と思うくらい、一織の顔は真っ赤だけれど、陸は嬉しくなってしまった。一織が珍しく素直に、たくさん話してくれたから。
 泣いていたのなんて、もうどこかへ吹き飛んでしまった。本当に本当に嬉しくて、幸せで、目の前のこの人のことが大好きという気持ちでいっぱいだ。
「へへ、好きだよ、一織」
 もう一度、ぎゅうっと抱き付く。好きの気持ちで胸がいっぱいで苦しくて、一人じゃ抱えきれそうにない。相手にも、この気持ちを一緒に抱えてほしい。だから、恋人たちは抱き締め合うのだろう。

 どれくらい、そうしていただろうか。一織がおずおずと口を開いた。
「あの、さきほどのことは忘れていただけませんか」
 一織が指しているのは、夕食の前に一織が送ったラビチャの内容。陸が音読しようとして、途中で止まってしまった部分だ。あまりにも恥ずかしくて、あのまま読み上げるなんてできなかった。
「なんで! 忘れるわけない。むしろ嬉しかったんだ。本当なら、ラビチャじゃなくて、直接聞きたかったけど。……ねぇ、一織。あの通りにしようよ。一織がオレと」
「~~っ! わ、かり、ました……わかりましたから、七瀬さんはもう黙って」
 手で口を塞がれてしまった。素直になるんじゃなかったのか? と言いたいけれど、それも叶わない。
「んんー、んんん、む……」
「……と、すみません。大丈夫ですか?」
 眉間に皺を寄せて身を捩った陸を見て、一織は慌てて手を離した。
「平気だよ。でも、びっくりした。……罰として、ラビチャにあったこと、ちゃんと言って」
 人からなにかをもらいたいという欲があまりありませんが、の続き! と詰め寄られてしまう。言葉を濁すことは許さないという意思を感じる。今だけではない。陸はいつだって、誰に対しても、偽りや誤魔化しのない、まっすぐな言葉を求めている。陸自身、自分や人に対して、とてもまっすぐな人間だ。そういうところに、皆、惹き付けられる。いつだったか、陸が天のことを「みんな、天にぃのことを好きにならずにはいられない」と評していたことがあった。だが、一織は思うのだ。陸こそ、周囲の皆が好きにならずにはいられない存在だ、と。
 こほん、と咳払いを一つ。一織は陸に向き直った。緊張しているのが伝わってきて、陸まで緊張してしまう。
「七瀬さん。その、……私は、ものをもらいたいという気持ちがあまりないのですが、ほしいものがなにもないというわけではありません。二階堂さんが、誕生日にかこつけて我儘を言えるのは今のうちだけだと仰るので……個人的に、行事に便乗するのはどうかと思うのですが、こうでもしないと、私は踏み出せそうにありませんし……七瀬さんが嫌でなければ、ですが」
「あぁもう、前置き長いってば! オレは嬉しかったって言った!」
 ふん! と鼻息荒く、陸が言う。
「……すみません。あまりにも、恥ずかしいので……」
「ラビチャでは言えたのに?」
 そう指摘され、一織は「う」と口籠る。顔を見て言うのは、一織にはハードルが高いのだ。
「…………七瀬さん。七瀬さんから、いただきたいものがあります。その、私も今日で一つ歳を重ねたことですし、ここは恋人らしく、……」
「うん。恋人らしく?」
 あと一息。一織は、はぁー……と大きく息を吐いた。あまりにもすんなりと言えなさ過ぎて、陸は心配になる。
 しかし、大きく深呼吸をして目を開いた一織の表情を見た瞬間、その心配はどこかへいってしまった。
(一織、格好いい……)
「七瀬さん。……キスを、しても構いませんか?」
 優しい表情。厳しい表情。それから、恥ずかしがったり照れたりする様子。一織は存外、表情が豊かなほうだと思う。ただ、……今のこれは、そのどれでもない。夜の色をした瞳の中に、欲を孕ませている。こんなの、……こんなの、ずるい。また惚れ直してしまった。
 ずっと見ていると、その視線の熱にやられてしまいそうだから。陸は返事の代わりに、瞼を閉じた。
「ん……」
 触れるだけのキスだったけれど、やわらかくてあたたかい感触に、泣きそうなくらい、感動を覚える。

 以前、一織と唇が触れ合いそうになったことがあった。見つめ合っているうちに、距離が縮まって。その時の陸は、きっとこのままキスをするんだろうなと思い、瞼を閉じた。しかし、待てど暮らせど唇に触れられる感触はなく。一織がそっと身体を離したことに気付いて、陸は少なからずショックを受けていた。
 しかし、その場で「どうして」と尋ねることもできず、お互い、その日のことは話題にしないまま、今日まできてしまったのだ。

 ゆっくりと唇が離れていく。どのタイミングで目を開けたらいいのか。初めてだからわからなくて、恐る恐る瞼を開いた。
「……一織、まさかずっと目開けてた?」
「まさか。ちゃんと閉じてましたよ。あなたが目を開けるのが遅いだけです」
 相変わらずの憎まれ口に、思わず食ってかかりそうになったけれど、一織の目許がほんのり赤く染まっていることに気付いて、やめた。照れている。かわいい。
「しょうがないじゃん。初めてだったんだから、よくわかんないし」
「私だって初めてですよ」
 口許を手で覆い、視線を彷徨わせる一織。キスをしてもいいかと聞いてきた時は、まるで別人みたいでどきどきしたけれど、やっぱりいつもの一織だ。……たまには、さきほどのような一織も、また見せてほしい。もっともっと、一織の色んな表情が見たい。
「へへ、初めて同士だ」
「そうですよ」
 つまり、キスをしようという時のこの表情も、これまで誰にも見せたことがない。また一つ、大好きな人の特別な表情を知ってしまった。すごく、嬉しい。
「最後同士にもなりたいなぁ」
「なんですか、最後同士……え、……?」
 そんな言葉はない……と言おうとして、言葉の意図するところに思い至る。
「一織はなりたくない?」
 なりたいよね? という願いを込めて、一織を見つめる。
「っ、……それは」
 あぁ、また一織のこの表情だ。これは、嬉しいっていう表情。これからも喧嘩することがあるかもしれないけれど、大丈夫だ。何回でも仲直りをして、また今日みたいにキスをして。二回目以降は、もっと上手にキスできるといいな。


    《ひとこと感想》

     



    error: