一月二十五日

 キッチンからボウルと調理器具がぶつかる軽やかな音と鼻歌が聴こえる。声の主は、IDOLiSH7のセンターであり、一織が愛してやまない恋人のもの。朝早くからなにをやっているのだろう。一織は、寝起きでまだ目が開ききっていない表情のまま、考え込んだ。
(早く顔を洗って、身支度を整えなければ……)
 何度か目を瞬かせると、のろのろとロフトベッドから降りた。
 今朝はこの冬一番の寒さとの予報が当たってしまったらしく、スリッパを履いていても足先が冷たい。顔を洗うぬるま湯も、寝起きの冷え切った身体には熱い湯に感じられるほどだ。湯で濡れた指先の血が活発に巡る、このむずむずとした感覚は嫌いじゃない。顔を洗って、化粧水で肌の手入れ。まだ十代といっても、自分の職業を考えれば、手抜きは許されない。洗顔によって意識がはっきりしてきた一織は、化粧水で冷えた手で頬を軽く叩いた。これで、今日こそは「格好よくない一織だ」なんて言わせない。そう決意し、鏡を強く睨み付ける。目がしっかりと冴えていても、彼はなにかと一織の写真を撮りたがるものだから、一織の毎朝の日課に、陸のスマートフォンから逃げるというものが加わってしまっている。
 昨晩、一織にしては珍しく日をまたいでの就寝となった。理由はいくつかある。
 まずひとつは、一織の誕生日を祝うラビットチャットのメッセージが殺到したこと。深夜に礼の返信を送ることに抵抗を感じ、目を通すだけに留めておいた。昼にでも、順に返信をしていこうと思っている。
 ふたつめは、一織がソロで歌う楽曲が、インターネット配信限定でリリースされたことだ。楽曲の前評判は上々。しかし、IDOLiSH7がソロで楽曲を発表するのは初めての試みだったため、配信が始まる一時間ほど前からSNSでエゴサーチを繰り返していたくらいには、一織は不安を抱いていた。零時とともに自分を祝う投稿や、五分後には楽曲を購入したファンの感想が投稿され、その内容から、一織の不安は杞憂に終わったのだけれど。
 みっつめは、恋人である陸の存在。彼が「オレが最初におめでとうって言いたい!」と言って、一織の部屋を訪れた。
 零時を迎えた瞬間から、ラビットチャットの受信音が鳴り続け、SNSの検索結果は読み込みが追い付かないほど投稿があふれかえり、恋人からの「おめでとう」という言葉と熱烈なくちづけが顔中に降ってきた。陸は一体、どこでそんな知識を得たのか「プレゼントはオレ!」と言いながら一織に抱き着いてきて……甘い誘惑には抗えず、夜更かしをしてしまったというわけだ。
(それにしても……先に目を覚ましたなら声をかけてくださればいいのに)
 一織が目を覚ました時、陸は既に部屋から姿を消していた。恋人のぬくもりは、丸い文字で書かれた「先に起きてるから!」というメモにすり替わってしまっていたのだ。
(なにも問題が起きていなければいいんですけど)
 たとえば、皿やコップを割って怪我をしていないか。誘われたとはいえ、彼に夜更かしをさせてしまった。寝不足でキッチンに立つなんて、大丈夫だろうか。一織はやや急ぎ足で、洗面所からキッチンへと向かう。
「七瀬さん、おはようございます」
「あ、一織! おはよー」
 キッチンに入ると、甘い香りが鼻腔をくすぐった。
「……ホットケーキ、ですか?」
 陸の手許、フライパンの中にあるきつね色が、甘い香りの正体。
「うん、……へへ、きれいだろ? 今日のために練習したんだ。みんなにはあとで焼くから、一織は先に食べちゃって」
 焼き上がったホットケーキが、メープルシロップとバターで飾り付けられる。シンプルだけれど、一織はこれが一番好きだ。ほう……と溜息をついてしまったのは、ホットケーキにかかったメープルシロップが、ダイニングテーブルの上の明かりに照らされてきらきらと輝いていたから。
「いただきます」
「おいしい?」
 陸にそう尋ねられ、一織は咀嚼しながら頷いた。
「よかった! ねぇ、今日ってさ、ホットケーキの日なんだって」
 遠い昔、日本の観測史上、最低気温を記録したのが一月二十五日だったのだとか。ホットケーキを食べてあたたまろうということで、記念日として制定されたらしい。
「……意外ですね、七瀬さんがそういうことに詳しいなんて」
「あっ、ばかにしたなー? オレだって、……そりゃあ、一織には敵わないけど。一織の誕生日だからこそ! ってこと、なにかやりたかったんだ。変……かな」
 ホットケーキなんてすぐに焼けてしまうし、珍しい料理でもない。急に自信がなくなってしまって、陸は眉を八の字に下げた。
「まさか。……私はこういう時の言葉選びがあまり得意ではないので、うまく言えませんが、その……とても、嬉しく思ってますよ」
 そう言ってから、照れくささが急激に押し寄せてきたから、誤魔化すように食事を再開する。ふわふわとやわらかくて甘いホットケーキ。まるで、目の前でこちらを見つめている恋人のようだ。


    《ひとこと感想》

     



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