はじめて

「……っ、すみません」
 一織は慌てて、陸の身体を引き剥がした。
「え、ちょっと」
 せっかく、抱き締め合って触れる肌が気持ちよかったのに。
「どこか痛みはありませんか?」
 真剣な表情で覗き込まれる。顔が近いことに悪い気はしないけれど。でも、ほしい言葉は〝それ〟ではない。
「……別に、どこもなんともないよ」
 自分でも「しまった」と思うくらい、不機嫌さが声に出てしまった。鏡を見なくてもわかるくらい、表情だって不貞腐れたものになってしまっている。そりゃそうだ、不貞腐れているんだから。同じ言葉を言うにしても、もう少し明るく言うことができれば、一織も安心してくれるだろうに。これでは、いつものような言い合いになってしまう。
あぁ、なんだか視線を合わせづらい。
「……七瀬さん」
 ほら。名前を呼ぶ声がとてもかたい。きっと「あなたを心配して言ってるのにその態度はないでしょう」なんて言われるんだ。でも、元はと言えば一織が大袈裟なのが悪い。ちょっと息を大きく吐いただけなのに。それだって、一織の体温が心地いいからなのに。うん、オレは悪くない。――陸は心の中でそう結論付けた。
「なに? ……え、本当、なに?」
 逸らしていた視線を合わせた陸は、不機嫌な表情どころではなくなってしまった。なんだよ、なんでそんなに真っ赤なんだよ。しかも、ちょっと泣きそうだし。
 傍から見れば、なんて格好なんだろうと思う。二人とも素っ裸で、本当なら甘い雰囲気が漂っているはずなのに。実際、ほんの数分前までは、甘い空気だったのだ。
 しかし、今はどうだろう。一織はなにかを言い淀んでいるし、陸は不機嫌だったり困惑したりと忙しい。甘さのかけらもないではないか。
 せっかくの、初めてなのに。陸の心に影が差す。

 しばらくして、観念したように一織が口を開いた。
「すみません。……その、こういうことは、初めて、なので……」
 なんだ、そのことか、と思う。ここまできて、今更、それを言うのか。
「……うん、知ってる。っていうか、初めてじゃなかったら、それはそれでオレとしては複雑なんだけど」
 以前、恋とはなにか、と問われて「春のうさぎみたいな……」と答えたことのある一織だ。恋愛経験が豊富だなんて、まったく思っていない。むしろ、初めてであることが嬉しい。一織だけじゃない、自分だって同じ「初めて」だから。初めて同士でちょうどいいとさえ思っている。
「ですから……、あぁ、もう。鈍い人だな」
「なんだよそれ、人のせいにして! 言わなきゃわかんないだろ? 一織の」
 ばか! と言いそうになって、やめた。喧嘩をしたいわけではない。ただ、互いに「わからない」だけ。初めてだからわからない。だから、こうして顔を突き合わせて、二人で探ろうとし始めたところなのだ。
「えぇ、ばかです。あなたが思った通り、ばかなんです」
 一織はすぐに「察してください」や「鈍い人だな」と言って陸を悩ませるけれど、本当に必要な時には、きちんと言葉をくれる。多分、今はその時だ。
「うーん……ばかだなって、ちょっと思った。けど、言って」
 初めてなので……の続きは? 怖い? わからない? ……それとも、もっと別のこと? でも、多分そのどれもが、陸も同じように思っていること。
「七瀬さんの、体調が気掛かりです。さきほども、焦ってしまいました。今は私も冷静ですが、その……こう、盛り上がってしまうと……わかりませんので……」
 陸が緊張を吐き出そうと大きく息を吐いたのを、一織は呼吸の乱れから発作が起きてしまうのでは、と焦ってしまった。
「じゃあ、やめる? オレは平気だって思ってるし、一織なら大丈夫って信じてるんだけど。信じてるから、こうしてるんだしさ」
 一織の手を取り、両手で握り締める。二人とも、緊張で指先が少し冷たい。俯いて息を吐く。冷えた指先を温めるためのその行為は、一織からは、祈りを捧げているようにも見えた。
「……わかりました。ですが、これだけは、約束してください。途中で、やはり体調に影響しそうだと感じたら、すぐに言うこと。もちろん、私も気を付けますが……その、私も男、ですので…………」
 その先はどんどん声が小さくなってしまって、陸には聞き取れなかった。でも、言いたいことはわかる。
「うん、オレも男なんだけど」
「わかってます!」
「はは、なんかおかしくなってきちゃった」
 陸の部屋、ベッドの中で二人とも素っ裸。本当なら甘い雰囲気だけが漂うはずのその場所に、照れを滲ませた声と、笑い声が混じる。ムードはどこにいったんだろう。
(これでも、ムードづくりに苦労したんだけどな)
 しきりに自分の体調を気使う一織に、自分の体調はきちんとわかっているし、もうキスまでの関係ではものたりないのだと訴えて、それでも翌日の仕事が休みだとか、一織の学校が休みだとか、スケジュールをしっかり確認し合った。その間、男同士での行為は男女のそれとは勝手が違うからと、どきどきと胸を高鳴らせながら、インターネットで調べて出てきた文章と睨めっこして、恥ずかしいところを相手に晒すのだと知り、頭を抱えた日もあった。
 そうして、やっと迎えたこの日。二人きりで初めて、朝まで過ごす夜。
 自分に覆い被さっている一織を見上げ、陸は吐息を漏らす。
(格好いいなぁ……)
 一織が格好いいことくらい、とうに知っていたのに。
「……なんですか、じろじろと」
 上から降ってきたのは、恥ずかしさを隠し切れない一織の声。
(まぁ、お互い初めてだし、仕方ないよね)
 これから二人で慣れていけばいい。照れ屋で恥ずかしがりの一織がこれ以上真っ赤にならないうちに、ここは年上のオレが頑張らなきゃ。そう決めた陸は腕を伸ばして、一織の頭を抱き寄せる。
「んーん? どきどきしてるだけ。この角度で一織の顔見るの、初めてだったから」
 頬に手を滑らせて、両手で一織の顔を包み込む。唇を軽く突き出すと、一織は察したようで、陸の髪を指で梳きながら唇を寄せた。
 キスなら、もう何度もしているから、キスをねだる仕草までならわかる。でも、ここから先は、本当に、二人とも知らない世界。
 どう触れたら、気持ちいいのか。どう触れたら、怖くなくなるのか。
「大丈夫だよ、おまえとなら」
 唇が離れると同時、陸がそう呟いた。


    《ひとこと感想》

     



    error: