好きなもの

 いつだって好きなものがたくさんあった。でも、それを声に出して言うことが憚られる環境にいた。嫌いなものを大声で言うなということなら、まだ、わかる。だって、それを好きな人が耳にしたら、きっとかなしいだろうから。もちろん、自分の好きなものは誰かの「嫌い」かもしれないから、逆のことも言えるのだけれど。
「好き」という言葉は「嫌い」という言葉と違って、呟くだけで心の奥底がじんわりとあたたかくなる。だから「好き」という感情は決して悪いことではないはず。悪いことではないのに、堂々と言えないなんて。もちろん、心の中で「好き」と呟くだけで、じゅうぶん、心はあたたかくなる。でも、声に出すことができたなら、もっと、違うなにかが起こるかもしれない。

 家を飛び出して、アイドルとしてデビューして。それでも、初めの頃は心労を重ねてしまうことが多かった。
 それまで自分を抑え続けていたこともあって、自分の「好き」という感情をどう表現すればいいか、わからないままだった。歌って、踊るだけでは、まだまだ表現しきれない。
 壮五のそんな葛藤に、ひとつの答えを導き出したのは環だった。自分の好きなものを、誰かに褒めてほしい。そして、その気持ちには、こういうものが好きなのだと声を上げる自分を認めてほしいという願望も含まれている。好きなものを明かすことも、他の誰かに自分の好きなものを「すごいね」と言ってもらうことも、抑圧された環境では満たされることがなかったから、気付かなかった。
 目から鱗が落ちるとは、こういうことを言うのだろう。環に指摘されて、壮五はしばらく言葉を失ってしまったほどだ。環はいつだって、壮五の中の世界を広げてくれる。そして、壮五の言葉もまた、環の世界を大きく変えてきた。

 大きな声で、好きなものは好きだと言えばいい。
 あの日、楽屋で環に言われた言葉を何度も反芻し、壮五は深呼吸をひとつ。全身が心臓になってしまったのではないかと思うくらい、鼓動が高鳴っている。アイドルになって、音楽が好きだと全身で訴え続けているものの、まだ、一番大好きなものを声に出していない。
 部屋の前に立って、控えめにノックを二回。ノックをする握り拳が、指先まで冷たいのがわかる。
「開いてんよー」
 部屋の主は、いつも鍵をかけない。いちいちノックをしなくていいと言う。壮五の性格としてはノックをしないわけにはいかない。それに、今は、この逸る気持ちを抑えるためにもノックをすることが必要だった。
「環くん、ちょっとだけいいかな。あまり、……その、時間は取らせないから」
 一緒にいることが誰よりも多いから、この部屋には何度も入っている。それなのに、見慣れた部屋が違ったものに見えるのは、緊張しているからだろうか。
「なに?」
 そう言いながら、環は壮五に座る位置を示してくれる。
「前に、きみに言われたこと。好きなものは好きだって言えばいい。そう言ってくれただろう? 音楽ももちろんだけれど、他にも、とても好きなものがあって……まだ、誰にも言ったことがないんだ。それで、それを……」
「……俺に?」
 カーペットの上に座ってベッドに背をあずけていた環が身を起こしたことで、腕に抱きかかえられた王様プリンが、少しだけ歪んだ。王様プリンさん、ごめんなさい。壮五は心の中でそう詫びた。少しの間、環の意識を王様プリンではなく、自分に向けてほしい。
「環くんに、……環くんだけに、聞いてほしい」
 本当はずっと黙っていたかったが、環のことを好きだと告げたくてたまらない。声を大にして、世界中に言いたいくらいだ。でも、アイドルという立場でそれは、許されない。
 見返りは求めない。せめて、自分が環を想っていることを知ってほしい。壮五はそう思って、ここに来た。
「……俺だけ?」
 自分だけだという言葉に、環は思わず居住まいを正した。一体、壮五はなにが「好き」だと教えてくれるんだろう。
(なんか、キンチョーしてきた……期待、すんじゃん……)
 壮五の頬が赤く染まっていて、まるで、愛の告白みたいだなどと期待してしまい、そんなはずはないと慌てて首を振る。そんな都合のいい展開になるはずがない。
「あのね、環くん……僕は」


    《ひとこと感想》

     



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