知らないこと

 彼と出会ってからというもの、壮五の目に映るものはすべてが初めてで、とにかく、知らないことだらけだった。
 大きな体躯をした年下の男をかわいいと思うことも、その彼を好きになることも。好きになったらどうすればいい? 彼は同じ男で、同じユニット。なにより、自分たちはアイドルだ。スキャンダルなんてとんでもない。それが、壮五の出した結論。
 壮五は、自身の感情を抑えることには慣れている。表情を取り繕う才能があるといっていいレベルだろう。それなのに、相手ときたら他者の表情の変化に敏感で、心に積もる気持ちに息苦しさを感じた壮五がほんの一瞬でも押し黙ると「なんでも言えっつったじゃんか」と距離を詰めてくる。正直、やりにくいと感じる時がある。けれど、相方だから。仲間だから。そして、気持ちを打ち明けるつもりがないとはいえ、壮五にとっての環が大切な人であることには変わりないから。だから、壮五は今日も表情を取り繕いながら、うまく切り抜けようと模索する日々を送っている。
 しかし、環が相手となると、どうも表情をうまく取り繕うことができない。素の自分を求められるたび、素の自分になることが怖くなってしまうのだ。
 過去に唯一、素の自分でいられる相手がいたものの、それは、音楽が好きだという気持ちを抱くきっかけになったに過ぎない。
 そして、今。目の前にいる環の今の表情も、壮五の知らない、今までに見たことがないものだ。
 風呂の順番がきても音沙汰がないから、着替えもせず寝落ちしてしまっているのかと思い、部屋をノックしただけなのに。布団もかけずに薄着で眠って風邪でも引いたら……なんて、気にかけるべきではなかった。彼を心配した数分前の自分を激しく責める。
「あの、環くん」
 もしもこんなところを誰かに見られたら、誤解されかねない。MEZZO”は超超超仲良しだからといって、押し倒されるような関係ではないのだから。
「なに」
「僕はお風呂の順番を、呼びに来ただけで……」
 もしも眠っていたのであれば、布団をかけて去るつもりでいた。元々、今日の入浴の順番は彼が最後。無理に起こすことはやめて、浴槽の湯を抜いて換気をしておけばいい。そう思って、いつも以上に控えめなノックをしたのに。思ったよりも早くドアが開いて、そのまま部屋の中に引きずり込まれて。どうして自分を部屋に引き入れたのか尋ねる前に、視界はぐるりと回り、こうして、環の顔と天井を見つめる結果となっている。
「他にもなんかあんだろ。なんか言いたそうにしてんよ、あんた」
 自分の目は誤魔化されない、とでも言いたげだ。
「別に、言いたいことなんて」
 隠しておくつもりの気持ちなのだから、言うわけにはいかない。表情にも出ていないはずだ。だからこれは、環による鎌かけ。壮五は唇にきゅっと力を込める。
「目は口ほどにってやつ。そーちゃん、ずーっとそんな顔なってる」
 環の言葉に「え」と口を開いてしまった。自分はいつだって普通の表情をしていたはずだ、と壮五は反論しそうになって、ぎりぎりのところで思い留まる。ここで反論しては、腹に抱えているものがあると言っているようなもの。
(まぁ、実際、そうなんだけど……)
「……とにかく、退いてくれないか」
 この体勢はよくない。視界が環でいっぱいで、自分の手首を拘束する環の体温が心地よくて、どきどきしてしまう。たとえばここで、自分が環の首に腕を絡めて引き寄せればどうなるのか。……そんな、とてもできそうにない〝たとえば〟を想像してしまう。
「そしたら逃げんだろ」
 無意識なのか、さきほどより顔を近付けられ、否が応でも体温が上がってしまう。
(近い、近過ぎる……)
 まっすぐに見ていられなくて、壮五は顔を背けた。
「本当に、勘弁してくれ……逃げない、逃げないから」
 環は元々、格好いい男だ。そこに、恋愛感情が加わって、それまで以上に格好よく見えるようになってしまった。まだ十七歳らしいあどけなさを残してはいるものの、あと数年もしないうちに、抱かれたい男ランキングの順位を上げるに違いない。そんな男の瞳に、今、自分だけが映っている。そんなの、恥ずかしくて耐えられそうにない。
 逃げないからという必死の懇願に、環は押さえ付けていた手首を解放した。
「あんたさー……ほんっとに、バレバレ。言いたいことあんの隠せてねえし」
 その言葉に、壮五はひやりとする。
(ばれてる、ってなにが?)
 自分が環に抱いている感情を知られているとでもいうのだろうか。あんなにひた隠しにしているのに? 注意深く、環の表情を観察する。
(……僕の思い過ごしか?)
 環の表情を見る限り、具体的な内容までは悟られていないようだと判断する。今ならまだ、適当な言葉で取り繕うことができるかもしれない。
 壮五はゆっくりと息を吐くと、なにごともなかったかのように、やわらかな声で話しかけた。
「本当に、なんでもないんだ。もう夜も遅いし、眠る時間だよ。お風呂に入っておいで」
 自分に覆い被さっている環の身体をやんわりと押し退ける。手のひらで触れた胸板は厚く、筋肉の付きにくい自分の身体との違いを感じた。メンバーの中で誰よりも一番長く行動をともにしているのに、まるで、知らない人のよう。少し、怖い。
 身体を押し退けるために触れただけなのだから、いつまでも触れているわけにはいかない。それなのに、目の前の彼が知らない人のように思えることが悔しくて、怖くて、そのまま、皺が付きそうなほど服を握り締めてしまう。
「……そーちゃん?」
 不審に思った環から名前を呼ばれ、壮五はぱっと手を離した。
「なんでもないよ、じゃあ、部屋に戻るね。おやすみ」
 一方的に言いきって、壮五は慌ただしく環の部屋をあとにした。いつもは丁寧に閉めるドアも、今はそんな余裕がない。そのまま自室に駆け込んで鍵をかけると、その場にずるずるとしゃがみ込んだ。環に触れた己の手のひらを見つめる。
(あんなの、あんなの……だめだ)
 ずっと隠しておこうと決めている気持ちがあふれ出しそうで、胸が苦しい。顔が火照っているのがわかって、思わず両手で覆ってしまった。環の前で、自分はどんな表情をしていたのだろう。それこそ、ばれていやしないだろうか。

 一方、壮五を呼び止めるタイミングを完全に逃してしまった環はというと。
「なんでもなくねえだろ……」
 あんな表情をしておいて、それでも、壮五は自分の感情を知られていないと思っているのだろうか。いくら恋愛ごとに疎い環でも、さすがに気付く。だって、誰よりも壮五のことを見ているのだから。
 それにしても。
「あんなかわいい顔するなんてずりい……」
 半ば賭けのような気持ちで組み敷いてやったから、正直、鳩尾に一発食らうくらいの覚悟はしていた。それなのに壮五ときたら、顔を真っ赤にして、瞳を潤ませるなんて。
 ものほしそうな顔というのは、恐らく、ああいう表情のことを言うのだろう。
「あー、もう! なんで逃げんだよ……」
 壮五の手首を拘束した自分の手のひらを見つめ、環はベッドにぼすんと握り拳を振り下ろした。


    《ひとこと感想》

     



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