NOVELS

夜道を歩く可不楓



 朝晩は風を感じられてまだましだけど、日中はその風すらも熱を抱えたままなものだから、いっそ風は吹かないでくれとすら思う。
 とはいえ、どんなに暑い日でも、エアコンの温度設定は絶対に二十八度より低くはしない。室内を冷やし過ぎて、あの子が風邪を引くといけないから。外との温度差はこれ以上広げちゃいけない。共有スペースはもちろん、寅部屋もそうしてる。……他の部屋がどうかは、知らないけど。
「あっつ。社長、よくこんなので涼しい顔してられますね」
 部屋に入るなり、添がわずかに眉を寄せた。普段涼しい顔をしてるくせに、さすがに、夏の暑さには添も表情が歪むらしい。
「体が慣れてるんだよ。添の家は冷房をガンガンに効かせてたの?」
「そりゃあ、寿司屋が魚痛めちゃ大問題ですから」
「店舗と居住スペースは別でも?」
「はは、人間も生ものなんで。ってか練牙さんいなくないです?」
 どこまでもしれっとした態度に、早く朔次郎の調査が進まないかと歯噛みする。絶対の絶対に、僕の直感は正しいはずだ。それなのに、いつもあと一歩のところで、添の背後にあるものに辿り着けない。
「……練牙は撮影が長引いて今日は遅くなるから夜ご飯はいらないって」
 ダメだ、このままだと添に突っかかりそう。もう突っかかりかけてる。僕らしくないな。
「社長?」
「ちょっと外の風にあたってくるだけだよ」
 パソコンをスリープさせて部屋を出た瞬間、冷風が首筋を撫でた。誰かが勝手にエアコンの温度を下げたみたい。いつもなら二十八度に戻すところだけど、少しいらだってた身にはその冷たさが心地よかったから、見逃すことにした。
 三階に上がるか一階に降りるか少し考えて、一階を選ぶ。この時間は千弥が三階のレッスンルームで自主練してるはずだから、集中させてあげたい。外の風でなくても、リビングで気分転換したっていい。
「あ、可不可」
 階段に差し掛かったところで、背後から声をかけられた。誰よりも大切な、大好きな子の声。たったそれだけで気分が一気に浮上する。
 金属が軽くぶつかる音に気付いて楓ちゃんの手許を見れば、HAMAハウスの鍵が握られていた。
「どこか出かけるの?」
 当然の質問をしただけなのに、楓ちゃんがぎくっと体をこわばらせた。大人なんだし、別に咎めてるわけじゃないのに。
「あー……ちょっとね、コンビニに」
「コンビニ?」
 あぁ、だいたい察した。こんな遅い時間におやつを買いにいこうとしてるのが僕にばれそうで、いたたまれない気持ちになってるんだろう。別に、健康に害がなければ、ちょっとくらい食べたって気にしないよ。
「ほら、今夜は一段と暑いでしょ? 冷たいものがほしくて」
「冷蔵庫になかった?」
「んー、冷凍庫のほうの気分なんだけど、そっちにはなかったから」
 ってことは、アイスをご所望かな。確かに、冷凍庫はつくりおきの食材や子タろの試作肉まんに占拠されがちで、アイスの買い置きはしてない。
「僕も行こうかな」
「え? まぁ、いいけど……」
「やった、夜のお散歩デートだ」
 嬉しいな。予定になかった突発デートって、運命めいてるなって思う。小さな運命を拾えて一気に気分が上がる。玄関に向かう歩調も完全に浮かれモードだ。
「夜道だし、手でも繋ごうか?」
「子どもじゃないんだから」
 残念、断られちゃった。でも、誰にも言わずにこんな遅い時間にふたりきりで外に出るの、悪いことしてるみたいでどきどきするから、手を繋げなくたって今夜の僕は落ち込まない。
 玄関のドアを開けると、日中よりはずっと涼しい風が葉を揺らしてるのが見えた。夏の夜特有の、湿気を含んだ香り。これくらいの気温なら、この香りもきらいじゃない。
 夏の夜風が心地よくてこっそり香りを堪能する僕の隣で、楓ちゃんは顔を顰めた。
「蒸し蒸しするね」
「そう?」
「そう。扇風機持ってくればよかったかも」
 Tシャツの裾をつまんでぱさぱさと風を起こしてる。よく見れば、楓ちゃんのこめかみにはうっすらと汗が滲んでいた。手を繋げなくてもくっついて歩きたいけど、いやがられそう。
「じゃあ、さっと行ってささっと帰ろうか」
 楓ちゃんが目を瞬かせる。なになに、僕、なにかおかしなこと言った?
「可不可のことだから、遠回りして行こうかって言い出すかと思った」
「楓ちゃんも過ごしやすい気候なら、そうしたいけどね。秋までの我慢かな」
 等間隔に配置された街灯を視界の端に捉え、意味もなく本数を数える。毎日歩く道、とっくに見慣れた景色。でも、こんな時間に歩くのは数えるほどしかない。街灯が照らす部分に並んで足を踏み入れるたび、楓ちゃんとの影が重なる。そんなあたりまえのことに、どうしてか、非日常の世界に迷い込んだような気分になった。
「ね、暑いけどちょっとだけ手繋いでいい?」
「えぇ……? ……俺、手汗かいてるよ?」
「気にしないよ」
 だって、その汗はキミが生きてる証のひとつでしょ。夏の夜、僕の隣を歩いてくれてる最中に滲んだ汗すら、僕にとってはデートの思い出になる。
 渋ってる楓ちゃんの手に触れて、手汗がどうとか言い出さない程度に軽く握る。本当なら指先に触れたかったけど、さすがに我慢した。そういう繋ぎ方は、いつかの未来にとっておくことにしてるんだ。
「おすすめのアイスは?」
「んー、今夜はパリパリのチョコが入ってるバニラアイスの気分! あ、モナカになってるやつね」
「じゃあ、僕もそれで」

 ところで。
 子どもじゃないんだから。手汗かいてるよ。……予防線は張られたけど、決して「いや」とも「ダメ」とも言われなかったな。その理由を訊いてみたい気もするけど、夜道のデートをさせてくれたから、今夜は見逃してあげる。