好きって言って
アラームが鳴る五分前に飛び起きた。たかが五分、されど五分。このわずかな時間の差は、日中のコンディションに影響する。しかも飛び起きたわけだし、今日はだめだめな日だろうなぁ。……少し考えて、今朝はいつもより長めに〝あれ〟に頼ろうと、ベッドのそばにあるチェストの一番下の段に隠した箱から、目的のものを取り出した。
手のひらサイズのそれを見つめること数秒、盛大な溜息をつく。
あぁ、顔がいい……。
天才年下幼馴染み社長の顔が格好よ過ぎて夢にまで見てしまう件。――なんてフレーズが頭に浮かんだ。ちょっと前に電子書籍のサイトで見かけた『平成後期に流行したライトノベル特集!』に並んでたタイトルみたい。タイトルで内容が筒抜けなんておもしろみに欠けるんじゃないのかなって思ったんだけど、実際に読んでみるとこれが結構おもしろいんだよね。
写真集、雑誌、漫画、小説、実用書……忙しさにかまけて積ん読する時期があるのを申し訳ないと思いつつ、興味を抱いたらとりあえず目を通してみようと思える。それくらいには、本というものへの抵抗感がない。ただ、読んでる最中に難しい言葉が視界に飛び込んでくると、どうしても、その言葉を調べるほうに意識がいく。それも悪くないと思うよ、読むことで世界が広がるだけじゃなくて自分の知識も増えるわけだし。
でも、フィクションの世界にトリップしたいモードのときに、そういうのは、ちょっとつらい。せっかくチート能力持ちの勇者に転生したんだから、魔王に立ち向かうことだけ考えたいんだよ。読んでる途中で「この漢字とこの漢字の組み合わせなら、読み方は十中八九こうだと思うけど、そもそもどういう意味だったっけ」みたいなことがあると、勇者が魔王を倒す前に俺が単語を倒す必要が出てきて、話に没頭できなくなる。小難しい言葉との遭遇率を限りなく低くしたいけど無性に文字の群れを追いたいっていう謎な気分のときに、電子書籍サイトでそういうのをちらちら読む楽しさを知った。
そうだ、物色するのにそういうタイトルを見まくったせいで、可不可に対してライトノベルのタイトルみたいな感想を抱いちゃうんだ! じゃなきゃ、こんなのおかしいよ!
「……っ!」
フォトカードの可不可と目があったような気がして、思わず枕に顔をうずめる。そんな整った顔で寝起きの俺を見ないでほしい。いや、フォトカードを隠し持ってるのも、それを寝起きにわざわざ取り出したのも俺です。見ないでじゃなくて自分から見たというのが正しいです。俺が犯人です。可不可はなにも悪くありません。
それにしても、本当にかっっっこいいなぁ。建国、傾国、護国、救国、敵国、継承……可不可ならすべての国顔を網羅できるんじゃないかな。なにせ完璧に顔がいいから。しかも頭もすごくいい。――そんなことを考えてるせいで、本来の起床時間を過ぎても、まだ、ベッドから出られない。さっきからずっと手許のフォトカードを眺めてる。目が合ってウンタラカンタラ犯人は俺とかどうでもよくなって、超ガン見してる。その日を頑張る活力の源として毎朝見てるけど全然飽きない。凜可さん似でとんでもなく美人で格好いい可不可。見るたび新鮮にときめく。俺が言語学者かなにかだったら「美人は三日で飽きるという説は誤り」を世に広めてたことだろう。ただの一般人だからできない。俺は無力だ。
俺だって、なにも、初めから〝こう〟だったわけじゃない。そりゃそうだ。相手は子どもの頃から知ってる幼馴染み。俺が可不可の前でみっともなく泣いたり、病院の中庭で一緒に釣りをしてるときに可不可が転んじゃったりと、振り返るにはちょっと恥ずかしい思い出もたくさん共有してる。お互いに対して、いいところももちろん知ってるけど、情けないところのほうがより多く知ってるんじゃないかとすら思える。それくらい、長くて深い付き合いだ。
じゃあなにがきっかけだったのか。……なんだろうなぁ。朝班のファーストツアー初日のおもてなしライブ? ううん、あのときは、ただ、ただ、久しぶりにHAMAにたくさんのひとたちが来てくれたのが嬉しくて、それどころじゃなかった。みんなを格好いいと思ったのはあるけど、あくまでも〝みんな〟であって、可不可にだけ着目してるわけでもなかったし。
上高地への研修旅行? ちょっと違う気がするなぁ。可不可の挑戦を、可不可を信じて見守ろうって雪にぃにお願いしたことのほうが大きかったし。
やっぱり、朝班のファーストツアーに向けて練習してた頃かな。寝る間も惜しんで練習してた可不可のこと、すごく心配だった。頑張りたい気持ちはわかるけど倒れたら元も子もないし、完璧であることが正義じゃないっていう考えから口出ししちゃって、ケンカになったんだよね。周りに比べると、どうしても体力面で一歩遅れをとってる。それを甘んじて受け入れるんじゃなく、挑戦したい。完璧にできてこそ、自分の挑戦が実になったと思える。――実際にケンカしたときはお互いそんな冷静な言い回ししなかったけど、あとから整理してみると、可不可はそう思ってたんだろうなとわかる。
そのときから、俺は可不可を応援してるんだ。
そろそろ起きて身支度しなきゃと、体を起こした。フォトカードはぴらっと剥き出しで保管してるわけじゃなく、透明度の高いぴしっとした袋で覆ったうえで硬質ケースに入れてある。糖衣くんが千弥くんのフォトカードをそうやって持ち歩いてるのを見かけて、こっそり真似させてもらった。ぷっくりシールとかラインストーンでデコるのは真似しなかったけど。
顔を洗って、着替えて、髪を整えて……何年もやってる朝のルーティンとはいえ、可不可のフォトカードには見られたくなくて、そっと裏返す。大浴場で過ごしたり、研修旅行で車中泊をしたりと、可不可本人にはとっくに見られてる姿なのに。……いや、最近は大浴場で会うタイミングがなかなかないし、車中泊したのだってKOBEのときだけだ。そのあとも朝班の研修旅行は何度かあったけど、俺はここと同じで毎回ひとり部屋だから、そこまで着替えを見られてるわけでもない。可不可のフォトカードを隠し持つようになった今だと、本人の前でも「見られたくない」って思うんだろうか。いざそのときになってみないとわからないな。
身なりを整えてから、もう一度、可不可のフォトカードと向き合う。本当に格好いい。そこらのアイドルよりきらきらして見える。一時退院のお出かけのときにスカウトされなかったの、世間は見る目がないんじゃないか。まぁ、スカウトされたらされたで困るんだけど。……困る? なにに?
「っ、時間……!」
いけない、可不可のフォトカードをガン見し過ぎて普段より十分もオーバーしちゃった。でも、いつもより長めに拝んだおかげで、心なしか肌ツヤもいい気がするし、髪もいい感じに整った。可不可のことだから、フォトカード経由でマイナスイオンを発してるのかも。それってすご過ぎる。そんなところも推せる。
後ろ髪を引かれる思いで、可不可のフォトカードに「行ってくるね」と心のなかで告げた。本当はバッグに忍ばせて連れ歩きたいけど、なにかの間違いで誰かに見られでもしたら次の日から出社しづらくなっちゃうから、我慢、我慢。
俺が可不可のファンってことは誰にも内緒なんだから。
◇
そろそろ、次のフィーチャーツアーを考えようと思う。――夕方におこなわれた創業メンバーだけのミーティングで、可不可が言った。どの班で、いつ頃にするかというのが今日の議題だったんだ。
区長フィーチャーツアーは結構人気があって、特定の区長本人を応援してくださってると思しき方々から『◯◯さんが考えたツアーの予定は決まってますか』って問い合わせをもらうことが増えてきた。もちろん、アンコールの要望も多い。他にもやりたい企画があるし、お声がけいただいてるイベントのお手伝いも必要だ。区長フィーチャーツアーばかりやるわけにはいかないものの、数ヵ月に一回のペースでやらないと、期待に応える機会がどんどん先延ばしになってしまう。どんなにあいだを開けたとしても、その期間は最大四ヵ月までというのが、最初の区長フィーチャーツアーのあとに決まった。
そのルールでいくなら次は遅くても春頃ってことになるんだけど、朝班は雪にぃが大会のシーズンだから絶対に無理、昼班の子たちは年度終わりが近くなるから学校優先。テストが終わってからならできるけど、年度終わりイコール今の学年での思い出をつくれる最後の機会だから、昼班も今回はなしにしようということになった。とはいえ、昼班のなかでもおもてなしデュオライブの曲をいつもつくってくれる七基くんだけは、年度末に忙しくさせちゃうんだけどね。そのあたりのフォローは朔次郎さんにお任せすることになった。俺も先生として、いつもよりしっかりめに様子を見ておくつもり。
夜班のみんなはお店を持ってるから、新生活シーズンはお客さんが増えて忙しいかもしれない。それじゃあ、夕班だろうか。――そこまで話が進んだところで、生行くんが「Ev3nsのスケジュールも加味して考えたい」と言い出して、一旦はお開きになった。
ミーティングが終わったあとも可不可はもう少し仕事があるらしく、俺も手伝うよとは言ったんだけど、先に帰るように促された。今月の残業時間累計理解してる? って訊かれたら、返す言葉もなかったんだ。あのときの可不可の顔――
会社からの帰り道、何気なく空を見上げて小さく息を吐く。ふわんと広がった白い息が空気中に溶けていくのを眺めながら、ミーティング中の可不可の顔を、もう一度、頭のなかに思い浮かべた。俺なんかの吐いた息のなかに浮かべて申し訳ない。
――すっごく、きれいだったなぁ。実はどこかの国の王子様でしたって言われても違和感がないくらい、顔がよかった。
いや、怒ってて普通に怖かったけど。美人って怒ると迫力あるから、俺も思わず「はい……」なんて情けない声で返事しちゃったんだけど。
とにかく毎秒格好よかった。有能社長ってフレーズが思いつく。これも、ちょっと前に電子書籍のサイトで見かけたワードだ。さしずめ、怒られたときの俺は『凡人ツアコンは王子様顔の有能社長に凄まれて定時退社を余儀なくされました』ってところだろうか。うわ、そのまんま過ぎ。情けない。決して業務効率が悪いわけではないと思うんだけど、明日からはもっと気を引き締めて頑張ろう。
可不可が少しだけ残るっていうのは本当に少しだけだったみたいで、俺がみんなと夕食をとり始めてすぐ、可不可も寮に戻ってきた。そのまま一緒に食べて、俺はひと足早く大浴場で一日の疲れを洗い流して――リビングでテレビを見ながら何人かと談笑してたら、お風呂上がりの可不可がひょこっと顔を覗かせた。
「主任ちゃん、ちょっといい?」
なんだろう。周りに断りを入れてその場を離れ、可不可のもとへと駆け寄る。
「父さんからキミにって差し入れを預かってるんだ。どうしてもって言って、聞かなくて」
「理非人さんが」
まぁ、僕のぶんも渡されてるんだけど。今回は全員分はないから、みんなには内緒ね。――ひそひそ声で可不可に話されて、鼓動が高鳴った。ちょっと、距離が近過ぎやしませんか? 俺、可不可の隠れファンなんですけど。推しが至近距離で内緒話してくるって、前世で徳でも積んでた? 宝くじが全然当たらないのは、ここに運を全振りしてるから?
「だから、今のうちに渡したいんだけど、――……楓ちゃん?」
みんなが聞いてないし、プライベートだからだろうか。突然名前を呼ばれて、はっと我に返る。しかも、顔を覗き込まれるというオプションつき。
「っ、ごめん、一瞬だけ気が抜けてた。なに?」
「部屋に行っていい? って訊いたんだけど……疲れてるなら明日にしようか? すぐにだめになる差し入れでもないし」
「ううん! 全っ然大丈夫! 今からでも平気だよ!」
うそ、俺の心は全然平気じゃありません。顔がいい、しかも俺を気遣ってくれる優しさもある。神? ヒーロー? なんでもいいや。可不可がとにかく格好よくてきれいで優しくて、めちゃくちゃ推せるって気持ちしかない。
「そう? じゃあ、あまり長居しないようにするね」
よく見ると、可不可の手許には小さな紙袋があった。なるほど、これが理非人さんが俺のために用意してくれたものなんだ。すぐにだめになるわけじゃないってことは、日持ちするお菓子とかかな。
階段を上って、いつものように自分の部屋へと向かう。そういえば、可不可が部屋に来るの、久しぶりかも。ここで暮らし始めてすぐの頃はしょっちゅう来てたけど、最近はお互いに忙しくしてたし、みんなともおしゃべりしたくてぎりぎりまでリビングで過ごすことが多かったから。
俺は可不可の隠れファンだけど、それ以前に子どものころからの友だちだから、こうやってふたりでおしゃべりできるのも嬉しいんだ。昔と違って、どきどきしちゃうけどね。ファンだからね、仕方ないよね。
「じゃあ、どうぞ」
可不可を部屋に入れて、ドアを閉める。今夜は久しぶりだけど、これからもこうやって来てくれるなら、部屋のソファをもうひとつ増やしたほうがいいかな。今は自分のしかないし。それとも、ラグの上に座ってもいいようにクッションをいくつか買おうか。何度もそう思っては、ずるずる先延ばしにしちゃってるんだよね。とりあえず、今は――
「〜〜っ、ちょっと待って!」
――ベッドの端にでも腰掛けてもらおうかと、自分のベッドを見て、愕然とした。
「楓ちゃん!?」
なりふり構わずベッドに向かって勢いよくダイブして〝それ〟を抱え込む。やばいやばいやばい。俺としたことが、とんでもないことをしでかした。どうしよう。今からでも入れる保険はありますか? え、ない? それは困るよ! まだいけるでしょ?
「……」
「楓ちゃん?」
冷や汗がすごい。背中はもちろん、もしかしたら内臓まで冷や汗かいてるんじゃないかってくらい、心臓がばくばく鳴ってる。この鼓動の高鳴りは残念ながら推しへのときめきではなく、自分が手に抱えてるものが原因だ。
「ね、楓ちゃん」
ベッドが小さな声を上げるとともに、未だ動けないままでいる俺の頭の近くが、わずかに沈む。さっきから何度も名前を呼ばれてるけど、その声色はすべて違う。最初のはいきなりベッドにダイブした俺にびっくりした声、今のは俺を諭す感じ。じゃあ、その前のはというと――
「ごめんごめんごめん! なにもないから!」
「なにもないってことはないでしょ」
――とっておきのおもちゃを見つけたみたいな声だ。
「ある! あるっていうのはあるんじゃなくて、なにもないってことがあるってこと、で……っ」
可不可の手が伸びてきて、更に体を縮こませる。手にも力を込めた。
「こら、そんなに力いっぱい握りしめたら、写真の僕が曲がっちゃうでしょ」
あぁぁ……もう終わりだ。この世は終わらないけど、俺は社会的に終わりました。幼馴染み兼推しに、推してることがばれた。幼馴染み以上の気持ちを抱いてることを、隠し通せなかった。
それでも、ひとつだけ訂正させてほしい。
「……しっかりしたケースに入れてるから曲がらないよ」
可不可が声を上げて笑った。
「つまり、楓ちゃんは僕をこっそり推してて、このフォトカードをお守りみたいにしてるってこと?」
「はい……」
可不可にソファを譲り、俺はラグの上に正座した。フローリングで正座しようとしたら怒られて、仕方なく、ラグの上にいる。別に正座なんてしなくていいのにとも言われたけど、こんなところを見られて平然としてられるわけないでしょ。
「ふぅん」
俺が毎日崇めてたフォトカードを手に取って、じっと眺めてる。
「これ、最初のHAMAツアーズ感謝祭のときのランダムグッズだよね。そのとき買ってたってこと?」
「……そのとおりです」
千弥くんのフォトカードを自引きしようと何枚も買ってる糖衣くんを見て、俺も記念に買ってみようかなと思ったんだ。その前から可不可のことは推してたけど、グッズを手に入れるまではしてなかった。
「お説教してるわけじゃないんだから、敬語はなし。……いくつ買ったの?」
「へ?」
「狙ってくれた僕を引き当てるまで、何人の区長を経たの? 他の区長のフォトカードは?」
「えっと……」
狙ってくれただなんて。まるで、俺が可不可のフォトカードを持ってるのが嬉しいみたいな口ぶりだ。幼馴染みに推されて怖いとか困るとか思わないのかな。
「あぁ、いや、楓ちゃんを責めるつもりはないんだ。キミのもとに、僕以外の区長のフォトカードがある可能性に思い至ったら……」
「一枚しか買ってないよ」
「一枚?」
「うん。糖衣くんが楽しそうにしてるのを見て、ちょっと買ってみようかなってこっそり一枚だけ買ったら、可不可だったから」
自社のファン向けグッズをお客さんとして買うほどの勇気はなくて、朔次郎さんが販売対応してるときに「俺もあとで記念に買おうと思います」って宣言してから買った。あくまでも記念に。
「でも、買ったときから可不可のフォトカードが入ってるイメージしかなくて、本当にそのとおりだったから、……ちょっと運命めいたものを感じちゃったなぁ」
感謝祭真っ最中に開封する余裕はなかったから、仕事が終わってから、部屋で開封した。買ったときに感じたインスピレーションは正しかったらしく、俺は念願叶って一発で推しを自引きしたってわけ。
「運命って……」
「あぁ、ごめん! 大袈裟だし、俺に運命を感じられるなんていやだよね。これはあくまでも、推しを自引きしたファンが思わずそう表現してるだけってことで」
危ない、危ない。推しとの距離感がバグったファンなんて危険以外の何者でもない。ファンである前に幼馴染みだから、距離が近くても当然みたいな考えになっちゃってるんだよね。
「いやなわけないでしょ。楓ちゃんも運命を感じてくれてたなんて、僕は期待してもいいの?」
なにかを思い詰めたような顔だ。期待って、なんの話だろう。よくわからないけど、少なくとも、俺が可不可の隠れファンだったことに対してのお咎めはないってことでいいのかな。ばれちゃったとはいえ、これからも慎ましく可不可のファンとして過ごそう。
ソファから立ち上がった可不可が、黙ったまま、俺の腕を引いて立ち上がらせる。
「あ、待って、足が」
正座にそこまで慣れてない俺は、その場でふらつき、情けなくもベッドの上にべしゃっと倒れ込んだ。……で、またしても頭のすぐ近くがわずかに沈む。なんでって、可不可がそこに手をついたから。
「やっと気付いてくれたってことだよね」
気付いたってなんのこと? っていうか、この体勢、なに? 今までの人生のなかで一番ってくらい、どきどきしてる。誰かとこんな体勢になったことがないうえ、よりによって相手が推しだから。推しに押し倒されてるしがないファンの俺。なにこれ、なんのご褒美? ……って、だめだ。
「ちょ、ちょっと待って」
俺の待ったに、可不可が目を瞬かせる。顔がきれいだからなにをやっても格好いい……じゃなくて。可不可の顔がいいことはたぶん俺たちが生まれるずっとずっと前、なんなら地球ができたときから決まってたに違いないから、一旦横に置いておいて。
推しとファンがこんな体勢になってるなんて、距離感のバグどころじゃないよ。世の可不可ファンがこのことを知ったら、俺は間違いなくスピネやdazzleで炎上する。それ以前に、一発出禁レベルの危険行為だ。HAMAツアーズの人間が出禁になったら、俺は可不可が関与するツアーのときに、HAMAに来てくれたお客さんたちをおもてなしできないってこと? そんなの困るよ!
「や、やめるようにするから……!」
「……なにを?」
「可不可のファンを、いや、こんなに応援してる気持ちをゼロにはできないからこれからもめいっぱい応援はするけど、ファンとして推すのはやめて、HAMAツアーズ主任に相応しい人間であることを最優先事項として生きていくからね」
こんなに素敵な可不可のこと、今この瞬間も推してるし大好きだけど、俺には、可不可と一緒にこの街をもっときらめかせたいっていう目標がある。俺が可不可のファンをやってることでそれが達成できないなんていやだ。それなら、ファンとして可不可に湧いたり沸いたりするのはやめるべきなんじゃないかな。うん、絶対の絶対にそう。
「うーん……ちょっと理解に苦しむけど、まぁ、言ってることはなんとなくわかるよ」
「ありがとう」
さすが可不可、俺の拙い説明でも通じた。そういうところも推せ……いや、こういうのがだめなんだってば。ちゃんと頭を切り替えていかなきゃ。可不可の言う「理解に苦しむ」っていうのは、俺のファン心理がよくわからないってことだよね。可不可、推しがどうこうっていう話題には特に興味ないタイプだし。
「で、ちょっとだけ待ってあげたから、今度は僕からいい?」
「え? ……あぁ、そうだね、うん。遮っちゃってごめん」
そういえば、可不可はなにかを言おうとしてた。確か、気付いてくれたとかなんとか。その前は、俺が運命って言ったことに対して期待していいのかとか言ってたよね。……ん? んんん?
「僕は楓ちゃんのこと、とっくの昔から運命だと思ってるよ」
可不可の手が、俺の頬に触れる。うっとりとした顔。たまらないといった感じの声。
「あの」
「うん?」
どうしよう、可不可に触れられた頬が熱い気がする。これは俺の内側からくる熱? それとも、可不可の手のひらから伝わってきたもの? どっちだろう。……両方、かもしれない。だって、俺の心臓はまたしてもうるさいくらい大騒ぎしてるから。
そういうことに縁のなかった俺でも、こんなことをされたらさすがにわかる。一体、いつから? いや、可不可の口ぶりだと、かなり前からってことだよね。全っ然気付かなかった。あ、だから「やっと気付いてくれた」ってこと? やっとって言葉を使うくらい、そんなに昔から?
「俺、全然気付かなかった」
「うん、……まぁ、僕は待つのには慣れてるから。長期戦なのは最初からわかってたし。むしろ、こんなに早くていいの? って思ってる」
本当にどうしよう。これって、推しがファンにそういう気持ちを抱いてるってことだよね。でも、ファンである俺も可不可のことが子どもの頃から大切で、大好きで……つまり、どうしたらいいんだろう。
「か、可不可と同じじゃないかも」
自分で言うのもなんだけど、可不可が俺に向けてくれてるのは真剣な気持ちでしょ。別に不真面目ってわけじゃないけど、俺の〝好き〟は、可不可のと同列に並べちゃいけない気がするんだ。
ただ、……あぁ、うまく言えない。こんな体勢なことへの恥ずかしさや照れがどんどん増すばかりで、可不可の顔を見られなくなってきた。言語化できないものが自分のなかに渦巻いてるのと、顔が熱いのとで、目の奥までじわじわ熱を帯びてきた気がする。
「そんなかわいい顔で言われてもね」
「かわいくないよ」
可不可って、俺のことかわいいなんて思ってたの? 年上で、なにもかもが平均的で、長所といえば仕事に真面目なこととご飯を残さないことくらいしかない俺を?
「ううん、かわいいよ。どんなことにも一生懸命で、きらきらしてて、まっすぐで、……こっちがちょっと心配になるくらい純粋なところ、かわいいと思ってる。それとも、僕が年下だから、かわいいって言われるのはいや?」
「いやでは、ないけど」
「けど?」
「買い被り過ぎな気がして……」
可不可が笑う。何年キミだけを見てきたと思ってるの、だって。知らないよ。……知らなかったよ、今の今まで。
「僕を応援してくれて、写真まで大切に持ってくれてるのは嬉しいよ。でも、それくらい好きでいてくれてるなら、いっそのこと、こっち方面の好きになってほしいんだよね」
頬に触れた熱が離れていく。もう少しそのままでも、別に――と、可不可の手を目で追う。そんなことを考える自分に、こっそり驚いた。相変わらず、可不可の顔は見られないままだ。
俺が目で追ってるのに気付いたのか、その手は俺の手に辿り着くと、一瞬だけ迷うそぶりを見せてから、そのまま、指先に触れてきた。……触れた体温がやけに馴染む。俺の手も、頬と同じくらい熱いってことだ。全身で、可不可を意識してしまってる。可不可の指先は俺の手のひらを甘くくすぐり、あっという間に、指先を捕らえてしまった。
「……そういえば聞いてなかった。いつから、応援してくれてたの?」
「たぶん、……ずっと。レッスンを始めてすぐの頃に可不可が倒れちゃったあとの仲直りで、可不可のこと、信じて見守ろうって決めた。でも、――」
可不可が周囲から天才だと称されるのは、諦めることなく努力し続けてるからということを思い出したんだ。無理はしてほしくないけど、心配する気持ちを押し付けることはしたくない。それなら、いつもそばで見守って、可不可が必要としてくれたときにすぐに駆けつけられる俺でいようと決めた。
「――可不可のことを応援する気持ちだけでいうと、子どもの頃からずっとだよ」
大切に思ってることはわかってほしくて、数分、いや、十数分ぶりに可不可の顔を見る。好きでたまらないって書いてあって、思わず、こくっと唾を飲み込んだ。そっか、まだちゃんと言われてはないけど、可不可って、そんなに俺のこと好きなんだ。
「楓ちゃんって、そんなに僕のこと好きになってくれてたの?」
ずっと見てたのに気付かなかったな。――可不可の声が吐息とともにこぼれてきて、さっきより顔が近くなったことに気付く。
「えっ、いや、……同じじゃないかもって言ったでしょ」
俺のは、可不可を応援しようという気持ちから、なんとなくフォトカードを手にして、毎日それを眺めてうっとりしてただけだ。格好いいなぁ、素敵だなぁってどきどきしてただけ。
「ファンとは違うよね。だって、お客さんに見せてる姿だけを見て応援してくれてるわけじゃないんだし。さっきからずーっとかわいい顔だし。だからさ、――」
「っ……」
耳に直接息を吹き込むみたいに囁かれて、反射的に、脚が跳ねた。どきどきの速度って、まだ更新できるものなの? もうこれ以上どきどきしないだろうって思っても、簡単にそれを上回っていく。顔どころか耳も背中も目の奥も熱い。
「か、可不可こそ」
「僕こそ?」
「まだ言ってくれてない……」
可不可から教えてほしい。そうしたら、たぶん、俺もこのぐるぐるした気持ちをうまく言葉にできるから。
手のひらサイズのそれを見つめること数秒、盛大な溜息をつく。
あぁ、顔がいい……。
天才年下幼馴染み社長の顔が格好よ過ぎて夢にまで見てしまう件。――なんてフレーズが頭に浮かんだ。ちょっと前に電子書籍のサイトで見かけた『平成後期に流行したライトノベル特集!』に並んでたタイトルみたい。タイトルで内容が筒抜けなんておもしろみに欠けるんじゃないのかなって思ったんだけど、実際に読んでみるとこれが結構おもしろいんだよね。
写真集、雑誌、漫画、小説、実用書……忙しさにかまけて積ん読する時期があるのを申し訳ないと思いつつ、興味を抱いたらとりあえず目を通してみようと思える。それくらいには、本というものへの抵抗感がない。ただ、読んでる最中に難しい言葉が視界に飛び込んでくると、どうしても、その言葉を調べるほうに意識がいく。それも悪くないと思うよ、読むことで世界が広がるだけじゃなくて自分の知識も増えるわけだし。
でも、フィクションの世界にトリップしたいモードのときに、そういうのは、ちょっとつらい。せっかくチート能力持ちの勇者に転生したんだから、魔王に立ち向かうことだけ考えたいんだよ。読んでる途中で「この漢字とこの漢字の組み合わせなら、読み方は十中八九こうだと思うけど、そもそもどういう意味だったっけ」みたいなことがあると、勇者が魔王を倒す前に俺が単語を倒す必要が出てきて、話に没頭できなくなる。小難しい言葉との遭遇率を限りなく低くしたいけど無性に文字の群れを追いたいっていう謎な気分のときに、電子書籍サイトでそういうのをちらちら読む楽しさを知った。
そうだ、物色するのにそういうタイトルを見まくったせいで、可不可に対してライトノベルのタイトルみたいな感想を抱いちゃうんだ! じゃなきゃ、こんなのおかしいよ!
「……っ!」
フォトカードの可不可と目があったような気がして、思わず枕に顔をうずめる。そんな整った顔で寝起きの俺を見ないでほしい。いや、フォトカードを隠し持ってるのも、それを寝起きにわざわざ取り出したのも俺です。見ないでじゃなくて自分から見たというのが正しいです。俺が犯人です。可不可はなにも悪くありません。
それにしても、本当にかっっっこいいなぁ。建国、傾国、護国、救国、敵国、継承……可不可ならすべての国顔を網羅できるんじゃないかな。なにせ完璧に顔がいいから。しかも頭もすごくいい。――そんなことを考えてるせいで、本来の起床時間を過ぎても、まだ、ベッドから出られない。さっきからずっと手許のフォトカードを眺めてる。目が合ってウンタラカンタラ犯人は俺とかどうでもよくなって、超ガン見してる。その日を頑張る活力の源として毎朝見てるけど全然飽きない。凜可さん似でとんでもなく美人で格好いい可不可。見るたび新鮮にときめく。俺が言語学者かなにかだったら「美人は三日で飽きるという説は誤り」を世に広めてたことだろう。ただの一般人だからできない。俺は無力だ。
俺だって、なにも、初めから〝こう〟だったわけじゃない。そりゃそうだ。相手は子どもの頃から知ってる幼馴染み。俺が可不可の前でみっともなく泣いたり、病院の中庭で一緒に釣りをしてるときに可不可が転んじゃったりと、振り返るにはちょっと恥ずかしい思い出もたくさん共有してる。お互いに対して、いいところももちろん知ってるけど、情けないところのほうがより多く知ってるんじゃないかとすら思える。それくらい、長くて深い付き合いだ。
じゃあなにがきっかけだったのか。……なんだろうなぁ。朝班のファーストツアー初日のおもてなしライブ? ううん、あのときは、ただ、ただ、久しぶりにHAMAにたくさんのひとたちが来てくれたのが嬉しくて、それどころじゃなかった。みんなを格好いいと思ったのはあるけど、あくまでも〝みんな〟であって、可不可にだけ着目してるわけでもなかったし。
上高地への研修旅行? ちょっと違う気がするなぁ。可不可の挑戦を、可不可を信じて見守ろうって雪にぃにお願いしたことのほうが大きかったし。
やっぱり、朝班のファーストツアーに向けて練習してた頃かな。寝る間も惜しんで練習してた可不可のこと、すごく心配だった。頑張りたい気持ちはわかるけど倒れたら元も子もないし、完璧であることが正義じゃないっていう考えから口出ししちゃって、ケンカになったんだよね。周りに比べると、どうしても体力面で一歩遅れをとってる。それを甘んじて受け入れるんじゃなく、挑戦したい。完璧にできてこそ、自分の挑戦が実になったと思える。――実際にケンカしたときはお互いそんな冷静な言い回ししなかったけど、あとから整理してみると、可不可はそう思ってたんだろうなとわかる。
そのときから、俺は可不可を応援してるんだ。
そろそろ起きて身支度しなきゃと、体を起こした。フォトカードはぴらっと剥き出しで保管してるわけじゃなく、透明度の高いぴしっとした袋で覆ったうえで硬質ケースに入れてある。糖衣くんが千弥くんのフォトカードをそうやって持ち歩いてるのを見かけて、こっそり真似させてもらった。ぷっくりシールとかラインストーンでデコるのは真似しなかったけど。
顔を洗って、着替えて、髪を整えて……何年もやってる朝のルーティンとはいえ、可不可のフォトカードには見られたくなくて、そっと裏返す。大浴場で過ごしたり、研修旅行で車中泊をしたりと、可不可本人にはとっくに見られてる姿なのに。……いや、最近は大浴場で会うタイミングがなかなかないし、車中泊したのだってKOBEのときだけだ。そのあとも朝班の研修旅行は何度かあったけど、俺はここと同じで毎回ひとり部屋だから、そこまで着替えを見られてるわけでもない。可不可のフォトカードを隠し持つようになった今だと、本人の前でも「見られたくない」って思うんだろうか。いざそのときになってみないとわからないな。
身なりを整えてから、もう一度、可不可のフォトカードと向き合う。本当に格好いい。そこらのアイドルよりきらきらして見える。一時退院のお出かけのときにスカウトされなかったの、世間は見る目がないんじゃないか。まぁ、スカウトされたらされたで困るんだけど。……困る? なにに?
「っ、時間……!」
いけない、可不可のフォトカードをガン見し過ぎて普段より十分もオーバーしちゃった。でも、いつもより長めに拝んだおかげで、心なしか肌ツヤもいい気がするし、髪もいい感じに整った。可不可のことだから、フォトカード経由でマイナスイオンを発してるのかも。それってすご過ぎる。そんなところも推せる。
後ろ髪を引かれる思いで、可不可のフォトカードに「行ってくるね」と心のなかで告げた。本当はバッグに忍ばせて連れ歩きたいけど、なにかの間違いで誰かに見られでもしたら次の日から出社しづらくなっちゃうから、我慢、我慢。
俺が可不可のファンってことは誰にも内緒なんだから。
◇
そろそろ、次のフィーチャーツアーを考えようと思う。――夕方におこなわれた創業メンバーだけのミーティングで、可不可が言った。どの班で、いつ頃にするかというのが今日の議題だったんだ。
区長フィーチャーツアーは結構人気があって、特定の区長本人を応援してくださってると思しき方々から『◯◯さんが考えたツアーの予定は決まってますか』って問い合わせをもらうことが増えてきた。もちろん、アンコールの要望も多い。他にもやりたい企画があるし、お声がけいただいてるイベントのお手伝いも必要だ。区長フィーチャーツアーばかりやるわけにはいかないものの、数ヵ月に一回のペースでやらないと、期待に応える機会がどんどん先延ばしになってしまう。どんなにあいだを開けたとしても、その期間は最大四ヵ月までというのが、最初の区長フィーチャーツアーのあとに決まった。
そのルールでいくなら次は遅くても春頃ってことになるんだけど、朝班は雪にぃが大会のシーズンだから絶対に無理、昼班の子たちは年度終わりが近くなるから学校優先。テストが終わってからならできるけど、年度終わりイコール今の学年での思い出をつくれる最後の機会だから、昼班も今回はなしにしようということになった。とはいえ、昼班のなかでもおもてなしデュオライブの曲をいつもつくってくれる七基くんだけは、年度末に忙しくさせちゃうんだけどね。そのあたりのフォローは朔次郎さんにお任せすることになった。俺も先生として、いつもよりしっかりめに様子を見ておくつもり。
夜班のみんなはお店を持ってるから、新生活シーズンはお客さんが増えて忙しいかもしれない。それじゃあ、夕班だろうか。――そこまで話が進んだところで、生行くんが「Ev3nsのスケジュールも加味して考えたい」と言い出して、一旦はお開きになった。
ミーティングが終わったあとも可不可はもう少し仕事があるらしく、俺も手伝うよとは言ったんだけど、先に帰るように促された。今月の残業時間累計理解してる? って訊かれたら、返す言葉もなかったんだ。あのときの可不可の顔――
会社からの帰り道、何気なく空を見上げて小さく息を吐く。ふわんと広がった白い息が空気中に溶けていくのを眺めながら、ミーティング中の可不可の顔を、もう一度、頭のなかに思い浮かべた。俺なんかの吐いた息のなかに浮かべて申し訳ない。
――すっごく、きれいだったなぁ。実はどこかの国の王子様でしたって言われても違和感がないくらい、顔がよかった。
いや、怒ってて普通に怖かったけど。美人って怒ると迫力あるから、俺も思わず「はい……」なんて情けない声で返事しちゃったんだけど。
とにかく毎秒格好よかった。有能社長ってフレーズが思いつく。これも、ちょっと前に電子書籍のサイトで見かけたワードだ。さしずめ、怒られたときの俺は『凡人ツアコンは王子様顔の有能社長に凄まれて定時退社を余儀なくされました』ってところだろうか。うわ、そのまんま過ぎ。情けない。決して業務効率が悪いわけではないと思うんだけど、明日からはもっと気を引き締めて頑張ろう。
可不可が少しだけ残るっていうのは本当に少しだけだったみたいで、俺がみんなと夕食をとり始めてすぐ、可不可も寮に戻ってきた。そのまま一緒に食べて、俺はひと足早く大浴場で一日の疲れを洗い流して――リビングでテレビを見ながら何人かと談笑してたら、お風呂上がりの可不可がひょこっと顔を覗かせた。
「主任ちゃん、ちょっといい?」
なんだろう。周りに断りを入れてその場を離れ、可不可のもとへと駆け寄る。
「父さんからキミにって差し入れを預かってるんだ。どうしてもって言って、聞かなくて」
「理非人さんが」
まぁ、僕のぶんも渡されてるんだけど。今回は全員分はないから、みんなには内緒ね。――ひそひそ声で可不可に話されて、鼓動が高鳴った。ちょっと、距離が近過ぎやしませんか? 俺、可不可の隠れファンなんですけど。推しが至近距離で内緒話してくるって、前世で徳でも積んでた? 宝くじが全然当たらないのは、ここに運を全振りしてるから?
「だから、今のうちに渡したいんだけど、――……楓ちゃん?」
みんなが聞いてないし、プライベートだからだろうか。突然名前を呼ばれて、はっと我に返る。しかも、顔を覗き込まれるというオプションつき。
「っ、ごめん、一瞬だけ気が抜けてた。なに?」
「部屋に行っていい? って訊いたんだけど……疲れてるなら明日にしようか? すぐにだめになる差し入れでもないし」
「ううん! 全っ然大丈夫! 今からでも平気だよ!」
うそ、俺の心は全然平気じゃありません。顔がいい、しかも俺を気遣ってくれる優しさもある。神? ヒーロー? なんでもいいや。可不可がとにかく格好よくてきれいで優しくて、めちゃくちゃ推せるって気持ちしかない。
「そう? じゃあ、あまり長居しないようにするね」
よく見ると、可不可の手許には小さな紙袋があった。なるほど、これが理非人さんが俺のために用意してくれたものなんだ。すぐにだめになるわけじゃないってことは、日持ちするお菓子とかかな。
階段を上って、いつものように自分の部屋へと向かう。そういえば、可不可が部屋に来るの、久しぶりかも。ここで暮らし始めてすぐの頃はしょっちゅう来てたけど、最近はお互いに忙しくしてたし、みんなともおしゃべりしたくてぎりぎりまでリビングで過ごすことが多かったから。
俺は可不可の隠れファンだけど、それ以前に子どものころからの友だちだから、こうやってふたりでおしゃべりできるのも嬉しいんだ。昔と違って、どきどきしちゃうけどね。ファンだからね、仕方ないよね。
「じゃあ、どうぞ」
可不可を部屋に入れて、ドアを閉める。今夜は久しぶりだけど、これからもこうやって来てくれるなら、部屋のソファをもうひとつ増やしたほうがいいかな。今は自分のしかないし。それとも、ラグの上に座ってもいいようにクッションをいくつか買おうか。何度もそう思っては、ずるずる先延ばしにしちゃってるんだよね。とりあえず、今は――
「〜〜っ、ちょっと待って!」
――ベッドの端にでも腰掛けてもらおうかと、自分のベッドを見て、愕然とした。
「楓ちゃん!?」
なりふり構わずベッドに向かって勢いよくダイブして〝それ〟を抱え込む。やばいやばいやばい。俺としたことが、とんでもないことをしでかした。どうしよう。今からでも入れる保険はありますか? え、ない? それは困るよ! まだいけるでしょ?
「……」
「楓ちゃん?」
冷や汗がすごい。背中はもちろん、もしかしたら内臓まで冷や汗かいてるんじゃないかってくらい、心臓がばくばく鳴ってる。この鼓動の高鳴りは残念ながら推しへのときめきではなく、自分が手に抱えてるものが原因だ。
「ね、楓ちゃん」
ベッドが小さな声を上げるとともに、未だ動けないままでいる俺の頭の近くが、わずかに沈む。さっきから何度も名前を呼ばれてるけど、その声色はすべて違う。最初のはいきなりベッドにダイブした俺にびっくりした声、今のは俺を諭す感じ。じゃあ、その前のはというと――
「ごめんごめんごめん! なにもないから!」
「なにもないってことはないでしょ」
――とっておきのおもちゃを見つけたみたいな声だ。
「ある! あるっていうのはあるんじゃなくて、なにもないってことがあるってこと、で……っ」
可不可の手が伸びてきて、更に体を縮こませる。手にも力を込めた。
「こら、そんなに力いっぱい握りしめたら、写真の僕が曲がっちゃうでしょ」
あぁぁ……もう終わりだ。この世は終わらないけど、俺は社会的に終わりました。幼馴染み兼推しに、推してることがばれた。幼馴染み以上の気持ちを抱いてることを、隠し通せなかった。
それでも、ひとつだけ訂正させてほしい。
「……しっかりしたケースに入れてるから曲がらないよ」
可不可が声を上げて笑った。
「つまり、楓ちゃんは僕をこっそり推してて、このフォトカードをお守りみたいにしてるってこと?」
「はい……」
可不可にソファを譲り、俺はラグの上に正座した。フローリングで正座しようとしたら怒られて、仕方なく、ラグの上にいる。別に正座なんてしなくていいのにとも言われたけど、こんなところを見られて平然としてられるわけないでしょ。
「ふぅん」
俺が毎日崇めてたフォトカードを手に取って、じっと眺めてる。
「これ、最初のHAMAツアーズ感謝祭のときのランダムグッズだよね。そのとき買ってたってこと?」
「……そのとおりです」
千弥くんのフォトカードを自引きしようと何枚も買ってる糖衣くんを見て、俺も記念に買ってみようかなと思ったんだ。その前から可不可のことは推してたけど、グッズを手に入れるまではしてなかった。
「お説教してるわけじゃないんだから、敬語はなし。……いくつ買ったの?」
「へ?」
「狙ってくれた僕を引き当てるまで、何人の区長を経たの? 他の区長のフォトカードは?」
「えっと……」
狙ってくれただなんて。まるで、俺が可不可のフォトカードを持ってるのが嬉しいみたいな口ぶりだ。幼馴染みに推されて怖いとか困るとか思わないのかな。
「あぁ、いや、楓ちゃんを責めるつもりはないんだ。キミのもとに、僕以外の区長のフォトカードがある可能性に思い至ったら……」
「一枚しか買ってないよ」
「一枚?」
「うん。糖衣くんが楽しそうにしてるのを見て、ちょっと買ってみようかなってこっそり一枚だけ買ったら、可不可だったから」
自社のファン向けグッズをお客さんとして買うほどの勇気はなくて、朔次郎さんが販売対応してるときに「俺もあとで記念に買おうと思います」って宣言してから買った。あくまでも記念に。
「でも、買ったときから可不可のフォトカードが入ってるイメージしかなくて、本当にそのとおりだったから、……ちょっと運命めいたものを感じちゃったなぁ」
感謝祭真っ最中に開封する余裕はなかったから、仕事が終わってから、部屋で開封した。買ったときに感じたインスピレーションは正しかったらしく、俺は念願叶って一発で推しを自引きしたってわけ。
「運命って……」
「あぁ、ごめん! 大袈裟だし、俺に運命を感じられるなんていやだよね。これはあくまでも、推しを自引きしたファンが思わずそう表現してるだけってことで」
危ない、危ない。推しとの距離感がバグったファンなんて危険以外の何者でもない。ファンである前に幼馴染みだから、距離が近くても当然みたいな考えになっちゃってるんだよね。
「いやなわけないでしょ。楓ちゃんも運命を感じてくれてたなんて、僕は期待してもいいの?」
なにかを思い詰めたような顔だ。期待って、なんの話だろう。よくわからないけど、少なくとも、俺が可不可の隠れファンだったことに対してのお咎めはないってことでいいのかな。ばれちゃったとはいえ、これからも慎ましく可不可のファンとして過ごそう。
ソファから立ち上がった可不可が、黙ったまま、俺の腕を引いて立ち上がらせる。
「あ、待って、足が」
正座にそこまで慣れてない俺は、その場でふらつき、情けなくもベッドの上にべしゃっと倒れ込んだ。……で、またしても頭のすぐ近くがわずかに沈む。なんでって、可不可がそこに手をついたから。
「やっと気付いてくれたってことだよね」
気付いたってなんのこと? っていうか、この体勢、なに? 今までの人生のなかで一番ってくらい、どきどきしてる。誰かとこんな体勢になったことがないうえ、よりによって相手が推しだから。推しに押し倒されてるしがないファンの俺。なにこれ、なんのご褒美? ……って、だめだ。
「ちょ、ちょっと待って」
俺の待ったに、可不可が目を瞬かせる。顔がきれいだからなにをやっても格好いい……じゃなくて。可不可の顔がいいことはたぶん俺たちが生まれるずっとずっと前、なんなら地球ができたときから決まってたに違いないから、一旦横に置いておいて。
推しとファンがこんな体勢になってるなんて、距離感のバグどころじゃないよ。世の可不可ファンがこのことを知ったら、俺は間違いなくスピネやdazzleで炎上する。それ以前に、一発出禁レベルの危険行為だ。HAMAツアーズの人間が出禁になったら、俺は可不可が関与するツアーのときに、HAMAに来てくれたお客さんたちをおもてなしできないってこと? そんなの困るよ!
「や、やめるようにするから……!」
「……なにを?」
「可不可のファンを、いや、こんなに応援してる気持ちをゼロにはできないからこれからもめいっぱい応援はするけど、ファンとして推すのはやめて、HAMAツアーズ主任に相応しい人間であることを最優先事項として生きていくからね」
こんなに素敵な可不可のこと、今この瞬間も推してるし大好きだけど、俺には、可不可と一緒にこの街をもっときらめかせたいっていう目標がある。俺が可不可のファンをやってることでそれが達成できないなんていやだ。それなら、ファンとして可不可に湧いたり沸いたりするのはやめるべきなんじゃないかな。うん、絶対の絶対にそう。
「うーん……ちょっと理解に苦しむけど、まぁ、言ってることはなんとなくわかるよ」
「ありがとう」
さすが可不可、俺の拙い説明でも通じた。そういうところも推せ……いや、こういうのがだめなんだってば。ちゃんと頭を切り替えていかなきゃ。可不可の言う「理解に苦しむ」っていうのは、俺のファン心理がよくわからないってことだよね。可不可、推しがどうこうっていう話題には特に興味ないタイプだし。
「で、ちょっとだけ待ってあげたから、今度は僕からいい?」
「え? ……あぁ、そうだね、うん。遮っちゃってごめん」
そういえば、可不可はなにかを言おうとしてた。確か、気付いてくれたとかなんとか。その前は、俺が運命って言ったことに対して期待していいのかとか言ってたよね。……ん? んんん?
「僕は楓ちゃんのこと、とっくの昔から運命だと思ってるよ」
可不可の手が、俺の頬に触れる。うっとりとした顔。たまらないといった感じの声。
「あの」
「うん?」
どうしよう、可不可に触れられた頬が熱い気がする。これは俺の内側からくる熱? それとも、可不可の手のひらから伝わってきたもの? どっちだろう。……両方、かもしれない。だって、俺の心臓はまたしてもうるさいくらい大騒ぎしてるから。
そういうことに縁のなかった俺でも、こんなことをされたらさすがにわかる。一体、いつから? いや、可不可の口ぶりだと、かなり前からってことだよね。全っ然気付かなかった。あ、だから「やっと気付いてくれた」ってこと? やっとって言葉を使うくらい、そんなに昔から?
「俺、全然気付かなかった」
「うん、……まぁ、僕は待つのには慣れてるから。長期戦なのは最初からわかってたし。むしろ、こんなに早くていいの? って思ってる」
本当にどうしよう。これって、推しがファンにそういう気持ちを抱いてるってことだよね。でも、ファンである俺も可不可のことが子どもの頃から大切で、大好きで……つまり、どうしたらいいんだろう。
「か、可不可と同じじゃないかも」
自分で言うのもなんだけど、可不可が俺に向けてくれてるのは真剣な気持ちでしょ。別に不真面目ってわけじゃないけど、俺の〝好き〟は、可不可のと同列に並べちゃいけない気がするんだ。
ただ、……あぁ、うまく言えない。こんな体勢なことへの恥ずかしさや照れがどんどん増すばかりで、可不可の顔を見られなくなってきた。言語化できないものが自分のなかに渦巻いてるのと、顔が熱いのとで、目の奥までじわじわ熱を帯びてきた気がする。
「そんなかわいい顔で言われてもね」
「かわいくないよ」
可不可って、俺のことかわいいなんて思ってたの? 年上で、なにもかもが平均的で、長所といえば仕事に真面目なこととご飯を残さないことくらいしかない俺を?
「ううん、かわいいよ。どんなことにも一生懸命で、きらきらしてて、まっすぐで、……こっちがちょっと心配になるくらい純粋なところ、かわいいと思ってる。それとも、僕が年下だから、かわいいって言われるのはいや?」
「いやでは、ないけど」
「けど?」
「買い被り過ぎな気がして……」
可不可が笑う。何年キミだけを見てきたと思ってるの、だって。知らないよ。……知らなかったよ、今の今まで。
「僕を応援してくれて、写真まで大切に持ってくれてるのは嬉しいよ。でも、それくらい好きでいてくれてるなら、いっそのこと、こっち方面の好きになってほしいんだよね」
頬に触れた熱が離れていく。もう少しそのままでも、別に――と、可不可の手を目で追う。そんなことを考える自分に、こっそり驚いた。相変わらず、可不可の顔は見られないままだ。
俺が目で追ってるのに気付いたのか、その手は俺の手に辿り着くと、一瞬だけ迷うそぶりを見せてから、そのまま、指先に触れてきた。……触れた体温がやけに馴染む。俺の手も、頬と同じくらい熱いってことだ。全身で、可不可を意識してしまってる。可不可の指先は俺の手のひらを甘くくすぐり、あっという間に、指先を捕らえてしまった。
「……そういえば聞いてなかった。いつから、応援してくれてたの?」
「たぶん、……ずっと。レッスンを始めてすぐの頃に可不可が倒れちゃったあとの仲直りで、可不可のこと、信じて見守ろうって決めた。でも、――」
可不可が周囲から天才だと称されるのは、諦めることなく努力し続けてるからということを思い出したんだ。無理はしてほしくないけど、心配する気持ちを押し付けることはしたくない。それなら、いつもそばで見守って、可不可が必要としてくれたときにすぐに駆けつけられる俺でいようと決めた。
「――可不可のことを応援する気持ちだけでいうと、子どもの頃からずっとだよ」
大切に思ってることはわかってほしくて、数分、いや、十数分ぶりに可不可の顔を見る。好きでたまらないって書いてあって、思わず、こくっと唾を飲み込んだ。そっか、まだちゃんと言われてはないけど、可不可って、そんなに俺のこと好きなんだ。
「楓ちゃんって、そんなに僕のこと好きになってくれてたの?」
ずっと見てたのに気付かなかったな。――可不可の声が吐息とともにこぼれてきて、さっきより顔が近くなったことに気付く。
「えっ、いや、……同じじゃないかもって言ったでしょ」
俺のは、可不可を応援しようという気持ちから、なんとなくフォトカードを手にして、毎日それを眺めてうっとりしてただけだ。格好いいなぁ、素敵だなぁってどきどきしてただけ。
「ファンとは違うよね。だって、お客さんに見せてる姿だけを見て応援してくれてるわけじゃないんだし。さっきからずーっとかわいい顔だし。だからさ、――」
「っ……」
耳に直接息を吹き込むみたいに囁かれて、反射的に、脚が跳ねた。どきどきの速度って、まだ更新できるものなの? もうこれ以上どきどきしないだろうって思っても、簡単にそれを上回っていく。顔どころか耳も背中も目の奥も熱い。
「か、可不可こそ」
「僕こそ?」
「まだ言ってくれてない……」
可不可から教えてほしい。そうしたら、たぶん、俺もこのぐるぐるした気持ちをうまく言葉にできるから。