告白
僕たちが生まれ育ったここを、あの子と初めて旅をしたあの日のように、ううん、もっと素敵なものにしたい。国内一の観光特区と国内初の六つ星レビュー認定を目標に、……そのあと、すべてをやりきったら引退して、あの子と世界中を旅したい。叶えるためなら、手術の成功率の数字がいくつだろうが、なんてことない数字だって笑い飛ばせる。あの子が今後の人生を賭けて僕の手を取ってくれる確率のほうが、ずっとずっと低いとすら思ってたんだから。
でも、十年以上かけた僕の計画は、まだまだきれいごとだらけだったんだって思い知った。仕事に対しては絶対に成功させるために必要なものをあますことなく拾い集めたはずだけど、あの子に関することだけは、そうはいかなかったみたい。
だって、あの子と世界中を旅する日まで告白の言葉はとっておく覚悟だったのに――
「あ、可不可、インタビュー記事読んだよ! 読んでるこっちがどきどきしちゃった」
「記事、……うん、ありがとう」
就寝前、幼馴染み特権で楓ちゃんの部屋を訪ねてすぐのこと。いつもならころころとテーマが変わる、たわいもない話をするだけなのが、今日は楓ちゃんが瞳を輝かせてのひとことで始まった。
そういえば今日が発売日だったっけ。観光特区の存続が決まってすぐの頃に受けたインタビューで、校了時の誌面イメージも見せてもらったし、現物も数日前に送られてきたから、僕のなかでは〝やっとか〟って印象。HAMAツアーズ公式ウェブサイトのプレスリリースも、メディア関連は事前に情報が確定しているものばかりだから、前もって公開日時を指定しておいたし、あとでアクセス数やSNS評判をチェックしなくちゃ。
「もう、可不可ってば、献本されたものは見ちゃだめだって言うから、発売日まで待つの大変だったんだよ」
「待ってるあいだにしか味わえない気持ちを取り上げたくなくて」
「えぇ……」
仕事上のパートナーとして主任に任命したわけだし、隠すようなものじゃなかったけど、今回のインタビューだけは、ぎりぎりまで黙っておきたかった。
「そういえば、どきどきしたって、どこに?」
この質問は、インタビューを受けたときから想定してたこと。インタビューに対する僕の答えは決まってて、他の言葉で濁すつもりなんてなかったから、真実だけを答えた。それを読んだ楓ちゃんがどう思うかを想像するのが怖くて、発売日までは見ないでほしいってお願いしたんだ。
「全部! 自分に自信を持ってるところはさすがだなって思ったし、最初から最後まで、可不可の揺るぎない意志がすごく伝わってきた。……」
「……どうしたの?」
楓ちゃんの表情が曇った。別に、変な記事じゃなかったはずだけど。見られて困るような回答もしてないし。
なにを言い淀んでるのか想像してみても、どれが正解かの予想がつかない。他のひと相手なら、もっと簡単に会話を支配できるのに、この子に対してだけは、そうできない。したくないからというのもあるけど。
俯いてしまった楓ちゃんの顔を見つめながら、時計の音に耳をすませる。あの小さな置き時計は秒針が微かな音を刻むタイプのもので、ゆるやかなアダージョが眠りへと誘ってくれるのが好きなんだと、いつだったか、教えてくれた。今の僕には、緊張を煽るリズムでしかない。
「可不可の夢、すごいなぁって」
はっとして、楓ちゃんの顔を見遣る。すぐに、記事のどの部分を指しているかがわかった。僕が、発売日まで読まないでおいてとお願いした原因でもある質問だ。
「ばかだよね、俺。一生一緒に遊ぼうなんて、大人になったら、叶うはずないのに」
洟をすする音がして、全身に汗が滲んだ気がした。
「……可不可には、可不可の原動力になるくらい大切なひとがいるのに、俺、全然気付かなくて。可不可はいつも俺に優しいし、いつも一緒にいるし、……ごめん、格好悪いこと言って」
――いつになるかわからない未来への覚悟より、今、この子を泣かせたくない気持ちが勝ってしまった。当然だよ。理想は理想でしかない。
楓ちゃんの肩を掴んで、自分のほうへと向き直させる。本当の本当に予定外だけど、ここは僕がしっかりしなくちゃ。
「あれは、楓ちゃんのことだよ」
「俺?」
緊張で震える手を誤魔化す手段がすぐには思い浮かばなくて、情けないまま、楓ちゃんの手を取った。取ってから、手汗をかいてしまっているかもしれないことに思い至ったけど、今、降ってわいたような大勝負の場でこの手を離すわけにはいかない。
「大好きなHAMAをもっと素敵にしたいと思ったのも、楓ちゃんとの初めての旅があったからだよ。キミの存在が僕の原動力で、夢なんだ」
楓ちゃんの顔がみるみる赤くなっていく。もしかして、本当の本当に、今の今まで、僕の気持ちに気付いてなかったの?
「子どもの頃からずっと、ずーっと、他の誰でもないキミに、恋してるんだ。一緒にいるからっていう惰性で湧いた情なんかじゃない。生きてるというより生かされてるみたいだと思ってた僕に、生きたいって感情を芽生えさせてくれた」
恥ずかしい。たぶん、僕の顔も赤くなってる。涙が出そうなくらい、顔が熱い。
「こ、恋って」
「楓ちゃんのことが大好きだよ。いつか、ふたりだけで世界中をめいっぱい旅したいって思ってる」
いつの間にか、手の震えだけはおさまってた。まだまだ言うつもりのなかった計画外の告白を終えて小さく息を吐く。と同時に、目の前の楓ちゃんがへなへなと床に倒れ込んだ。せっかく握ってた手も、離れてしまう。
「もしかして、やっと、本気だってわかってくれた?」
楓ちゃんは両手で顔を覆ってなにやら呻いてたけど、耳が真っ赤なのは隠せてない。人様の部屋の床で……と思ったけど、楓ちゃんのそばに寄りたくて、僕も隣に寝転がる。楓ちゃんなら、怒らないだろうから。
「ずるいよ。そんなふうに言われて、……わからされて、恥ずかしい」
「わからされて?」
確かに、いい加減、僕の気持ちを思い知ってくれたらいいのにと思ったことはある。結構、何度も、しょっちゅう、思ってた。特にここ最近は、HAMAツアーズのなかにも、楓ちゃんに惹かれてそうなひとが増えちゃったし、気が気じゃなかった。
「だって、さっきからどきどきして」
「恋愛感情をぶつけられての衝撃じゃない?」
期待しそうになって、慌てて、別の言葉で返した。
案の定、楓ちゃんは黙り込んじゃって、また、アダージョのリズムだけが聞こえる。このリズムで眠れるっていうけど、僕だったら、この音と今夜のことが結びついて、逆に眠れなくなりそう。
「……さすがに、そこまで鈍感じゃないよ」
そうかなぁ、とは心のなかでだけに留めておいた。だって、十年以上も伝わらなかったわけだし、楓ちゃんを仕事のパートナーに任命してからは、わりとしっかりアピールしてきたつもりなのに、それでも、記事を読んでほかの誰かのことだって誤解してたじゃない?
「その言葉だと、僕は期待するよ?」
「いいよ、して。……間違ってないから」
「っ、本当に? 取り消しはなしだからね? ね、こっち見て、僕の顔を見てもう一回言って」
なにがなんでも逃したくない、一世一代の大チャンス。それって、今のこの瞬間を指すんだと思う。
「恥ずかしい、恥ずかしいから!」
「十年以上、片想いしてきたんだよ。間違ってないなら、ちゃんとした言葉がほしい。……って思っても、仕方ないよね」
だから、成功をおさめて引退するくらいもっと余裕のある大人になってからがよかったのに。
「もう! 俺が可不可のその顔に弱いってわかってるくせに、ずるいよ! ……好きだよ、大好き。たぶん、ずっと昔から好きだった」
夢みたいな言葉に、行儀悪く人様の部屋で寝ころんだままというのも忘れて楓ちゃんに抱き着く。あぁ、今の言葉を、この先、一生、何度でも思い返したい。
「……本当だ、楓ちゃんの心臓、すっごくどきどきしてる」
もしかしたら、普段の僕より速いかも。
「言わないで、今すっごく恥ずかしい……」
「大丈夫、僕もさっきまで、楓ちゃん以上にどきどきしてたよ」
「……今は?」
「え?」
顔を上げると、楓ちゃんが頬を赤く染めたまま、視線を彷徨わせた。
「いわゆる両想いってやつになったら、もうどきどきしない?」
それはそれでやだな、なんてつぶやきが聞こえて、頭のなかがかっと熱くなった。自分の魅力にも鈍感過ぎじゃない? 変な虫が寄ってこないように、一生、僕がそばにいて気を付けなくちゃ。
「しないわけない。ずっとどきどきしてること、一生かけて証明してあげるから、期待してて」
真に意味するところまで通じたかはさておき、楓ちゃんは小さく頷いてくれた。
「それにしても、まさかこんなことになるなんて」
恥ずかしい気持ちばかりで熱いと、手で顔をあおぐ楓ちゃんを抱き起こす。とはいっても、悔しいことに僕のほうが小柄だから、腕を引いただけで楓ちゃんのほうから空気を読んで起き上がってくれた。
「僕だって、もっと先の、今、やるべきことをやりきってからって思ってたよ。でも、今でよかった。だって、これからはプライベートな時間を恋人として過ごせるわけだからね」
ずいと顔を近付けると、楓ちゃんが軽く上体を引いた。
「あ、あ、あの」
「うん?」
「俺、この年まで仕事ばっかりでそういうのに縁がなくて、キ、キス、とかも、まだで」
「僕もだよ」
むしろ、楓ちゃんのファーストキスが僕じゃなかったらキレそうなんだけど。
「今日そうなって今日するのは、キャパオーバーしそうっていうか、ますます寝られなくなりそうだから……」
これが漫画だったら、頭から湯気が出てるんじゃないかってくらい、楓ちゃんがあわあわしてる。僕のことでこんなに真っ赤になってるの、すっごくかわいいな。
「……いいよ。僕も、今夜はどきどきし過ぎたし。夜も遅いし、もう寝ようか」
一気にいろいろ進めるつもりはない。楓ちゃんが僕の気持ちに応えてくれただけでも奇跡みたいなことだ。自覚してもらえたばかりの恋愛感情に、僕の気持ちをいきなり全力で重ねたら、あまりの重さにびっくりさせてしまいそう。そんなのは、僕の本意じゃない。
「あ、でも」
「なに?」
「今夜のこと、明日起きても夢じゃなかったって思いたいから、ここだけ、今、許してくれる?」
頬に手を添えると、楓ちゃんの瞳が潤んだ。それを了承と受け取って、頬に軽いキスを落とす。ここにキスするだけでこんなにかわいい顔をするなんて、くちびるにキスをする日がきたら、どうなるんだろう。
「大好きだよ。……応えてくれて、ありがとう」
「うん、俺も……びっくりしたけど、間違いとかじゃないから、それだけは信じて」
「もちろん」
一世一代の大チャンスが降ってきて、いきなり勝利の女神が微笑んだ。とてもじゃないけど、今夜は眠れそうにない。
でも、十年以上かけた僕の計画は、まだまだきれいごとだらけだったんだって思い知った。仕事に対しては絶対に成功させるために必要なものをあますことなく拾い集めたはずだけど、あの子に関することだけは、そうはいかなかったみたい。
だって、あの子と世界中を旅する日まで告白の言葉はとっておく覚悟だったのに――
「あ、可不可、インタビュー記事読んだよ! 読んでるこっちがどきどきしちゃった」
「記事、……うん、ありがとう」
就寝前、幼馴染み特権で楓ちゃんの部屋を訪ねてすぐのこと。いつもならころころとテーマが変わる、たわいもない話をするだけなのが、今日は楓ちゃんが瞳を輝かせてのひとことで始まった。
そういえば今日が発売日だったっけ。観光特区の存続が決まってすぐの頃に受けたインタビューで、校了時の誌面イメージも見せてもらったし、現物も数日前に送られてきたから、僕のなかでは〝やっとか〟って印象。HAMAツアーズ公式ウェブサイトのプレスリリースも、メディア関連は事前に情報が確定しているものばかりだから、前もって公開日時を指定しておいたし、あとでアクセス数やSNS評判をチェックしなくちゃ。
「もう、可不可ってば、献本されたものは見ちゃだめだって言うから、発売日まで待つの大変だったんだよ」
「待ってるあいだにしか味わえない気持ちを取り上げたくなくて」
「えぇ……」
仕事上のパートナーとして主任に任命したわけだし、隠すようなものじゃなかったけど、今回のインタビューだけは、ぎりぎりまで黙っておきたかった。
「そういえば、どきどきしたって、どこに?」
この質問は、インタビューを受けたときから想定してたこと。インタビューに対する僕の答えは決まってて、他の言葉で濁すつもりなんてなかったから、真実だけを答えた。それを読んだ楓ちゃんがどう思うかを想像するのが怖くて、発売日までは見ないでほしいってお願いしたんだ。
「全部! 自分に自信を持ってるところはさすがだなって思ったし、最初から最後まで、可不可の揺るぎない意志がすごく伝わってきた。……」
「……どうしたの?」
楓ちゃんの表情が曇った。別に、変な記事じゃなかったはずだけど。見られて困るような回答もしてないし。
なにを言い淀んでるのか想像してみても、どれが正解かの予想がつかない。他のひと相手なら、もっと簡単に会話を支配できるのに、この子に対してだけは、そうできない。したくないからというのもあるけど。
俯いてしまった楓ちゃんの顔を見つめながら、時計の音に耳をすませる。あの小さな置き時計は秒針が微かな音を刻むタイプのもので、ゆるやかなアダージョが眠りへと誘ってくれるのが好きなんだと、いつだったか、教えてくれた。今の僕には、緊張を煽るリズムでしかない。
「可不可の夢、すごいなぁって」
はっとして、楓ちゃんの顔を見遣る。すぐに、記事のどの部分を指しているかがわかった。僕が、発売日まで読まないでおいてとお願いした原因でもある質問だ。
「ばかだよね、俺。一生一緒に遊ぼうなんて、大人になったら、叶うはずないのに」
洟をすする音がして、全身に汗が滲んだ気がした。
「……可不可には、可不可の原動力になるくらい大切なひとがいるのに、俺、全然気付かなくて。可不可はいつも俺に優しいし、いつも一緒にいるし、……ごめん、格好悪いこと言って」
――いつになるかわからない未来への覚悟より、今、この子を泣かせたくない気持ちが勝ってしまった。当然だよ。理想は理想でしかない。
楓ちゃんの肩を掴んで、自分のほうへと向き直させる。本当の本当に予定外だけど、ここは僕がしっかりしなくちゃ。
「あれは、楓ちゃんのことだよ」
「俺?」
緊張で震える手を誤魔化す手段がすぐには思い浮かばなくて、情けないまま、楓ちゃんの手を取った。取ってから、手汗をかいてしまっているかもしれないことに思い至ったけど、今、降ってわいたような大勝負の場でこの手を離すわけにはいかない。
「大好きなHAMAをもっと素敵にしたいと思ったのも、楓ちゃんとの初めての旅があったからだよ。キミの存在が僕の原動力で、夢なんだ」
楓ちゃんの顔がみるみる赤くなっていく。もしかして、本当の本当に、今の今まで、僕の気持ちに気付いてなかったの?
「子どもの頃からずっと、ずーっと、他の誰でもないキミに、恋してるんだ。一緒にいるからっていう惰性で湧いた情なんかじゃない。生きてるというより生かされてるみたいだと思ってた僕に、生きたいって感情を芽生えさせてくれた」
恥ずかしい。たぶん、僕の顔も赤くなってる。涙が出そうなくらい、顔が熱い。
「こ、恋って」
「楓ちゃんのことが大好きだよ。いつか、ふたりだけで世界中をめいっぱい旅したいって思ってる」
いつの間にか、手の震えだけはおさまってた。まだまだ言うつもりのなかった計画外の告白を終えて小さく息を吐く。と同時に、目の前の楓ちゃんがへなへなと床に倒れ込んだ。せっかく握ってた手も、離れてしまう。
「もしかして、やっと、本気だってわかってくれた?」
楓ちゃんは両手で顔を覆ってなにやら呻いてたけど、耳が真っ赤なのは隠せてない。人様の部屋の床で……と思ったけど、楓ちゃんのそばに寄りたくて、僕も隣に寝転がる。楓ちゃんなら、怒らないだろうから。
「ずるいよ。そんなふうに言われて、……わからされて、恥ずかしい」
「わからされて?」
確かに、いい加減、僕の気持ちを思い知ってくれたらいいのにと思ったことはある。結構、何度も、しょっちゅう、思ってた。特にここ最近は、HAMAツアーズのなかにも、楓ちゃんに惹かれてそうなひとが増えちゃったし、気が気じゃなかった。
「だって、さっきからどきどきして」
「恋愛感情をぶつけられての衝撃じゃない?」
期待しそうになって、慌てて、別の言葉で返した。
案の定、楓ちゃんは黙り込んじゃって、また、アダージョのリズムだけが聞こえる。このリズムで眠れるっていうけど、僕だったら、この音と今夜のことが結びついて、逆に眠れなくなりそう。
「……さすがに、そこまで鈍感じゃないよ」
そうかなぁ、とは心のなかでだけに留めておいた。だって、十年以上も伝わらなかったわけだし、楓ちゃんを仕事のパートナーに任命してからは、わりとしっかりアピールしてきたつもりなのに、それでも、記事を読んでほかの誰かのことだって誤解してたじゃない?
「その言葉だと、僕は期待するよ?」
「いいよ、して。……間違ってないから」
「っ、本当に? 取り消しはなしだからね? ね、こっち見て、僕の顔を見てもう一回言って」
なにがなんでも逃したくない、一世一代の大チャンス。それって、今のこの瞬間を指すんだと思う。
「恥ずかしい、恥ずかしいから!」
「十年以上、片想いしてきたんだよ。間違ってないなら、ちゃんとした言葉がほしい。……って思っても、仕方ないよね」
だから、成功をおさめて引退するくらいもっと余裕のある大人になってからがよかったのに。
「もう! 俺が可不可のその顔に弱いってわかってるくせに、ずるいよ! ……好きだよ、大好き。たぶん、ずっと昔から好きだった」
夢みたいな言葉に、行儀悪く人様の部屋で寝ころんだままというのも忘れて楓ちゃんに抱き着く。あぁ、今の言葉を、この先、一生、何度でも思い返したい。
「……本当だ、楓ちゃんの心臓、すっごくどきどきしてる」
もしかしたら、普段の僕より速いかも。
「言わないで、今すっごく恥ずかしい……」
「大丈夫、僕もさっきまで、楓ちゃん以上にどきどきしてたよ」
「……今は?」
「え?」
顔を上げると、楓ちゃんが頬を赤く染めたまま、視線を彷徨わせた。
「いわゆる両想いってやつになったら、もうどきどきしない?」
それはそれでやだな、なんてつぶやきが聞こえて、頭のなかがかっと熱くなった。自分の魅力にも鈍感過ぎじゃない? 変な虫が寄ってこないように、一生、僕がそばにいて気を付けなくちゃ。
「しないわけない。ずっとどきどきしてること、一生かけて証明してあげるから、期待してて」
真に意味するところまで通じたかはさておき、楓ちゃんは小さく頷いてくれた。
「それにしても、まさかこんなことになるなんて」
恥ずかしい気持ちばかりで熱いと、手で顔をあおぐ楓ちゃんを抱き起こす。とはいっても、悔しいことに僕のほうが小柄だから、腕を引いただけで楓ちゃんのほうから空気を読んで起き上がってくれた。
「僕だって、もっと先の、今、やるべきことをやりきってからって思ってたよ。でも、今でよかった。だって、これからはプライベートな時間を恋人として過ごせるわけだからね」
ずいと顔を近付けると、楓ちゃんが軽く上体を引いた。
「あ、あ、あの」
「うん?」
「俺、この年まで仕事ばっかりでそういうのに縁がなくて、キ、キス、とかも、まだで」
「僕もだよ」
むしろ、楓ちゃんのファーストキスが僕じゃなかったらキレそうなんだけど。
「今日そうなって今日するのは、キャパオーバーしそうっていうか、ますます寝られなくなりそうだから……」
これが漫画だったら、頭から湯気が出てるんじゃないかってくらい、楓ちゃんがあわあわしてる。僕のことでこんなに真っ赤になってるの、すっごくかわいいな。
「……いいよ。僕も、今夜はどきどきし過ぎたし。夜も遅いし、もう寝ようか」
一気にいろいろ進めるつもりはない。楓ちゃんが僕の気持ちに応えてくれただけでも奇跡みたいなことだ。自覚してもらえたばかりの恋愛感情に、僕の気持ちをいきなり全力で重ねたら、あまりの重さにびっくりさせてしまいそう。そんなのは、僕の本意じゃない。
「あ、でも」
「なに?」
「今夜のこと、明日起きても夢じゃなかったって思いたいから、ここだけ、今、許してくれる?」
頬に手を添えると、楓ちゃんの瞳が潤んだ。それを了承と受け取って、頬に軽いキスを落とす。ここにキスするだけでこんなにかわいい顔をするなんて、くちびるにキスをする日がきたら、どうなるんだろう。
「大好きだよ。……応えてくれて、ありがとう」
「うん、俺も……びっくりしたけど、間違いとかじゃないから、それだけは信じて」
「もちろん」
一世一代の大チャンスが降ってきて、いきなり勝利の女神が微笑んだ。とてもじゃないけど、今夜は眠れそうにない。